第2話 あしながおじさん
「改めて自己紹介するね。初めまして"レディ"。僕は斗真。今年二十三歳、大学院生だよ」
斗真は名字を名乗らなかった。門の表札を見ればわかるような気もしたが、然程重要なことでもないのでレディは気にしないことにした。
「初めまして。知ってるみたいだけど、私はレディ。高校三年生よ。斗真が家賃を払ってくれたの?」
こちらのことはかなり知っているようなので挨拶など不要な気もしたが、斗真の文脈をなぞるように自己紹介し、ティーカップを手に取った。
先程も大家さんのところでアールグレイを飲んだばかりだったのだが、やはりアッサムのほうが口に合うし、落ち着く。
斗真の方にも紅茶は淹れられていたが、口をつける気配はなかった。ただにこにこと幸せそうにレディを見つめている。
「うん。半年分払った。これは、僕が君を落とすのに半年で済めばいいなと言う願いもあるんだけど。生活費も援助するつもりだよ」
「正直、先立つものがないから助かったわ。でも、それは斗真のお金?」
レディは小首をかしげた。この屋敷はレディが幼い頃から建っている。きっと斗真の両親がお金持ちに違いない。二十三歳というまだ若い彼が、そこまで稼げているのかと不思議に思ったのだ。まさか両親の財産から援助するなどと言われたら、居心地が悪いどころの騒ぎではない。
「勿論。僕はとっくに両親と生計を別にしているから。僕自身が稼いだ、僕が自由になるお金で君に援助するつもり」
「……まるであしながおじさんみたいね。見初めた娘に資金援助して、プロポーズ」
斗真の言葉にレディは書斎にある一冊の本を思い出した。児童書扱いだが、内容は中々にドラマティックで面白い。そして今更ながら、自分の境遇が少しばかりヒロインに似ている。
「ジーン・ウェブスターだね。ああ、大学進学したいんだっけ? それも勿論援助する。家も今までどおり、あの平屋にいればいい。僕は君に高層マンションも、新築の戸建ても用意できるけど、それじゃあ喜ばないだろ?」
「どうして? いいじゃない新築の戸建。駅チカだとなおよし」
レディが思ってもないことを言って、斗真を揺さぶった。これまでのレディの事情をすべて知っているような態度がハッタリかどうか確かめるためだ。
斗真は酷く驚いた顔をすると、メガネを外して、髪をかきあげた。二十三歳の彼はレディからみて五つしか年の差がないはずなのに、やけに色っぽい仕草に思えた。
「君も嘘を言うんだね」
斗真の反応はある意味で予想通りではあるが、あまり喜ばしい予想ではなかった。やはりレディのことを知っているのだ、それもかなり深いところまで。
「ねえ、私のことどのくらい知ってるの? ちょっと怖い」
「ある程度は? ちなみにストーキングはしてないから安心して」
確かに斗真からストーカーはとても想像できなかった。変装しようが何しようが、無駄に輝かしいオーラを消せるとは思えなかった。
レディは手に持ったままのティーカップをソーサーの上に置いた。気をつけたつもりだが、カチャ、と音を立てた。
「ストーカーしてたらきっと目立つ」
「そう?」
「顔もスタイルもいいから」
レディが斗真の外見を褒めると、斗真は頬を軽く染めたかのようにみえた気がした。すぐにシニカルな微笑みに変わってしまったので、"気がした"程度の認識に終わった。
「ありがとう。真っ先に気持ち悪いって言われると思ってたから、まさか先に褒め言葉をもらえるとはね。さて、レディ。君はお金のあるイケメンと結婚する気はない?」
「謙遜の欠片もないところは嫌いじゃないけど、私結婚願望ないの。払ってくれた家賃は少しずつ返す。援助もいらない」
斗真の道化じみた言い回しに、不思議と嫌悪感は抱かなかった。だからといって結婚するかどうかは話が違う、それにどこまで本気で言ってるのか判断できない。レディは軽く笑ってやんわり断った。
ソファから立って帰ろうとすると、斗真は深い笑みをたたえて、重々しく口を開いた。
「断り文句が変わったね」
「かわった?」
それは、レディが一度断ったことがないと辻褄の合わない言葉だった。斗真は軽く首肯く。
「僕が初めて求婚した時君は、まだ十六歳じゃないので結婚できません、と」
「え、それっていつの……何の話?」
また身に覚えがない話をされ、レディは訝しげに斗真を見遣るが、斗真はとぼけ顔で首を傾げた。
