凍えるような夜風の果て、墓場にも似たビル街のはるか彼方に目をやれば、夜陰の奥にぼんやりと廃墟の姿が浮かび上がっている。三十年ほど前に建てられた「くぎはまシーサイドモール」の成れの果てだ。雪衣たちが物心つかない頃に閉鎖されたその施設は、もはや解体する費用さえ捻出できずに、風雨に晒されるがまま朽ちる時を待っている。螺旋を描く前衛芸術のようなデザインの高層駐車場は、うっすらと響く海嘯とともに、死にかけた大怪獣のような異様な存在感を放っていた。

 ぼんやりと、その夢の跡を眺めていた雪衣の肩を、理楽が叩いた。


「バス停、こっち」

「あ、うん」


 モールが閉鎖された余波で釘浜一帯のにぎわいが失われた、というのは、雪衣の世代にとってはもう昔話に属する事柄だ。”楽苑”のあるビルにしても、使い道も買い手もなくて放置されていたのをソフィアが父から借り受けたのだという。

 乳色の街灯に照らされた細道を、心許ない足取りで進んでいく。空っぽのビルや暗闇に沈む空き地はぞっとするような気配に満ちている。理楽と並んで、雪衣は真っ直ぐ前を見て歩く。

 そうしていると、自分と理楽の歩むリズムが、よく似ているのが分かる。同じくらいのタイミングで頭と肩が上下する。あわい街灯の下で、理楽の金髪は普段より色あせて見えて、それは逆に彼女の存在を強調しているようにも思えた。


「ユキちゃんさ、」


 おもむろに理楽が振り返る。


「今日は、いつもより近くない?」

「え、そう?」


 言われてみて、理楽の不思議そうな顔と向き合うと、確かに理楽の面差しが間近い。普段そんなに意識しない理楽のなめらかな鼻筋がくっきりと見えて、つい指先で触れてみたくなる。

 理楽が、かすかに笑った。


「ひょっとして、お化けとか恐い方?」

「そんなことないわよ。そういうあやふやなの、信じてないもの」


 雪衣の抗弁に「ふうん」と肩をすくめ、理楽はふいに、足音も立てずに走り出す。


 とたん、理楽の姿が消える。


 えっ、と思った直後、脇道の角から金髪がわずかにのぞいて、虚像のようなほほ笑みがこちらを見た。


「ユキちゃん、今日一のビビり顔!」


 街灯の光と影の境目で、理楽はからかうように言って、ふたたびふいと姿を消した。

 頭に、かっと血が上る。


「あなたのせいじゃない!」


 夜道をつんざいた声は、凍りついた空気をひび割れさせるみたいだった。理楽を追いかけて、雪衣も脇道に駆け込んでいく。


 隘路の奥の暗闇で、理楽は雪衣を待ち受けていた。高い塀に星明かりも遮られて、足元すらおぼつかないそこに立つと、まるで底なし沼に踏み込んだような気分だ。なのに理楽は、そこに悠然と佇んで、ちらりと後ろを振り返りさえしてみせる。その先の曲がりくねった道のことは、雪衣は何も知らない。

