その3
私がこのおかしな世界に流れ着いてから4か月が過ぎようとしていた。
私を拾ってくれた初老の男はこの街の名士の一人であるカルーアという男だった。
衰弱していた私は彼の家で療養することとなり、私はカルーアを通してこの世界の情報を注意深く集めていた。
つまるところ、ここは子供じみた空想の世界だった。街を離れれば小鬼がうろつき、空には竜が舞い、魔王などという戯言がまことしやかに噂されているのだ。
私は吐き気を伴うようなめまいを覚えた。ここには私の望むようなものが何一つない。文明らしい暮らしも、仕事も、名声も、手足となる部下も。ここには何一つない。
私は結局すべてを失ってしまったのだと認めざるを得なかった。
このくらくらするような下等な暮らしを私は現実であると受け入れるしかなかった。
「だいぶ元気になったじゃあないか」
窓から小汚い街の路地を見つめていた私を見つけたカルーアが声をかけてきた。
私はこの男に巡り合えた最低限の幸運をひそかに感謝していた。
ここには文明の光は無いが、それでも中世欧州がごとき最低限の暮らしを送れているのはひとえにこの男の社会的な立場のおかげである。
だが、足りぬ。
「どうかね、自分のことは思い出せそうかね?」
彼は私の記憶喪失という嘘を信じている。純朴な男だ。愚鈍なほどに。
「いえ……」
私は日本語でそう返す。
この4か月の暮らしの中で気が付いたが、彼らの言語は未知のものだ。しかし、私の発する言葉は彼らには彼らの言語で聞こえ、彼らの言語は私には日本語に聞こえるのだ。
奇妙な話であるが、不便はない。
私は己の身の振り方を決めることにした。すなわち、元の世界に帰ることを諦め、この世界に恭順する決意を。
「カルーアさん……私は、貴方の仕事を手伝いたいと考えています」
「なんと、君は客人だ。そんなことは考えなくてもいいのだぞ」
彼は目を丸くする。
「いえ、いつまでも何もしないのは私自身耐えられません」
これは本心だ。怠惰は悪だ。私は堕落したくない。
「お願いですカルーアさん、ほんの少しで構わないのです。恩を返させてください」
歯の浮くような言葉に耐えながら、彼を説き伏せる。
「ううむ……いいだろう、君は聡明だ。これまでの生活でもそれは十分承知している」
しぶしぶ、といった表情で彼は首肯した。
「ありがとうございます」
身に沁みついた45度のお辞儀が、自分でも滑稽だった。
ともあれ、私は彼の仕事を――街の行政を手伝い始めた。
うすうす想像をしていたが、はっきり言って彼らの仕事は非効率に過ぎた。
私は少しずつ、反感を表立って買わぬように「改善」を提案し続けた。
「おお……こんな手法があったとは……!」
「画期的だ……我々ではとても思いつかなかった!」
私は彼らの愚鈍さに閉口した。この程度の会計事務、私のいた世界ならば入社3日目の新人でもできることだ。
私は彼らを見下すようになった。無論表には出さぬが、程度が知れた今、私は更に業務改革を進めた。
「君のことを尊敬するよ、君が私に出会ったのは神の御導きだったんだろう」
カルーアは私に全幅の信頼を寄せるようになった。当然だ。私の能力は評価されるべきなのだ。
しかし、徐々に私のことを疎む人間も現れ始めた。それは怠惰にも何の改善もしてこなかった愚かな者たちだった。
同僚、上司、やがて彼らは私をやっかみ大小さまざまな嫌がらせを始めたのだ。
「君、少し働きすぎではないかね?」
「そこまでしてどうするんだよ」
私は辟易した。この世界にも、やはりこういう手合いの人間がいるものだ。
私はかつて私の世界でそうしていたように、静かにゆっくりと、彼らを追い落とし始めた。
邪魔者は排除しなければならない。不正の告発、スキャンダルの暴露、あるいは“不運な事故”……
私にとっては手慣れたものだ。徐々に私に表立って反抗する者たちは減っていった。
「ごほっ……君、最近はあまり家に帰らないじゃないか。無理はしていないかね?ごほっごほっ」
カルーアが心配そうに私の顔を覗く。この程度の仕事量、私がいた世界であれば当然のものだ。私は彼の手を振り払い、成すべきことを整理する。
目下の目標は、この街の警吏団——警察機構の掌握だ。この街を実質的に支配できる実効的な力。それが欲しい。
私は少しずつ交流を増やし、警吏団に顔を利かせられるようになった。
私がこの世界に来て、2年が過ぎようとしていた。
もう少しで、望むべき地位が手に入る。
そう思った矢先であった。
「何?カルーアさんが?」
家に急いだ私が目にしたのは、ベッドに横たわるやせ細った彼の姿であった。
「カルーアさん……!」
「おお……最後に君の顔が見れてよかった……」
一目見てわかるほどに、彼の顔には濃い死の気配が漂っていた。
「何をいうのです、私がきっといい医者を……」
「ふふ、もう1年になるんだ……こほっ、自分の体のことは自分がよくわかるよ」
カルーアは深く目を閉じ、苦し気に息を吐いた。
「君のこれからを見れないのは残念だが……満足しておるよ……」
「だめだ、カルーアさん、ダメだ!」
今あなたに死なれては……
「死なないでくれカルーアさん……!」
「ありがとう……」
彼の目から光が消えてゆく。
「ダメだ、ダメだダメだ」
今あなたが死んでしまったら……私の後ろ立てがなくなってしまうではないか!