「うん? 帰るんだろ?」
「……ええ、帰る。お金は必ず返す」
「別に返してくれなくてもいいけど、君がそれを理由に会いに来てくれる日が楽しみだなぁ」
それは斗真自身からは会いに来るつもりはないということだろうか。斗真の真意がどこにあるのか、レディは推し量りきれなかった。
◆
自宅にあるのは静寂と退屈。レディは学校にいる方が気が楽だった。
まだ祖父の体温すら息づいているような家の中で物思いに耽りたくなかった。とはいえ、やはり授業にはかなり遅れていて、教師の言葉はもはや暗号だった。
眠らなければいいか、と思考力を手放すと、やけに視界がぼんやりした。
――レディ、レディ。私のレディ。どこにいるんだい。
老人のしゃがれ声。すぐ目の前にいても、老人はレディを探した。レディの"ここよ"という声を聞くために。
虚ろに見開かれた瞳には光が宿っておらず、緑色に霞みがかっていた。
「レディ!」
ハタ、と気がつくと授業が終わりを告げていて、友人の蘭がレディの顔を覗き込んでいた。
「ぼうっとしてたでしょ」
「してた」
蘭はクラスの中でも目立つ少女だ。校則などどこ吹く風の髪色に派手な化粧。母子家庭で母親がスナック経営。ほとんどネグレクトで、彼氏の家に上がり込んでいる。
「なんかレディ最近忙しそうだね。おじいさん亡くなってから。まだ色々手続きとかあるの?」
「手続きはもう一通り終わったけど……今バイト探ししてて」
学校から帰ると求人誌とにらめっこ。ほとんどフルタイムの募集ばかり。十八歳以上高校生不可の記載のないところを探すが、給料の面でいつも問題がある。
高校生枠は大概一般枠より時給が安い。レディが自分のお小遣いのために働くならそれで何の問題もないが、生活を支えるとなると時給だけは妥協できない。
「バイト? あるよあるよ」
にやにやと笑う蘭。まるで餌をぶら下げて糸を揺らす釣り人のようだ。浅ましい魚のレディは嫌な予感を抱く。
「まさかとは思うけど」
「もちろんお水。レディめっちゃお酒強いじゃん? マミママのとこなんか――」
「ダメよ、死んだおじいちゃんが泣いちゃう」
レディが冗談めかしてやんわり断ると、蘭は口の先を尖らせた。
「死んだのにまだそんなこと言ってるの? 子供じゃないんだからさぁ。十八歳になれば法律的には水商売オッケーだし」
「十八歳なれば、って、高校生はダメなんだよ」
求人誌の募集要項に書かれている、十八歳以上高校生不可、というのはまさにそういう職業にこそ当てはまるのではないだろうか。
レディの疑念をよそに、蘭は結っていた髪を解くと、ゴムを人差し指に引っ掛けてくるくる回し始めた。
「どうせわかんないよ。昼の仕事と違って履歴書見せるわけじゃないし。いいなーレディは誕生日早くてー。蘭も十八歳なったら働こうかな」
「働くって言ってない」
「えー」
強引に話を進めようとする蘭をなんとか躱し、レディは外を見た。大きな木の葉が風に揺られていた。
ホームルームを終え、部活動に入っていないレディはすぐに家路を辿った。蘭はどうやら彼氏と遊びに行く様子だったので、放って置いた。
家について、郵便受けを開けると中には二つの封筒が入っていた。一つは見覚えのある会社だった。書類審査が受かったかどうかの通知だ。募集要項に高校生不可とは書かれてない、そして給料が悪くない所に履歴書を送っていたのだ。
早速見ようと家に入り、玄関の明かりをつけようとスイッチを押すが、全く反応がない。
「えっ……」
今朝まで電気は通じてたのに。慌ててもう一通の手紙の会社名をスマートフォンの光で確認すると、電力会社からだった。慌てて開封すると、電気料金を指定口座から引き落とせなかったため、電気を今日の夕方に止めるという内容の通知だった。確か前にも似たような紙が来ていた気がするけれど、忙しくて放っておいたのが仇になった。
祖父の銀行口座のお金は葬儀に使ってしまってもうほとんどないはずだ。引き落とせなかったとしても無理はない。
急いでお客様窓口に問い合わせると、コンビニで支払えば九十分で開通すると説明された。請求書を持ってコンビニに駆け込み支払いをすませ、ふと自分の財布を見ると、中身がほとんどなくなってしまっていた。
レディは真っ暗な家の中で、スマートフォンの光だけを頼りにリビングのソファに腰掛け、げんなりと溜息をついた。当たり前にあるものは決して当たり前ではないのだと痛感する。
