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雪衣の一週間はあっというまだ。ノルマ通りの学業をこなし、型にはまった生活をして、それだけの暮らしは無味乾燥で引っかかりなく過ぎていく。父とは一度も顔を合わせなかったが、両親の寝室から伝わってくる暴力的な会話の気配が、夜更けに雪衣の目を醒まさせることはあった。そんな夜の不愉快な記憶が、彼女の胸中のやわらかな部分を鑢のように削っていく。
そうしてできたささくれが、太い幹を覆う無数の茨になって、彼女の”花”を強くするようだった。
「ひぐ!」
すねをめがけて、ローキックのように雪衣は”花”の茎を叩きつけた。相手の少女ははげしく顔をゆがめる。そのままのたうち回るか、と思ったが、意外なことに、彼女は激痛をものともしない様子で、自身の”花”を繰り出してきた。
少女の両腕と両足には、細長い花弁のアザミに似た”花”がからみついている。あらかじめ聞いた情報では、その”アザミ”のトゲは相手を麻痺させる毒を持っていて、一度刺さったらなかなか抜けないらしい。
そして相手の少女は、そのトゲの属性そのままに、雪衣の攻撃にいっさい臆せず、執拗にこちらに迫ってくる。シャム猫を思わせる細面には、うっすら笑みさえ浮かべている。格闘技の心得があるのか、摺り足で間合いを詰める動きは俊敏で、雪衣の挙動を見切る鋭い目を持っているようだった。縦に長い少女の瞳が光る。
事前に決めたノルマは『二分以内』。もう一分半は使っているから、あまり時間はない。そういうときにこそ、焦ることなく最短距離で片づける。それが可能なように、彼女は自分の精神をセットできる。
相手は”花”をまとった右足で、鳩尾を狙ってくる。ローで消耗させるとかいう考えのない、おそろしく直情的な戦術だ。
その方が与しやすく、ありがたい。
雪衣は膝を落とし、あえて蹴りを胸で受けた。腹と心臓を避ければ、致命傷には至らない。トゲの麻痺毒はおそろしいが、三十秒なら耐えられると踏んだ。
そのまま、雪衣は相手の蹴り足を両腕で抱え込む。「へ?」と目を見開いた相手は、とっさに足を引こうとするが、逃がさない。
すでに、敵の太ももの奥まで”白弦薔薇”の蔓がからみついている。
ぎちっ、と、締め付けた。
「いっ――」
悶絶した敵の目尻から涙がこぼれる。しかし、それでもなお敵は抵抗をやめず、右足を軸にして、左足を巻き上げるように蹴りを放つ。その足先にはアザミの花。
ぞくり、と雪衣の背筋が冷える。
同時に雪衣は、全力で”花”を横なぎに振り回した。敵の蹴り足が雪衣に届く寸前、敵の体は、自らの勢いも手伝って猛烈に吹っ飛び、フェンスに激突した。
ごん、と鈍い音がして、敵の体はカンバスに仰向けに倒れる。
雪衣は、とどめを刺そうと”花”を繰り出すが、それが敵に届くより前にゴングが鳴り響いた。どうやら、さすがに向こうもスイッチが切れたらしく、ぴくりとも動かない。
胃の腑と背筋は恐れに冷えきり、肌の上を冷や汗が流れる。それでも、肺の底から漏れ出る吐息には高揚の熱が宿って、雪衣の全身を暖めるようだった。
拳を突き上げた雪衣の頭上に、つかのま大輪の花が咲く。それを見上げる観客たちの熱狂を聞きながら、雪衣は自分の足下がふわりと浮き上がるような、恍惚を感じる。すこし、毒が回ったのかもしれない。
”花宿り”の少女たちのために、廃ビルには多くの人の手が入っている。清潔に整えられたロッカーと、仮設のシャワールームもそれだ。ソフィアが彼女の父のつてを頼って一晩で支度させたという。いつでも乾いたタオルと熱いシャワー、それに着替えまで用意されている至れり尽くせりの空間である。
「お疲れ!」
ウォーターサーバーから冷たい水をくんでいると、さっきの対戦相手に声をかけられた。大柄な体格はリング上でこそ迫力があったが、今は猫背気味でだいぶ威圧感も薄れている。
「ん、お疲れさま」
『初対面の相手でもきちんと挨拶すること』
ノルマだけ果たした後は、向こうが勝手に去っていってくれるのを期待して、雪衣はあえて素っ気ない返事をした。戦いの疲れが残っているのか、頭と体が重たく感じられる。正直、いまは休んでいたかった。
しかし、相手は雪衣の態度になど目もくれない。
「さすがユウちゃん! ランク一位はだてじゃない感じ! いやあ強かった! あの足刀は自信あったんだけどなー、あれをまともに受けられたら終わり的な?」
言いたいことだけ勢いよくぶちまけるはしゃぎようは、子供みたいだった。ランナーズハイというか、戦いの後で脳内物質が大量に出ているのかもしれない。あるいは”花”の仕業か。
「そうね……えっと」
「あ、名前? リングネームは【グラップル・キラ】! でも本名で呼んでいいよ、
けらけら笑うはものの屈託ない様子に、雪衣は頬の隅っこだけで笑う。
「つか、ユウちゃんって何か鍛えてる? あんま動きが素人っぽくないんだけど」
「別に、今は何も」
幼いころにバレエの教室に通っていたが、それはお稽古事の範疇を出ないまま大成せずに終わった。体の基本的な動かし方に、当時の記憶が残る程度だ。
