ソフィアは無言で、理楽の瞳を見つめている。距離は十センチほど、まるで恋人のような間合いだ。しかし、ふたりはそれ以上接近するでもなく、ただお互いを無言で観察している。

 そうして、ソフィアはようやく確信を抱いた。理楽の目の色は、以前よりもずっと緑がかって、トルマリンのような色合いを帯びている。


「なるほど。おっしゃるとおりですね」


 ソフィアはつぶやいて、すっと理楽から退いた。


「でしょ? ソフィちゃんも変」

「表現を省略しすぎではありませんか?」

「ちょっと青くなってる。なんか外国の人みたい……名前にぴったりな感じ?」

「やめてください」


 理楽の軽口に、ソフィアはつい、きつく言い返してしまう。長年使っていても、自分の名前はどうしてもしっくりこない。それを冗談の種にされるのは、いかに理楽が相手でも看過できなかった。


「ああ、ごめん」と理楽は肩をすくめて、視線を部屋の片隅に向けた。

「ネオンちゃんも見る?」

「あ、は、はい」


 所在なげに三角座りしていた音々が、ぴょこぴょことうなずく。理楽が彼女に歩み寄り、ふたり膝をつきあわせて座った。

 そんなふうに、女の子同士が互いの瞳の色を確かめ合う行為は、野生動物のグルーミングのようでもあり、つまりは他愛ないお喋りのようでもある。時刻は夜半に近く、部屋を満たすのどかな明かりも、彼女たちの時間の安らかさを保証してくれているみたいだった。ここ数日、ひっきりなしに鳴っていたソフィアの電話も、今日は奇妙なほど沈黙していた。


 報道にも警察にも知らされない細かなトラブルの情報を、ソフィアはいくつも把握している。それはえてして、公にできない不法労働にまつわる案件にまつわることだ。そういう件にはたいてい未成年の女子、そして”花宿り”が大きく関わっている。

 彼女の得ている情報から、ここ数日の小釘市のトラブルの主役は”花宿り”だ。彼女たちが事件を引き起こすこともあれば、少女たちへの拡大する敵意から発生する事件も相次いでいる。理楽の遭遇した、木川美咲への暴行は後者だろう。彼女は”花宿り”と誤解されたか、加害者が”花宿り”のみならず少女全体を危険視していたか、だ。


 静かな憎悪が、街の底で煮えたぎっている。


「あんま目立たないけど、ちょっと青っぽくなってるね。あと、肌、ちょっとザラザラしてない?」

「う、そうでしょうか……手入れにはなるべく気を使ってるんですけど」


 理楽に言われて、音々は両手で頬をさする。さっきソフィアが触れた印象でも、音々の肌はいつもと質感が違った。ファンデを変えたのかと思って気にしていなかったが、それも”花宿り”に起こっている変化の一側面なのかもしれない。

 と、理楽がこちらに振り返って、


「ほかの子はどうなんだろ。ソフィちゃん、何か心当たりある?」


 問われても、ソフィアは首をひねるだけだ。鏡を見ていても、自分の瞳の変化にさえ気づけなかったくらいだから、他人の目の色はなおのことだった。


「ああ……今日、雪衣さんとたまたま学校で話しましたが……言われてみれば、という程度ですね。意識しないとなかなか気づかないものなのでは」

「へえ。ユキちゃんと外で会ったんだ?」

「何か心境の変化でも、」


 言い掛けたとき、ソフィアのスマートフォンが着信を知らせる。五十嵐からだった。


「どうしました、またトラブルですか?」

『いえ、そうではないのですが。いまどちらに?』

「……自宅です。それが何か?」

『はあ、実は先日の、……の件で相談が』

「後にしてくれます?」

 五十嵐のプライベートの話なんか聞く気分ではない。冷たく突っぱねると、いつもなら簡単に退く五十嵐が、今日は珍しく食い下がってきた。


『それが、すこし急ぎの事情が』

「……何なの? それならそれで早く」


 憮然とつぶやいた瞬間。

 地響きのような異音が、部屋を揺らした。アクアリウムに微細な波が生じて、魚たちが動揺したように泳ぎ回る。


「――何? 地震?」


 きょとんとして理楽が宙を見やる。

 その傍らで、青ざめた音々が、かすれた声でつぶやく。


「いまの、まずい、です」

「どうしたの、音々さん」


 電話から口を離して問うソフィアに対し、音々は、びくびくと右顧左眄しつつ、


「……あれ、わたしの”花”」


 ソフィアがきつく眉間を寄せた。

 音々の”要塞胞ようさいほう”は、彼女自身を守る防壁としての樹幹と、近づいた相手を地雷のように攻撃する果実とに分かれる。彼女はソフィアの指示で、果実の一部をマンションの非常階段に配置していた。この最上階に進入するためのルートは、非常階段かエレベーターのみ。