 かたわらの廃屋から、へし折れた雨樋が壁を越えてきている。褪せた銀色の斜線が世界を区切っていて、その先からひとしずく、古い雨のなごりが落ちた。


「行ってみない?」


 目顔で壁の向こうに誘う理楽の態度は気軽で、それゆえに、よけいに雪衣には重たく響いた。


「寄り道してる時間はないの」

「恐いだけっしょ?」

「だったら何よ」


 肺がぎゅっと縮まるような息苦しさを感じて、雪衣はのどの奥から声を破裂させた。


「怖がって何が悪いのよ。迷って、時間なくして、傷ついて、そういう取り返しのつかないことを避けようとして何が悪いっていうの?」


 ひと息に言い切った。肺の中に冷えた夜気が潜り込んできて、雪衣は息を詰まらせる。行き止まりにつかのま沈黙が落ちる。

 理楽は、雪衣の突然の激昂に途惑いの色を隠せないようだった。


「そんな、怒ること……言った?」


 つぶやく彼女のぼんやりした面持ちと向き合い、雪衣の頭が急速に冷える。

 まったく筋違いの、感情的な言葉をぶつけてしまった。雪衣は沈痛な面持ちで、


「……ごめん」

「まあ、いいよ。ユキちゃんは恐がりってことで」


 理楽はちょこちょこと戻ってきて、雪衣の肩を慰めるみたいに叩く。「だから」と否定しようとした雪衣に、彼女はかるく肩をすくめ、「あ」ふと声を上げた。


「何か生ってる」


 理楽が塀の向こう、壊れた雨樋にのしかかるように伸びている枝を指さした。薄い黄色の果実が、道に迷った満月のように浮かんでいた。


「こんな真冬に?」

「ミカンか何かかな」


 ふたりで同じ方を向いて、すこし背伸びをしてみる。どうやらミカンよりは小さいし、色も薄い。ごわごわとした皮はかなり固そうだった。


「ユズだね」


 雪衣がつぶやくと、理楽が驚いてこちらを見た。


「分かるの?」

「毎年、冬にはユズ湯をするんだ。ユズをまるごとネットに入れて、お風呂に浮かべて。そういうの、父が拘ってて……」


 言い掛けて、口をつぐんだ。いつもなら注意深く避けるはずの単語が口をついたのは、きっと、まだ動揺が消えていないせいだ。


「採ってみよっか。人いないみたいだし、大丈夫しょ」


 理楽はそんなことを言い出す。さっきの雪衣の言葉は、聞かなかったふりをしてくれたみたいだった。雪衣はほっと息をついて、


「暗いし、危ないよ。まさか肩車しろってんじゃないでしょうね」

「いやいや。ユキちゃん、ちょっとお願いできない?」


 いたずらっぽくはしゃいだ声音で、理楽は、ボールを投げるみたいな仕草をした。意味が分からなくて一瞬ぽかんとした雪衣だったが、すぐに心得て、苦笑した。


「あーしの”花”は、こういうの向いてないし」

「仕方ないわね」


 ひょい、と、雪衣の袖口から”白弦薔薇”の蔓が伸びる。軽く腕を振って、夜空にかかるユズの実を狙って蔓をしならせた。

 蔓はユズの枝に巻き付いて、その先端をへし折る。がさっ、と葉群が揺れる。

 雪衣が蔓を引き戻すと、ユズの実のついた枝の先が引っかかっていた。理楽が世にも嬉しそうな笑顔で、拍手する。


「うまいうまい。カウガールにでもなれるね」

「いまどきどこの世界にそんなの必要なのよ……」


 ユズの実を手にして、雪衣は手持ちぶさたにそれを見下ろす。穫ったはいいが、お湯に漬ける以外の扱い方はよく分からない。まさか、この場で食べるでもあるまい。


「いらないんならちょうだい」


 色づいた実をのぞきこんで、理楽が言った。


「いいけど、どうするの?」

「どうもしないし。持っとくだけ」


 理楽がやけに楽しげにそう言うので、雪衣は特にこだわるでもなくユズの実を理楽に渡した。無一物の彼女は、その小さな果実を、そのまま破けたジーンズのポケットに押し込んだ。

 そろそろ行かないとバスが出てしまう、という雪衣の主張により、ふたりでもとの道に戻っていく。ふたたび歩く細道は、ふしぎに、さっきよりも明晰な輪郭をしているように思えた。


「ユズって」思いついて、雪衣は静かな道行きの手慰みのようにつぶやく。

「育てるのに、十八年とかかかるのよ。だから、さっきの家の人も、ユズが実を付けるより前にいなくなっちゃったのかもしれない」


 誰も顧みない庭先で、無益に実を付ける樹木の年月を思い浮かべて、雪衣は無性にうら寂しさを覚える。望まれて芽を出し、すくすくと育ったのに、開花した頃にはもう誰もそのことを気にもとめない。打ち捨てられた庭の最後の果実は、虚空に宙吊りにされて、凍えるような一冬を越えていく。誰も待ってなんていないのに。

 理楽は何も言わずに、ポケットの上からユズの実をなでた。彼女の横顔は、ふだんはめったに見られないような優しさがにじみ出ていて、雪衣はあらためて、それをじっと見つめていた。ふたりの距離はいつもと同じに戻っていたけれど、すっきりとした鼻筋は夜気に鮮明に浮き上がって、雪衣の胸にひときわ強い印象を残した。


 バス停について、すぐに理楽と別れた。ひとり、住宅街に消えていく理楽の背中を、雪衣はバスがくるまでずっと見送っていた。

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