世の幸せの総量は

山崎丹生

世の幸せの総量は



   世の幸せの総量は



「――さん、――さん、――さん」

 あ、また抜かされた、と私は気づいた。

 高校三年生の二学期。選択授業のリーディングの時間。

 その時の英語教師はたぶん臨時の教員だったのだが、毎回のように、出欠確認の時、私の名字を呼び忘れた。私は一学期はそのたびに「私の名前が呼ばれませんでした」と自己主張していたのだが、二学期に入ってからもそれが続くと、もう馬鹿らしくなっていちいち教師に進言しなくなった。

 そしてその時、私は、本当にもう、馬鹿馬鹿しくなった。

 教師に名前を呼び忘れられることにも、その事実にいちいち傷つくのも、全部、馬鹿馬鹿しくて、無言で席を立った。たぶん、教室を出ようとしたはずだ。

 教室を出て、どこへかは知らないが、私の名前が呼ばれなくても不思議ではないところに行きたかったのだと思う。しかし、それは果たされなかった。

 席から立って、一歩座席の列の横に踏み出そうとして、私は、自分の息ができないことに気が付いた。どう息を吸えばいいのか、どう息を吐けばいいのか、そもそも呼吸とはどんな運動だったか、すべてをど忘れして、立ち尽くしてしまったのだ。

 私の脳はその瞬間、これまでにないほどのスピードで回転したが、解決策はいっかな見つからなかった。

(どうしよう)(どうしよう)

 視界はぐにゃりと歪み、こめかみの血管が動くのが脳内に大きく響いて、何も考えられなくなる。視界が真っ暗になって、私の意識は、そこで途絶える。

 後から聞いた話では、私は気を失って、保健室に運ばれたそうだ。その時には呼吸は戻っていたというから、意識を手放したことで、体が自然と呼吸法を思い出したのだろう。

 そして放課後まで保健室で寝た後、私は意識を取り戻し、保健医と正常な受け答えをして自力で帰宅した――らしい。

 らしいというのは、その時の記憶が私にはないからだ。

 思い返すと、この頃の記憶はあやふやだ。はっきりしているのは、英語の授業で倒れたことと、保健室で出会った彼女――金森雅美(かなもり・まさみ)の記憶だけ。


 金森雅美と出会ったのは、高校三年生の二学期だ。学校が文化祭準備で賑やかだった頃。

 私はその頃、教室に行くのが馬鹿馬鹿しくなっていて(だから、英語の授業で倒れた後だ)、いわゆる保健室登校の生徒だった。

 高校の保健室は校長室や職員室がある特別棟一階の端にあって、階段のすぐそばだった。

 私は人と話すのが億劫で保健室にすら入れない時、しばしばその階段で時を過ごした。

 その日も、階段でだらだらと時を過ごして、私はいい加減冷え切った自分の体を抱きしめた。紺サージの制服の、着心地の悪いざらざらした感触が気持ち悪かった。

 保健室で温まって、保健医に登校したことを伝えて、今日はもう帰路につこう。

 私はそう考えて、保健室のドアを横に引いた。温かな保健室の空気が私の頬を撫でた。

 そして、保健室の壁の前に並べられたパイプ椅子の一つに、私と同じ制服を身に付けた少女が座っていた。

 日に焼けた小麦色の肌で、短いスカートから細い太ももがむき出しになっている。真っ黒な髪は背中の真ん中ぐらいまで伸びていて、ふたつの細い束にして後頭部でくくっていた。瞳が大きく、白目が濁っていて、ぎょろりとした黒目がこちらを向いた。

 彼女は私を見て、にっこりと笑った。

「こんにちは。何年生?」

 私は彼女を訝しんだ。着崩した制服といい、慣れた化粧といい、彼女が今年入学した一年生とはとても思えなかった。けれど、私と同学年に、こんな少女はいただろうか?

