6
浅い夢から醒めたのは、虫の知らせだったのだろうか。
真っ暗な部屋の中で、警告のように青い点滅が天井に反射している。パソコンの周辺機器が、夜なお飽くことなくまたたいているのだ。
枕元のスマホに目をやれば、まだ午前二時。タオルケットにくるまった彼女のすぐそばで、男の寝息が聞こえる。三十代後半の小太りの会社員で、SNSで出会って半年、何度か部屋に泊めてもらっている。肉体関係を持つ時もあるが、疲れて寝てしまう方が多かった。どちらでも、同じだけ金を払ってくれる。
もう一度眠ろうとして、しかし、首筋をなでるぞわりとした寒気が、理楽の目を開かせた。
枕から頭を上げて、カーテンの引かれた窓の方を見た。ひょっとしたらそれは、理楽が眠りの中で聞いた物音の記憶が、無意識に刻まれていたせいかもしれなかった。
みしり。ガラスを何かが押している、と直感した瞬間、理楽は跳ね起きていた。
耳障りな音、ガラスが割れてはじける。カーテンが風船のように膨らんで、冷えた外気と花の匂いが同時に部屋に躍り込む。理楽はタオルケットを跳ね飛ばし、部屋の端まで駆けた。その時にはすでに、彼女の胸には”千虹菫”のつぼみが宿っている。
「電気ぐらいつけたらどうっす?」
開きかけた花が、途中で止まる。理楽の視線の先で、割れたガラスを踏む音がして、土足の侵入者の影が部屋に射し入ってきた。肌寒そうにジッパーを上まで閉めたピーコートの襟元から、小さな”花”がいくつも伸びて、少女の周りを覆っている。
その”花”には見覚えがあった。確か彼女は”電気百合”と呼んでいた。
豆電球のように火がともると、織子の不敵なほほ笑みが夜闇に浮かび上がった。
「でも、さすがはリカさんっすね。気づくの早いわ」
「オリちゃん、どうして?」
かろうじて声を発する。なぜこんな夜襲を仕掛けたのか、と問うたつもりだったが、織子は肩をすくめて別の答えをした。
「あたしの”花”、知りませんでしたっけ? リカさんの匂いなら、ずっと覚えてますよ」
織子の頬の脇に灯る、寺の鐘に似た形の”電気百合”の明かりが、首輪に繋がれた犬みたいに理楽のいる方に揺れ動く。一度遭遇した相手のことはずっと覚えていて、いつまでも追い続けられるという。
「そうじゃなくて」
「ああ」
わざとらしく、織子はうなずく。そして、あっけらかんとした声で、言い放つ。
「ごめんねリカさん。でも、こっちも必死なんで」
次の瞬間、カーテンを貫いて、弾丸のような”花”が室内に飛来した。高速で刻むドラムのビートを思わせて、フローリングにとがった種子が無数の傷を穿つ。
この攻撃も知っている。夏頃に街で助けた女の子、確か
理楽はとっさにキッチンに飛び込み、引き戸を荒っぽく閉じる。木製の薄い扉を、ががが、と種子が貫いてくるが、勢いの衰えた種子は理楽のもとまで届かない。
狭いキッチンに逃げ場はないが、織子が追ってくる気配もない。一気に距離を取るべきか、と玄関へと駆け出しかけて、思いとどまる。敵が追いかけてこないのは、その必要がないということ――ここでなくても理楽を仕留める算段が出来ているという意味だ。おそらく、待ち伏せがいる。
せめて彼女らの敵意を阻喪できれば、と思い、理楽は内心歯噛みする。彼女の”花”の香りは人の心を様々に操るが、興奮や怒り、あるいは混乱を引き起こすものばかりだ。心を鎮め、優しくさせる”花”は、いくら試しても、理楽の手に咲くことはなかった。
「ねえ、こいつどうする?」
ドアの向こうから、真水の声が聞こえてくる。
「ほっとけば……あ、やべ」
忘れ物に気づいたみたいな織子の声と同時、硬いものの砕ける音と、「痛ぁぁっ!?」という男の悲鳴が同時に聞こえ、理楽の背筋に寒気が走る。
がたん、と戸を開けると、血の色が視界に飛び込んできた。
目に痛いほど白かった壁紙を、噴水のような血液が赤黒く染め上げていく。二次元に刻み込まれたおぞましい水仙のようだった。その根元で、男の死にかけた体がもがいている。右手に握ったスマートフォンの画面は無残にひび割れて、手のひらごと巨大な棘に貫かれていた。叫びの代わりにこぼれ出るのは、どろどろとした血の泡だけ。ベッドのシーツも真っ赤に染まって、端から赤い滴がフローリングに垂れ落ちている。
灯火を受け、織子と真水は、薄暗いほほ笑みで男の苦悶を見下ろしている。
「死ぬかな?」
「死ぬよね。まあいいんじゃない?」
「未成年買ってるキモくて臭いおっさんなんて、この世でいちばん価値ない生き物だよね」
「ほんとそれな」
血の匂いにも、湧き上がる死の気配にも、二人は何も感じていないらしかった。殺す理由さえあれば、邪魔な段ボールを除けるみたいに人間を片付けても何とも思わないのか。それとも、年を取った冴えない男の気色悪さが、死よりも惨めに見えるのか。
理楽をずっと助けてくれた男だった。欲望や哀れみが理由でも、理楽の身体をあたためてくれたことは事実だった。寒さは人も草木も殺す。男は、理楽の命の恩人だった。
何かが目の奥ではじけた。
――次の瞬間、織子が口を押さえてうずくまっていた。
その脇で、真水は忌々しげに充血した目で理楽をにらむ。
「あんたも……クソだ」
ぐるり、と、真水の瞳が裏返って、彼女はその場に昏倒した。首筋は青さも白さも通り越してどす黒く染まり、自慢の”花”は見る影もない褐色に枯れて萎びていく。
