1・冬の果実

 ドアがノックもなしに開かれる。

 雪衣はソファからわずかに顔を上げて、そこにいるのが理楽だとわかると、すこしだけ顔をほころばせた。金刺理楽は、よたよたと眠たそうな足取りで部屋に入ってくると、かすかに青色を帯びる瞳で雪衣を一瞥する。


「ゴブサタ、ユキちゃん」

「理楽、元気? ちゃんと食べてる?」


 理楽の体は病的に肉付きが薄くて、首筋に爪でも触れればあっけなく破れてしまいそうだ。青白い肌が荒れているのも、一目でわかる。それを自覚していないはずもないのに、理楽はあっけらかんと笑う。


「おかげさまで、元気元気」

「わたしは何にもしてないわよ」

「お疲れでしょう、理楽さん。座ってください」


 ソフィアは満面の笑みを浮かべて、クッションを叩いて理楽を誘う。理楽は「さんきゅ、ソフィちゃん」と腰を下ろした。人をだめにするというふれこみのクッションは、まるで巨大な口の肉食獣みたいに、理楽のお尻から肩の辺りまでをまるまる呑み込んだ。


「おお……」


 ぐったりと理楽はクッションに横たわる。ホイップクリームのように、理楽の金色の髪が背もたれの上で波打つ。その髪を、ソフィアは右に左にこねくり回してもてあそびながら、


「伸びてきましたね。今度カットしにいきます?」

「んー、あすこの美容師さん、苦手なんだよねえ。なんか手つきがやらしい」

「じゃあ別のとこにしましょう。それにしても、理楽さんの髪、ほんとにきれい」


 理楽のくせっ毛が、ソフィアにいじられて毛玉みたいにくしゃくしゃになった。理楽はなすがまま、脱力した笑顔を見せて、抵抗するそぶりもない。雪衣はむっとして、


「ソフィアやめなよ、猫じゃあるまいし。理楽も、いやなら言う」

「嫌なはずありませんよ。ねえ理楽さん?」

「んー、平気だよー」


 力の抜けた理楽の細長い声は、こたつで丸まる猫そのものだ。理楽はやわらかなクッションに全身をうずもれさせて、今にも眠ってしまいそうな安らかな顔をしている。よく平気だな、と雪衣は内心で首をひねった。


 ソファとティーテーブルだけはきれいに設えられているけれど、この部屋はしょせん、何年も放置されていた廃ビルの一室だ。むき出しの電気配線や打ちっ放しの灰色の壁は、ほこりっぽい空気と相まって雪衣にはなんとなく息苦しい。無数にあった落書きは何日もかけて清掃したらしいが、壁の各所に残る細長いひび割れは、雪衣を不安にさせる。

 そんな部屋でさえ、理楽にとっては、心底からの安心を感じられる稀少な場所なのかもしれなかった。


 理楽は全身を弛緩させて、ソフィアのすこし手荒い愛撫に身を任せている。乱暴に投げ出されたスニーカーのつま先に、生ゴミの汚い汁が染みついていて、それを見た雪衣の心に小さな重しを載せた。


「無理しないでね、理楽」

「うん……」


 理楽はいよいよ目を閉じて、寝息を立て始める。いつでもどこでも、一瞬でも休めるときに休む。それが理楽の生活習慣らしかった。寝付けないなんて贅沢は言えない、と、彼女はしばしば口にする。


「どうするの?」


 ここで寝かせるのはソフィアの本意ではないだろう。彼女は目を細めて、


「そのうち起きるでしょうから、待ちます。雪衣さんはどうします?」

「……わたしも待つ」


 テーブルの上のティーセットから、二杯目をカップに注いだ。紅茶といえばコンビニのペットボトルがせいぜいだった雪衣には、点々と葉の浮いた半透明のストレートティーは法外な美味に感じられた。いつも神戸の専門店から取り寄せているらしい。茶葉が湯気とともに、紅茶の水面でくるくると踊る。


「こちらもいかが?」


 ソフィアがティーテーブルのクッキーを指し示す。こちらも劣らず高級品だろうが、


「一枚何カロリー?」

「知りませんよ、そんな細かなこと」

「計算できないんじゃもらえない」


『毎日の摂取カロリーは二二〇〇』


 雪衣が自ら定めたノルマのひとつだ。憮然と眉をひそめたソフィアは、それ以上何も言わなかった。


 さわやかな酸味を舌で転がしながら、雪衣はモニターに映し出された地下コロシアムの試合に目をやる。

 ビルの地下、もとは駐車場だった広い空間の天井に据え付けられた簡素なカメラから、4K対応のディスプレイには不似合いな荒い映像と音が届く。なんだか低予算のファウンドフッテージものの映画みたいだ、と思えるのは、映されているもの自体もいくぶん現実離れしているせいだろう。