「……三年だけど」

 私が答えると、彼女は表情を輝かせた。

「本当? 私もよ。何組?」

 私がクラスを答えると、彼女は「……頭良いんだ」と呟いて、それから、私に隣のパイプ椅子に座るよう勧めた。私が隣に座ると、彼女は私の左手を手に取って、

「あなた、すごーく色が白いのねぇ」

 と、羨ましそうに両手で私の手の甲を撫でた。私は、その感触に、ぞくっとした。

 たとえ同性相手でも、私は他人との接触に慣れていなかったし、彼女の手のひらの冷たいことといったら、それまで触れた誰よりも、氷のように冷たかった。

 何より、その時初めて見えた彼女の左手――その骨が浮かぶような細さの左手首に、ぐるぐると厳重に白い包帯が巻かれているのを見て、私は確かに恐怖を感じた。

「あら、いたの」

 その時、席を外していた保健医が、ドアを開いて部屋の中に入ってきた。

「ふたり、知り合いだった?」

 書類を机に置きながら、保健医は何気なく尋ねた。

「今仲良くなったの、先生」

 そう言って、彼女は私に名前を言った。

「私、雅美。ミヤビに美しいと書いて、雅美」

 私は自分も自己紹介をせねばと口を開いたが、どうしても言葉が出てこなかった。

「あら、そういえば、ふたりとも、同じ名前ね」

 保健医が言った。

 それを聞いて彼女は嬉しそうに私の手をぎゅっと握った。

「本当? あなたもマサミっていうの?」

 私はぎこちなく頷いたはずだ。

「そう……日を二つ重ねて美しいで、昌美」


 彼女と私が親しくなるのに、そう時間はかからなかった。

 当時、保健室に入り浸っていたのは彼女と私のふたりきりだったし、雅美の人懐っこさには目を見張るものがあった。

 気づくと、私は彼女と昼食を一緒に食べる約束をしていたし、好きな本や歌手をお互い言い合い、本やCDを貸し合うようになっていた。毎朝、彼女に会いに保健室に行って、彼女に会って話したらもう用は済んだとばかりに、教室には立ち寄らずに家に帰った。

「私は頭が悪いから、高校を卒業したら彼と結婚して、専業主婦になるの」

 と、雅美は言った。

「すぐに赤ちゃんも産むの。そうしたら、その子は絶対私の味方でしょう。私は絶対、幸せになるの」

 彼氏どころか友達すら碌にいた経験のない私は、ひたすら彼女に感心して、「すごいね」と伝えることしかしなかった。

「すごいね、雅美は。将来の夢がしっかりしているね」

「ううん。昌美の方がすごいよ。だって●●大学が模試でA判定だったんでしょう?」

 雅美はいつもにこにことして、どこか遠くを見ていて、私はそれが、彼女の夢への強いあこがれなのだと思って、羨ましかった。私は確かに●●大学がA判定だったけれど、県内の国公立で偏差値の高い学部を書いただけだから、夢なんてどこにもないのだった。

「雅美はすごいね」「昌美はすごいね」

 私たちはお互いそう褒め合って日々を過ごして、最後の日も、だから「マサミはすごいね」と言い合って別れたはずだ。正確にいつだったか、どんな日だったかは覚えていない。

 気づいたら雅美は保健室には来なくなっていて、気づいたら二学期は終わり、気づいたら冬休みに入っていて――私の記憶はそのあたり、曖昧だ。

 ただ鬱屈と勉強だけはしていた。それが私の義務だと思っていたからだ。だって、私に他に価値はない。ただロボットみたいに勉強して、大学に合格して、それから――



 父は長男だったので、正月ごとに、親戚は我が家に集まった。

 その正月、私はとち狂ったように勉強していたので、集まりの場にあまり顔を出さなかった。どうして私がその場にいたのか、理由は既に記憶にない。

 その時、親戚中で一番頭が良いと目されていた大学生の従兄が、同性婚を認めるよう政府に訴える運動に参加していると聞いて、伯父のひとりが彼に問うた。

 同性愛者でもないのに、運動にどうして参加するんだい?

 従兄は、日本酒を傾ける杯を空中で制止させて、妙に冷静な口調で答えた。

「どうして僕が同性愛者じゃないと思うんです?」

 一瞬で場が静まる。彼はにっこりと温かな笑みを浮かべて言った。

「高校の時読んだ本に、こういうようなことが書いてあったんです。幸福の形は大方にして一様だが、不幸の形は不幸の数だけある。これって、価値観の多様化している現在では、不自然じゃありませんか。不幸と同様、幸福だって多様であるべきです。それで僕は手始めに、結婚したくてもできない人たちの力になろうと思った。同性愛者の人たちが結婚できるようになれば、本人たちもハッピー。彼らの友人たちも友人が結婚できてハッピー。職場の同僚も彼らの同僚が好きな人と一緒になれてハッピー。家族ももちろんハッピー。誰も損しないじゃありませんか」

