少女たちの戦場となるリングは、常にソフィアの”鉄条蔦てつじょうづた”によって守られている。屈曲する黒い蔦は、フェンス全体を越えて地下空間の壁や天井にまで張り巡らされている。”鉄条蔦”は金網や基礎構造にコンクリート以上の頑健さを与え、さらには外部に”花”の影響が及ぶことを防いでいる。

 それは一方で、外からの害意もことごとく立ち入らせない結界でもある。


 ”花宿り”にとって、この空間は、己の力を好きなだけ振るうことのでき、誰からも害されない別天地なのだった。


 リングの中に理楽とふたりで入るのは、久しぶりだった。

 試合中に選手たちをきらびやかに染めるカクテルライトも、いまは消灯されている。地上まで吹き抜ける高いフェンスの上から、外の明かりがうっすらと漏れ入ってくるけれど、雪衣たちの目にはほとんど足しにならない。

 カンバスに、まだ先ほどの戦いの汗のにおいが染み着いているような気がして、雪衣はすこし顔をしかめる。辛勝したあげくの無様なダウンというのは、あまり覚えていたい戦歴ではない。


 理楽は、まっさきにリングの真ん中に走って、顔を上げた。天井まで伸びるフェンスにからみついた黒い蔦を見上げて、ぐるり、ぐるりと一歩ずつ、あたりを一周する。すこしだけ闇に目が慣れた雪衣には、理楽の姿は、白いカンバスの上を踊る妖精のように見えた。わずかに広げた腕が何気なく大きな羽に変わり、そのまま、理楽を気まぐれに空に連れて行ってしまいそうだった。


「何か変わった?」


 フェンス際から問いかける雪衣に、理楽は振り向きもしないで、


「ちっとも。意外と変わらないもんだね」

「たった半年でしょ? 当然よ」

「でも」


 小さくつぶやかれたひとことは、誰に向けられるでもなく宙を漂う。その自分の感懐を追いかけるように、理楽はしばらくの間、フェンスに絡まる蔦の端を追って、薄明かりの天井を見上げる。

 そうして、つかみ所のない透明な面差しのままで、


「……久々に、ひと勝負してみる?」


 彼女はそう言って、両手の指を、胸の前で祈るように組み合わせた。ゆるやかな握りの内側から、すっとちいさな芽が伸び、まばゆいほどに白い花を咲かせる。それは、かつて理楽が”楽苑”で咲かせた、自らを高める香りの花。

 たったひと月だけ”楽苑”のランク一位だった少女が、現役のトップランカーに挑戦状を叩きつける。

 そんな緊張の一瞬にしては、理楽の態度はひどくおだやかで、まるでデートの誘いでもするかのようだった。

 雪衣はフェンスに指をかけて、かるく揺さぶる。金網はびくともしなくて、ただ彼女の指先で、かすかに金属のきしむ音がしただけだった。


「病み上がりの相手に挑むなんて、卑怯じゃない?」

「でも、いましかチャンスなさそうな気がしてさ。一度くらい、いいかなって」


 理楽はゆるゆると、リングの真ん中まで歩み戻ってきた。地下空間の闇の真ん中に浮かぶ彼女の表情は、冗談とも本気ともつかなかった。


「わたしに勝って、理楽に何かメリットがあるの?」

「何もないよ。ユキちゃんは”楽苑”で勝ち続けていいことあった?」


 雪衣は答えない。”楽苑”とは結局のところ、”花”という異形の暴力を閉じこめておくための檻だ。ソフィアからはそれなりの額のファイトマネーをもらっているが、そんな泡銭で得られる喜びはたかがしれていて、雪衣はそんなわかりやすい形の利益に興味はなかった。

 フェンスにひっかけたままの指先に、固く力を入れた。鉄の臭いが人差し指に染み着いてしまいそうだった。


「……言い方を変えるわ。どうして理楽は、わたしと戦いたくなったの?」


 その問いに、理楽はかすかに笑ったようだった。かすかな笑いの吐息が、夜気を伝わって雪衣の耳をくすぐった。


「別に何でもよかったんだけど。ただ、ユキちゃんとふたりでいられる時間って、そうないし? だからいましかできないこと、って思ったら、他に思いつかなくって」

「ほんとは嫌いなんでしょう、暴力なんて?」


 今度は、理楽は答えなかった。


「だから”楽苑”で戦うのもやめちゃったんでしょう?」


 カンバスの下、ふたりの体重を支える巨大なスプリングの束がきしんで、めまいのような揺れを感じる。うっすら浮かんで、幽霊のように夜の奥でただよう理楽の姿を見逃してしまわないよう、雪衣はじっと目を凝らした。

