3・腐りゆく花

 カーテン越しにさす朝の光は、いつになくすがすがしく見えた。アラームをセットせずに自然に目覚めたからかもしれなかったし、まっさらになった壁の白さのおかげかもしれなかった。

 三ヶ月ごとにきっちり作っていたスケジュールを、雪衣はすべて破棄した。部屋の壁を占領していた予定表をことごとく破り捨て、丸めてゴミ箱に放り込んだ。光に焼けていない壁紙は、新築のように真っ白で、雪衣は初めて覚える解放感に身震いしながら、ベッドの上で伸びをした。

 そのうち不安になって、新しい予定表を作り直すだろう、という予感はある。しかし、つかのまでも自分を解放できる気持ちが芽生えたことは、雪衣の自信になった。

 かといってすぐに不良生徒に成り下がるわけでもなく、ふだん通りに身支度をして、いつものトーストと目玉焼きで朝食をとった。誕生日を祝えなかったことを母に詫びたけれど、母はなんだか上の空だった。


 通学路にはどこか浮ついたような、熱をはらんだ空気が漂っていた。その気配は学校にまで引き継がれていて、誰も彼もが自分の感情を持て余した、それでいて話題の核心に触れるのを避けている、もどかしい言葉ばかりが行き交っていた。

 ホームルームが始まるはずの時刻になって、全校集会の開催を告げるアナウンスが鳴り響いた。その声がひどくぶれていたのは、古くて音の割れたスピーカーのせいか、それとも、いつもうわずった声で生徒に説教をする教頭のしゃべり方のせいなのか、どちらともつかなかった。

 生徒たちが、高ぶりを隠せないままに廊下を移動する。同級生と曖昧な会話を交わしながら歩いていた雪衣は、ふと、その流れを外れていく女子生徒の後ろ姿を見かけた。腰まで一直線に降りる黒髪と、均整のとれた体格が誰のものか、見間違えるはずはなかった。ソフィアだ。

 自然、雪衣はソフィアの後ろ姿を追っていた。驚き顔の同級生に適当な言い訳を告げ、藍色の制服の群れから抜け出した。



 北校舎の最上階、今は使われていない空き教室の前で、ソフィアが足を止めて振り返った。雪衣の顔を見て、彼女は片目だけをわずかに細め、


「いいことでもありましたか? 処女を捨てたとか」

「何でそういう下衆な想像になるの」

「失礼。いまどき女子高生の貞操なんていくらにもなりませんね」

「そういう話じゃなくて。ていうかまだまだ高く売れるでしょ、女子高生の処女は」

「みんな安売りしたがってますから。需給のバランスです」


 ひんやりと静まりかえった空気の中、ふたりの他愛ない猥談が淡々と交わされる。思えば、雪衣がソフィアと交わした言葉はいつも、こんな戯言ばかりだった。

 ソフィアはちらとも笑みを見せず、雪衣の表情を探るように、


「そんな話をしに来たんじゃないんでしょう?」

「そんな話をわざわざしに来たんなら逆に面白いわね」


 たしかに、とソフィアはうなずき、教室のドアに古びた鍵を差し込む。ひびの入った青いキーホルダーには教室名を記すタグもついていない。ソフィアは鍵を回し、テンキーボードに長い暗証番号をそらで打ち込む。やりたい放題だな、と雪衣は内心であきれる。雪衣の知らないところで、学校のあちこちがひとりの生徒に牛耳られていたのだ、と思うと、ぞっとしない。

 がらんどうの教室には机もなかった。居場所を決める基準もない部屋は落ち着かなくて、雪衣は教室の真ん中に歩み入って何気なく辺りを見回す。コルクボードに残る画鋲の跡だけが、かつての活動の痕跡を教えてくれるようだった。カーテンも取り払われているせいで、日射しがじかに室内に入り込んできて、舞い上がる埃までがやけに神聖さを宿してきらきらと浮き沈みする。

 窓からは、うら寂しい中庭が見える。この時間は、もちろんみな集会に参加していて、人っ子ひとりいない。真ん中に立つ櫟の木にとまった野鳥が、けたたましく鳴き声をあげていた。


「今頃、何の話してるのかしら」


 抜け出してきた全校集会のことをふと思い出して、雪衣はつぶやく。廊下側の壁に手をもたせかけたソフィアは、


「発砲、などとあけすけに口には出来ないでしょう。悪い場所には近づくな、とか、節度を守れ、とか、そういう話に終始するのでは?」


 この週末、高架下周辺で複数の傷害事件が起きていた。ローカルニュースでも報道され、動画も流れていたから、見ていない生徒はいないだろう。けが人の中には未成年の女子も含まれていた。