生活することがいかに大変なのか。祖父は貧しいながらもレディに尽くしてくれた。誕生日プレゼントも書斎に用意されていたが、なんとなく開封出来てない。一人で開けたら、祖父がいないことを痛感する気がして出来なかった。
「無理……なのかな」
レディには知識も経験も教えてくれる人もいない。自立して一人で生きていくことはやはりできないのではないかと不安に襲われる。
暫くそうしていると、電気が再開したのか玄関に明かりが灯る音がした。すぐさまリビングの明かりもつけて、書類審査の結果を確認すると、今回は見送らせて下さい、といった内容が書かれていた。踏んだり蹴ったりだ。
このままだと数日もしないうちに現金が底をつく。家にはまだ少しの食料はあるが、電気料金が引き落とせなかったなら水道代も同じはずだ。溜め込んだ手紙の中に支払い用紙があるのだろうから、払いに行かなければ水も止まる。
レディはぱたりと身体をソファに投げ出した。働きたくても働けない。現代の若者の苦悩を、この歳にして実感することになろうとは。
「斗真なら、援助してくれそうだけど、なんか助けてもらっちゃダメな気がする……あの人、底が見えない」
背に腹は代えられない。生活保護を受けるか、赤の他人の斗真に頼るか、友人に水商売を紹介してもらうか。
レディはスマートフォンを取り出すと、友人の蘭に電話をかけた。
紹介された店のママは昔から知り合いのマミママという。面接などあってないようなもので、すぐに一日体験の流れになった。祖父が"悪所通い"を嫌ったので、こういう人間関係はいつも内緒だった。
新しい店を出したとは聞いていたが、そこはショーパブのような店だった。ステージにはミラーボールと、ダンス用のポール。ショータイムは基本、ダンサーがステージを彩るが、客からの希望があれば、ホステスがステージに上ることもあるらしい。
少し過激な格好をして、少しダンスを踊るだけ。風俗まがいの店とは違って、客はステージに上がれないので触られる心配はないとのことだった。
ステージから降りれば触られるのでは、という懸念をレディは言わないことにした。その場で組み敷かれるわけでなし、とにかく今は現金が必要だ。
用意されたポリス風の衣装を身にまとい、開店の準備を手伝っていると、マミママがレディに声をかけてきた。その後ろには蘭もいて、いつの間に働くことになったのかレディよりもよっぽど際どい衣装を身にまとっていた。
「レディ、ちょっと相談。こないだ皆でやってた"アレ"、ステージでもやらない? 踊らなくてもいいし、衣装じゃなくてドレスを着てていい」
マミママの言う"アレ"はすぐに見当がついた。仲間内で飲むときによくやるほんの遊びだ。
「え……でも」
「アレって、レディチャレンジ?いいじゃんレディ。その方が絶対向いてる!」
向いている向いていないの問題ではなかった。客同士の遊び感覚は別として、ショーとして行うにはリスクが高くはないだろうか。
レディが考え込むとマミママが肩をすくめて、レディの髪を撫でた。
「肌見せて踊るより、レディはそっちのほうが楽かと思ったんだけど……どう?」
「あの、お店が良いなら、私は」
マミママの厚意を無下に出来ずに首肯くと、マミママはレディに飛びついて喜びを表現した。
「ありがとう! 絶対盛り上がるわ!」
マミママはレディの頬に熱い口づけを一つすると忙しない様子でホールを駆け抜けていった。
残された蘭とレディは顔を見合わせた。蘭は笑顔で自分の衣装を確認する。
「ね、蘭のこのかっこ似合う?」
「……もちろん」
蘭の衣装はかなりギリギリで、女のレディでも目のやり場に困った。
"レディチャレンジ"は、仲間内で編み出した遊びだ。レディが蟒蛇のように酒を呑むので、誰かが酔い潰そうとして始めた遊びとも言える。
まず、チャレンジャーはレディと自分の分の酒を注文する。それは例えばカクテル一杯でもいいし、テキーラ一瓶でもいい。種類、量は問わないが、チャレンジャーとレディは同じ量の酒を飲まなくてはならない。それも必ず一気飲みで空ける必要がある。
乾杯して飲み始め、どちらが先にグラス、もしくは瓶を空けるかを競う。レディが勝った場合はチャレンジ失敗。レディの分の会計をチャレンジャーが支払う。チャレンジャーが勝った場合はチャレンジ成功。レディは自腹で、チャレンジャーが注文するお酒を飲まなくてはならないというルール。
