第2話 漆黒のオオカミ

 ゆっくりと意識が戻ってくる。

 重い瞼を無理矢理開けると、周りに明るさが戻っていた。


「ここは……どこだ?」

 あらためて状況を確認してみる。

 特に、車が移動した感じはなく、まだ峠のてっぺんにいるみたいだ。


「多少の違和感はあるけど、暗くなって、星が落ちる前の場所のままか」

 車の前に飛び出してきたまん丸い羊は、もういなかった。


 フロントガラスから見える先には、これから下っていく道がある。その道の左右にはたくさんの針葉樹が生えていた。

 道には、相変わらずたくさんの雪が積もっている。ただ、その道には車の轍がなくなっていた。


 いや、やけに道路の道幅が狭くなっているか……?

 左右に積み上げてあったはずの雪山がない。ガードレールも無くなっている。


「後ろの席には……二人ともいるか。

 よく寝ているな、現状は取り立てて変わっていないと言うことだな」

 すぐ後ろのシートに桃華と夏梛の姿が確認できた。


 大丈夫だ、今のところは問題はない。

 大きく深呼吸をした。



「ともあれ問題の車は……」

 スタートボタンを押し込む。エンジンはかかった。

 動きはいつも通りだな。

 さっきいきなり止まったは、何だったのだろう?



 ギアをドライブに入れて少し前進してみる。ミシミシという雪を踏みつぶす音とともにモーターの駆動音も聞こえる。

 四駆の動きも問題なさそうだった。轍のない雪道でも、進めそうだ。

 進みながら、左右にハンドルを回す。

 ハンドルの動きも問題ない。大丈夫だ。


 車内装備も確認する。異常はなさそうだ。

 暖房も効いているから、とりあえず凍えずに済みそうだ。

 安心して思わず大きなため息が漏れた。



「ん……」

 後席にいる桃華が目覚めたようだ。


「大丈夫か、桃華? 痛いところとかはないか?」

「篤紫さん、なんとか大丈夫そうよ。

 いったい何が起きたのかしら。眩しかったわね。

 痛いところは……なさそうね。……あら?」

 言いかけた桃華が、突然体を動かし始めた。

 腕を上げて、首を左右に傾げる。肩を交互に触ってから、何かに納得したのかうんうんと頷いた。


「肩のこりがなくなってるわ。ずっと悩んでいた肩こりよ?

 何だか、体も軽くなった気がするの」

「なんだって? そんなわけが……」

 言われて気づく。自分も腰痛が嘘のように引いていた。


 三十六歳ともなると、少し無理をするとすぐに体にでるようになる。

 しばらく前から、背中から腰にかけて痛かった。それが異様に軽い。


 心なしか桃華の肌も綺麗に見える。

 いや、そもそも若返っているのか?


「ん……おかあさん、ここはどこ?」

 夏梛も目が覚めたようだ。携帯の画面をみて首をかしげている。


「夏梛も気がついたのね、たぶんさっきと場所は変わっていないはずよ」

「でもスマートフォンの電波は圏外のままみたい? しばらくインターネットが、使えないままなのかな」

 三人でそれぞれにスマートフォンを確認するも、すべて電波が圏外のままだった。


「やはりまだ状況が変わっていないのか……」

「どうなのかしら、気持ち空気が綺麗な気もするわ」

 地震で地面が揺れているのか、車体が小刻みに震えた。

 余震も断続的に続いているようだ。


 時計を見る。気を失っていたのはせいぜい十分くらいか。

 ちょうどお昼の時間だった。


「おとうさん、おなかすいたよ」

 夏梛のおなかがから『グー』というかわいい音が聞こえた。

 思わず顔を見合わせて笑った。


「考えていても現状は変わらないか。とりあえず、お昼ご飯にしよう」

 遠くの方で微かに、オオカミの遠吠えが聞こえていた――。





 雪が積もる中、下りの道を慎重に走っていた。轍のない雪道は、雪を踏みつぶす車の動きも重い。

 余震は収まったのだろうか、車が走り始めるとさすがに感じられなくなった。


「おとうさんの、横がいいな。綺麗な風景撮りたい。いいよね?」

 返事を待たず、夏梛が助手席に移動してきた。

 助手席から、周りの風景をスマートフォンで撮っている。


 電線も電柱もない、ガードレールすらも無い景色は、ただの林道でさえも神秘的に見えるような気がする。

 時折枝から落ちる雪が、日の光でキラキラと輝いていた。

 


 走りながらタイヤに伝わる振動も少ない。積もった雪のせいで道の下までは分からないけど、路面は少なくともでこぼこ道ではないようだ。




 綺麗な雪景色が流れていく。

 車幅はずっと、車一台半くらい。ガードレールが全く無く、山道を走っているような感覚だった。

 当然、対向車も後続車もいない。


「おかしいな、この道はちゃんとした国道だったよな?」

「ええ、諏訪に抜ける道でしょ? 国道だったはずよ。

 隣の夏梛に、ナビで確認してもらったらいいんじゃないかしら」

「えー、使い方わからないよ?」

 十歳ともなれば、スマートフォンの扱いは慣れたものだ。逆に、少し古いカーナビとかは、扱いづらいようだった。


 そう言えばなぜ峠を越えてきたのだろう?