「ふざけるな!お前にはまだ生きていてもらわなければ困るんだ!勝手に死ぬんじゃない!」
私は登り詰める!こんなところで階段を踏み外すわけにはいかない!
「死ぬな!死ぬんじゃあない!!」
目の前の老人はどんどん冷たくなっていく。
私は必死に彼の肩を揺さぶり続ける。
そして、私がその力に気が付いたのはこの瞬間だった。
――――――――――――――――――――
「は、離してください~!話を聞いてください~!!」
がちゃがちゃと甲冑を鳴らしながら警吏の一団はソウタとフォルトゥナの二人を連行する。
フォルトゥナは大きな声で抗議するが、警吏団は不気味なまでに無言を貫いている。
ソウタは考え込んだ様子で声を発することなく、静かに歩いている。
「離してください~!」
フォルトゥナの声に何事かと訝しんだ住人が窓を開く。しかし警吏の姿を認めるとそそくさと窓を閉めてしまう。
関わり合いになりたくないのだ。
ちらりと見えた彼らの目には、関わり合いになりたくないという色が浮かんでいた。
やがて二人は堅牢な石造りの建物へと連れてこられた。
フォルトゥナは記憶がフラッシュバックする。天界にいた時もこうして拘束され、そして牢へと入れられたのだ。
「い、嫌……」
肩が震えだし、足がすくんでしまう。
「女神さま」
優しく彼女の肩を抱いたのは、ソウタであった。
彼は天界で彼女に起きたことは知らない。しかしフォルトゥナのただならぬ様子を見て、ある程度察した様だった。
「大丈夫です、今は僕が付いています」
「ソウタさん……」
フォルトゥナは彼の瞳を見て、いくらか落ち着きを取り戻すことができた。
「そうです、大丈夫です。きっとわかってもらえますよね!」
フォルトゥナはそう空元気を出す。
しかし彼女は同時に思う。
分かってもらえなかったから自分は今こうして人間になっているのに、と。
ガシャン、と鉄扉が閉じられる。
「……追って取り調べる。それまで静かにしていろ」
警吏はそれだけ言うと去って行く。
遠くに一人、見張りらしき警吏は見えるが、留置スペースには今ソウタとフォルトゥナしかいなかった。
「……一応、竪琴は無事です。取り上げられなくてよかった」
ソウタは服の影からちらりと竪琴をのぞかせた。
「最悪の場合は手荒になるかもしれませんが……」
「っ……」
フォルトゥナは思わず竪琴から目を反らす。
「女神さま?」
「い、いえその……さっきの人のことを思い出して……」
さっきはあまりにも多くのことが起きすぎて混乱していたが、何故自分は襲われなくてはならなかったのか、そして彼は死ななくてはならなかったのか。
「女神さま……僕だって、確かにできることなら誰も気づつけたくはないです。それでも、女神さまを傷つけるなら……」
「わかっています、私のため、ですもんね。でも……あの人の冷たい腕の感触がまだ手に残っているような気がして……」
「冷たい……?」
何かがひっかかり眉をひそめたソウタだったが、その時表の扉が重い音を立て開いた。
カツカツ、と鉄音が響き、牢の前に立ち止まる。
それは、昼間二人の前に現れた警吏の団長と呼ばれた男——ジョージであった。
運命の女神さまの運命的な出会い! じょう @jou-jou
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