仲間内ではそうなっているが、ショーとしてやるので、チャレンジ成功してもレディが自腹を切る必要はないらしい。そもそもレディは今まで一度も負けたことがないので、チャレンジ成功することがあるのかはわからないが。どちらにせよ確かにやったこともないダンスを踊るより、レディにとってはこちらのほうが簡単には違いなかった。
店が開店すると満員御礼、大盛況だった。ショータイムに差し掛かって派手な音楽と光の演出に包まれる。
レディはホステスとしてドレスを着て接客していたが、やがて自分の番が近づいてきたので舞台袖へと移動した。
舞台袖には出番が終わった蘭が愉快そうな様子で他の女性スタッフとおしゃべりをしていた。レディを見つけると手を振りながら駆け寄って抱きついてきた。
「レディ、頑張ってね!私は先にホール戻ってるー」
「蘭、もう酔ってる?」
「酔ってま、せーん」
きゃはは、と普段しないような笑い方で舞台袖を去っていく蘭の後ろ姿を見送り、レディは呆れた様子でため息をついた。
「酔ってるじゃない」
呟きは誰にも聞こえない。マミママがステージでマイクパフォーマンスを行いながらレディチャレンジのルールを説明し始めた。
ダンサーの一人に手を引かれレディはステージに上った。
喧しいまでの光、耿耿、閃閃。レディを"若く美しいレディ"と紹介したマミママが、歓声を上げる客からチャレンジャーを募った。
最初はシャンパンから。次に濁酒、テキーラ瓶。レディは難なくクリアして、誰もレディに勝てなかった。少女の圧倒的な勝利は逆に客を煽り、また次々とチャレンジャーが現れる。最後にスピリタスを瓶でチャレンジした客がいたが、飲み切る前に倒れてしまった。勿論客が倒れてもレディはボトルを飲み干してやった。
大歓声の中ショーは終了し、レディはステージを降りた。そのままホールでの接客に向かうと、すでに接客していた蘭が手招きしてきた。
ボーイに目配せすると、構わない、と首を縦に振られたので蘭がついている席にレディもついた。軽い挨拶を済ませて、レディグラスに注がれたお酒で乾杯した。客は三十代半ばのように見えるスーツを着込んだ男性二人組だった。
「レディちゃんすごかったね。歳いくつ?」
「二十歳です」
店の中でも飛び抜けて若く見えるレディと蘭。
レディは予め用意しておいた設定の年齢を答えた。
「蘭ちゃんと同い年だ」
「そー蘭とレディはぁ、同級生なんだよー」
蘭はどうやらかなり酔っ払っていて、ウソとホントの区別を自分でつけられなくなっているようだ。
「同級生?」
男性二人が明らかに訝るので、レディが慌てて、
「元、同級生、ね?」
と取り繕った。蘭も自分の失言に気づき、慌てて首を縦に振る。
「あっ、そう! 元! 高校のとき!」
「学校一緒だったんだね。ねぇレディちゃん、ステージ外でもチャレンジはありなの?」
「もちろんですよ」
レディが愛想よく答えると、問いかけた男性は楽しそうに頬を綻ばせてボーイを手招きした。
「何にしようかなぁ。スコッチとか?」
「やめとけよ。レディちゃんが潰れる前に、絶対お前が潰れるって」
チャレンジャーになろうとする男性を止めるのは連れの男性だ。同僚だろうか、互いに遠慮がないように見えた。
止めた男性の隣に座る蘭が、ここぞとばかりに男性の太腿に手を置いて、高い声で甘える。
「チャレンジじゃなくて普通に一緒に飲んでもいいんだよー? 蘭シャンパン飲みたいなぁ」
天真爛漫さのある蘭の甘え方は、男性には可愛らしく映るのだろう。嫌悪感を抱く様子もなく、男性二人は顔を見合わせた。
「じゃあシャンパン頼む?」
「アスティでいいんじゃん?」
比較的安価なシャンパンを選んだ二人。互いに確認し合って、ボーイに注文を告げようとすると、その横で蘭が慌てて口を出す。
「え、何本? 二本?」
「二本? はは、多くない? 四人なのに?」
「だってぇ、一本はレディが一気で飲み切っちゃうもん」
「えー、蘭ちゃん営業上手だなぁ。じゃあ二本」
蘭と客のやり取りに、レディが苦笑いを浮かべた。
どうやらステージを降りても、飲むペースは変わらないらしい。まだ店が終わるまでは二時間程度ある。レディは気を引き締めた。
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