落下する彼女は、両手から”鉄条蔦”を繰り出す。右手の蔦で、一足先に落下した理楽をとらえて、左手は上、飛び出してきた部屋のベランダに向かう。

 蔦がベランダの手すりに巻き付き、ラペリングロープのように、ふたりの体重を支えた。

 がくん、と左腕に強い衝撃。脱臼しそうな痛みに顔をしかめる。

 下を見れば、地上まで数メートル。眼下には低い庭木が茂っている。ソフィアは”花”を解いて、そのまま地面に飛び降りた。

 庭木の枝がふたりを迎える。ばきばきと何本もの枝葉を砕きながら、ソフィアと理楽は枝振りの真ん中あたりで止まった。

 息つく間もなく、ソフィアは枝をかき分けるようにして抜け出して、地面に降りた。太股の傷がふたたび痛んで、顔をしかめる。が、よたよたと後から跳び降りてきた理楽は、ソフィアよりもずっとひどい様相だった。鼻は曲がり、額からは血を流し、立っているのも危うい有様に見えた。

 しかしここで息をついてもいられない。上にいる連中が追いかけてくるかもしれないのだ、と、ソフィアはビルを振り仰ぎ、眉をひそめた。


「……あれは?」


 割れた自室の窓から、何かが這いだしていた。細い縄のようなものが窓枠にからみつくように、上下左右に延びていく。みるみるうちに枝分かれし、太さを増して、やがてあっという間に窓そのものを覆い尽くすほどに膨れ上がった。


「音々さんの?」


 ”花”だ。考えてみれば、そうに決まっている。けれど、抑えを外されたかのような成長の速さと無秩序さに、これまで見てきた”花”とは異質なものを感じた。

 黒い夜空を背景に、灰色のビル壁をよじ登るように成長していく太い枝葉に、ソフィアはつかのま、目を奪われた。


「ソフィちゃん、逃げよう」


 理楽に言われて、はたとソフィアは振り返る。一瞬、彼女の脳裏に計算が走る。もしもあれが、音々の最後の奮戦であるなら、それを無駄にすべきではない。逃げ切らなくては、彼女の努力を無にすることになる。

 万が一、そうでないのなら、それはもうソフィアや理楽の手に負える事態ではない。


「……ええ」


 歩き出そうとして、右足に痛みが走った。顔をしかめつつ、ソフィアは自分の”花”で右足をきつく縛る。これでともかく出血は止まるし、ギプスのように支えになってくれるだろう。


「理楽さん、歩けます?」

「なんとかね……」


 やせ我慢めいた笑みを浮かべて、理楽はソフィアと並ぶ。その横顔は相も変わらず血塗れだったが、潰れていた鼻筋はいくぶん、もとの丸っこさを取り戻しているかに思え、記憶の中にあるふだんのソフィアの表情と、同じ印象を感じさせた。

 陵辱された理楽の衣服は、上も下も引き裂かれてずたぼろだった。冬の夜風をしのぐにはあまりに心許なく、見ているソフィアの方が凍えてしまう。


「服、貸しましょうか」

「いらないよ。ソフィちゃんこそ、あったかくしてた方がいい」

「私は……」

「いいから」


 ぽんぽん、と、理楽はやわらかくソフィアの背中を叩いた。彼女の手つきは、いつも部屋でじゃれ合うときと変わらない、ソフィアにとってあまりに心地よい強さだった。

 鈍い悲しみに胸を突かれながら、ソフィアは、理楽の前に立って歩き出す。常緑の庭木が茂る前庭を通り抜けて、風雨の跡も残さず磨き上げられたタイルに沿って、表門に出て行く。静まりかえった夜は、ソフィアたちのくぐり抜けた修羅場のことなど知らぬげに、橙色の窓明かりに点々と照らされているばかりだった。通りかかる人影もなく、ソフィアと理楽は、冷え切った夜風の前に立ちすくむ。部屋着のまま飛び出したふたりを、寒気は鋭く責め苛んでくる。


「ソフィちゃん、行くあて、ある?」

「……一応」


 気が進まないが、他に手段はない。詳らかには分からないが、ともかく、五十嵐は彼女の敵になった。佐風会すべてが彼と同じとは限らないが、頼りにはできない。

 この街の下層を覆う巨大な暴力が彼女たちを追う。そこから逃げるためには、もっと強い大樹の陰に逃げ込むしかなかった。

 小釘でも最大の規模を持つ企業、手嶋物産グループの社長。佐風会とも密接につながり、この街の政治・経済・司法、あらゆる領域に権力を及ぼす人物。すなわち、ソフィアの父親。

 五十嵐を娘のボディガードにつけたのも、父の要望だった。五十嵐の暴走を抑止できるのは、その彼しかいない。


 歩き出しながら、ソフィアは懐からスマートフォンを取り出した。夜闇の路上に、画面の明かりが浮き上がる。しばらく使っていなかった連絡先を呼び出す。コールは、いやになるくらいに長く感じた。

 電話の向こうから聞こえた懐かしい声は、


『なぜ、お前が電話してくる?』


 ひどく冷淡で、かすかに怒りさえにじませているかのようであった。いつでも感情を抑制し、理知的に事に当たるこの大人物において、それは、稀にみる激情の表現なのだった。


「パパ?」


 呼びかけるソフィアの声には、自然、困惑が混じった。


『五十嵐はどうした?』

「それなの、パパ。あいつが」

『いっしょにいないのか?』


 なぜ、父はこんな、まるでソフィアを糾弾するような口調で問いつめてくるのだろう。戸惑いと焦りが、しだいにソフィアの頭を浸食してくる。ソフィアの呼吸が速まる。どうにか落ち着きを繕いながら、