 もっとあざやかな光の下で、互いの肌のわずかなつやの違いさえわかるくらいの至近で、話ができたらいいと思う。

 けれど、雪衣と理楽が顔を合わせるのはいつだって深い夜の中で、そこでは相手の息づかいを聞き取るくらいしか、心の底を知る術はない。

 季節外れの蛍にも似たこがね色の理楽の髪が、波のように縦に二度揺れた。


「そーだよ。正解」


 理楽の答えは、両方の問いを肯定していた。


「……じゃあ、どうして”楽苑”に賛成して、しかも自分から戦おうとしたわけ? そりゃあ、最初はわたしと理楽しかいなかったけど、それこそ人を誘えば」

「ほかに思いつかなかったの」


 叩きつけるような、しかし声の端々にはかすかな弱さが残る、そんな、理楽らしくない答えだった。彼女の見せたことのない感情が、相手の姿も判然としないこの地下にあって、声に乗ってあざやかに届いてきたような、そんな気がした。

 理楽がおびえている。ここには、彼女と雪衣しかいないのに。彼女を脅かすものなんて何もないのに、どうして、彼女はそんなふうに。

 それとも、あるいは、そのせいだろうか。雪衣とふたりきりでいるから、だろうか。

 雪衣は黙り込んだ。口を閉じて、指先をじっとフェンスに押しつけて、指に”鉄条蔦”の絡まる痛みを感じる。そうして自分を律していないと、箍が外れてしまいそうに思えた。


 もしも許されるなら、今すぐ雪衣は”白弦薔薇”を理楽めがけて伸ばしただろう。そうして彼女をつかまえて、すぐそばまで引き寄せて。

 ソフィアがしているみたいに遠慮なく彼女に触れて、あの柔らかそうな髪をくしゃくしゃにして、ずっとずっといっしょになって、抱き合ってしまいたかった。

 でも、そうしたらきっと理楽は、雪衣を拒むだろう。


 理楽の胸の中、白い”千虹菫”の花びらがはらはらと散る。彼女の”花”の命はいつも短く、理楽はいつも、生き急ぐみたいに迅速な戦いを繰り広げたものだった。その速度が、彼女を伝説にするのに一役買っていたように、雪衣は思う。

 花びらが散るより前に、雪衣は、一歩踏み出した。二歩、三歩、そして駆け足になって、理楽の目の前まで。

 そこで、足を止めた。ほんのすこし雪衣より背の低い、理楽の上目遣いが、この距離になってようやくくっきりと雪衣の目の中に像を結ぶ。

 理楽は、驚きを隠せないでいるようだった。彼女の瞳が左右にほのかに揺れた。

 雪衣はそんな彼女をじっと見つめる。理楽の輪郭が、ふんわりと目の中でほころぶ。胸の前で手を合わせたまま、体をいくぶん右に傾がせて、変な寝相に馴染んでしまったみたいにやけに姿勢が悪くて、その不格好さがあらためてかわいらしかった。触れがたいその姿を、じっと目に焼き付けつつ、雪衣は口を開いた。


「会いたくなったら」


 ひとつ、息を吐いて、


「連絡してきてよ。どんなノルマがあっても、きっと駆けつけるから」

「……いいの? そんなこと言っちゃって」


 すかした調子で返す理楽だったけれど、その戸惑った顔を見れば、彼女に余裕がないのは一目瞭然だった。夜のただなかで孤立している理楽の、本音にすごく近い顔が、目と鼻の先にある。

 それを真正面に向かい合うのは、ものすごく覚悟がいったし、さりとて逃げ出すのも難しい。ぎりぎりまで追い込んで、ようやく言葉にするために、雪衣にはこの夜が必要だったのに違いなかった。