 そこに断りもなく侵入してきたのは、間違いなく、敵だ。それが何者なのかはまだ想像の範囲内だが、おそらく、街を騒がしている”花宿り”の誰か。


「理楽さん、音々さん、気をつけて。誰かが、ここを狙ってます。ドアから離れて」


 低い声でそう指示を出す。

 三人は部屋の中央に固まって、ドアを見据える。


 理楽の足下にはすでに”千虹菫”が開き、放たれる芳香が部屋を満たし始めている。白い花のあまやかな気体は人を酩酊させ、幻覚を見せる麻薬めいた効用を持つ。ソフィアもよく知るそれは、理楽が”楽苑”の戦いでしばしば用いたものだ。

 音々のほうは、ひどく怯えて理楽の後ろに縮こまりつつも、ふたりを同時にかばうように”要塞胞”を生やす。頑健な樹皮が音々の足下から育って、三人をすこしずつ囲っていく。


『お嬢さん? どうかなさいましたか?』


 電話の向こうから、五十嵐のどこかとぼけた声がした。ソフィアは露骨に顔をしかめた。彼も鉄火場を生きる人間なら、こちらの不穏な気配を察してよさそうなものなのに。

 そう考えたソフィアの脳裏に、ふと、不吉なイメージがひらめく。


「……五十嵐。あなたこそ、いま、どこにいるの?」


 ソフィアは、じっと聞き耳を立てる。解像度の悪い電話回線の向こうで、何か手がかりとなる音が聞こえないか、と。

 かすかに、足音が聞こえた気がした。ひとりではない。

 五十嵐は、変わらずどこかとぼけた声音で、告げた。


『お部屋の、すぐそばですよ』


 瞬間。

 強化ガラスでできていたはずの窓が砕けた。


「ひゃっほーう!」


 刺すような冷たい風をまとって、飛び込んできた一人の少女。とっさに振り返ったソフィアは、その顔を見て目を疑った。大柄だがしなやかな体躯、猫を思わせる細面、そして手足にからみついたまがまがしい”アザミ”。


「小瀬村!」


 小瀬村はもの――あるいはグラップル・キラは、リングにいるときのままの笑顔を振りまいて、両手と両足を”花”でがっちりと武装したまま、ソフィアの部屋に土足で降りたった。


「はもちゃん!?」

「っ、この匂い……やっぱりリカさんだー!」


 片手で顔を覆いながら、はものは理楽の顔を見てはしゃいだ声を上げた。


「ここ来たら絶対ヤれると思ったんだ、うーれしー!」

「どういうつもり、小瀬村!」

「ごめんね、ソフィアさん! でもあたし、満足できなかったの……だから」


 わざとらしいくらいにしなを作ったはものが、不敵に微笑んだ、そのとき。

 銃声。血煙。


「えっ?」


 ソフィアの思考が、一瞬止まる。目の前に広がった赤い飛沫を、呆然と顔に受けた。ほおに当たったかすかな熱が、何かひどく遠くに感じられた。

 肩から出血した音々が、こちらを見た。現実感を失った、焦点の合わない音々の目と、ソフィアの目が合った。音々はほんのすこし口を開けていた。ただ、肩を強くたたかれただけ、というような、間の抜けた表情だった。どろり、と袖口に垂れていく音々の血潮が、ひとしずく、足下に落ちて”花”の根を濡らした。


「ネオンちゃん!」


 理楽の声に、ソフィアは我に返る。ドア越しに廊下を見た。貧相な風体をしたやせた男が、青ざめたような顔で室内をにらんでいた。男の手中にある、プラスチックのように安っぽい銃だけが、彼のたたずまいにはひどく場違いだった。未だ銃を構えたままの男の両腕が震えていて、その体はすぐに前方に倒れた。おそらく、理楽の”花”の匂いが効いたのだ。