「あいつ、私を、裏切ったの。友達を撃って。私をさらうって。だから、逃げてきたの」

『なぜだ?』


 思いもよらない反問だった。


「なぜ……って」


 電話越しだからだろうか。彼女がこんな寒空に逃げ出してさまよっていることが、父に伝わっていないのだろうか。この寒さを、この寂しさを、彼は知らないのだろうか。


「だって、」


『バカなことをしたものだ。おとなしく捕まっていればよかったものを』


 ソフィアののどから、柔らかい生き物の潰れるような、音が漏れた。いいかけた言葉が形にならないままに雲散霧消し、圧殺された感情だけが吐き出されたみたいだった。


『お前の身柄を引き替えに、佐風会にいくつかの利権を譲渡する。お前に預けたビルも含めて。それを手切れ金として、佐風会との関係を切る。そういう手筈だ』


 続く父の声は、あまりに平板すぎて、意味のない雑音のようにさえ感じられた。けれど、ソフィアの頭の片隅に残る聡い理性は、それを咀嚼し、理解する試みをやめない


『そのうち国の監査が入る。反社と関係を続ければ、手嶋の事業にも支障が出る。向こうは向こうで、アジアのビジネスに注力したいらしい』


 こんなふうに、からくりを説明してくれることが、父の精一杯の優しさなのかもしれない。

 吹きつける寒風に顔をしかめながら、ソフィアは懸命に、言葉の意味を呑み込もうとしていた。右足の銃創より、五十嵐に打擲された頬よりも、父の声音の残酷さが深く深く彼女の体に食い込んでいくのを、必死に阻止したかった。

 でなければ、とうてい、やりきれない。


『だが、社でも佐風会でも、保守的で頭の固い連中がのさばっている。それを黙らせるために一計を案じた』


 父の声が、ふいに、低くなる。


『街で暴れているガキども。お前の仲間だ』

「――違います! 私は、」


 荒らげた自分の声が、もはや枯れ果てているかのように思われて、ソフィアは言葉を継げない。


『事実でなくとも、佐風会はそう認めた』

「……!」

『お前を潰して佐風会は面目を保つ。お前を襲ったという理由で手嶋は佐風会を切る。どちらもが納得できる結末だ』

「そうしたら、私は、」


『お前が逃げたらすべて台無しだ。まったく、バカなことをしてくれた』


「そんなの……」


 なにもかも、父親と佐風会の都合だ。どちらも相手を切りたがっているのに、くだらない派閥争いのせいで、面目を保つために、こんな茶番を仕組む必要があった、ということだ。

 たかが茶番で、ソフィアは撃たれ、理楽はレイプされ、音々は……きっと死んだ。

 彼女たちの体と、尊厳と、命さえ犠牲に、やることがただの手打ちか。


『いまからでも五十嵐のところに戻れ。抵抗したふりくらいすればいい。それで元の鞘だ』

「お断りです!」


 五十嵐の目と、声に満ちた狂気を思い出す。あの男はもう、ソフィアの知っている彼ではない。彼の手に落ちれば、ソフィアも、理楽も、なにをされるか分からない。それほどに彼は”花宿り”を憎悪している。


『なら、話は仕舞だ。せいぜい逃げろ』

「待ってパパ!」


 ソフィアの声に、通話の切れる無機質な音が重なった。

 耳にスマートフォンを押しつけて、ツーツーと無情な音を聞きながら、ソフィアは頭の片隅で父の態度の意味を解き明かそうとしていた。


 手嶋でソフィアを匿えば、佐風会の面目は潰れ、取引は破談だ。だから決して父はソフィアを助けない。父がソフィアに望むことは、おとなしく五十嵐に捕らわれること。あるいは逃げることか。ソフィアを襲った事実があれば、手嶋は佐風会に強く出られる。佐風会も、襲撃の結果だけあれば最小限の意地は通せるだろう。

 その交渉に、ソフィアはいなくてかまわない。

 邪魔になるくらいなら、逃げて野垂れ死ね。そう言われたのだ、と、ソフィアはようやく、腑に落ちた。


「ソフィちゃん?」


 目の前に、理楽の姿がぼんやりと浮かんでいた。その瞬間までソフィアは、自分がいつの間にか足を止めていたことに気づいていなかった。

 理楽の唇は、凍えて青ざめている。彼女の瞳は、もうすっかり赤く染まったまま戻らない。むき出しになった襟首に鳥肌が立って、見ていられないくらいだった。

 そんな、見るも哀れな様子の理楽が、ソフィアに向けて問いかけた。


「ソフィちゃん、ひどい顔」


 スマートフォンが手から落ちて、真っ暗な道路をつるつると回転しながら滑っていく。割れた液晶画面から発する青い光が、底のない夜空へと落ちていくみたいだった。

 その瞬間の、自分の顔がどんなふうだったか、ソフィアには分からない。

 ただ、泣き出すことさえできなくて、


「あうっ……」


 ひきつった声だけが口から漏れた。声を出すための筋肉と骨格に、まったく力が入らなかった。体を支えていたねじがいっぺんに外れて、ばらばらになっていく瞬間に、自分はいるのだと思った。

 私はただの機械人形にすぎなかった。

 背中を丸め、崩れ落ちそうなソフィアを、理楽がうつろなまなざしで見つめている。ふたりは向かい合ったまま、ひとことの声さえかけられず、ただ、夜闇に溶けかけた互いの様と相対する。

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