 しかし、同性婚が認められれば、少子化が進むんじゃないか。

 その場の親族のひとりが言った。従兄は器用に片眉だけ上げて、

「どうしてです? 同性愛者は異性と結婚するでしょうか。仮に同性愛者が性志向を曲げて異性と結婚したとして、果たして子供が生まれるでしょうか。仮に子供が生まれたとして、その子供は果たして、両親に愛されて育つでしょうか」

 従兄は杯の縁についた水滴をもう片方の人差し指でついとすくって、ぺろりと舐めた。

「同性婚について、こう考えれば、少子化になるなんて意見はナンセンスだってわかるでしょう。同性婚はハッピーしか生まない。世の中の幸せの総量が、増えるだけです」

「幸せの総量?」

 聞きなれぬ言葉に、私は口に出して、首を傾げた。従兄は私に優しく流し目をくれた。

「そう、幸せの総量。僕は、世の中の幸せの総量が増えるよう行動することを自分に課してる。まず第一は自分の幸せ。自分は何がしたいか、何が望みかを考える。何が望みかがわかったら、それを叶えるよう行動する。自分がしたくないことは絶対にやらない。そして、自分がやりたいわけじゃないけれど、やってもいいと思える行動では、世の中の幸せの総量が増えるよう、行動する」

 従兄の瞳は確信に満ちて、自分のこの意見は正しいと心から信じている様子だった。

 幸せの総量。

 私はこの聡明な従兄弟の、判断の基準が気になった。

「幸せの総量が増える行動は、どこで決めるの?」

 従兄は少し首を傾げてから、

「その場で一番弱いものが幸せになること、かな」

「その場で一番弱いもの?」

「そう。なんたって世の中は弱肉強食だからね。弱い者の数が一番多いんだよ。だから、彼らが幸せになれば、世の中の幸せの総量は増えるだろう?」

 従兄はやさしく微笑んだ。私はこの聡明な、心優しい、正しい性根の従兄を持ったことを、心の底から誇りに思った。

 その夜、私は自分のベッドに横たわり、考えた。

(この家庭――父、母、兄、私の中で、一番弱いものは?)

(私だ)

(じゃあ、私は、今、どうしたいんだろう?)

 答えは、考えるまでもなく、目の前にあった。

 


 私の父と母は聡明で賢明な人間だったので、今年は受験を止めて休みたい、という私の希望を、慈しみと憐れみを持って受け入れた。心療内科への受診も勧められたが、それは私が断った。そこまで重度ではないと思っていた。

 ただ兄だけは、私が受験を棄権したことを理解できないらしく、あとほんの少し頑張れば合格できるのに、と訝しんだ。合格した後に休学でもなんでもすればいいのに、お前は馬鹿だ、と。馬鹿でけっこう、と私は思った。

 高校の教師たちも同じことを私に言ったが、私の意志は固かった。馬鹿でけっこう。愚かでけっこう。

 ただ、休みたかった。休んで、一日中、意味もなくベッドに寝転んでいたかった。

 その後、いつの間にか高校を卒業していて、私は無職という人間になっていた。

 兄は大学を卒業し、就職して家を出て独立し、私は数年を無職のまま過ごした。

 両親は私に働けとは一言も言わなかった。

 だが自立はしてほしかったらしく、ある時、家を出るように勧められた。

 家賃と生活費は出す。きちんと朝起きて夜寝て、自炊して規則正しい生活をするように。それ以外は、好きにしてよい。

 私はそうした。世の中の幸せの総量を考えたからだ。両親は私に自立してほしい。この家庭で一番弱い立場の私は、別に一人暮らしも自炊も苦ではない。そして、両親の希望通りに行動して、両親を満足させたい欲はあるのだ。

 どちらも不幸になっていない。ウィンウィンだ。



 金森雅美が私を突然訪ねてきたのは、一人暮らしを始めて数か月後のことだった。

 いったい誰から私の消息を聞いたのか。暑中見舞いを出した高校時代の保健医からだろうか。

 相変わらず、骨の浮かぶような細さの手足に、背中の真ん中あたりまでの長い髪。服装はもう秋の声も聞こえようというのに真夏のようなタンクトップとショートパンツで、足元に人ひとり入りそうなサイズのボストンバッグを置いている。そして、驚いたことに、彼女はひとりではなかった。アパートの金属製のドアの向こう側、骨と皮のような細身の足のその太ももに、幼い少女がしがみついていた。