 その男の後ろから現れたのは、五十嵐だった。彼は、顔面を半分以上覆う、無骨なガスマスクをしていた。

 ふいに重機のような轟音が床を揺さぶる。


「ぼっとしないでよ、リカさん!」


 床を蹴ったはものが、瞬時に理楽の眼前に肉薄していた。鍛え抜かれた拳が理楽の胸元に迫り、


「うぇっ!?」


 のけぞったのは、はものの方だった。理楽が手にした緑色の”花”が、はものの鼻先をかすめていた。その臭気と刺激は凶悪な香辛料の原料に匹敵し、人が耐えられるものではない。たたらを踏んで退いたはものは、うずくまって涙目になりながら、なお戦意を失わずに理楽をにらむ。

 理楽も胸元を押さえて、険しい表情をしていた。拳の直撃は避けたが、トゲが服をかすめたらしい。

 ソフィアたちの周囲を囲っていた樹幹が、みるみるうちに枯れていく。血を流している音々は、おそらくは銃撃のショックもあって意識が朦朧としている。”要塞胞”を維持できなくなっているのだ。


「音々さん!」

「ネオンちゃん、しっかり!」


 迂闊に動かしては危険だ。理楽とソフィアは口々に音々の名を呼んで、せめて意識を維持させようとする。音々の目はソフィアの方を見たが、口はただあいまいに開くばかりで、声はない。


「何をそんなに騒ぐんですか?」


 マスク越しの五十嵐の声が、ひどくいびつに歪んで、ソフィアの耳に届いた。目元を防護するゴーグルの奥から、五十嵐の目は、ソフィアに対してどんよりと濁った視線をよこしている。彼に、そんなふうに見られたことは、生まれてこの方ただの一度もなかった。


「そんな傷、ものの数でもないのでは?」

「五十嵐……!」

「ねー、こっちはスルーなのー?」


 早くも回復して立ち上がったはものが、退屈そうに言う。とっさに理楽がはじかれたように顔を上げ、手元にふたたび”千虹菫”を開く。


 次の瞬間、床を蹴ったはものが間近に迫る。


「意外に遅いねリカさん」


 加速と遠心力を乗せた回し蹴りが、理楽の側頭部を襲う。理楽は手榴弾のように花を放りながら、倒れ込むようにしてその蹴りを避けた。はものは顔に迫った花をはじき落とし、不敵に笑う。


「リカさんってそんな程度? ”楽苑”のルールならともかく、奇襲にゃ弱いわけ? それとも隠し球でもあるのかなー?」

「効いてないの?」


 理楽はいぶかしげにはものをにらむ。窓もドアも開放されたとはいえ、最初に理楽の仕掛けていた麻薬の”千虹菫”の香りは部屋全体に行き渡っている。はものはすでに二分以上部屋にいるのだ、効いていないはずはない。

 はものは「この匂いのこと?」とぐるりを見回して、芝居がかった仕草で肩をすくめてみせる。


「このくらいなら」


 つぶやいた彼女は、自分の首筋に”アザミ”のトゲを突き立てた。巨大な錐が素肌に食い込み、一筋の血が流れる。急にアクセルを踏まれたようにけいれんしたはものだったが、すぐに、笑みを取り戻して理楽を見据えた。首筋の傷はあっという間に癒えていた。


「痛みと、あと、毒をもって毒を制す、みたいな?」

「よくやる」


 吐き捨てるような五十嵐の言葉。すでに、彼の後ろから十名近くの男たちが部屋に入り込んで、ソフィアたちを包囲しようとしていた。男たちはみな、マスクで顔を覆っている。理楽の存在と”千虹菫”の危険性を警戒していたのは明らかだ。その内の何人かは、腕や足にひどい手傷を負っている。音々の仕掛けた”要塞胞”の奇襲でダメージを受けたのだろう。

 この部屋に男を入れたのは、親と五十嵐以外では初めてだった。彼らはカーペットを台無しにし、テーブルやソファを邪険に振り払い、アクアリウムの魚を苦々しげににらんだりしている。部屋の主であるソフィアに対する敬意も、おそれも、みじんも感じていない様子だった。