 闇に背中を押されて、臆病者の九鬼雪衣は言う。


「いいの。理楽も、遠慮なんてしなくていいんだから」


 臆病だから、抱きしめたりなんてできない。

 それで雪衣はその代わり、理楽の手をそっと握った。散りかけた花びらの最後の一枚が、雪衣の手の甲をすべって、かそけく肌をくすぐっていった。


「遠慮、っていうか、さ」


 目を伏せた理楽は、ふいに言った。


「……あーし、ね。こないだ、友達に襲われたの。お金目当てで」

「襲われた?」


 ぎょっとして雪衣は「それ大丈夫だったの? 怪我なかった?」矢継ぎ早に問いかける。理楽は力なくうなずいて、


「あーしは平気だったんだけど……知り合いの、男の人んちに泊まってて。その人はとばっちりで……死んだかも。わかんない」


 雪衣の手の中で、理楽の手がいっそう、かたくなに結びあわされる。彼女の指が冷えて死んでいくように感じられて、雪衣は一瞬ぞっとする。

 不穏な予感に急かされるように、雪衣は勢い込んで、


「で、わたしも襲われるかもって? わたしがそんなにかんたんに誰かに負けると思う?」

「ううん、そういうことじゃなくって、もっと」


 かぶりを振る理楽の面差しはますます固く、冷え切っていくようだった。じり、と、足元のキャンバスをこすって、理楽がほんの半歩、後退る。

 たったそれだけで、理楽は雪衣からますます遠く、夜闇の奥に落ちていくみたいに見えた。


「……あーしといると、不幸せに、巻き込んじゃうんじゃないか、って。うつっていくんじゃないか、って」

「バカ」


 雪衣の口をついて出た言葉は、あまりに率直で身も蓋もなくて、その直球の威力に吹っ飛ばされたように、理楽はきょとんとこちらを見つめた。

 つかのま雪衣は悔やんだ。勢いとはいえ、いまのはひどい。理楽を相手にするとこんなことばかりだ。もしも時間を巻き戻せるなら、ほんの一瞬でも頭を冷やして、それから理楽を静かに諭して落ち着かせることもできたはずだった。

 けれどもう取り返しはつかないし、呆然とした理楽の顔を見ていたら、落ち着くどころかよけいに腹が立ってくる。彼女の発した弱音は、じっくり考えれば考えるほど、いっそう雪衣を苛立たせる。

 細い手を、強く上から握りしめた。


「あのね、人の幸せとか不幸せなんてのは自分で決めるものよ。人に巻き込まれてどうこうなんて、ちっとも理屈に合わない。運勢が伝染するとか、よけいあり得ない話だわ。そういう辛気くさいこと言ってるから、周りまで暗く見えてくるのよ」


 自分の言っていることも、たいがい理不尽だ。けれど、理楽の懊悩を吹き払うには、無理を押し通すような強引な言葉のほうが、きっと効き目があるはずだった。

 前のめりに、額が触れるほど顔を近づけ、一気に言い放った。


「わたしは理楽といるかぎり、絶対不幸せになんてならないから。どんな敵が来たって、かんたんにあんたの前から消えやしないから。理楽は、自分の気持ちのことだけ、もっと見つめていればいいのよ。逃げたりしないで」


 気づけば、あまりにすぐそばに、理楽の薄い色の瞳が浮かんでいるのだった。青白く、はかない面差しの真ん中で、一対の目はまん丸く光って、ようやく雪衣と正面切って対峙してくれている。

 理楽の唇がかすかに開いて、細く息をする。雪衣の言葉を、ゆっくりと咀嚼しているような、長く静かな間合い。言葉が溶けていくにつれて、かすかに、彼女の表情は、微笑に移り変わっていく。

 その笑顔に吸い寄せられるみたいに、雪衣はそっと額をくっつけた。


「好きなときに呼んで。それか、声だけでも聞かせて。わたし……待ってるから」


 理楽は、すごく恐がりだ。恐がらなくては生きて来れなかったろう。

 だから、愛されたがっているくせに、愛情を信じられなくて、逃げていく。

 こうやって、雪衣のほうからたっぷりと心を開かなければ、足を踏み出してさえ来てくれない。チョコレートを渡すより近い距離で、彼女といっしょにいたかった。

 額から、理楽の肌の温度が伝わってくる。吐息が雪衣ののど元まで届く。近すぎて表情はうまく見えないのに、さっきよりずっと彼女の笑いの気配がわかる。

 そのままの姿勢で、理楽は、とても小さな声で告げた。


「うん。絶対」

「絶対だよ」



 微笑んだ雪衣は、胸の中で、ひとつノルマを付け足す。

『理楽の呼び出しには、最優先で応じること』

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