第5話 陶酔の夢

 夜の八時を回ったのを、レディは自身のスマートフォンで確認した。

 快楽で気絶してしまうこともあるとは聞いていたけれど、まさか本当に、しかもしっかり数時間寝てしまうとは思わなかった。自分がどんな風に乱れたのか、思い出すのも恥ずかしかった。

 ラインを確認すると、蘭も二日酔いが酷くて学校を休んだらしい。その方がいいのは間違いない。お互いかなり飲んだのだから。

 部屋のドアが開いて、外の空気と煙草の独特の匂いを纏った男性の気配を感じた。レディに遠慮してか、外に煙草を吸いにいった斗真が戻ってきたのだ。

「部屋で吸っていいのよ」

「起きてたの? レディ」

 斗真が珍しく驚いた様子で目を見開いた。こっそり出て行ったつもりだったのかもしれない。

 祖父が葉巻を好んでいた為、この家には灰皿が存在する。レディは吸わないので、どこに置いていたか定かではないが。身体を起こして確かめようとすると、下半身がずっしりと重く、うまく力が入らなかった。

「あ、灰皿……」

 レディの様子に気づいた斗真が、ベッド縁に腰掛けて、素早くレディの身体を支えた。無理に起きなくてもいい、と首を振って、もう一度ベッドへと沈めた。

「大丈夫だよ、自分で探すから。……身体動かすの、辛くない?」

「平気」

 レディの言葉が口先だけのものなのは、斗真にもわかりきっていた。ぼんやりとしたレディの様子に、恍惚のひと時を思い起こして、斗真はたまらない心地になった。もう一度レディに悲鳴を上げさせたいという欲望を飲み込んで、ささやかな願いを口にする。

「もう一回、キスしてもいい?」

 どうぞ、と言いたくなってしまう自分の軽々しさをレディはなんとか理性で捩じ伏せて首を横に振った。

「残念、可愛かったのに」

「キスが?」

「ベッドでのレディが。素直で、すごくわがままだった」

「何それ……」

 レディは、ふふっと笑って寝返りを打ち、斗真の手を優しく握った。

「どうして、最後までしなかったの?」

 レディは薄っすらだが、きちんと覚えている。初めての絶頂を迎えて、身体の力を手放したレディを斗真は丁寧に綺麗にすると、それ以上先のことはしなかった。

 昨晩、レディの弱さを受け入れた時と同じように、斗真は優しく紳士的だった。彼は一枚だって自分の服を脱がなかったのだから。

「大切に育てられたレディの花を散らすのは、決して今じゃない」

「大切だなんて……普通よ。それに私は別に真面目でいい子じゃなかった。祖父が嫌いな悪所通いってやつもしてたし」

 飲み屋に通うこと、賭場やパチンコ店に出入りすること、それら悪所通いを祖父は嫌った。流石に賭け事に費やせるお金はなかったが、レディチャレンジなどというくだらない遊びのおかげで、ほとんどレディは自分の会計を払わずに飲み屋に通うことができた。朝方まで帰ってこないこともしばしばだった。

「不良少女だって言いたいの? 不良の基準がどこかにもよるけど」

「お金持ちで、いかにも育ちの良さそうなあなたには遠い世界の話?」

「いや、僕は多分レディが思うほど立派な男じゃないし、あー……君より酷かったかも」

「何が?」

 斗真にレディより酷い何かがあるとはとても想像できないでいると、斗真はバツの悪そうな顔をして、

「対人関係?」

 とはぐらかした。レディはすぐ秘められた意図に気づく。

「女性関係って言いなさいよ」

「あ、バレたか。イメージ?」

「違う。……それもあるけど。だって……じょうず、だったもの」

 それはもう、想像を絶するほどに。レディがこれまで想像していた何もかもを奪い去っていくような、強い快楽だった。誰もが皆ああやって与えてくれるわけではないだろう。

 レディの恥じらいがたっぷりこもった褒め言葉は、先程我慢した斗真の理性を刺激した。斗真は悪戯っぽく笑うと、指先をレディの頬に這わせる。

「こうして触れば……また、して欲しくなる?」

 指先を、耳へ、首へ、鎖骨へ――そうやって少しずつ下げていくと、まだほんのり火照ったままのレディの身体がピクリと反応を示す。

「待って、やめて、私は――」

「僕を好きじゃない。いいよそれで。でも愛とは別に、快楽の虜にはなってもいい。……レディは、悪い女だね」

 そうでありたいと願うレディの心を全て見透かしたかのような斗真の言葉に、何故かレディは逆らえなかった。さっきみたいに首を横に振ればいいのに、きっとそれで優しい斗真は思いとどまってくれるのに、まるでそうするのが自然であるかのように、レディは受け入れてしまう。