 彼らを指揮しているのは、五十嵐だ。


「……何なのこれ、いったい」


 はものと、そして男たちを順繰りに見回して、理楽がつぶやく。臆した様子はないが、抵抗するのは危険だ、と彼女も判断したのだろう。


「ねーねー、あたしの仕事、もーおしまいなの? つまんなーい」


 理楽が戦意を抑えたのを見てか、退屈そうにはものが声を上げる。五十嵐はわずかに顔をはものに向け、


「静かにしていろ」

「ほーい」

「いったい……何のつもりですか、五十嵐!」


 マスクの奥に隠れた五十嵐の顔に、視線を突き立てるような気持ちで、ソフィアは言った。こんな三文芝居のようなせりふを自分が口にしていることも、その声音が自覚できるほど弱々しかったことも、ソフィアにはなんだか現実のことでないように思われた。

 五十嵐は、はっきりしない声で、しかし決然とした口調で告げた。


「あなたには、ここを離れて、我々と同行してもらいます」

「どこへ連れて行くんです?」

「我々の事務所。そこで、我々の監視下に入ってもらうことになりますね」

「……音々さんと理楽さんは?」

「必要なのはお嬢さんだけです。他のふたりは不必要どころか、危険な”花宿り”だ。連れてはいけない」

「助けるのかって訊いたの! このままじゃ、音々さん死ぬかもしれないのよ!」


 ソフィアの腕の中で、音々はまだ朦朧とした顔をしていた。”楽苑”の試合後と比べ、明らかに傷の治りが遅い。格闘のダメージと銃創はわけが違うということか。それとも、よほど致命的な傷なのか。いずれにせよ、放置しては命に関わるかもしれない。

 しかし、ソフィアの悲痛な訴えを聞いてもなお、五十嵐は眉一つ動かす様子がなかった。彼はただ、わずらわしそうにマスクの位置をすこし直して、それから、ボタン一つだけ開けた襟元に、指を押し込んで広げた。左右に、首をひねる。


「死ねばいい」

「五十嵐!」


 耐えられず、ソフィアは身を起こし、マスクで表情を隠した五十嵐と対峙した。どんな理由であれ、いま、彼はソフィアの友人を侮辱したのだ。彼と親しくつきあって十年以上、こんなことは一度もなかったし、一度だって許されるべきではなかった。

 けれど、もう取り返しはつかなかった。


 立ち上がった次の瞬間、彼女の脳裏に訪れたのは、焼けるような激痛だった。


「っ……? っ!」


 痛みは最初、彼女の意識を塗りつぶした。その正体を知った瞬間、ソフィアは右膝を押さえて、その場にくずおれた。

 右足を、黒いタイツごと、銃弾が貫いたのだった。引き金を引いたのは、五十嵐の横にいた、名も知らない男。

 次の瞬間、銃声とは違う、重い音が部屋に響いた。


「うおっ?」


 男のきょとんとした声。直後、その男の「ぐっ」といううめきと同時に、骨の折れる音がした。

 顔を上げたソフィアが見たのは、男の首根っこを踏みつけている理楽だった。その瞳が、言葉通り、真っ赤に染まっている。血の色よりもなお透明な、炎に似た色。彼女の口元には、小さな黄色い”花”。瞬間的に意識を拡張させ、さらに運動能力を制限するリミッターを解き放つ、危うい花だ。


 理楽は踏みつけた男の手から銃を奪う。他の連中が一斉に銃を構える。理楽はそれをあざ笑うように、だん、と床を踏んで横っ飛び。振り返る男たちめがけて連射、あやまたず敵の腕や足を撃ち抜く。男たちはつんのめって倒れる。

 五十嵐めがけて理楽が銃口を据え、


「あたし忘れんなよっ!」


 はものの拳の一撃が、理楽の顔面を撃ち抜いた。

 もんどり打って吹っ飛ぶ理楽は、しかしぐるりと受け身をとってワンハンドで立ち上がる。壁際のアクアリウムに背中を預け、はものめがけて片手で発砲。はものの頬を銃弾がかすめ、背後のカーテンを撃ち抜いた。


 男たちが理楽を狙う。理楽は即座に前方にダッシュ、放たれた銃弾はアクアリウムのガラスを砕き、水流が噴水のようにあふれ出す。中で右往左往する魚たちの哀れな姿に、誰も目をくれない。

