ソフィアとの通話を切った理楽は、腕の中でどこか浮ついた目つきをしている少女に顔を寄せた。日当たりの悪い歓楽街の路地裏で身を寄せ合っている少女二人の姿は、寄る辺なく幸薄そうな危うさを醸し出している。


「マユちゃん平気? 歩ける?」


 理楽が語りかけると、マユコは小さくうなずき、やせ細った足を歩道に降ろす。同時に、裏口からふたたび怒声と金属音が甲高く響いて路地にこだました。

 マユコの青白い顔がびくりとゆがんだ。濃いマスカラで飾った目が、生来の気弱さをうつして慌ただしく揺れる。理楽は、彼女を元気づけるように、そっと肩を叩いた。


「大丈夫。もう手は出させないから」

「うん……」


 このあたりではよくある騒ぎではあった。年をごまかしてセクキャバに潜り込んでいた女の子が、たちの悪い客や劣悪な条件に耐えかねて逃げ出そうとして店主ともめた、という話だ。


 ありふれた事件だった。少女が”花宿り”でなければ。


「ごめんなさい、理楽さん。せっかく面倒みてもらったのに」


 うつむいたマユコの低い声は、どぶの底に沈んでしまいそうだった。癖なのか、彼女は親指の爪を噛んで、せっかくの凝ったネイルを台無しにしてしまう。理楽は、懐からいつものチョコの包みをひとつ差し出して、マユコに渡した。

 マユコの指に、小さな黄色い”花”が咲いていた。人の嗅覚と味覚に作用し、陶酔させるその”花”の力で、一ヶ月で店のトップになる稼ぎを叩き出していたという。しかし、オーナーは上前をはね、同僚は嫉妬をむき出しにし、マユコ自身に良いことは一切なかった。

 チョコを噛み砕いたマユコの目尻に、すこし涙が浮かんだ。


「甘い。なんか、こんなにちゃんと甘いの、久しぶりに食べた」

「そっか……」


 そっと理楽はマユコの背中を押し、並んで歩き出した。オーナーの罵声はもう聞こえてこない。”千虹菫”がよく効いて、今は身動きもとれないはずだ。

 理楽が訪れた理由は、マユコのトラブルの噂を聞きつけたからだった。違法に風俗で働くような女の子たちは、搾取されていても警察や親には相談できない。結果、頼れるのは友人、しかも”花”を持つ仲間たちになる。

 マユコをこの世界に引き入れたのは理楽ではない。けれど、それでも放ってはおけなかった。


 路地をすこし歩くと、目の前が明るくなる。まだ夕刻、床津の歓楽街が本格的に目覚めるには早くて、果てなく伸びる高架の線路の向こうから街を照らす西日は、初冬の空気を透明に輝かせていた。


「……あいつ、死んだの?」


 ふと、マユコがぽつりと口にした。理楽は足を止め、


「殺してはないよ」

「死んじゃってもよかったのに。あいつ、ハズレだったもん。稼ぎはハネるし、ちょいちょい店の子食うし、何かっちゃ上の人チラつかせて脅すし」


 理楽は、マユコに言わせるがままにしておいた。ひとこと毒を吐き出すたび、マユコの瞳からは陰が晴れて、初めて会った頃のまっすぐな光が戻ってくるようだった。そうして路地裏の淀みから自分を救い出すことは、彼女にとってのけじめなのだ。

 マユコがなんと言おうと、理楽は彼を殺すつもりは最初からなかったし、可能ならば無傷ですませたかった。前のボスと暴力沙汰を起こしたという情報は、ブラックリストであっという間に共有され、マユコの今後に影を落とすだろう。そうなれば、いっそう危うく不当な商売でしか生計を立てられなくなってしまう。彼女をよけい深い奈落に突き落とさないため、理楽は過剰な報復を控えたのだ。

 それでもなお、暴力に身を任せたい衝動が、自分の中に育っているのを意識する。先日の織子の一件以来だ。あらゆる邪なものを薙ぎ払って、すべてを更地にしてしまうような力の行使を、彼女はときおり夢に見る。自分のものとも、”花”のものともつかない、混然一体となった濁流のようなパノラマ。


「……もう、こんなこと」


 マユコが足下を見つめて、つぶやいた。先のすこし欠けたヒールのつま先が、歩道のタイルにわずかに触れている。ヒールの悪趣味な赤色は、決してマユコの年相応ではなく、いまひとつ馴染んでいないようだった。


「やめられないなら、やめなくてもいいんだよ」


 うつむいた顔をのぞき込むように首をかたむけて、理楽は告げた。どんな後ろ暗いことでも、他に生きる術を知らない人々がいるのを、彼女は知っていた。小釘のような、逼塞して先細る都市ならなおのこと、まともな手段を与えられないままにみんな大人になってしまう。理楽は、それでも、生きていくことを肯定したかった。

 マユコは、しかし、首を横に振った。


「そうじゃない。そういう意味じゃないの」


 ふたたび、マユコは親指の爪を噛んだ。ジェルで固めたネイルアートが、ひび割れた。


「あいつが怒るのも、ほんとは当然なんだ。だって、あたし、騙すために店に来たんだもん」

「え?」


 割れた爪をじっと見つめていたマユコは、その手でそのまま、頭を抱えた。長い袖口から伸びる小さく黄色い花が、絵画のようにマユコの横顔を飾っていく。青白かった頬に、さっと筆を走らせたような赤みが宿って、路地の陰の中でひときわなまめかしい。


「あたしたちの稼ぎは、あのクソオーナーを経由して、もっと上の組織に流れてく。どうせ汚くなる金なら、その前にかすめ取ったっていい。だから、ほんとはもうすこしうまくやって、上にあげるよりずっとたくさん、自分の稼ぎにするつもりだった」


 自分の手首を見つめるマユコの目は、おどろくほど据わって、堅固だった。


「あたしが考えた訳じゃないんだよ! 何人も、似たようなことやってる子がいる」


 理楽の視線に恐れを感じたように口走って、マユコは次々と名前を挙げた。大半が理楽の知っている名前で、”花宿り”で、”楽苑”に参加したことのある名前も混じっていた。


「他の子は、よその店で何十万も稼いで、ほとんど店に上げずにかすめ取ってる。違法でやってたらごまかされても大っぴらに出来ないし、なんなら”花”の力次第でどうとでも」


 法に守られないのは、女の子も店側も同じ、ということだ。それは、強いものが弱いものから奪う修羅場の裏面に違いなかった。


「店をひとつ潰して、そのまま別の店に居座ってる子だっているんだよ」


 ”花宿り”が生まれるようになって、せいぜい半年。その間に、自らの力に適応し、力によって生きる術を身につけた少女たちがいる。在来種を制圧する侵略植物のように、彼女たちは街を食い荒らしているのだ。

 だが、人間は植物ほど甘くない。いかなる敵も、見つけだせば、総力を挙げて殲滅する。

 ソフィアの顔を思い浮かべながら、理楽は、マユコの肩をそっと叩く。


「……もうすこし話そう。”ラフルール”のパフェ、好きだったよね?」


 高架下にあるカフェの名前を出すと、マユコはわずかにため息をついた。


「知らなかったの? あそこ、今閉まってるよ」

「え?」

「店長が怪我したとかで。あのへんでこないだ抗争あったから、それに巻き込まれたっぽい」


 知らないことは、知っていることよりはるかに早く増えていく。理楽は空を仰いだ。狭い路地裏から見えるのは、うっすらと広がる灰色の雲ばかりだ。

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