 ――ごめんなさい。

 レディは何度目かわからない謝罪を心の中で呟いて、斗真の冷たい指から与えられる快楽に身を委ねていった。


 レディの意識を睡眠の中から呼び覚ましたのは、誰かの声でもなく、金糸雀の歌声でもなく、スマートフォンに設定されていた朝のアラームだった。

 のっそりと身体を起き上がらせると、家から自分以外の人の気配が消えていた。昨日の出来事は全て夢だったのではないかと疑うほど、斗真の気配は残されていなかった。

 目をこすりながらリビングに向かうと、テーブルの上に、メモと、数万円の現金が置かれていた。

 メモには、美しく大ぶりな字で、

『僕は現金をあまり持ち歩かないので、これだけ置いていきます。意識があるときは受け取らないだろうから、寝てる間に。また会いに来ます――』

 その文章の最後に綴られていた、英単語三つで構成された英文に、レディは背筋が凍るような心地になった。

 置いてあった現金を握りしめてわなわな震え、今すぐ返しに行こうかと振り返った時。ハタ、と気づいた。いや、これでいいのではないか。

 今、レディと斗真の間には金銭と官能の関係しか存在しない。どちらもレディばかりが得してしまっているような気もするが、少なくとも即物的な関係になっただけ気持ちは楽になった。

 そこには、愛もへったくれもない、互いの純然たる欲望しか存在していないのだから。





 あの夜から数日経った金曜日、斗真はとある会社のオフィスに付き人の佐々木を伴って訪れていた。斗真の仕事の取引先だった。

 会議室に通されると、すぐに担当者が入室してきたので、斗真と佐々木は立ち上がって、軽くビジネスライクな挨拶を交わす。

「お久しぶりです、白鳥さん」

「こちらこそ、ご無沙汰しておりました」

 白鳥は斗真の姓だ。ビジネスの現場でそう呼ばれるのは仕方がないが、どことなく女性的な響きが斗真自身、あまり好きではなかった。

 着席すると、早速今日訪れた本題を斗真なら切り出す。

「以前御社に納品した、アプリの運用開始からそろそろ半年ですが、その後どうでしょうか?」

「はい! あ、いや、やっぱり若い人はアプリが好きなんですかね。導入してから、店舗の利用者も若い層が増えました」

 語る担当者は、導入後店舗の売り上げが伸びたおかげで、この春に少し出世したらしい。にこにこと上機嫌だ。斗真は笑顔を保ちながら、謙虚な姿勢を崩さずに応える。

「クーポンの配信などで来店する敷居が一段下がる感覚はあるかもしれませんね。管理画面の使用感で難しいところとかはありますか?」

「それが、分かりやすくて、ほんと助かってます。特に登録者の一覧を出力する機能ありますよね。すぐにエクセルに落とせるんで、実は総務がすごい重宝してるらしいんですよー」

 その機能は、おまけ程度で管理画面につけた機能で、ほとんど手間はかかっていない。なんとも複雑な心地だが、喜んでくれているなら是非もない。

「はは、それは良かったです。あ、でもあれはあくまでアプリの登録者名簿で、店舗全体の利用客名簿じゃありませんから、混同しないようにだけ気をつけてください。……あと気になる点とかは?」

「うーん。あ、不具合って程じゃないんですけど、アクセスが集中した時かな、ちょっと動きがもさっとするというか……」

「アプリは常に通信してるので……いくつか、チューニングも試してみますが、元のサーバーがさほど大きく無いので、そろそろ、増強か増設の時期かもしれないですね」

 斗真の仕事は、客先に出向いて話を聞くことで、実際手を動かすのは、パートナー企業にお願いしている。斗真は自身に生産性が全く無いことを自覚しているので、言葉巧みに次の仕事を取ろうと話をそちらに向けた。サーバーの話になるとなんとなくお金がかかることだけはわかるようで、どのくらい費用がかかるのかわからない顔で、担当者は何度か首肯く。

