未遂文通

@kimitama

未遂文通

 秋も深まり、肌寒さを覚える今日この頃ですね。

 お元気ですか。

 私たち夫婦は、相変わらず、名古屋の郊外でのんびりと日々を過ごしております。といっても、つい最近まではばたばたとしていたのですが。ようやくのんびりできるようになった、と言う方が、正しいのかしら。

 先月、待ちにまった私と高彦さんの初めての赤ちゃんが生まれました。高彦さんと話し合って、お医者さまに性別は聴かずにいたのですが、生まれてきたのはとても可愛い女の子でした。とても可愛い、なんていうと、もう親馬鹿だとからかわれてしまうのかもしれませんね。しかし、我が子はやはり、どこのお子さんよりも可愛らしく映ります。まだ赤ら顔の、それこそお猿さんのような顔ですが、瞳は高彦さんの二重まぶたです。高彦さんは、赤ちゃんの鼻の造りが、私にそっくりだと言います。私は、むしろ、高彦さんに似ていると思うのだけれど。

 今、私はリビングのテーブルで、この手紙を書いています。となりに置いてあるベビーベッドで、赤ちゃんは安らかな寝息を立てています。暖かで、ゆったりとした午後です。こうした時間を過ごすのは、今の私にとってかけがえのない幸福のような気がしています。

 出産から一ヶ月が経って、ようやく私たちの日々も落ち着き始めました。始めは不安だった子育ても、お隣の石谷さんが色々とアドバイスしてくださって、今ではしっかり母親として頑張っています。石谷さんは三児のママである、私の大先輩です。いつも、とても親切に、私の面倒を見て下さいます。

 しかし、赤ちゃんというのは不思議なもので、彼女はちゃんと母親の存在が分かるのです。一度、私にどうしても外せない用事があった際、石谷さんに赤ちゃんの面倒を見ていただいたことがありました。けれど、石谷さんが赤ちゃんのおしめを変えようとすると、赤ちゃんはどうにも嫌がって、ひたすらに身をよじって泣き叫ぶのです。以前に、石屋さんが私への見本にと、私の前で赤ちゃんのおしめ変えをしていただいた時には、まるで大人しくしていたのに、です。

 結局その日は、私が帰宅するまで、石谷さんは赤ちゃんに、ほとんど世話をすることができなかったと言います。何も手を出さなければ、これもまた不思議なことに、赤ちゃんは静かに寝ているのですって。申し訳ありませんでしたと、私は頭を下げたのですが、石谷さんは笑いながら、この子はきっと強い子になりますよと仰って下さいました。そして私はと言えば、これまでよりも一層、私はこの子の母親なのだという自覚を、強く再確認しました。

 高彦さんは、平日中に残業を片付けて、休日にはできるだけ家にいられるように上手く調整してくれています。高彦さんはわりと冷静な人だから、以前までは想像もしていなかったのだけれど、やはり実際に我が子を目の前にすると、まるで惚気たパパの顔になります。いいお父さんになろうと、高彦さんは今から必死です。けれど、休日だけでも赤ちゃんと触れ合おうと努力してくれる高彦さんに、私は心から感謝しています。

 私も、最近では高彦さんのことを、パパ、だとかお父さん、と呼ぶのに慣れてきました。つい最近までは、あなた、と呼ぶのも恥ずかしかったのに。まったく、おかしなものですね。ちなみに、高彦さんはまだ、私のことをママだとは呼んでくれません。何だか、変な調子がしてしまうんだって。赤ちゃんと同じですね。

 最近の休日では、家族三人でゆったりと近くの公園を散歩したり、行楽地に行ったりします。ベビーカーを押す高彦さんと、赤ちゃんが初めて喋る言葉はなんだろう、と他愛もなく会話をします。私はママでしょうと主張し、高彦さんはパパだと言って譲りません。しばらくいがみ合って、どちらかが先にぷっと噴き出し、それから私たちは声を揃えて笑い合います。そうすると、赤ちゃんにも楽しい雰囲気が伝わったのか、あーとかうーとか言って、ほころぶような笑顔を見せてくれるのです。

 高彦さんの笑顔と、娘の笑顔とを同時に見れる時、私は一番、幸福を感じます。髪を揺らす穏やかな風も、あたりに漂う乾いた匂いも、踏みしめる地面の柔らかさにも。私は、その全てから、幸福を感じることができます。

 ねえ、赤峰くん。

 私は今、幸せです。


 

