沈む

三角海域

 兄は浴槽で死んだ。

 幼い頃の話だ。その日、やたら兄は長風呂だった。兄は風呂が好きで、シャワーだけでも相当な時間風呂に入っているので、母も当時の私も、疑問には思わなかった。

 母が一緒に入ってしまえというので、私は風呂に入った。

 兄は、沈んでいた。温かい湯の中で、兄の体はその熱を失っていたのだ。湯の表面は僅かな波紋すらなく、まるで氷の中に兄を閉じ込めてしまったかのようだった。

 私は、しばらくそんな兄を見つめていた。小さいとはいえ、人間には本能的に死を感じ取るアンテナがある。私だって、例えば兄が血まみれで倒れていたりしたら、泣き叫んで母を呼んだだろう。だが、あの兄の姿は、死と呼ぶにはあまりにも静謐で、恐怖を感じることができなかった。今にして思うのは、幼いということは、どこまでもプリミティブなのだということだ。上書きされていない感情。自分自身の本能に基づく感覚。

 だから、私は理解できなかった。兄の死を。母を呼び、泣き叫びながら兄の体を浴槽から引き上げる光景を見た時、ようやく私は泣いた。その光景に恐怖したからだ。

 それから随分と時間がたった。母は兄の死を引きづり続けた。数年かけて、元の明るい母に戻りはしたが、その顔から影が消えることはなかった。私が社会に出たあともそれは変わらない。

 私は、大人になった。もうプリミティブな感覚はない。死がどういうものかは理解できずとも、あの光景を見れば、それは死につながるだろう。

 鏡を見る。髭が生えている。体が大きくなっている。疲れた顔をしている。子どもの頃は、どれだけはしゃいでも元気だったと誰かが言う。それは、まっさらだからだ。すべてを受け止め、すべてを自分の感覚で判断する。自分が優先される。成長すれば、自分の優先順位はどんどん下がっていく。自分が消えていくような感覚。体力以前に、それが我々を疲弊させる。

 仕事を終え、家に帰り、買ってきた弁当を食べ、風呂に入る。それなりの会社に就職した私は、それなりの時間を過ごし、それなりのアパートに住んでいる。生きていくうえで困ったことはない。ただ、生きているという実感があるわけでもない。

 ある日、会社で葬式の話がされていた。社員の親族が亡くなったのだという。まだ若く、突然の死であったという。

「見澤さんも随分早くにお兄さん亡くしてるんですよね?」

 話をしていた社員の一人が、私に言った。いつ話したのか自分でも覚えていない。飲みの席で、そんな話をしたのかもしれない。

「ああ」

 私がそう答えると、他の社員も私の方を見た。みな一様に悲しい顔をしている。悲しいのならば、なぜわざわざ私にそんなことを訊くのだろう。

「突然だった。今でも、あの光景は忘れられないよ」

 社員の一人が、細かに首を縦に振る。今の言葉だけで何がわかったというのか。

「原因はなんだったんですか?」

「まだ小さかったからね。よくわからないんだ。両親は病院で聞いたのだろうが、わざわざ小さい私に話そうとは思わなかったんだろう」

 社員たちはみな悲痛な面持ちで私の話を聞く。不思議なものだ。成長するにしたがって死を恐れる気持ちは増えるのに、死への関心は増えていく。死への恐怖がそうさせるのだろうが、わざわざ恐れるために死を知ろうというのもおかしなもののように思える。

 私の話を聞き終えた後も、社員たちはずっと死についての話を続けていた。


 夜。飯を食い終え、酒を飲みながらまどろみの中を漂う。色々なことが頭の中をよぎる。兄のことを思い出すと、どの思い出よりも、あの静かな風呂の光景が思い浮かぶ。

 最近、無意識にあの光景が浮かんでくることが多くなった。静かな、あまりにも静かな死。

 まどろみの中で、社員たちが話している。

 誰それが死んだ、まだ若いのに。

 誰それの誰が死んだ、あんなに元気だったのに。

 誰それの誰々が死んだ、もう歳でしたからね。

 哀れみの感情、言葉。死ぬことは怖いことで、死ぬことは悲しいこと。

 母の顔が浮かぶ。兄が亡くなったあと、ずっと悲しみの痕をその顔に負っていた母。

 その母は、癌に侵され、数か月の命だという。

 私は母が好きだった。だから、母が死ぬのはとても悲しい。だが、心のどこかで、安心している自分がいた。父はもう亡くなっている。母が亡くなれば、私は孤独の身だ。

 まどろみが深まる。母の顔が浮かぶ。笑顔の母。その笑顔は、あと半年もしないうちに見られなくなってしまう。

 死とはなんなんだろうか。誰にでも平等なもの。だが、失い方を選べないというのは不平等ではないか。生きたい人間が生きることは肯定されても、死にたいという人間は否定される。誰かが悲しむからと。私たちはそれを刻み込まれる。だから死んではいけないのだと。誰かというのは、自分の大切な人間のことだ。不特定多数のような言い方をしているが、誰かというのは、その人間が思い描く大事な人のことだ。

 それは私も同じだ。

 だが、もう少ししたら、その人間はいなくなる。

 母は、私に生きていてほしいと願うだろう。母は優しい人だから。

 まどろみが晴れる。もう間もなく午前十二時になろとしていた。

 静かな時間。私は立ち上がり、風呂に向かう。

 夜が深まる。だが、深まった夜はその内あける。希望の朝なんていう言い方をする。だが、望む望まないを聞き入れずに朝は来る。それはやはり、不平等だろう。

 正しいことや悪いことは、誰が決めるのだろう。それらは常識として私たちの中にある。誰が決めたかわからない、常識という感覚。

 熱いシャワーを頭から浴びる。

 まどろみは晴れる。意識がはっきりとしてくる。

 母の笑顔は、熱いシャワーが流した。

 だが、兄の姿だけは、どれだけシャワーを浴びても頭の中に残り続けた。

 母はあと、数か月でいなくなる。

 母は私に生きていてほしいと願うだろう。

 シャワーを止める。

 静かな風呂場。あの時と同じ、静かな空間。

 私は湯を張っていない浴槽に入り、身を沈めた。

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