 青コーナーのフェンス際に立つ地味な少女が、カンバスを埋め尽くすほどの茨の蔓を展開して対戦相手を包囲している。と、茶髪の少女は右手から”花”を放って相手を牽制、その間に跳躍して間合いを詰める。茨をまともに踏んだが、茶髪の足の下には熱帯植物みたいな大きな葉が重なって、本体を防御している。間合いを詰めたところで、地味子が茨を立ち上げて盾のように展開する。膠着状態だった。


「退屈ね」


 雪衣の感想はいつも同じだ。”花”の使い方に工夫もないし、勝利への筋道が描けている気配もない。力を振りかざし、もてあそばれているだけ。幼稚園児が野球と称してバットを振り回しているのと大差ないように見えた。


「私なら、どっちも三十秒で終わらせられる」

「それがノルマですか? 次に当てるときがあったら覚えておきますね」


 ソフィアがからかうので、雪衣は苦い顔をする。


「あなたほど”花”を自由自在に使いこなせるのは一握りですよ。新しく生えた三本目の手足に、半年かそこらで適応は出来ません」

「せっかく理楽に助けてもらってるのに、だらしない」


 雪衣は吐き捨てる。コロシアムに来る”花宿り”の少女たちは、その大半が理楽の”花”の助けによって、自身の”花”を受け入れられたものばかりだ。彼女の心遣いが無駄になっているようで、不愉快だった。


「今日の相手……何て言ったっけ、あの子はいい線いってたけど」

「名前も覚えてないんですね、ミライさんもかわいそうに」


 ソフィアに呆れられた。ひと目会った相手の顔も名前もいっさい忘れない彼女には、雪衣の無頓着さが信じられないのだろう。


「彼女も有望株だったんですが、あの負け方は尾を引きそうですね。本人のたっての希望もあったとは言え、雪衣さんに当てるには早すぎたでしょうか」

「そうなの?」

「ええ、すこし仲良くなったので、便宜を図って上げたのですが」


 雪衣は思わず顔をゆがめた。ソフィアがあっさりという”仲良く”には、字面よりもずっと深い、おおむね性行為ぐらいまでは含む意味合いがある。どうせソフィアのほうから誘ったに違いない。


「とはいえ、これで折れるようなら、最初から芽はなかったというべきでしょうね」


 首をひねりながら、ソフィアはタブレットをスワイプして、ミライの顔写真をランキング表の下方に移動させる。そうするときの彼女の目には、さっきの哀れみなどひとかけらもない。一度気に入った相手でも、興味を失えばそれまで。そういう残酷な一面が、ソフィアにはあった。

 酷薄さは愛情と表裏一体でもあり、つまりは手嶋てしま智愛ソフィアという少女の享楽主義の象徴でもある。その楽しみの頂点として、”楽苑”は存在している。

 ”花”のことを知った直後に、ソフィアはこの地下格闘技場のシステムを考案した。小釘市最大の資産家である手嶋家の一人娘は、父親から権利を借りた廃ビルの地下を改造して、特異な能力を得た少女たちの闘争に使わせている。会員制、情報は口コミ、ネットに上がるような映像は決して残さない。それでも常連から一見まで客はひっきりなしで、入場料は雪衣たちにファイトマネーをばらまいて余りある。


 そのソフィアに”花”を教えたのは、今すぐそこで寝息を立てている、金刺理楽その人。そして”楽苑”の最初の対戦カードは、雪衣と理楽。ここにいるのが、最初の三人だ。


「……むーん」


 と、理楽が半端なあくびをしながら顔を上げた。ソファの吸引力がまだ効いているのか、上半身をクッションに沈み込ませたまま、目線だけ左右に向けるようにして、


「ごめん、寝ちゃってた」

「好きなだけ休んでいていいんですよ」

「眠り、浅くない? そっちの方が心配」

「んー、ほぼほぼこうだし」


 目をこすりこすり言う理楽の声はまだあやふやだ。こんな断続的な眠りの繰り返しできちんと休めているはずはない、と幸恵は思ってしまう。睡眠時間を厳格に定めて目覚ましを欠かさない雪衣とは大違いで、理楽の普段の生活が、雪衣にはうまく想像できないでいる。