「昌美? 全然変わらないわねぇ! 久しぶり!」

 と、雅美は言った。私は驚きに目を見張りながら、それでも、

「……久しぶり。突然、どうしたの?」

 と尋ねた。

 雅美は答えず、太ももにしがみついている幼女の小さな両肩に手を置いて、彼女を私の前に押し出した。

「この子ね、玲都羅(れとら)っていうの。私の娘よ。かわいいでしょ?」

 れとらちゃんは細い髪を後頭部でふたつにくくっていて、栄養状態が良いのか年の割にふくよかで、ぱんぱんに膨らんだ体をやや丈の足りない黄色いワンピースに包んでいた。見た目二、三歳くらいで、鼻は低く、眉は細く、白目が印象的なくらい白くて、黒目を落ち着かなくあちこちに動かしていた。

「……かわいいね」

 私は玄関でしゃがみ、れとらちゃんと目を合わせて、雅美の言葉に頷いた。こちらが目を合わせようとしているのにれとらちゃんはちっとも私を見てくれなかったが、母親に頭の後ろを押されると、私に気づいたのか吸い込まれそうな黒目でじっと見つめて、鼻の穴を膨らませて息を吸った。

「あがっていい? 駅からずいぶん遠い所に住んでるよね。もうくたくた」

 雅美はドアをぐいと開くと当然のように私に身を寄せてくる。私はやや面喰いながらも、体を横にどけて彼女たちを部屋に通した。

 私の中の常識が言う。”かつての友人が訪ねてきたら親切に応対するのが普通”

 一方で、こうも言う。”長い間、連絡も取っていなかった友人が家を訪ねてきた場合、トラブルを持ち込まれる恐れがある”

 しかし、私は彼女たちを邪険にできなかった。幼い娘を連れたかつての友人が、引っ越しかと思うような大荷物を持って訪ねてきて、どうして冷たい態度を取れるだろう?

 それは、世の中の幸せの総量を減らすことだ。

 私はテーブル代わりにコタツを置いたリビングに彼女らを通し、麦茶を出した。

 れとらちゃん用にストローを出すと、彼女は赤いストライプの入ったストローを嬉しそうにコップに突っ込んだ。

「ここ、ひとりで暮らしてるの? ちゃんと片付いてるね、さすが昌美」

 雅美は出された麦茶を一口飲み、私の部屋の様子をひとまわり眺めてから、そう言った。

 雅美は爪に赤いペディキュアを施した裸足を座布団の上で胡坐に組んで、れとらちゃんを脚の上に座らせていた。れとらちゃんはそれがいつものスタイルなのか、平然と母親の上に座っている。

「仕事は何をしているの? 平日の昼間に部屋にいるってことは、在宅?」

 雅美は立て続けに質問を重ねる。

 私はどこか、怖かった。彼女の白目が赤く濁っていて、黒目が吸い込まれるように黒くて、荒れた肌も、むき出しの細い肩も、何もかもが恐かった。

「ねぇ、昌美」

 雅美が、猫のように目を細めて、言った。

「私たち、行くところがないの。しばらく泊めてよ。一人暮らしなら、ちょっとの間くらいお世話になっても平気でしょ?」

 私は考えた。この部屋の中で一番弱いもの。世の中の幸せの総量。

 頷く以外の選択肢を、どうして思いついただろう?


 私が働いていないと知ると、雅美は私の生活の詳細を知りたがった。

 しかし、私は一風変わった生活をしているわけではなかった。

 朝は六時半に起きて、家の周囲を散歩する。朝食の後は、家事を片付けて、十時になったら近所の喫茶店へ行き、コーヒーを一杯注文して、新聞を読んだり、持ち込んだ本を読んだりする。十二時になったら家で昼食を取り、図書館に行って本を数冊借りる。帰りに商店街に寄り、食料や身の回りのものを買う。帰宅したら借りた本を読んで過ごし、四時になったら、また、家の周囲を散歩する。六時から夕食を作り、食べ、お風呂に入ったりテレビを見たりして、夜十時になったら寝る。