その活力を吸って、黒い”千虹菫”はいっそう赤く、重く、まがまがしく咲き乱れていくかのようだった。
床一面が、黒い花に彩られている。花弁の中央から、霧のように漂う花粉は、かすかでも吸い込めば毒が全身に回り、細胞を蝕む。”楽苑”での戦いでも決して使わなかった、最悪の花だ。
殺意によってしか咲かない花を、理楽はためらうことなく咲かせた。
人を殺した人間が殺されて当然とまでは思わない。しかし、行きずりに躊躇なく人を殺した織子と真水は、復讐されても仕方がない。それは理楽への報復を呼び込むかもしれなかったが、かまわなかった。暴力の連鎖を抑止する社会の論理から、理楽はひどく遠いところにいる。
深く、長く、理楽は息を吐いた。洗濯してもいないセーターを着込んで、パジャマ代わりのジャージを床に投げ捨てる。ハンガーに掛けたままのパーカーは、男の血で汚れて使い物にならなくなっていた。ひどく風通しの良くなった部屋の寒気が身に染みて、小さくくしゃみをした。
ジーンズを履き直すと、ポケットに入れたままだったユズの実が、太股と尻にごりっとこすれた。はっぱをかけられたような気分で、理楽はきびすを返して玄関に向かう。つま先を蹴って靴を押し込み、何の気なしに外に出た。
ドアの前で、きょとん、としている少女がいた。
「あの……」
彼女が待ち伏せ役だったはずなのだ、と、一瞬遅れて気がついた。あまりに日常的な理楽の仕草と気配に、つかのま、彼女は自分が戦闘の場にいるのを忘れたみたいだった。しょせんは十代の少女だ。
理楽は、彼女の横を通過する。挑みかかる気もなかった。織子に誘われて理楽を襲う算段だったにしても、別に彼女が男を殺すのに手を貸したわけではない。復讐の相手ではないのだから戦う意味はない。
少女の方は、自分がここにいる意味が失われたことにも気づいていないのか、「ねえ、ちょっと」と間抜けな声で理楽を呼び止める。
無視しようと思ったが、ふと、気が変わった。振り返り、肩越しに問う。
「何しに来たの?」
「は?」
「あーしを狙ってきたんでしょ? 何したかったん?」
とぼけた空気が流れた。あっけにとられた少女は、まだ状況が分かっていないのだろう、緊張感の失せた表情のまま言葉を垂れ流す。
「織子さんが、金が要るって言って。リカさんの客なら、JK買うくらいの金は持ってるだろ、ってなって。殺しちゃっても別にいっか、って」
「……そう」
罪の意識も躊躇いもない話しぶりに、理楽は、それ以上のコミュニケーションを諦めた。織子の事情には興味がない。どうせ聞いたところで、理楽に手助けできることなどない。見張りの彼女を責めて憂さを晴らしても、それで何かが戻ってくるわけでもない。理楽の手元からは、失われていくものしかなかった。
理楽は今度こそ、その場を立ち去った。いちおう最悪の可能性は考えて行動しないといけない。
思いついたのは、結局、手慣れた方法だった。ロビーのオートロックの前で足を止め、スマホを触って最初に出てくる電話番号を呼び出すと、コール一度で相手が出た。
『部屋なら空いてますよ』
ソフィアはあいさつもなしに告げた。彼女たちの会話はいつも、そういう事務的なことから始まってばかりだった。
「それと、コート貸してくれる? 汚れちゃって」
『あげますよ、一枚や二枚。お似合いの、たくさん取ってますから』
「さんくー。それとさ」
ほんのすこしだけ間を置いて、
「”花”で人殺したら、犯罪になるかな?」
『たぶん立証は出来ませんが、自白があれば状況証拠で有罪という線もあります。刑務所、入りたいですか?』
問い返されて、さすがに理楽はちょっと考えた。これでも、今まで警察の厄介になったことはなかった。前科がつくとどうなるのか、理楽にはピンとこないけれども、何か良くないことが起こりそうな気はする。
「今よりまともな生活できるかなあ」
『外を出歩けないの、意外と堪えますよ。あと、きっと太ります』
「んむむ」
『いいから、一度うちに来て下さい。お話聞かないと、何とも』
「うん」
通話を切って、もう一度くしゃみをひとつ。
自動ドアを抜け、底冷えする夜に歩み出した。上着が一枚減っただけで、自分の体がひどく心許なかった。肌身どころか骨まで染み通るような寒気と、ひとけの絶えた夜の住宅街の孤絶感に、理楽はうつむいて足を止めてしまう。
星明かりさえ直に彼女を串刺しにして、月への贄にするのではないかと思われた。
屋根のある部屋が恋しくなったけれど、もう、そこは理楽の居場所ではなくなってしまった。
あたたかさの記憶は、凍った心に疼痛を起こす。急ぎすぎた命のやりとりは、理楽の魂をつかのま麻痺させていた。縮んだ指先に血の通うように、感情がふたたび励起してくる。
人を殺そうとした。コミュニケーションの最後の手段に、破滅的な暴力を選んだ。それも”花”に心をむしばまれたせいだ、と、必死に自分に言い聞かせる。しかし、お前は元々そういう人間なのだ、と心の暗がりからささやく声がする。
どちらが本当なのか、ひとりで心に問うても答えのあろうはずはない。
苦く冷たい唾を飲み込みながら、理楽は歩いた。歩き出すしか方法は残されていなくて、それがどこへ続く道なのかも彼女は分かっていなくて、ただ足音だけが、高らかに黒い空へと溶けていくばかりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます