その日の対戦相手は【フォートレス・ネオン】。二つ名の通り、堅固な樹幹を幾重にもかさねて鉄壁の要塞を築き上げるのを得意としていた。周辺にばらまかれた硬質の果実は、地雷のように破裂して行く手を阻む。相手が攻め倦ねているうちに、リング上を自らの幹で覆い尽くして相手を呑み込んでしまう、という戦略だ。


 守りの堅さを考慮し、ノルマを『四分』と設定していた。しかし、雪衣の”白弦薔薇”の攻撃力では、幹に傷ひとつつけられず、攻め切れぬまま三分が経過してしまった。

 ノルマは成し遂げなくてはならない。ひとつのノルマが崩れれば、何もかも台無しになってしまう。今日は『夜十時までに帰る』と決めているのだ。


 額から垂れる汗を拭い、じっ、と目の前にそびえるネオンの要塞をにらむ。幾本もの幹が毛糸のように縒り合わさって構築された壁は、一本の大樹というよりも、樹木にからみついて栄養を奪い取るストラングラー・フィグに似ているようにも見えた。


 ぞわ、と、右足のかかとをなでられて、雪衣は飛び退く。見れば、辺り一面、すでにネオンの育てた幹が網のようにカンバスを覆い尽くしていた。放っておけば、そのうち雪衣自身もからみつかれて、ネオンの”花”の栄養にされてしまう。

 雪衣の焦った様子に、観客がどよめきに似た歓声をあげていた。あるいは彼らも、ランク一位の【スティンガー・ユウ】が迫りくる大樹の侵食になす術もなく束縛される姿に、背徳的な期待を寄せているのかもしれなかった。


 雪衣はかぶりを振る。己の身を偏った性癖の餌食にする気はない。強いて、足下を侵略する幹のことを意識から追い払う。末端をいくら相手にしても時間の無駄、倒すべきはあの大樹の奥に潜む本体だけだ。


 意識を研ぎ澄ます。観客の声も遠ざかる。雪衣の視野は解像度を上げ、幾重にもかさなる要塞の幹の一本一本、樹皮の一枚一枚までがくっきりと認められた。それと同時に、自分の体、自分の”花”にも意識が浸透して、小さな葉のひとつまでも生まれついての指先のように思われてくる。習い事をしていたころ、習字でもバレエでも、お手本から数ミリとぶれぬように自らの所作を極めようとした、苦く快い記憶がよみがえる。

 そして、雪衣の目は蟻の一穴を見つけだす。幹と幹とのわずかな隙間、雪衣の”花”をかろうじてこじ入れられるはずの小さな間隙。


 雪衣は即座に”花”をのばす。空を裂く一枝は、寸分違わず狙いの間隙めがけて侵入した。


 そのまま枝を中にこじ入れていこうとするが、内側は思いのほか狭苦しく雪衣を阻む。ぎりぎりと、固い扉を押し開くように雪衣は枝をねじ込んでいく。が、むしろ逆に無数の幹がその間隙を狭め、枝を食らい込もうとしていた。巨大なペンチで挟まれるような圧迫感。

 さらには足下からも、幹がよじ登ってくる。本体をしとめてしまおう、という発想は相手も同じだ。しかも雪衣はネオンよりもずっと無防備、ある意味不利なのはこちらだ。

 雪衣は歯噛みしながら、顔をしかめて力を込める。枝がぶんぶんと波打って鞭のようにしなる。その瞬間にできた隙間をめがけ、雪衣は左腕から生やしたもう一本の枝をねじ込む。

 二本の枝で、見えない樹皮の奥に侵入する。時に片方が道標となり、時に二本が同時に樹幹をこじ開け。

 そうして、ふいに広い空間に達する。その円形のうろが、ネオンの拠点に違いなかった。”花”越しにおびえが伝わる。ぎゅるっ、と、音を立てんばかりの速度でネオンの”花”が雪衣の太股を這い上がり、またたくまに胸に、首に、そして唇にまで達する。一瞬、唇をこじ開けられ、苦い樹液が舌をおかした。思わず歯を食いしばって、枝の先を噛みちぎる。


 次の瞬間、雪衣の枝がネオンの胴体に到達していた。見えない相手に手当たり次第、殴りつけ、締め上げ、巻き付いた。

 かすかに、ネオンの呼吸音が聞こえた気がした。

 そしてネオンの”花”が力を失う。雪衣の全身を覆い尽くそうとしていた幹がずるりと滑り落ち、巨大な樹幹はまるで結び目をほどかれたようにあっけなくばらけてカンバスの上に広がった。


 その内側から姿を現したのは、額から血を流し、両腕を蔦で縛り上げられ、泣きそうな顔でうめいているか弱い少女の姿だった。

 戦意を完全に失ったネオンを解放し、乱れたイミテーションの制服をかるく整えて、雪衣は結った髪を後ろに払う。

 そして、ふだん通りの勝利のパフォーマンスをしようと、拳を空に突き上げる。


 瞬間。

 どくん、と、胸の奥から不気味な鼓動が全身を揺さぶった。掲げた腕から、膝から力が抜け、立っていられなくなる。自分の体がカンバスの上に仰向けに倒れ、雪衣の意識はとぎれた。



 目覚めた雪衣が見たのは、ロッカールームの白い天井と、傍らからのぞきこんでくる理楽の顔だった。ほんの一瞬、死んだものと錯覚しそうになったのは、その理楽の表情が白紙のように無感情だったからだ。


「あ、起きた。よかった」


 理楽はすぐに相好を崩した。のろのろと雪衣が上半身を起こすと、理楽はベッドの横に置いてあったパイプ椅子にちょこんと座り直した。

 ふと、鼻をつく臭いが辺りに立ちこめているのを感じた。理楽が何かの”花”を使っているのかと思ったが、そうではない。もっとよく知っている、ありふれた臭い。吐瀉物だ。


「……わたし、どうしたの?」

「やばかったよ。寝ながらゲーゲーやるからさ」


 一歩間違えば窒息しかねなかったわけだ。気絶している間に命の危機が訪れていたとは、ぞっとしない。

 何が原因だろう、と頭をひねった雪衣は、戦いの最中のことを思い出した。ネオンの”花”に襲われたとき、無我夢中で、”花”の先端を食いちぎってしまった。

 それを理楽に話すと、「うん、ソフィちゃんといっしょに見てた」とあっけなくうなずいた。


「ソフィちゃんも同じこと考えたみたい。まあ”花”を食べた人なんていないし、何が起きてもおかしくないよね」

「命があってラッキーだったわ……それより理楽、ずっとついててくれたの?」

「心配だったから」


 理楽の率直な言葉に、冷え切った体にぽっと暖かみが宿るような思いだった。


「ありがとう」


 ほっとした拍子にふと力が抜けて、雪衣はまたベッドに倒れ込む。安作りのパイプに腕が当たって、間の抜けた音がした。理楽が心配げに、


「ほんとに大丈夫?」

「ん、まあ……おなかが空っぽで」

「チョコ食べる?」

「いや、なんか、まだ何も入りそうにない」


 本来摂取できるはずのカロリーを、すっかり吐き出してしまった。試合で使ったぶんとあわせれば相当の損失だ。失ったエネルギーを計算して、スマホに登録して……

 そこまで考えたところで、雪衣は気づいた。


「ね、私、どれくらい寝てた?」

「ん? んー」


 首を傾げつつ、理楽がスマホを取り出して時間を確認しようとする。それを、脇からのぞき込んで、雪衣は食い入るように時間表示を見つめた。


 深夜一時を回っていた。


 自分の目が信じられなかった。言葉も出ない。眠っている間に、理楽が雪衣を驚かそうと時計に細工をしたのではないか、と、一瞬本気で疑った。


「あー、すっかり遅くなっちゃったねえ」


 理楽のあっけらかんとした声には、しかし隠しごとの気配などすこしもない。それどころか彼女はすこしも悪びれず、


「あ、ひょっとしてユキちゃん、あれ? 目標破っちゃった? でもしゃーないよね、そんな日もあるよ」


 その声は、なんだかひどく遠くから聞こえた気がした。耳元で、けたたましく鳴り響く何かとても大きな音が、雪衣の聴覚をだめにしてしまっているかのようだった。言っていることは理解できる。けれど、それに反論するだけの声が出てこない。