 それが、佐風会さふうかいの抗争に端を発する事件であることも、小釘の住人なら誰もが知っている。

 下流の世界の犯罪とは無縁だ、と自認している私立の進学校でも、蔓延する暴力は無視できないが、公にそれを口にするのは憚られる。結果として、言葉は回りくどく、真意を隠微に伝えようとして、かえって動揺を広めているふしがあった。


 だから、単刀直入に雪衣は訊いた。


「ソフィアは、何か知ってる?」


 彼女はまっすぐにこちらを見て、よどみなく答えを返してくる。


「被害者の名前をいくつか入手しました。関矢真水、という名前に心当たりは?」


 名前そのものに思い当たることはなかったが、文脈でピンときた。


「”花宿り”?」

「”楽苑”に来ていたこともあります。その後、乃木原織子という別の”花宿り”と手を組んで、理楽さんをターゲットにした強盗事件を起こし、警察に追われていました」

「ああ」


 昨夜理楽に聞いた一件の関係者、というより加害者だ。それが今度は被害者の側に回っている。因果応報、などという単純な評価では片づけられない事実だった。

 たとえ”花宿り”でも、それを上回る暴力に晒される。小釘の街はいまや、そんな危険の巷と化しつつある。


「知ってたんですか? 理楽さんが襲われたこと」

「昨日聞いた。もっと早く話してくれてもよかったのに」


 肩をすくめて言う雪衣を、ソフィアは、上目遣いにじっと見据える。光の加減か、彼女の瞳はうっすらと緑がかって、雪衣の胸を突き刺してくるみたいに思えた。


「あなたに心配かけたくなかったんですよ。わかってるでしょう?」

「それはね。でも」


 内心をうまく吐き出しかねて、雪衣は指先で自分の髪をもてあそぶ。


「……ソフィアは、いつ?」

「事件の後、すぐです。それからはずっと、私の部屋に泊めています」

「そう。ならまあ、安心だけど」

「……そんな目で見ないでください」


 不意にそんなふうに言われて、雪衣は、指を自分の顔に触れさせる。眉間がきつく顰められているのを、彼女はいまさら自覚した。そして、自分の胸に渦巻いた感情のことにも、あらためて気づく。

 理楽が苦しいときに最初に頼るのは、自分でなくて、ソフィアだ。

 深く吐息をついて、雪衣は頭を垂れる。机の脚にこすられ続けたタイルには、剥げたワックスの痕跡が規則的に並んでいる。すり減った床に薄く埃が堆積して、地層のように膜を作っていた。

 もちろん、理楽の判断は正しい。ソフィアの家は雪衣の自宅より様々な意味で安全だし、ソフィアが理楽を見捨てることだってあり得ない。

 ただ、それが、理楽の雪衣に対する不信のように思えた。

 雪衣が自分の規律に従い、理楽を助けないであろうこと。理楽を匿ったり、警察に相談したり、そんな手助けを期待できなかったこと。偏執した自尊心を雪衣が持て余している間に、理楽は危機に陥っていたのだ。

 そのことの重みが、あらためて雪衣の胸にのしかかる。

 ソフィアの淡々とした声が、動きのない教室に響く。


「雪衣さん、まさか、あなたが誰かを救えるなんて、傲慢なこと考えてるわけじゃないでしょう?」


 まっすぐなその言葉が、雪衣の胸に重く突き刺さった。声が出そうになったけれど、どんな反論をしても、それは悲鳴そのものになりそうだった。雪衣は深く、細く、ただ息を吐いた。

 窓の向こう、常緑樹だけがぽつぽつと葉をつけるだけの中庭は、今は時が止まったみたいに静まりかえっている。その片隅にある小さな池に、茶色い枯れ葉がおびただしく降り積もっている。あそこに棲んでいた魚は、冬になる前に死んでしまっただろうか?


「わかってる」


 ひどく長い静寂の後、ようやく雪衣はつぶやいた。


「わたしが理楽に出来ることなんて、せいぜい話を聞いて、一緒に笑うことくらい。屋根のある家も、生きるための費用も、わたしには」


 理楽と気持ちを通じ合わせて、自分を閉ざしていた枷をわずかに外して、雪衣はすこし、気が大きくなっていた。成長したつもりになって、強くなったようなつもりでいた。

 けれど、心構えだけで人間が一夜に変貌するはずはない。いまの雪衣は身も心も、誰かを救う力も手だても持たない子どもだ。

 とん、と、足音がした。ソフィアがこちらに歩み寄ってくる。


「それより、ご自分のことを心配してください。あなたの身の上だって、とても大切なんですから」

「そう?」


 首をかしげる雪衣に、ソフィアは眉をひそめ、さびしげにうなだれる。それから、床のタイルを大きく蹴って、たくさんのタイルを一足飛びに越えて雪衣のそばに降り立つ。黒髪とロングスカートが無風の空間にはためく様は、さながらスーパースローカメラの映像に似て、髪の一筋、スカートのひだの一本一本の動きまでが、あざやかに目を射るようだった。

 白い額が、雪衣のほおにゆるやかに接近する。


「私の愛情、届いていませんでした? 私、雪衣さんのことも、とても大切にしていますのに」

「……なんか、余り物って気がするのよ、あなたのは」


 照れ隠しに近い言葉で雪衣が返すと、ソフィアはなんだか、ひどく傷ついたような顔をした。


「同じことを、理楽さんにも言われました」

「ふうん」


 面白いような、つらいような気持ちで雪衣はうなずく。ソフィアは小さく肩をすくめて、雪衣の肩のあたりからこちらを見上げて告げた。


「”楽苑”のほうも、警戒を強めます。追う側も追われる側も潜り込んでくる可能性がありますから。最悪、興業を中止する可能性も」

「……本気?」


 目を見開いた雪衣は、ソフィアの面差しを真正面から受け止めて、息を呑む。ソフィアの真顔には冗談の気配など陰もなく、冷たい損得勘定だけを頭に思い描く、社長令嬢にして若き次期社長の相貌だけがそこにあった。


「土曜にも、すこしトラブルがありました。観客の小競り合いや……入場しようとする子に危害が加えられそうになったことも」


 にわかには信じられない言葉だった。”楽苑”の客は複数の段階でチェックされ、秘密の遵守や暴力の禁止など、様々な誓約に署名している。きわどい興業だからこそ、そういうリスクは可能な限り排除する、というのがソフィアと、彼女が教えを乞うた佐風会の人間の流儀であるはずだ。

 それでこの半年保ってきた秩序に、ひびが入り始めている。


「このたびの危険とはそういうものです。皆を守るために、”楽苑”を守るために、いっときは雌伏する。いやとは言わせません」

「……わかった」


 雪衣に否やのあるはずはなかった。”楽苑”はソフィアの場所で、彼女の判断を優先するのが当然だ。それに対してお客様気取りで反発するのがむなしく有害ですらあることも、雪衣は理解できている。

 それでも彼女は、ひどく心を乱されていた。胸の内で、じくじくと擦過傷のようににじみ出る粘着質の衝動が、今にも行き場を失いかけて、どこからかあふれ出してしまいそうだった。


 ソフィアの細い瞳は、光の加減か、どことなく緑色を帯びていた。雪衣を映し出す透明な円盤の中で、自分の肌までもが、なにか異なる色をまとっているような気がした。その色は、透明で青い、海上の空の色。



 雪衣が自分の教室に戻ると、集会はとっくに終わって、生徒たちはがやがやと雑談に興じていた。一時限目の始まる時間だったが、この様子だとどうやら自習だろう。予想外に空いた時間を埋め合わせようとするみたいに、彼女たちは早口に言葉を交わしている。

 出入り口近くで固まっていたいつものグループの面々が、雪衣を見つけて声をかけてきた。彼女たちがこちらを見る視線があからさまに泳いでいたのは、雪衣に対してどう接すればいいのか、計りかねたせいだろう。雪衣はことさらふだん通りを装って、


「校長、何話してた?」


 そう訊ねた。皆は口々に校長の長話や太った体格や脂ぎった肌への不満をこぼし始めたが、それでもなお雪衣との間に常ならぬ距離感を置こうとしている気配が分かる。誰も目を合わそうとせず、そのくせ雪衣の言葉にいちいち目を丸くする。

 雪衣が行事をさぼるなど今までなかったことだし、ソフィアと一緒にいる場面さえ目撃されたかもしれなかった。雪衣は”話しやすいがお堅い優等生”から、”手嶋智愛とつながりある人物”へと、すなわち教室の異分子へと滑り落ちる瞬間にいる。

 しかし、雪衣はそれも気にならなかった。ふだんよりも開放的な気分で、雪衣はすこしだけ本音に近い言葉を繰り出して、皆の苦笑を誘った。以前のように、しゃべる相手や言葉数をノルマにしていないぶんだけ、雪衣の言葉は自由になっていた。きっとこの自由はいつかしっぺ返しを食うだろうが、それでも、今の雪衣は満足していた。


 ひとしきり話して、ふと言葉のとぎれる瞬間が訪れる。雪衣はなんとなく教室を見回した。自分をじろじろ見つめる視線とぶつかり、雪衣が眉をひそめると、相手はすぐに目をそらす。そのあたりは地味な成績中位集団で、オタクでもバンドでもないあたりの特徴のない生徒の一団だ。

 そこにいつもいるはずの知人の姿がないのに気づいて、雪衣は首をかしげた。


「木川さん、いないの?」


 仲間のひとりが「朝からずっと見てないよ。休みじゃない?」と応じる。「九鬼ちゃんの方が詳しいんじゃないの?」と問われて、雪衣は「うん……」と、あいまいにうなずいた。

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