 ほおからの出血もかまわず、理楽ははものの懐に飛び込む。しかし、


「やればでっきんじゃーん!」


 はものの膝が、理楽の額を真上にはね飛ばした。


「ぐっ」理楽は喉から鈍い息を漏らす。上を向いた彼女の顔面に、はものは左ストレートの追い打ち。


 理楽の鼻っ柱が砕け、ジャムのように鼻血が垂れる。痛みはほとんど感じていない様子の理楽も、呼吸を妨げられて動きが鈍る。

 そこへはものはさらに、左の足刀。鳩尾に突き刺さった一撃が、完全に理楽の動きを止めた。反射でうずくまった理楽の後頭部を、


「でも雪衣ちゃんの方が強い!」


 両拳を組み合わせた一撃で、はものは理楽の顔面を床にたたき落とした。

 ゴムボールじみて、理楽の頭が一度大きく跳ねる。

 そのまま倒れた理楽の背中を、はものは躊躇なく踏みつけた。背骨をへし折りかねない一撃。それを、二度、三度、四度。

 はものの笑顔は喜びに輝き、その肌は異様なほど、艶やかに輝いて見えた。ざわり、と、彼女の結った髪が一瞬、電気を帯びたように膨れ上がった気がした。

 はものが再度、足を振り上げる。


「もうやめて……!」


 身も世もなく、ソフィアは哀願した。痛みに這いつくばり、涙声で哀れを乞うその様は、ふだんの毅然とした彼女からは見る影もない。

 理楽の後頭部を、はものの足が踏みにじる。


「小瀬村っ!」


 叫んだソフィアの目の前を、銃弾が通り過ぎていった。前髪をかすめ、かすかに焦げた空気の匂いが、鼻先をただよった。

 五十嵐と、その後ろで膝をついた男たちが、ソフィアと理楽に銃を向けている。居並んだ男たちの内から、ひとりが前に進み出てくる。足を引きずっていた。

 マスクの奥から、ねばっこい男の視線が、うつぶせの理楽の下半身を貫く。


「なあ、センパイ。やっぱこいつ、やっちまっていい?」


 問われた五十嵐は、目線をソフィアから離すことなく、肩をすくめて答えた。


「手早くな」

「分かってますって」

「ん、あたし退いた方がいい?」


 くすくすと笑うはものを、男は銃を振って追い払う。はものは「はいはい」と、右足を理楽の頭の下にこじ入れ、ぐるりと彼女を裏返す。鼻を砕かれた理楽は、意識朦朧とした様子で、抗いもしない。

 銃を持った男の呼吸がいっそう荒ぶり、マスクのゴーグルが白く濁る。

 男は銃を床に投げ捨て、両手で理楽のセーターを荒っぽくまくり上げる。カッターシャツは左右に引き裂かれ、ボタンがちぎれ飛ぶ。インナーが引き裂かれると、生白く痩せた理楽の肌は、みぞおちのあたりに青いアザが出来ている。ブラがはがされて、白い乳房がむき出しになる。

 男はジーンズに手をかける。もともとダメージまみれだったジーンズは、乱暴にショーツごと引きずり下ろされた。

 見ていられなくて、ソフィアは目を伏せる。


「何純粋ぶっているんです?」


 五十嵐の声が、すぐそばで聞こえた。黒い手袋をした右手の中で、銃口はまっすぐ、ソフィアの顔面に狙いを定めている。


「男にマタ開く商売でしょう、彼女?」

「そんな言い方するな」


 ソフィアは五十嵐をにらんだ。涙のあふれる視界に、五十嵐の姿はひどくおぼろげな、黒い汚泥の塊のように映った。

 視界の片隅で、男の薄汚れたジャケットが上下に動いている。


「五十嵐……あなた、なぜ、こんな」

「無駄口はいりません。それとも、まだ状況が分かってないんですか?」


 瞬間、五十嵐の右手が目にも留まらぬ早さで動いた。

 がん、と、ソフィアの視界が揺れる。

 左目の奥が赤くにじんで、殴られたのだ、と気づく。

 銃把を握ったままの五十嵐の手は、かすかに震えている。


「ねえ。これでも、我慢しているんです。本当は、あなたのご友人方も、それどころか……あなたも、殺したいくらいなのに」


 マスクの中で、五十嵐がどんな顔をしているのか、ソフィアには見えなかった。

 彼の全身が、ひどい風邪でも引いたようにぶるぶるとわななく。銃口の端が左右にぶれる。銃を握る手に込められた異様なほどの力のせいだった。革靴を履いたつま先が、何かに追いつめられているようにせわしなく床を叩く。