 この道は峠を越える代わりに、バイパスのトンネルがあったはずなのに……。

 違和感に、内心首をかしげつつも、とにかく麓に向けて車を走らせた。




 車のスピーカーから流れる音楽に合わせて、桃華と夏梛が陽気に歌っている。

 緩やかにくねる道に合わせて慎重にハンドルを操作しながら、ふとカーナビが機能していないことに気がついた。


 ここまで結構な距離を下ってきているはず。

 車速を拾っているから、とりあえずは前に進んでいるようには見える。

 カーブのたびにまっすぐ道を外れて、少したつと元の道に戻って、また進む。ずっとその繰り返しだった。

 位置情報を拾えていないのだろうか?






「ねぇおとうさん、森の中を黒い犬が走ってるよ」

 峠を下り始めてから一時間くらいたっただろうか。

 道は平坦になり、雪道でも速度が四十キロくらい出せていた。


 アクセルを少し緩めて、さっと横を一瞥すると、確かに大きな犬が車に併せて走っていた。

 犬は、吸い込まれる位に漆黒の体毛だった。精悍な顔つきに太い足、太くて立派な尻尾が後ろに流れている。

 まて、あれはオオカミか。


「……ねえ脚の太さ、周りの木と太さが一緒くらいよ?」

 それに、体つきもやけに大きく見える。

 こちらから五メートルくらい離れているのに、体の形がくっきりと見える。周りの立木と比較しても明らかに大きい。


 そもそも、周りに生えている木も思いの外、太いのだ。

 漆黒の毛並みに、真っ赤な目のオオカミが、口から赤い火をちろちろと洩らしながら併走している。


「……ん? ちょっと待て」

 何でオオカミが口から火を洩らしているんだ……?


 一瞬にして、背筋が凍った。

 やばい。

 あれはやばい。尋常じゃない。


 普通の動物じゃないことだけは理解できる。

 少なくとも知っているオオカミは、体があんなに大きくないし、口から火を吐くような生き物じゃ無いはずだ。


 ハンドルを握る手に必要以上に力が入る。平坦にな道になったとはいえ、雪道を走っている以上無茶な加速はできない。

 明らかにこちらが捕捉されている。

「篤紫さんっ! 見て、こっちに向かって来るわ」




『アオーーン』

 遠吠えとともに、急速に近づいてきたオオカミに、さらに目を見開くことになる。

 形だけを見ればオオカミだが、サイズが大きすぎる。


 自分たちが乗っているミニバンよりも、オオカミの身体が明らかに大きい。ただのオオカミじゃない。

 横を見ると、オオカミの赤い目が、篤紫の顔の位置にある。


 身体がこわばるのが分かる。

 ハンドルを握る手が、鉛を付けたように重い。


 覗き込まれた目の大きさですら、握り拳より大きい。

 後ろは見えないが、体長は三メートル以上ありそうだ。

 意味が分からない。

 少なくとも普通のオオカミじゃない。



 ――ドンッ!


「きゃああぁぁぁぁっ」

 オオカミが体当たりをしてきた。

 雪道で横から体当たりされ、ハンドルを思いっきり取られた。


 何もできないまま、車体が斜めに滑り始める。

 道を外れて、林の中に突っ込んだ。


 車の左の前が木にぶつかり、反動で横に回転しはじめた。ハンドル操作を奪われたまま、雪上を滑って木々の間をすり抜けていく。

 迫り来る木。


 ――ドカン! ガゴンッ!!


 何度も何度も木にぶつかりながら、乱暴に木々の間を滑り抜ける。


 そして、前後と左側が木に挟まる形でやっと停止した。

 車内の荷物が派手に散らかった。



 車が止まり、オーディオから流れる音楽が遠くなった。

 陽気な声で流れる歌が、違う世界の音に聞こえる。


 恐怖で自分の体が震えているのがわかる。視界も狭い気がした。

 朦朧とする意識のなか、必死で車内を確認した。


 激しくかき回された車内はひどい物だった。

 シートベルトをはめていても、ドアに何度も体をぶつけたのだろう。桃華と夏梛が崩れるようにシートに倒れていた。


 声をかけたいけど、声が出ない。

 かくいう自分も、きりもみ状態の中でハンドルとドアに、何度も体を打ち付けられた。体のあちこちが痛い。


 こんな中でも、車のガラスがどこも割れなかったのは、運がよかったといえる。

 徐々に視界がクリアになると同時に、篤紫は戦慄した。



 気がつけば数十匹の、口から火を洩らしたオオカミに周りを囲まれていた……。

 まさに絶体絶命。


 心の底から、死を覚悟した。

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