 ここまで長々と書いてしまい、少しだけ後悔しています。そういえば、あなたは文章を読むのがそんなに好きではなかったですね。いつだったか、私が読んでいた芥川の文庫本をちらりと覗き込んで、しぃちゃんは偉いなあ、とあなたが呟いていたのを、今思い出しました。あれは、まだ私たちが付き合い始めた当初のことだったから、大学一年生の頃でしょうか。もう、八年も前の話になるのですね。

 私の長ったらしい文章に、そろそろウンザリしているであろう赤峰くんのために、ここからは少々ピッチを早めて、このお手紙を綴りたいと思います。どうか飽きずに、もうちょっとだけ、私の駄文に付き合ってあげてください。


 

 さて、時が流れるのは早いもので、あなたが私を殺そうとしたあの日から、もう七年が経とうとしています。

 この七年間、私は日常を続けながら、必死であなたの消息を捜していました。七年。こうして言葉にしてみると、あまり長い歳月には聴こえないかもしれませんね。二十歳から二十七歳までの間に、自分の中で何が変わったのかと訊かれたら、恐らくあなたは答えられないのではないでしょうか。私も、同じです。

 けれど、私にとって、この七年間はとてつもなく長い時間でした。こうして、今日、あなたに手紙を書くことができているのは、一重にこの七年間のおかげです。高彦さんにはあなたのことを一切話していないから、彼との結婚生活と、私の主婦としての日常が始まってからは、行動を起こすのが大変になりました。それが例えどんな内容であろうと、やはり亭主に隠し事をするのは後ろめたいものです。

 けれど、どうにか、私は先日、赤峰くんを見つけることができました。

 それに、どのような手段を使ったのかは、ここでは敢えて記しません。少なくとも、あなたが思っている以上には、私はさまざまなことをしたと思います。この七年間、本当に心労が耐えませんでした。誰かに褒めてもらいたいと切実に願うほど、私は大変だったのです。

 しかし、あなたがまだ、名古屋に在住しているとは驚きでした。てっきり、あなたはあの日以降、もうこの地方には近寄ってもいないものだと思っていました。まさに、灯台もと暗しといったような気分です。あれから七年間、あなたがずっとこの地に住み続けているのだとしたら、あなたの根性には心から感心します。なにせ、赤峰くんは自分が人をひとり殺した場所で、のうのうと暮らし続けているわけですからね。

 けれど、あなたはあの日から唐突に大学を辞去し、そのまま行方を眩ましてしまったのですから、当然のことながら、逃亡するのだという意思はあったのだろうと思います。

 あれから、私は色んな方に赤峰くんのことを聴いて回りました。あなたが専攻していたゼミの教授や、サークルでの先輩や友達、申し訳ないけれど、あなたのご両親にも。けれど、誰ひとりとして、あなたの行方を知る人はいませんでした。

 けれど、それに加えて、あなたを捜そうとする人も、私以外にはまるで存在しなかったのです。

 あなたの知人や友人たちは、私がどれだけ追及しても、決して動こうとはしませんでした。心配ではないのかと聴くと、彼らは一様に、別にアイツのことなんかどうでもいいだろう、どうして気にする必要があるのかと、へらへら笑って言うのです。私とあなたが当時交際をしていたと知っていた人でさえ、どこか揶揄するような響きを込めて、しぃちゃん、元気を出してと、希薄な慰めをしてくれる程度でした。あなたのことを、心配だとか、捜そうだとか言う人は、ただのひとりもいなかったのです。

 そして、これは赤峰くんのご両親にも当てはまることでした。捜索願いを出されないのですか、と私が尋ねたとき、彼らはこう言いました。あいつは、昔から家出癖があったから、今回もその一貫だろう。それに、もう子供ではないのだし、無理やりに連れ戻す必要もない、と。あなたのご両親は非常に優しそうなお顔をしてらっしゃいましたが、中身は思ったより冷酷であったようですね。私は、少しだけ背筋がぞっとしたのを、今でも覚えています。

 ですが、それでもあの人たちに、あなた方の息子さんは殺人者なのですよ、と伝えるのは大変酷だったでしょう。そのような事態にならなかったことだけは、本当に良かったと、私は今だに胸を撫で下ろす思いです。

 ねえ、赤峰くん。

 あなたはこの七年間、逃亡をしていたつもりなのですか。

 誰も、あなたの背中を追いかけてなどいないことに、気付いてはいましたか。

 そして、あなたはあの日――殺人をした、つもりだったのですか。



 そういえば、今の今まで考えてもみなかったのですが、あなたはこの手紙を幽霊からのものか、あるいは他界のものからとでも、勘違いするのかもしれませんね。これが私からの手紙だと気付いたときには、驚いて腰を抜かしたのでしょう。あなたのそうした姿は、私には容易に想像できます。