 食生活は喫茶店のコーヒー以外基本自炊だし、必要な物以外はあまり買わないので、両親から振り込まれる生活費だけで、十分生活できる。

「あれは?」

 雅美は、リビングの隅の棚の上にある、小さなノートパソコンを指さした。

「……たまに、母や兄からパソコンの仕事を頼まれるから。あと、メールとか」

 私が答えると、

「じゃあ、ネットもできる? 私、スマホの容量やばくて、ネットにつなげられないのよ」

 雅美はバッグからスマートフォンを取り出す。

「あ、ないと不便だし、ライン交換しよ?」

 私は首を振った。

「スマホ持ってないから、できない」

「えぇっ?」

 雅美は大げさにのけぞった。

「マジ? じゃあどうやって家族と連絡とってんの?」

 私は無言でパソコンを指す。メールやスカイプで、家族とのやり取りは十分できる。家族以外とのやり取りは私には必要ないから、携帯電話もスマートフォンも持っていない。

「げぇ、すごすぎ……」

 雅美は絶句する。

「まぁま、おなかすいた」

 れとらちゃんが雅美に話しかけた。彼女がしゃべったのはそれが初めてだ。鼻にかかった、子猫の鳴くみたいな声だった。

「あ、ごめんねー。昌美、台所借りていい? 冷蔵庫のもの使っていい?」

 雅美は猫なで声でれとらちゃんに返事をすると、私に矢継ぎ早に許可を求めた。

「私も料理できるよ、作ろうか?」

 と言うと、

「ちっちゃい子が何食べるかわかんないでしょ。これから世話になるんだし、私が作るよ」

 と答えて、さっさと台所に立ってしまった。

 コンロが一口しかない狭いキッチンで、それでも雅美は手際よく料理を作った。

 冷凍うどんを解凍して、ベーコンとネギと顆粒出汁としょうゆで味をつけて、焼うどん。ジャガイモと豚肉で肉じゃが。ニンジンを甘く煮てグラッセ。

 雅美はそれらを柔らかく料理して、小さく切って、広めの皿にお子様ランチのように配してれとらちゃんの前に出した。

「れとらの箸は持ってきたんだ」

 彼女はそう言って、ボストンバッグからキティちゃんの柄の箸が入ったケースを取り出した。れとらちゃんは箸を渡されて嬉しそうに歓声を上げ、小さな手を合わせて「いただきます」をしてから、右手に箸を持ってご飯を食べ始める。

「私らも食べよー」

 雅美は二人分の焼うどんその他も配膳して、れたらちゃんの隣に正座して座った。

「いただきます」

 目を閉じ、丁寧に両手を合わせて挨拶する様子に、あぁ、やはり彼女は雅美なんだ、と私は思った。高校時代、保健室の小さなテーブルで、私たちはお弁当を広げた。彼女のお弁当はいつもミニトマトと玉子焼が入っていて、「ママが私の大好物をいつも入れてくれるのよ」と、彼女はよく自慢していた。その時も、彼女はこうして食べる前に、手を合わせて「いただきます」をしていた。

 ほわっと、睫毛に湯気がかかるのを感じて、私は目の前の皿を見た。作りたての焼うどんが、ほかほかと温かそうに、そこにあった。オレンジ色のニンジンのグラッセも、肉じゃがも、器に盛ってテーブルの上にあった。

 私は、それらが作れないわけじゃない。今までに作ったことがないわけじゃない。

 それでも、自分以外の誰かが作った料理が食卓に上るのを、もうずいぶんと、見ていなかった。

 私は箸を持つ。目を閉じて、両手を合わせて、「いただきます」と言う。

 雅美と会わなくなって以来、初めての、「いただきます」だ。



 幼い女の子というのは、こんなにもかわいらしく、こんなにも手がかかって、こんなにも無条件の信頼を寄せてくるのかと、私は日々痛感した。

 雅美は数日して生活が落ち着くと、この地域のハローワークに通いだし、日雇いの派遣バイトにも登録して、積極的に金を稼ぎ始めた。

 当然、その間のれとらちゃんの面倒は、私が見ることになる。

 最初は雅美にべったりだった彼女も、数日の間に私を、面倒を見てくれる大人のひとりと認識したらしく、雅美がいない間は、今度は私にべったりとなった。

 押し入れの襖に寄りかかり、図書館の本を読んでいると、いつの間にか、彼女がじっとりと恨めしそうな目で私を見ている。

 そこで本を横において足を開くと、満足したような表情で、私の体を背もたれにちょこんとそこに座り、嬉しそうに体を横に揺らすのだ。

 時には歌詞の聞き取れない鼻歌を歌い、私にも歌うようせがむ。私はアニメの主題歌なんかわからないので、適当に歌ってごまかすのだが、彼女の慧眼はそれをすかさず見抜いて、「ちゃんと歌って!」と訂正を要求する。