 胸が苦しい。頭ががんがんと、殴られたように痛む。

 その痛みは、本当に殴られるのより、ずっと重く、鈍く、雪衣の心に打ち込まれて消えない。

 今日のノルマは、絶対に果たすべきものだった。母のために予約しておいたバースデーケーキを、持ち帰らなくてはならなかったのだ。

 ケーキ屋は当然閉まっているし、母だって待ちきれずに床についてしまったろう。どんな顔で母が自分の誕生日を終えたのか、想像したくもなかった。


 彼女がかわいそうだ、という感情が胸の内に浮かび上がる。

 それを塗り潰すかのように、どす黒い自己嫌悪と絶望感が襲いかかってくる。雪衣の心の奥にいた幼子が、泣き声を上げる。

 彼女のことは捨てたつもりだった。泣いてもわめいても救われることがないと気づいて、そのうち泣くことすらも忘れて、ようやく自分はまともにものを考えられる、まっとうな生きものになれた気がしていた。

 でも、そうじゃなかった。何もかも心の奥に押しつぶし、石棺のように閉じこめて、感じないふりをしていただけだった。


 ゆきちゃん? と、理楽に呼ばれた気がした。


 目の前で、理楽がこちらを見つめている。


 雪衣は口を開こうとして、しかし、声は出なかった。


 雪衣の頭と、胸と、心を、十年ぶんの痛みが制圧した。


 雪衣の全身の筋肉が激しくけいれんした。脳裏を走る激痛は意識を真っ赤に染めて、雪衣はものを考えられなくなる。


 耳鳴りの代わりに、聴覚を支配したのは、いかめしい罵声。


 雪衣は、ふたたび嘔吐した。のどを焼く胃液が、涙のようにあふれた。



 嵐のような嘔吐と嗚咽が鎮まり、理楽が持ってきてくれたペットボトルをようやく飲み干せるようになり、ふたたびベッドに横になった雪衣は、小学校に上がって以来誰にも言ったことのなかった家族のことを話すことにした。


「父のせいなの」


 ふたりきりの控え室の、冷え冷えとしたむき出しのコンクリートに、雪衣の声が吸い込まれていくようだった。


「私のため、という名目で、私にたくさんのタスクを押しつけた。幼稚園に上がる前から英語を教えて、習い事にも通わせた。その費用を捻出するためにいつも働いてて、家にいる時間はわずかだったけど、会う時は、いつも怖くてしょうがなかった」


 長い話、しかも家の話を、理楽にしゃべってもいい、と思えること自体が、これまでなかったことだった。


「その日、出来るようになったことを報告して、それが父の定めた目標に届かなかったら叱られた。再現できなかったら、よけいに叱られた。それは失敗したってことだし、嘘をついたってことだから。成功するまで同じことさせられて、だけど緊張してるからちっともうまくできなくて」


 英語を一文しゃべるのに、朝まで八時間かかったこともあった。父は決して殴ったり蹴ったりはしなかったが、うとうとしたら父に起こされて、目標を果たすまでずっと続けさせられた。被疑者を眠らせないようにするのは魔女狩りの時代から続く拷問の手口だと、雪衣が知ったのは中学に入る頃だ。

 今なら、ためらわずに警察か児童相談所に駆け込んでいたろう。しかし、その手段のなかった幼い彼女は、別の方法で世界に適応した。


「私は父に叱られないために、その日のノルマを完璧に出来るように努力した。決して失敗しないよう、何も取りこぼさないよう」


 すぐそばで、理楽は何も言わずに、雪衣の言葉に耳を傾けていた。


「習字も、バレエも、英語も、なにひとつ楽しくなかったし、でも、ノルマを果たし続けることで上達はした。おかげで他の子にあれこれ言われたけど、ぜんぜん気にならなかった。わたしにとって、そんなの仕事と変わらなかったから」


 記憶は灰色で、ホワイトノイズに満ちている。


「そうしてるうちに、誰に何も言われなくても、ノルマを自分で決めるようになった」


 こくん、と、理楽はうなずいた。


「小学校に入る頃には、もう父は家に寄りつきさえしなくなってた。わたしは許されたのかもしれないし、見捨てられたのかもしれない。けど、どちらでもよかった。だってわたしは、自分の中に父の分身を作ったんだから。目標を果たさせる精神の機械」


 理楽がもう一度、無言でうなずく。あるいは、彼女にとっては退屈な話なのかもしれない。理楽の家はずっと直接的な暴力の嵐の中にあって、彼女はそこから逃走することを選んだのだと、雪衣は聞き知っていた。