 けれど、信じてください。私は、生きています。

 あなたと大して変わらない距離で、結婚をして子供を産んで、一介の主婦として日々を送っています。あなたが殺したはずの私は、まだ生き続けています。誰かから隠れる必要も、戸籍を変える必要もありません。堂々とした平気な顔で、表を歩くこともできます。私が七年前に、恋人を行方不明という居た堪れない理由で失くしたことを覚えている人は、今やほとんどいません。

 当然、私はあなたのやろうとしたことを誰にも喋ってはいないから、あの小さな事件を知る人もいません。あれは、世間に向けて発表していたら、きっと警察沙汰にまではなっていたことでしょうね。そうすれば、あなたの逃走は、ちゃんとした逃亡になった。テレビで実名が公表されて、やんわりとですが指名手配というビラが貼られたかもしれません。私には悲劇の被害者として、好奇の目が当てられます。そうして私たちは、一挙に有名になったことでしょう。

 あとで、改めて考えてみると、もしかしたら、これが赤峰くんの望んだ筋書きだったのかもしれませんね。

 私には、あなたが私を殺そうと企んだ理由が、今だに分かりません。

 当時、私たちは互いに、それなりに上手くやっていたと、私は思っていました。私たちは決して仲の悪いカップルではなかったし、その間の絆は、甘いわけでも苦いわけでもなかった。熱いのでも冷えているのでもありませんでした。だからこそ、私たちは安定していました。喧嘩も、今思えば、ほとんどすることはなかったでしょう。けれど、そんなまともな抑揚もない私たちの関係を、私は案外に気に入っていたのです。あなたの隣りにいると、私はいつも安心しました。それは、家族や友達が相手では、決して手に入らないような、とても穏やかな休息でした。

 そうです、赤峰くん。

 大学を卒業したら、私はあなたとの結婚を考えるつもりでいました。

 もう七年も前の気持ちですから、今更恥ずかしいなどという感情は持ちません。あなたは気付いてはいなかったのかもしれませんが、私は当時、それぐらいあなたのことが好きでした。あなたは周囲から、弱くてつまらない男だと思われていたようですが、少なくとも私の前でのあなたは、決してそんなことはなかったのです。あなたは強くかっこいい男性なのだと、私だけは気付いていました。だから、あなたは殺人なんて大それた計画を立てることもできたのでしょう。

 あの時、あなたを突き動かしたものが何だったのか、私には想像することができません。私との関係が嫌だったのでしょうか。私の何かが憎かったのでしょうか。この七年間で、私はたくさん、考えました。たくさん、たくさん考えたのです。

 けれど、答えは今だに分かりません。ただ、あなたは私を殺そうとした、というその事実だけが、私には分かります。それこそ、一番分かりたくなかった事柄なのに、です。

 だからあの時、私は大人しく、殺される被害者を演じました。

 私は、偽造された被害者だったのです。



 あなたが私を殺害するために使った毒薬の残りは、今、私の手元にあります。シアン化ナトリウム。世間では、青酸カリというのが一般的なのでしょうか。あなたにしては、つまらない薬品を使おうとしたものですね。そもそも、あなたと同じ薬学部に所属していた私を相手に、こんな薬品を使おうとしたこと事態に、私は少々驚いています。

 私は、あなたが薬学部に属する某教授の第一実験室の棚から、この薬品を持ち去ったということを、事前に知っていました。何も難しいことはありません。ただ、私は大学で、あなたの姿を見ていたのですよ。あなたが、実験室からこそこそと、人目を憚って出てくる姿を、です。大よそ、あなたはあの教授に好かれていたから、忘れ物を取りにいくとか何とか言って、鍵を貸してもらったのでしょうね。

 しかし、あなたは失敗をしました。いや、そもそも、あなたは隠し事のできない体質なのでしょう。ただ正統な理由で入っただけであるのなら、あなたは堂々としていれば良かったのです。あんなに、背を丸めて忍び足で出て行く必要はなかったのです。あんなに、顔を強張らせ、冷や汗をだらだら流さなくとも、良かったのです。

 それから何日か、私はあなたの動向に気を配っていました。あなたが用意した飲食物には、容易には手をつけないようにしていました。あなたは、それに気付いていましたか。あなたが台所に立つとき、私が必ず、流し台の死角に小さな小型カメラを設置していたことを。