 うわずった声が、重く籠もって、調子の外れた弦楽器のように奇妙に揺れる。


「床津を、佐治野を、街の秩序をぶち壊したのはあなたたちだ。たちの悪い女どもが潜り込んで、うちのシノギを根こそぎタタいてきやがる。シメようとすりゃ、その”花”だ。加減も分からず、しまいにゃタマの取り合い。町が物騒になったって嘆くが、それも全部、あなたたちの仕業だ」

「……それは、私では」

「一緒だろ! ”花宿り”はみんな!」


 五十嵐の口から、そんな言葉が出るなんて、想像だにしていなかった。撃たれたことも、殴られたことも頭から吹き飛んで、ただ、ソフィアの脳裏を悲しみが支配した。彼女が秩序を守ろうとしていたのを、五十嵐はずっと見ていてくれたはずなのに。彼女は違う、と、理解していたはずなのに。

 この十年、そばにいて、それは伝わっていないわけがないのに。


「ああ、その目だ。どいつもこいつも、ナメた女どもは同じ目で俺らを見る」


 じり、と、五十嵐が一歩踏み出す。底の見えない銃口が、ソフィアの歪んだ視界に近づいてきて、次第にその冷たさが鮮明になる。


「交渉のためにあなたを殺しちゃいけない、とは、オヤジに重々言われてるが、」


 はあ、はあ、と、マスク越しに、五十嵐の荒い呼吸が聞こえた。


「正直、ここで殺しちまいたい」


 引き金に指のかかる小さな音さえ、くっきりと聞こえた。

 頭の真っ白になったソフィアは、ふと、唇を開きかけ、


「うわあああっ!」


 やにわに発せられた音々の声に、その場にいた誰もが虚を突かれた。

 次の瞬間、ソフィアの眼前に太い樹幹が立ち上がる。音々の”要塞胞”が、五十嵐を包囲するように急激に成長し、ソフィアと彼との間に壁を作り上げたのだ。


「逃げて、ソフィアさん!」

「え、」


 次の瞬間、ぐっ、と肩をつかまれた。振り返れば、理楽の顔。


「早く!」


 声を張り上げる理楽の後ろで、男が股を押さえてけいれんしていた。指の間から漏れ出した血が足を伝って流れていく。その横では、顔を押さえたはものが憎々しげに理楽をにらんでいる。その足下には理楽の赤い”花”。


「……理楽さん、大丈夫ですか?」

「へいき」


 セーターを脱ぎ捨て、ボタンのないシャツでむりやり肌を隠しながら、それでも理楽はうっすらほほ笑みながら、そう言うのだった。血と負傷でぐちゃぐちゃになったその面立ちは、しかし、奇妙に美しく見えた。

 理楽はソフィアの手を引いて、走り出す。ソフィアはなすがままに身を起こす。右足に激痛が走るが、かまわなかった。理楽に導かれて、彼女たちは走る。

 その先に見えるのは、割れ窓の果ての夜空。ドアの周辺は五十嵐の手勢で囲まれているから当然の判断だ。でも、


「飛び降りるつもりですか?」

「……ソフィアの”花”」


 理楽が、低い声でささやいた。ソフィアの”鉄条蔦”は、他の追随を許さぬ強度を持つ細長い蔦だ。地上数十メートルの高さから飛び降り、その体重を支え、身を助けるには、それしかない。

 しかし、ソフィアの胸にはためらいがある。ずっと彼女は、”楽苑”のリングを維持するために”鉄条蔦”を使ってきた。それを解けば、リングどころか建物さえも危うい。彼女たちは”楽苑”を失いかねないのだ。

 だが、迷うよりも先に、出口は間近に迫っていた。

 彼女の手を引く理楽が、後ろから来る音々が、ソフィアの決断を待っている。


「行くよ、覚悟して!」


 理楽が、走る勢いそのまま、窓から飛び出す。

 瞬間、後ろから銃声。男たちが一斉に発砲したのだ。

 とっさにソフィアは振り返る。壁に、床に、天井にまで銃弾が直撃する。

 そして、音々が銃弾を背中に受けて、ぐるりと身をひねって倒れた。とっさにソフィアはその手をつかもうとするが、届かない。

 一瞬、音々の目がこちらを見る。行って、と、言ってくれた気がした。


 ソフィアは首を振って、窓へと駆ける。

 そして、跳んだ。

 上にも下にも何もない、空のど真ん中に飛び出した瞬間、ソフィアの胸の中で何かが壊れた気がした。

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