 幼い女の子というのは、大変だ。

 嫌いな食べ物はがんとして受け付けないし、お気に入りのおもちゃが見つからないだけで大泣きするし、毎日同じ時間にアニメを見ないと昼食も食べないし昼寝もしない。

 なんて、本当になんて、かわいい生き物なんだろう。

(こんな生活がいつまでも続くはずがない)

 最初の違和感は、単発バイトの仕事帰りに、雅美がスターバックスのコーヒーを買ってきたことだった。いくら世間知らずの私でも、そのコーヒーが四、五百円で買えないことはわかる。ホイップクリームがたっぷりで、チョコレートソースもたっぷりの、砕いたクッキー入りのそれを、雅美は「おみやげだよ」と言って、私の分を含めて二個買ってきた。

「昌美には、お世話になってるからさー」

 頬を染めて笑う彼女に、私は腹の底が冷えるのを感じた。

(そういう問題じゃない)

 お金のないシングルマザーが、お世話になっているお礼だとか、そういう理由で買うものじゃない。私はコーヒーは近所の喫茶店の四五〇円ので十分だし、雅美からお礼なんて貰いたいと思ってはいないのだ。それより、もっと……。


 一度違和感を持つと、それは雪崩の起こった斜面のように生活のあちこちの違和を露出させた。

 増える一方で、整理もされず、部屋の一角を占領し続ける雅美の荷物。

 いつの間にか増えているれとらちゃんのプラスティックの食器と、買った覚えのない高級そうなケーキ皿。

 しばしば撮影される食卓上の写真は、必ず大人一人と子ども一人分の手の込んだ料理を映している。

 雅美の外出は増えているのに、彼女の説明はしばしば矛盾を伴った。面接に行くと言った日に仕事で疲れたと言って帰ってくる。工場のバイトに行くと言ったのに、ヒールの靴で出かけていく。

(でも、れとらちゃんのことを常に気にしているし、家事も手伝ってくれる。ご飯を食べるときは、『いただきます』をちゃんとする)

 彼女は変わらない。変わったのは環境の方だと、自分に言い聞かせ続ける。

 ある日の夜、れとらちゃんが眠った後、雅美は帰ってくるなり、「はい」と私に箱を放り投げた。有名な通信会社のロゴが入っている。私は「何?」と彼女を見上げた。

「スマホ。ないと不便じゃない、私も昌美も。料金は私が払うから、使ってよ」

 私は慌てた。

「そんな、使えないよ。私はなくても十分やっていけるから、お店に返して――」

「昌美にスマホがなくちゃ、私がやっていけないのよ」

 彼女には珍しく、強い口調だった。

 雅美は疲れた様子だった。目が充血して、肌が荒れて、唇がさかむけていた。細い髪の毛は艶がなく、着ている尺の合わないスーツは毛羽が立っていた。

「……ごめん」

 思わず謝っていた。何に謝ったのか、自分でもわからなかった。

 雅美はそれを聞いてはっとした様子で、

「ごめんじゃないの。こっちこそごめんね」

 と、謝った。瞳が落ち着きなく揺れて、目尻に涙が溜まっていた。

「ちがう。私が謝ったのが悪かった」

 私は反射的に彼女の謝意を否定した。それが彼女を余計動揺させた。

 私たちはごめんごめんとお互いに謝りあって、夜が更けた。

 なぜだろう、高校の頃とはまるで違う。あの頃はお互いへ、すごいすごいと言えたのに。



「お前、それ、大丈夫なのか?」

 パソコン画面の向こうで兄が言った。

 私に似て色が白く、私に似ず社交的で、現在はアメリカでアート作品を日本に紹介する仲介業を営んでいる兄とは、数週間に一度スカイプする。兄のNY時間に合わせて真夜中に。

「大丈夫って、何が?」

 私はわざと首を傾げる。案の定、兄は眉をしかめて、

「その金森って女はちゃんと金を稼いで、貯めてるんだろうな? お前に娘を預けて、遊びまわっている可能性もあるぞ、それ」

 休日ゆえ整髪料をつけていない兄の髪は寝癖であちこちがはねていて、しかし意志の強そうな眉と両の瞳はまっすぐにこちらを向いていた。頑強で真っ当。兄はそういう人間だ。

「雅美は、そういうことをする子じゃないのよ、お兄ちゃん」

 私は雅美を擁護する。

「まぁ、お前が信用しているならいいが、金と仕事の話はしたほうがいいぞ。何月ぐらいをめどに就職を考えているのかとか、今まで世話になった分の金はどう返すつもりなのかとか、就職した場合、子供の面倒は誰が見るのか、とか」