 私に抜け目はありませんでした。もしかしたら、不器用で純情なあなたなんかより、私は加害者に向いていたのかもしれませんね。少なくとも、あなたが私だったのなら、この計画は成功していたでしょう。加害者があなたでなかったか、もしくは被害者が私でなかったのなら、これもまた、計画は順調に進んでいたことと思います。

 しかし、残念ながらというべきか、加害者はあなたひとりでした。また、あなたが狙った被害者も、悲しいことに、私ひとりしかいませんでした。

 だからあの日、私のワイングラスに薬品を流し込むあなたの姿を、私は目撃することができたのです。

 殺される瞬間が、私にとっては一番に怖かった。いくらそのワインに青酸カリが入っているということを分かっていても、いや、分かっていたからこそ、私は脅えていました。寸止めが上手くいかなくて、うっかり一滴でも口に含んでしまったらどうしよう、と私は心臓の動悸を隠すのだけで精一杯でした。

 しかし、どうやらそんなことだけは、神様は私の味方であったようです。私は見事、ワインが唇に触れるか触れないかの瞬間で、グラスをぽとりと机に落とし、あとは恐怖を我慢して、目を瞑りながら横に倒れることができました。

 こうして、あなたにとっての死体が完成しました。

 あなたの計画は、上辺だけでは成功のように見えました。そしてもちろん、あなたにとっても、自分は成功したのだと確信したことでしょう。しかし、その場ではもうひとつ、私の企みも、成功していたのです。

 被害者である私にとっては、あなたに無事に殺されることこそが、あの場における成功だったのです。

 ここでも、あなたは成功後の失敗をしましたね。あなたは私の脈を取らなかったし、よく私の死体を観察することもしませんでした。もし脈に手を当てていたのなら、あなたはまだ、私の鼓動が動いていることを確認できたでしょう。よく表情を見ていたのなら、時折どうしても隠せないわずかな筋肉の微動に、あなたは気付いていたことでしょう。

 けれど、あなたは私を殺したことで、自分の犯した罪をようやく自覚したのでしょうか。まるで物怖じし、肝試しに脅えた人間がその場から逃げ出すような調子で、あなたはすぐに家から出て行ってしまいました。

 証拠隠滅も、完全犯罪も、あったものではありません。あのまま、私がことの一部始終を警察に通報していたのなら、あなたはすぐにでも追跡され、逮捕されていたことでしょう。また、私が本当に死んでいたとしても、その場の状況と聴きこみ調査から、あなたは何日と間を置かずにお縄になっていたことと思います。

 この七年間、赤峰くん、あなたは一度も、不思議には思わなかったのですか。自分がなぜ、今でも一般人として生き長らえているのか。なぜ警察は、自分を捕まえはしないのだと、疑問を抱いたことは、なかったのですか。

 ねえ、赤峰くん。

 あなたは、失敗をしたのです。ある意味で、あなたはあの日の事件における、根本の被害者であったのです。私は今、生きています。信じてください。

 本来の被害者である私は、あなたを騙した、第二の加害者だったのです。



 この手紙の最初に、私は赤ちゃんの話を書きましたね。赤ちゃんは、まだ生後一ヶ月でも、ちゃんと母親が分かるのだという話です。これは私にとって嬉しいことでした。私は娘に、母親として認められているのだと、そんな風に感じました。

 ところが赤ちゃんは、父親の方には、まだそこまで強い認識を抱いていないらしいのです。高彦さんは、休日しか赤ちゃんとスキンシップを取っていないのですから、これは仕方のないことかもしれません。まだ、高彦さんが世話をしようとすると、赤ちゃんは時々泣き喚くことがあります。そんな時、高彦さんは苦笑して、私に赤ちゃんをいそいそと預けます。

 なぜ私が、ここまで手紙を綴った今、また赤ちゃんの話をぶり返すのか。あなたには、分かりますか。

 私の手には、今、あの毒薬があります。

 あなたは、ずいぶんと多くの量のシアン化ナトリウムを、実験室から持ち帰っていたのですね。私に使った分を差し引いても、まだこんなにも余っているのですから。少なくとも、人間ひとり分の致死量程度には、十分に残されていました。それを、台所にそのまま放置して逃亡してしまったあなたの行動は、やはり愚かでしたね。あなたはさまざまな失敗をしました。これも、その内のひとつでしょう。