「そっかー。あたしってわりとオタっぽいっていうか、のめり込む方だから空手の道場とか行って鍛えてたんだよねー。それでけっこー戦えるから、ここでも敵なしって思ってたんだけどなー」
「まあ、格闘技とは勝手が違うんじゃないかな」
「だよね! ”花”って何か、自分の体みたいで、そうじゃないっていうか、中途半端で」
そう言いながら両腕をなでるはものの瞳に、恍惚とした色がよぎる。
「でも、こーゆーマンガみたいな力ってほんとにあるって思うと、それだけで素敵! 何でも許せちゃう! ユウちゃんもそう思わない?」
「ん……」
わずかにまぶたを閉じて、いぶかるような顔をしながら、雪衣はぼんやり首をひねる。人の範を越える力に無邪気に喜べるのは、小学生ぐらいまでだと思っていた。今時、子どもでも空気くらい読んで、自分の突飛さを表に出さないように出来るし、それを長所だなんて考えない判断力が身についているだろう。
”花宿り”になって、嬉しいと思ったことなんてなかった。
「あれ、こういうの興味ない系?」
「興味ないわけじゃなくけど、でも、嬉しいってわけでもない」
「ほーん、変わってんね」
はものは雪衣の屈託をひとことで切り捨てた。雪衣はそれに対し、何も言いたいことがない自分に気づいている。きっと、彼女とはうまく言葉が通じていない。
はものは両手を合わせて、どことなく赤みを帯びた瞳を夢見るように輝かせ、天井を振り仰ぐ。ちりちり音を立てる白色灯が、彼女たちを照らしている。
「あたしは、もっと戦いたいなー!」
甲高く早口な声は、静かなロッカールームにきんきんと響く。
「強いやつとか! 何なら世界を窮地に陥れる悪役みたいなのが現れて欲しーかも!」
と、はものはふいに雪衣に向き直り、
「ユウちゃんってかなりの古株だよね。てことは、レジェンドのリカさんとかとも戦ったことある系?」
「ん……まあね」
その口から理楽の名前を出されたことに、雪衣は内心、苦虫を噛み潰す思いだ。
「そっかー、リカさん、会ったことはあるけど楽苑来てくんないからさー。一度ファイトしてみたいんだよねー!」
「あの子は、わたしより強いよ」
「だからいーんじゃん! ボコるのもボコられるのも、あたし大好き! だから今日はありがとね、叩きのめしてくれて!」
握手を求められて、雪衣は戸惑いつつも手をさしだす。はものの手のひらは見た目よりずっと硬く凹凸があって、空手の経験が伊達でないのは分かった。握った手の温度は彼女の興奮を帯びたみたいに高かったけれど、雪衣はその手に、よそよそしさしか感じなかった。
はものは次の試合を見に行くと言って、足早にロッカールームを出ていった。雪衣はしばらくひとり残っていたが、肌寒さを感じて外に出ることにした。空調のないロッカールームの温度は冬そのもので、長居しては風邪を引いてしまう。それに、そろそろ帰らないと、自分で決めた門限に間に合わない。
ロッカールームの薄いドアを開けると、そこに理楽がいた。「はぁい」と気安く手を振る理楽を、雪衣は驚きの目で見つめる。理楽は小首をかしげて、
「大丈夫? ハモちゃんの毒、効くでしょ」
「見てたの」
雪衣は目をそらす。はものは手強かったし、善戦したつもりではあったが、勝利の直後にぶっ倒れる醜態を理楽に見られたと思うとばつが悪い。
理楽は、そんな雪衣をじっと見つめてくる。色の薄くて長い睫毛が、ちかちかとまたたいているみたいだった。廊下の照明は”楽苑”の創設時に突貫で修理したものだが、やけに調子が悪くてついたり消えたりする。点滅の周期にあわせて、理楽の存在感もどこかあやふやなように思えた。
ただ、瞳だけが宝石のように、艶めいて光っている。
「……帰らなきゃ」
落ち着かなげに、雪衣はそそくさと歩き出す。と、理楽は、その隣についと寄り添ってきた。
「途中まで一緒に行こ。あーしも今夜はよそに泊まるから」
雪衣は眉をひそめる。
「ソフィアは?」
「今日は上で、ネオンちゃんといっしょ。お邪魔しちゃ悪いからさ」
気にすることないのに、と言ってやりたかった。ソフィアが誰を寵愛しようと、誰に浮気しようと、かまうことなく居座っていればいい、と。
しかし、それを許容するかどうかは理楽自身の問題だ。彼女の倫理観は雪衣にはしばしば奇妙に思えるが、それを正す説得力を雪衣は持ち合わせていない。
そもそも、理楽のことを想っているような顔をして、具体的な手助けをしてやれない自分が、いちばんずるい。彼女のために夜通しつきあってあげることも、彼女を自宅に泊めてあげることも、雪衣の規律に反する。その内なるルールを盾に、今も、雪衣は理楽の手を取れないでいる。
「車だけでもソフィアに出してもらおうか」
「すこし歩きたい。時間大丈夫?」
雪衣はスマートフォンを取り出そうとポケットに手を突っ込んで、やめた。理楽といると、ぎりぎりまでの逸脱を自分に許してしまいたくなる。「すこしなら」と、つぶやくように言って、
「まだバスあるし、バス停までいっしょに行こう」
「うん」
ふわっ、と、理楽の表情がゆるむ。内側から染み出してくる感情がそのまま浮き上がった、というような、てらいのない自然な笑みが、点滅する光の下でまたたいた。
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