 兄は至極もっともな意見を言う。

「お前が金を稼いでふたりを自分で養っている、っていう状況なら、こんなこと言わないんだが、お前の生活資金はうちの親が出しているんだからな。親父もおふくろも、赤の他人のために金を出しているわけじゃないぞ」

 私は自分の顔が暗くなっているのを感じていた。

(知っている。知っていたし、お兄ちゃんに話したら、そう言われるのはわかっていた)

(でも、話さないと。話して、正しいことを言われないと。私はこのまま、ずるずると間違っていってしまう――)

 スマートフォンが震えた。私がスマートフォンを持ったことはまだ雅美しか知らないから、それは雅美からの着信だ。私は兄に言った。

「れとらちゃんが起きちゃったみたい。様子見てこなきゃ。今日はもう寝るね。おやすみ」

 兄は心配そうに、しかし諦めたように頷いて、「おやすみ」と返して通話を切った。パソコン画面が暗くなる。私はスマートフォンの画面を確認した。雅美からラインだ。

『ホテルK二〇三号室に来て。大事な話があります』

 私は時計を確認した。二十四時を過ぎている。帰宅が遅くなるとは聞いていたが、さすがに遅すぎないだろうか。大事な話なら、れとらちゃんが寝た後に家で話せばいいのに。

 私はそう思ったが、しょうがないと諦めて着替えて家を出た。

 れとらちゃんが起きる前に、雅美を連れて家に帰らなくては。大事な話らしいが、さっさと終わらせて帰ろう。


 ホテルKは駅前のビジネスホテルだった。フロントは無人で、チェックアウトの時はキーをボックスに入れて返却すれば事足りるらしい。

 エレベーターで二階に上がり、二〇三号室を見つけてドアをノックすると、雅美の声で「どうぞ」と返答があった。ドアを押すと開いたので、声をかけながら部屋に入る。

 雅美はスーツのジャケットを脱いだブラウス姿でベッドに座っていた。下半身はジャケットに合わせたスカートのままで、肌色のストッキングに、スリッパは履いていない。

「雅美、大事な話って――」

 話しかけて部屋に全身が入った時、あり得ない速度で背後のドアが閉まった。疑問に思う間もなく、いきなり背後から口をふさがれて、何者かに抱き着かれる。

 訳も分からないままベッド上の雅美を見上げると、彼女は無表情で、男に押し倒される私を見ていた。

「思ったより、かわいいじゃん」

 三十代半ばと思われるその男は、上下ともにジャージ姿で、お世辞にも身なりがいいとは言えなかった。太った肉の感触は鍛えられているわけでもなさそうだったが、のしかかってくる男の重みは私を拘束するのに十分だった。

「これで処女か。高い金払った甲斐があるわ」

 男はにたりと笑う。私は口を押えられたまま、意味を悟って全身が硬直した。

 助けを求めて雅美に視線をやると、彼女は目の奥に激情を秘めて私を見つめ、しかし、助けようとするそぶりはみじんも見せなかった。

 男は嬉しそうに私のトレーナーとブラウスをまくり上げる――と、むき出しになった裸の腹を見て、うえ、と苦々しげな声を出した。

「何コレ、自分でやったの?」

 言われるまでもなく、男の言葉が何を指しているのか、私にはわかった。

 白い腹に広がる無数の直線の傷跡は、すべてが平行で、あるいは太く白く、あるいは赤く細く、特定の意志によって傷つけられたのが明白だった。

「グロ。萎えた。帰るわ」

 男は乱暴に私の服を下ろして傷跡を隠すと、のったりと立ち上がって、ドアを開けて帰っていった。ドアがゆっくりと閉まる音。

 ホテルの客室には、わたしと雅美だけが残された。

 私は上半身を起こして服を整えた。雅美の方を見る勇気は見なかった。

 私の両親は、聡明で、賢明だった。

 だから私が初めてリストカットしたとき、どうせ切るなら、見えない部分を傷つけろ、と助言した。

 私の両親は、聡明で、賢明だった。

 だから、私が「受験を辞めたい」と口に出して言うその日まで、私が自分を傷つけながら勉強していても、風呂場のバスマットに落ちたその血を陰で洗剤で洗い落しながらも、私に勉強をやめろとは言わなかった。