「……盛り上がってるみたいね、コロシアム」

「おかげさまで」


 雪衣の言葉に眉をひそめつつ、理楽は眠気覚ましとばかり、目をごしごしとこする。


「……そいや、こないだ紹介した子、どーだった?」

「ネオンさん? でしたら先日初戦を飾ったところです」

「そ、よかった」


 理楽はときおり、街で見かけた少女を”楽苑”に連れてきてはソフィアに紹介している。そういう子はたいてい、学校にも家にも安住の場所がなく、さまざまな理由で生きづらい少女たちで、理楽は彼女たちに戦いの場――収入源と、衝動の捌け口を紹介しているのだった。彼女たちが、薄暗いビジネスに手を染めたり、巻き込まれたりすることがないように。


「ユキちゃんは勝ってる?」


 ついでみたいに、理楽が訊ねる。


「今日も勝った。ここ十戦全勝」


 雪衣の言葉に「さすがだね」と顔をほころばせる理楽。だけれど、雪衣はあまり素直に喜ばない。


「理楽がいなきゃ、張り合いがないよ。戻ってきたら? 元ランク一位さん」


 わざとらしく唇をきつくゆがめて、挑発するように雪衣は問いかける。しかし、理楽はすげなく首を横に振って、


「やーよ。今さら戻ったってたぶん勝てないもん。したら伝説になってた方がいいし」


 ”楽苑”の最初期に連勝を重ねた理楽の印象は、今でも色あせていない。当時を知る人物は常連の中にもほとんどいないが、ソフィアと雪衣は、無敵の理楽の記憶を共有している。


「晩節を穢すよりいいかもしれないですね」


 キツネのように鋭いソフィアの瞳は、九割の打算に一割の郷愁を含んでいるように見える。理楽の復帰戦という材料は彼女の商売勘を刺激しない、というのも事実だろうが、彼女自身も追憶を大切にしたいだけであるのかもしれなかった。

 と、雪衣のポケットの中で、スマートフォンが無機質なアラームを鳴らす。帰る時間だ。雪衣が無言で立ち上がると、理楽もソフィアも心得た様子で動き出す。


「車を回しますよ」

「下までついてっていい?」

「ありがと」


 ソフィアは携帯で運転手に指示を出し、理楽も名残惜しそうにクッションから身を起こした。雪衣を引き留めるのが無駄なことは、二人ともよく知っているはずだった。

 雪衣の中で定めた規律を決して乱させない。それが、雪衣が彼女たちとつき合うに当たって決意したことだったし、彼女の内なる掟だった。


 雪衣と理楽は連れだって部屋を出る。ソフィアは電話を続けながら、モニタから目を離さない。「じゃあね」と雪衣が手を振ると、シルバーリングを填めた指先だけが応えてきた。

 雪衣が部屋を一歩出たとたん、凍えそうな空気が体に残った微熱をいっぺんに奪っていった。ぶるっ、と肩を震わせる。どこかの窓が開けっ放しになっているのかもしれない。雪衣はコートの前をきつく合わせながら、かたわらの理楽を見る。彼女は九月ごろと同じ灰色の薄手のパーカーを羽織り続けている。


「もう一枚くらい着なよ。もう冬だよ」

「だいじょぶだいじょぶ、寒くないし」


 理楽の笑顔に嘘はない。けれど、それは何かが麻痺しているような空虚さを伴って、いっそう雪衣には痛ましく見える。

 明かりもない、危なっかしい階段を二人並んで降りながら、雪衣はさりげなく理楽の手にそっと自分の手を添わせる。そうしていないと、今にも理楽が転げ落ちてしまいそうに思えた。二人分の足音は、暗い屋内にいやに反響し、寂しさを助長するみたいだった。


 このままの時間が続けばいいのか、早く終わってほしいのか、それさえ雪衣はわからないでいる。


 海沿いの街の十一月はすでに冬へと傾斜して、潮風は肌を切り裂くような鋭さをはらみ始めている。そのうちなにもかも寒さに身を縮め、眠りにつく。

 電気の通っていない自動ドアを手でこじ開けると、すでにドアの前には銀色の車体が駐車していた。にぎわいから中途半端に遠い、寂れた深夜の街区には他に人影もない。エンジン音すらしないエコカーの車体は、宵闇の中に亡霊のように浮き上がって見えた。

 いつも雪衣を送迎してくれるスーツの男性が、無言で頭を下げる。彼が手嶋の社員なのか、それともつき合いのある別の企業の一員なのか、雪衣はよく把握していない。いずれにしても、深く関わり合うつもりはなかった。

 後部座席のドアを開けたまま待っている車に乗り込もうとして、雪衣は動きを止めた。かたわらでにこにこしながらたたずんでいる理楽の姿は、蝋燭の炎にも似てはかない。

 雪衣は、肩に掛けたバッグの中に手を突っ込んで、小さな紙の包みを取り出した。さっき、ソフィアにファイトマネーと一緒にもらった、紅茶のティーバッグだ。雪衣が気に入ったのを知ったソフィアが、ついでに取り寄せてくれたものだった。