「なるほど。次期の予算に入れられるか検討するので、見積もりとか」

「もちろん、すぐに検討してメールでお送りします」

 ここまで話を進めておけば、たとえ次期の予算では無理でも、いずれ必ず話がくる。斗真は頭の中で軽く見積もりの項目を出して、それなりの金額になることを計算し終えた。

「いやあ、白鳥さんは、アフターフォローがしっかりしてますよね。一人で回られて大変でしょうに」

「いえ、気楽な学生身分なので……」

 ふと、斗真は目を窓の外の桜に奪われた。風に揺られ、花びらが舞っている。三年前の衝撃が、斗真の脳裏にフラッシュバックした。

「うちの連中に聞かせてやりたいですね。謙虚でいらっしゃる……白鳥さん?」

 担当者の声が、少し遠いところで響いた気がした。急に茫然としてしまった斗真の肩を佐々木が慌てて揺らす。

「社長?」

「しらとりさーん?」

「あ、……ああ! すいません、つい。窓から見える桜が綺麗だったもので」

「ああ! そうなんですよ、うちは緑地公園が目の前だから、社員にも、公園で昼食をとるやつもいますよ」

「そうなんですね。素敵だなぁ。私はオフィスを持たないので、ちょっと羨ましくて」

「はは、今どき仰々しいオフィスを構える時代でも無いでしょ。まあ、うちの社長見栄っ張りだから」

 下手に嘘をついても仕方ないので、オフィスの景観の良さを褒めて、なんとか失礼を誤魔化した。結果として斗真との打ち合わせを満足げに終わらせた担当者は、次は食事でも、という口約束を取り付けてきた。

 斗真はもちろんです、と頷いて、軽く挨拶をするとエレベーターに乗り込んだ。地下駐車場に向かう室内で、隣に佇む佐々木がため息をついた。時計をしきりに確認しながら、スマートフォンを取り出して各所に連絡をする。

 斗真が判断するまでもないような簡単なメールは、佐々木が斗真の文面を真似て代筆していた。すべてのメールにご丁寧に対応していたら、社長である斗真にはいくら時間があっても足りないからだ。

「打ち合わせ中に心ここに在らずにならないでくださいよ。あーびっくりした」

「はは、ごめんごめん。なんか物思いしちゃった」

「しちゃった、じゃないですよ。女子高生じゃあるまいし」

 ポン、という電子音が響くと、地下二階にたどり着いたエレベータが扉を開けた。"開"のボタンを佐々木が押している間に、先に斗真が退出する。

 数秒遅れて佐々木が斗真の後を追いかけながら、その引き締まった――しかしどこか茫洋な――背中に声を掛けた。

「なんか、まだ夢の中、って感じですね」

「……そうだね」

 レディとの濃厚な一日を過ごしてからというものこうなってしまう時が増えた。ふとした瞬間にぼんやりとしてしまうのだ。それを夢の中と表現するのは、言い得て妙だ。

「あなたをそこまで腑抜けにさせるなんて。ミスレディとの相性、そこまで良かったんですか?」

「相性? 身体の? どうだろうなぁ」

「どうだろうなぁって、他人事な……」

 佐々木はすっかり斗真とレディが深い男女の仲になったと思い込んでいる。あながち間違っているわけではないが、レディが斗真に絆されて、あるいは、惚れ込んで、身体を許そうと思ったわけではないことは、斗真にも分かっていた。彼女は、自身の正義感と良心の中で揺れ動き、古めかしい言い方で"身売り"をしようと思ったに過ぎない。

「最後までしてないからね。可愛かったけど」

 レディの反応は初心で、愛らしく、羞恥と官能に満ちていた。自身から湧き上がる快楽に、抗うすべを知らないあどけない少女の姿は、今も斗真の脳裏に焼き付いて離れない。

 斗真がしみじみとまさに夢のような一夜のことを思い出していると、遠慮のない佐々木が筆舌に尽くしがたい顔を作って斗真に食って掛かる。

「はあ? 二晩も一緒にいて、あなたが? 最後までしてない? 学生時代、そこら中に修羅場の種を振りまいたあなたが?」

「声でかい。車に戻ってから言えよそういうの……」

「外聞を気にしてる場合ですか! 男性機能の衰えは老化の始まりですよ。二十三歳にして……遊びすぎたか」

「別に反応しなかったわけじゃないって。ただ、大切にしたかっただけ。でもやっとくべきだったかなぁ……次にどうしたら良いか、攻めあぐねてしまって」

 斗真はレディに求められるまま快楽を与えても、決して苦痛を与えたくはなかった。まだ自分はその立場にないと知っていた。愛しているからこそ、思いとどまった。

 昔からの友人で、遠慮無用の雇い主から、まさか恋の相談を受けるとは思ってもいなかった佐々木は、どうにも複雑な心境だった。これまで関係を持った女性たちが酷く可哀想なものに思えて仕方がない。この男にまさかそこまでまともな感覚があったとは。ことそういったことに関しては、人間というより獣のようなものだと理解していたのに。