 私の両親は、聡明で、賢明だった。

 だから、とうに学校を卒業している私が、何もしている様子がないと、近所で噂になり始めたその日に、私に一人暮らしするように促した。

「――どうして?」

 声がした。見上げると、ベッドの上で、雅美が、わなわなと顔を震わせながら、鬼のような形相で私を見ていた。

「どうして昌美が”かわいそう”なの? 昌美の方が、すっごく”幸せ”じゃん。親に愛されてるじゃん。毎日お弁当作ってもらってたじゃん。制服にきちんとアイロンかかってたじゃん。今だって、働いてもいないのに一人暮らしさせてもらって、生活費全部、親に出してもらってるじゃん」

 濁った眼から、ぼろぼろと涙がこぼれて、雅美はそれも拭こうともしなかった。

「なのに”かわいそう”なの? ――”ずるい”、よ?」

 今度は私が、雅美が感情をむき出しにするのを、無表情で眺めていた。

 本当は、知っていた。

 母親に愛されている娘が、お弁当に腐りかけのミニトマトを入れられるはずがないことくらい。

 家族に気にかけられている娘が、分け目をぐちゃぐちゃにして後頭部で髪の毛をくくっているわけがないことくらい。

 頭が悪いから高校時代の彼と卒業後すぐに結婚して、自分の味方が欲しいからとすぐに子供をつくって――そんな考え方で幸せになれるはずがないことくらい、知っていたのだ。

 だって、私より”かわいそう”な女の子が、世の中にひとりくらいいてもいいじゃないか。

「帰る。れとらを連れて、出ていく」

 さんざん泣いた後、雅美はぽつりとそう呟いて、ベッドを下りた。 

 ストッキングに包まれているはずなのに、細い両脚が真っ白に見えた。

 雅美は壁にかけてあったジャケットを身に付け、入り口近くにあった鞄を拾い――ごとり、と外側のポケットに入っていたスマートフォンが私の見える位置に落ちた。

 画面にひびが入り、見るからに長く使っている様子のスマートフォンに、フォン、と音がしてラインが届く。

 デフォルトのままのアイコン。画面に映し出されたおぞましいメッセージ。

『幼女のヌード写真、料金の件、了解です』

 どんなに雅美が素早くスマートフォンを拾い上げても、私の網膜に焼き付いたメッセージは消えなかった。

「何してるの?」

 私は尋ねた。

「雅美。”なに”をしようとしているの?」

 私は思った。 

 幸せの総量。

 世の中の幸せの総量を増やしたかった。

 そうすれば、ひとりぼっちの女の子の不幸を願った自分から逃れられる気がしたから。

 でも、逃れられやしなかった。逃れられるはずがなかった。

 それどころか、たったひとりの女の子を不幸を願うことで、もっと多くの女の子を不幸にしようとしている。

「昌美には、わかんないよ」

 雅美は吐き捨てた。拾い上げたスマートフォンを鞄にしまって、置いてあったパンプスを履いて、ホテルの部屋から出ようとする。

 脇を通り抜けようとした彼女の腰に、私は追いすがった。

「私が育てる!」

 それは、自分でも無理だと分かり切っている言葉だった。

「私が育てるから、れとらちゃんを育てるから。雅美は自分のことだけ一生懸命やればいいから」

 それでも、必死だった。

「だから出て行かないで。一緒にいて。私をひとりにしないで」

 必死で、縋り付いて、だから私は雅美の顔色が変わったのに気づかなかった。

「昌美まで」

 私を見下ろす、彼女の蒼白な、顔。

「――私かられとらを取り上げるの?」

 こめかみに衝撃があった。

 カーペット敷きの床に倒れた私の視界の端で、スマートフォンがカーペットに落ちて音もなくバウンドする。

 まるで金づちで殴られたかのような衝撃に、私はベッドの方まで転がった雅美の鞄を見た。側面に金具がついていて、開いた口から履歴書や面接のハウトゥを書いた分厚い書籍がのぞいていた。

「まさ」

 彼女の名前を呼ぼうとすると、私の顔に影がかかった。床に倒れたまま見上げると、私に覆いかぶさって、部屋に付属の丸椅子を振り上げる雅美の姿があった。

「み」

 彼女の名前を呼び終わったのと、私に椅子が振り下ろされたのと、どちらが先だろうか。

 痛みと衝撃が続き、私は意識を手放す。

 最後に思ったのは”幸せの総量”という言葉だった。

 私は、世の幸せの総量を、少しでも増やせただろうか?


了 

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世の幸せの総量は 山崎丹生 @newyamazaki

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