 ねえ、赤峰くん。

 実を言うと、私は今でも、あなたが好きなのですよ。

 私は一度、あなたに殺されました。あなたは、私に消えて欲しいと願うほど、私を憎んでいたのかもしれません。少なくとも、私に死んで欲しかったことだけは確かです。だから、私はあなたの望みを叶えました。そうして、私はあなたの望んだ通り、あなたとの関係を断ち切りました。

 けれど、そうやって事実上の死別をしてから、私は初めて気付いたのです。私は、自分で思っていた以上に、あなたが好きでした。私があなたを必死で捜そうとした理由は、恐らくそれ以外にありません。私は、あなたにもう一度、会いたかった。私を殺したあなたに、私を殺したいと思うほど憎んだあなたに、私は、再会を望んだのです。

 滑稽だと、あなたは、笑うでしょうか。しかし、これが真実です。

 私は今、幸せです。けれど、あなたが今、幸せであるかどうか、私には分かりません。あなたは今、幸せですか。自分が犯罪者であると誤解をして生きてきた七年間、あなたは、幸せでしたか。

 あなたはまだ、私を憎んでいるのかもしれませんね。今更、私などという過去の死体に、出会いたくはないかもしれません。あなたの中で、私は死んだ人間です。忌まわしい、自分が殺した女です。けれど、私は生きています。あなたの世界で死体である私は、同じこの地で、まだあなたと同じように、人間として生存しています。

 ですから、そろそろ、私たちは、よりを戻すべきではないのでしょうか。

 私たちは長年、被害者と加害者として対峙してきました。けれど、もうそろそろ、この戦いには終着をつけるべきなのだろうと思っています。

 長く、無言の戦いでした。被害者が幸せになり、加害者が不幸になりました。

 だから、今からでも遅くはありません。次は、お互いに、同じ幸せを歩みましょう。

 高彦さんはとてもいい旦那さんです。あなたには劣りますが、私は彼のことが好きです。だから彼は、私が唐突に別れようと言ったところで、決して怒りはしないでしょう。冷静に私から理由を聴き出し、正統な弁論を持って、私を説得しにかかるでしょう。けれど、私は高彦さんを憎んではいませんし、寧ろ好いていますから、その説得にまともに反駁することが、できそうにはありません。高彦さんに優しく説得されたら、私の心はまた、彼に帰ってしまうかもしれません。

 だから私は、あなたが私に残してくれたこの毒薬を、彼に使おうと思います。お隣の石谷さんにも関わっていただき、彼女が罪を犯したことにさせていただこうと思っています。ちゃんと、さまざまな証拠を残します。私は、あなたよりは上手に、こうしたことを行う自信がありますからね。

 あなたに、心配することは何もありません。赤ちゃんはまだ父親を分かっていないようですから、今からゆっくりと付き合っていけば、やがて赤ちゃんはあなたのことを、パパ、と呼ぶようになるでしょう。そうすれば、もう私たちは、離れることのできない家族になります。幸せな、家族になります。誰も、疑いの目は持ちません。

 家族三人で、一緒に公園を歩きましょう。赤ちゃんが大きくなってきたら、動物園だとか、水族館だとかに行ってもいいですね。色々なところに行きましょう。そして、穏やかに日常を歩みましょう。きっと、あなたは良いお父さんになってくれることと思います。娘の運動会の日には、無理やりにでも会社を休んでくれるような、そんなパパになってください。そして、あなたとの第二の赤ちゃんも、もちろん、私たちの手で育てましょう。

 ねえ、赤峰くん。

 あなたは私を、ママ、と呼んではくれますか。


 

 結局、長々と書いてしまい、申し訳ありませんでした。あなたがここまで、飽きずに読んでくれていれば、嬉しいです。

 この手紙が、誰か他の人の手に渡ったときのことを考え、私の実名は伏せてあります。また、この手紙の中に出てくる人の名前は全て、偽名に変えてあります。ただ、あなたの名前だけは、どちらにしろ宛名に本名を書かなければならなかったので、そのままにしてあります。ごめんなさい。

 さて、私はそろそろ、筆を置きたいと思います。ずいぶんと長いこと、手を動かしていました。もう、高彦さんが帰ってくる時間なので、夕食の支度を始めなければなりません。赤ちゃんも、もうすぐお昼寝から目覚めることでしょう。この、安らかな可愛い寝顔を、早くあなたにも見せてあげたいです。そのために、どうか、連絡をください。


 それでは、赤峰くん。

 より良いお返事を、期待しています。

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