「ほら、これ」


 理楽の胸に押しつけるみたいに、それを渡す。きょとんと受け取りながら、理楽は「え、でも、」と居心地悪そうな声を出す。


「いいから。お湯ぐらいコンビニでも沸かせるでしょ? それ飲んで、暖かくしてて」

「あ、じゃあ、代わりに」


 言いながら理楽がポケットに手を突っ込む。その手の中には、銀紙に包まれたチョコレート。雪衣は切なげに顔をゆがめて、


「それは前にもらったからいい! とにかく持ってって」

「……うん」


 ありがとう、とも言えないくらい困惑していた理楽をその場において、雪衣は車に飛び乗った。ドアが自動で閉められて、すぐにエンジンがかかる。ほとんど振動も感じないまま動き出す車内で、雪衣は窓の向こうに手を振る。理楽の姿はすぐに夜の奥に遠ざかって、窓ガラスには雪衣の顔が映るだけになった。頬が赤いのは、車内のエアコンのせいだけではないのかもしれなかった。

 運転手も雪衣も無言のまま、ほんの十分ほどで車は空風台くうふうだいにある雪衣の自宅マンションの前に横付けした。そのときには、とうに雪衣の顔は平熱を取り戻し、彼女はバッグを肩にかけ直して、車を降りた。


 今夜の逸脱の時間は、これで終わりだ。余分なカロリーひとつ、家に持ち込むつもりはなかった。


 エレベーターで四階まで上がり、自宅のドアを開ける。リビングにはまだ明かりが灯っていて、立ち上がる母の気配が伝わってくる。


「ただいま」


 リビングのドアを開けて声をかけると、テーブルの前で膝立ちになっていた母は、「おかえり」と、吐息混じりに返した。安堵のような、落胆のようなそれも、聞き慣れた響きだ。


「寝てたってよかったのに」

「そうもいかないでしょう」


 雪衣のねぎらいに、母はかすかに肩をすくめた。テレビもつけず、まんじりともしないで待っていたのは娘ではなかっただろう。近頃いっそうやつれた母の横顔は、失望を隠せないでいる。けれど、雪衣はそれをあえてあげつらうことはせず、


「でも、ほっとする。うちの電気がついてると」

「そう」


 母の表情がほころぶのを見て、雪衣は満足し、頭の中で『母をねぎらうこと』のノルマをカウントした。

 雪衣が安定した家庭生活を送るため、母を壊してはならない。せめても娘の自分は、母のために、形だけでも優しさを見せねばならない。コミュニケーションも、彼女にとっては内なる規律の一部にすぎなかった。

 それでも、母親に関するノルマは両手では数えられないほどには多い。愛情という目に見えないものよりも、そういう数字の重みこそが自分の感情の証だと、雪衣は信じていた。


「お風呂、入る?」

「ううん。先に宿題片づける」


 言い置いて、雪衣はリビングを出て自室に入る。

 部屋の鍵を閉め、バッグを部屋の隅に片づける。札束の入った封筒を取り出して、学習机の引き出しの一番奥にしまい込む。制服をハンガーにひっかけて、部屋着に着替える。リングユニフォーム代わりの偽の制服は、ソフィアの所に置いてきた。

 一度だけ大きく伸びをして、スマートフォンのスケジューラーを起動する。今日のノルマはあとふたつ、『昼の数学で出た宿題を終わらせる』『夜のバラエティ番組の録画を確認』。学習机の前に腰を下ろし、四色のボールペンで色分けしたノートを開く。問題集を広げた時には、もう理楽のことも、夜の空気の冷えた匂いも頭にはない。

 勉強机の脇のちいさなテレビが、人気芸人と男性アイドルの取っ組み合いを映し出す。ほんの一秒だっておもしろくないけれど、教室で会話するために情報の確認が必要だった。『仲のいい生徒とは毎日十五分以上会話する』学校での人間関係に意義は感じなくとも、よけいな諍いに巻き込まれるのは避ける必要がある。彼女の人生の最適解を選べば、この無感動な時間も必要だ。


 まっすぐに、正しく、揺るぎない道を進まなくてはいけない。


 それが雪衣が自分に課した掟で、ひたむきに進んだ先に待つ将来こそが彼女の希望だ。この家も出て、この街も出て、社会的に成功して、まっとうな生き方をしなくてはいけない。その彼女のライフプランの中に、理楽を迎え入れる余地はなかった。

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