3
後ろ髪を引かれるように何度も振り返る雪衣に、かたわらの
「どうしたの?」
「いや……何でも」
裏通りに向かう理楽の姿を、雪衣はしばらく追いかけていた。声をかけるつもりもないのに、つい、心がとらわれてしまう。十一月の陽射しの下、全体に薄い色調の人混みの奥に、理楽の姿は水に溶けるように消えていった。
雪衣は襟にかかった髪をかきあげながら、隣の同級生に歩調を合わせる。自然に歩くとみんなを置いて行ってしまうことに雪衣が気づいたのは小学校四年の頃で、それから彼女は歩く速度をいつも意識していた。
「お昼どうしよう、ハンバーガーでいいかな」
雪衣が訊ねると、美咲はちょっと考えて「あたしは何でもいいよ」とあいまいな答えを返してくる。
「あ、でも、前に美咲が言ってたの、どこだっけ? おいしいパンケーキがあるって」
しばらく前の会話の記憶を探り出す。ノルマの消化のために、雪衣はだいたいの出来事を頭の中でリストにしている。そのどこかで、確か美咲がどこかのカフェに言及していたことがあった。
「ああ、うん」
こくこくと何度もうなずきながら、美咲は表情を曇らせる。
「けど、あれって高架下だから……あんまり」
「そっか。近頃、危ないみたいだもんね」
小釘駅から東に伸びる鉄道の高架下には、この辺では珍しい雰囲気のエキゾチックなカフェや雑貨屋が軒を連ねている。付近の中高生の間では人気の穴場スポットだ。
しかし、高架から南に広がる
どんなにおいしいと評判でも、近所で血が流れていると聞いては気が乗らない。近くのファーストフードですますことにした。
塾のある駅ビルから離れ、交差点で足を止める。道の向かいに見える赤と黄色の看板をぼんやり眺めていると、美咲が話しかけてきた。
「九鬼さんは、あんまり高架下って雰囲気じゃないよね」
「めったに行かないよ。誘われた時だけ」
「そもそも、寄り道してるイメージがないかな……学校か塾でしか会わないからかなあ?」
「実際そんな生活だし」
雪衣の言葉を自虐とでもとったのか、美咲は居心地悪そうに苦笑した。しかし、ほんとうに雪衣の生活の動線は、大半が学校と家と塾を結ぶ三角形の周辺にしかない。寄り道の範囲も、帰りの門限も、自分の決めたルールから外れないように慎重に管理している。
唯一の逸脱は、金曜夜の”楽苑”だ。
「真面目だよね、九鬼さんって。いっつも成績上位に名前載ってるし」
「そのくらいは取るって、決めてるから」
総合成績で十位以内を確保することも、雪衣が自分に課したノルマのひとつだ。このくらいしなければ、生まれた街の重力から抜け出すことなんて出来ない。
美咲の笑顔がいよいよ固くなる。信号が青に変わり、ふたりはいっしょに歩き出す。と、ふいに美咲が、雪衣の表情を斜め下からのぞき込んでくる。
「今度さ、いっしょに遊びに行こうよ。高架下でも、どこでも」
前かがみの美咲に、雪衣はすこし困惑気味の視線を返す。あらゆる物事にノルマを定めているつもりでも、まだあいまいな部分がたくさんあるのだ、と、雪衣はこういうときに気づかされる。
こんなに近い距離に美咲を入れていいのかどうか、未だ彼女は決めかねている。
「危ないって言ったばかりでしょ」
迷いをごまかすつもりの言葉は、まるで釘を刺すみたいな響きになった。美咲は目に寂しげな光を浮かべ、
「あは、そうだね」
「わたしはあんまり、危なっかしい場所には近寄りたくないかな。いるでしょ、学校にも? そういうの好きな」
「うん……」
沈んだ声を出して、美咲は雪衣から遠ざかるように姿勢を正した。
すこしきつい言い方になってしまったのは、内心、美咲に対して自分をごまかしているからだ。佐次野あたりの危険地区や、あるいは
けれど、雪衣自身の中にも、そうした薄暗い世界に心惹かれる衝動は、確固として存在している。それを解消してくれる格好の舞台が、”楽苑”なのだ。
繁華な街並みのショーウィンドウに、つかのま雪衣と美咲の姿が映る。人間離れしたスタイルのマネキンが、ガラスの向こうでコートを着込んでポーズを取っている。理想化された世界のこちら側にいる雪衣と美咲には、あんなリッチな冬物は似合わない。
「いろいろ噂になってるよね……手嶋さんとか」
絶妙のタイミングで美咲がその名前を出してくるので、雪衣はちょっとびっくりして、
「う、うん」
「どうかした? 九鬼さん、手嶋さんと仲良かったっけ?」
「え、ううん」
完全に嘘をついてしまった。ソフィアと話すのは”楽苑”でだけだから、美咲には関わらない話だが、やはりばつが悪い。小首をかしげる美咲に対して、雪衣はいくぶん申し訳ない気分になって、
「やっぱり、そのうちいっしょに行こうか、高架下」
つい、そう言ってしまった。高架下までの長い散歩も、ショッピングでのむやみな出費も、雪衣の規律からは外れてしまうだろう。そしてもちろん、友達に嘘をつくことも。
けれど「ほんとに?」と、あからさまに表情を輝かせる美咲を見ると、今さらやめようとも言い出しかねて、雪衣はあいまいにただうなずくばかりだった。『美咲と高架下に遊びに行くこと』は、その後しばらく、雪衣の頭の中でノルマに算定されないまま、宙に浮いていた。
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