「攻めあぐねているなら、まずは退路を断つべきでしょ」

「退路?」

「兵法の基本でしょう。恋愛にまで通じるかは知りませんが」

 冷淡に佐々木が述べると、丁度社用車が目に飛び込んできた。佐々木が車のキーを取り出し、運転席のドアを開けると、斗真は後部座席へと乗り込んだ。

 暫く何かを考えていた斗真は、バックミラー越しに佐々木を射抜き、重々しく口を開く。

「……アイディアがある。佐々木、今晩ちょっと付き合ってくれる?」

「はい? なんなりと」

 佐々木は秘書でも社員でもなく、あくまで付き人だ。プライベートであろうとビジネスであろうと、どこまでも斗真に付き添うのが仕事である。

 今更何を言っているんだろう、と首を傾げつつ車を発進させた佐々木の視界の外で、斗真が瞳に暗い光を灯していることなど、知る由もなかった。





 金曜日。やっと店に出勤できたレディは、例のごとくドレスに着替え、髪型や化粧をチェックしていたところだった。店は開店したばかりで、客数はまばら。週末なのでどうせすぐ忙しくなるのだが、ボーイが呼ぶまでスタッフルームにいていいと言われていたのでレディグラスに自分で用意した酒で、勢いづけようと考えていた。

「はー……今日はあんまり飲まないようにしよ。蘭、あれからちょっとお腹の調子悪いんだよねぇ」

「無理するから」

 調子が悪そうな蘭は、低い椅子に座って片脚を投げ出しながら、薄手のストッキングを、つまんでは離し、つまんでは離しをして遊んでいた。爪で引っ掻いてしまわないだろうかと、見てるこっちが不安になる。

「だって、どうせやるなら稼ぎたいじゃん?レディもこないだガッコ休んだんでしょ? 二日酔いひどかったの?」

「平気だったんだけど、アルコール臭が抜けなくて」

「あー……あるある。平日働けないね。酒臭い状態で学校行ったら、退学食らっちゃうよ」

「そうね」

 いっそ学校を辞めれば――そんなことまでうっかりレディが考えてしまっていると、スタッフルームの扉がコンコン、と叩かれた。蘭が、

「どうぞー」

 と声を掛けると、ボーイではなくマミママが扉を開けて入ってきた。

「あ、レディ。準備できてる?」

「はい。あれ、ヘルプですか? それともどこかの席でチャレンジ?」

 まさかこんなにすぐに呼ばれるとは思っていなかったので、レディはきょとんと目を丸めた。

「ううん。VIPのお客様が、レディをご指名よ。今晩はずっと独占したいからって――心付けも頂いちゃって。だから今日はステージに上がらなくていいからね」

「えぇ、なにそれ、その客怖い。レディ大丈夫? VIPは個室だよ?」

「監視カメラ付いてるから、滅多なことはないと思うけど。あ、頂いたお金はレディのフルバックにするから、お願いできない?」

 VIPは店の奥の目立たないところに二箇所存在する個室だ。他のフロアの席と違って、席に座った瞬間からかなりの金額を取る。他の客の目から離れて、ホステスと親密になれる以上、席料だけではなくある程度金額を使ってくれる見込みのある客にしか使わせない。

 出勤日で数えると、まだ二日目のレディが、VIPの客に指名されるのは、かなり異例のことである。前回のステージを見て、飲みっぷりを気に入ってくれた人かもしれない。だがまだ慣れていないレディにとって多少恐怖心を煽られるのは間違いない。ステージが始まれば音はかき消されるし、週末はスタッフ全員がバタバタと動き回るだろうから、監視カメラも意味をなさない。

 それでも、その多少のリスクと隣り合わせなのがこの仕事なのである。マミママは未成年のレディに気を遣って、やんわりと許可を求めてくるが、高額の時給をもらう以上、レディに断る権利はない。

「えっと、あの、仕事なのでいいんですけど、その、前回接客した方ですか? お名前は――」

「白鳥様よ。前回の出勤のときは、いらっしゃってなかったと思うけど、かなりの太いお客さん。あ、イケメンよ? 惚れないようにね」

「いいなぁイケメン。ねぇマミママ、蘭ヘルプについちゃダメ?」

 イケメンと聞いて急に態度を翻した蘭が、甘えた声でマミママに縋る。

「ダメ。レディだけがいいんだって。それに、蘭も前回のお客様が今エントランスにいるから、多分場内は入ると思う」

「やった! 場内だと、売上五パーバックだ、やっぱり今日も飲まないと!」

「ゲンキンねぇ」

 本指名や、場内指名が入った席での売上の何パーセントかが、ホステスのバックになる。つまり、自分の席で飲めば飲むほどお金になるということだ。

 蘭は基本的にテンションが高く、場を盛り上げるのがうまいので、前回も接客した二人組の男性客にえらく気に入られていた。その二人か、またはどちらかが、今日もお店に来ているようだ。

 レディは、うーん、と唇に手を当てて唸っていた。白鳥、などという姓に全く聞き覚えがない。前回来店していたわけではなくて、自分の身に覚えのないない客となるとますますわけが分からなかった。


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