「朝起きる時間も、勉強する時間も、寝る時間も毎日きちんと決めた。試験の点数も、スポーツテストの成績も、決めた数字以下にはしなかった。友達と喋る時間も、週に何回遊ぶかも、きっちり決めたとおりにした。風邪を引かないのは無理だし予測できないって二年生でわかったから、それからは休んでいい日数だけ余裕を入れて、その調整のために三学期に仮病したことも二回。皆勤賞はノルマに入れてなかったし」


 言葉にして回想してみれば、ばかばかしいことこの上ない。けれど、同じような愚行を気づかずに犯すより、間抜けさを承知の上で果たす方がましだ。雪衣はそう言い聞かせて、自分の行動をいつも正当化していた。


「根拠のないノルマよ。私のも、父のも。でもそれは、私を動かす規範になってた。形がなくて、理由もないから、よけいに強かった」


 雪衣の視界は、壊れかけた蛍光灯の放つ青白い光で満ちている。それはあまりにまぶしくて、直視し続ければ目がつぶれてしまう。


「それを果たせなきゃ、生きていけないんだって。いつか、自分でもそう思いこんでた」


 理楽に目をやって、雪衣はつぶやいた。


「大切なものを切り捨てるための掟なんて、意味ないのにね」

「……そんなことないよ」


 ゆるゆると首を振って、理楽は、うっすらと雪衣にほほえんだ。


「生きてくために必要だったことなら、大切でないことなんてないでしょ」


 そうかもしれない、と、雪衣は思う。何かが大きく壊れた場所で生きていくためには、ふつうなだけでは足りないのかもしれなかった。雪衣も、理楽も、それはきっと同じだ。

 ふつうでなくなるために、意図的に自分の一部を打ち壊して、それでようやく生きてこれた。雪衣は自らの内面をあえて規範でがんじがらめにした。理楽は外から来る暴力から逃げるために、ついには家を捨てざるを得なくなった。

 雪衣が父を訴えて家庭を破壊した可能性だってあるし、理楽が心を殺して自分を律するようになったかもしれない。ふたりはその意味で、きっと一対の存在だった。


 雪衣は、固いベッドに手を突いて、上半身を起こした。もともと安物のシーツはひどく薄くて、彼女の指先であっさり破けてしまいそうだった。頭を持ち上げると、一瞬、気が遠くなる。

 理楽の手が、雪衣の肩と背中を支えた。雪衣よりもよほど殺伐に生きてきたはずの彼女の手は、柔らかすぎてぎょっとさせられるほどだった。繊細に相手の体重を受け止める手つきは、生活のための交際で培われたにしては、あんまり優しすぎるような気もした。

 理楽の顔が、雪衣の肩に口づけするほど近く寄せられる。間近で見ると、理楽の肌は陶器のようにすべらかで、不摂生の影響がすこしだけ見えるけれど、かえってそこに生じる影が彼女を魅惑的に演出しているように思えた。


「歩ける?」

「平気よ」


 言いながら、床に放り出されたままのスニーカーに足を入れる。ゆっくりと立ち上がってみたが、血の気が足りなくなることもなかった。理楽は「ほんとだ」と笑って、


「どうするの、これから?」


 その問いに対する答えを用意していないのに、雪衣は今さらながら気づいた。時間刻みのノルマは壊れてしまって、修正しようにも取り返しはつかない。交通手段を用立てて家に帰ったところで、ケーキとパーティーと母の笑顔が手に入るわけではないのだ。

 だから、この夜は企図せずに手に入った自由時間だった。


「……ソフィアは?」

「さっきは上で忙しそうにしてた。なんか最近ずっと大変そう」

「そう……暇なら、送ってってもらうか、泊めてもらおうかと思ってたんだけど……」


 自分で口にしながら、なんだかうんざりしてしまう。本当に言いたいことは最初から、たぶん出会ったときからずっと決まっていて、それなのに、肝心なときにそれを伝えようとするのはひどく難しい。

 そんな雪衣の様子を、理楽は、なぜだかにやにやしながら見つめている。


「……何よ」

「遠回しだなあ、って思って」


 あ、と、雪衣が何か反論しようとして、けれどまったくの図星なので何も言いようがなくて、迷っているうちに理楽に先手を打たれた。


「あーしね、ユキちゃんといっしょに行きたいとこがあるのだ」

「……どこ?」

「あすこ」


 理楽は、ロッカールームの奥へと目配せした。今は閉じられているそのドアは、”楽苑”の中心地へと続いている。

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