花咲く乙女たちの楽苑

扇智史

プロローグ 花園

 ”楽苑らくえん”の檻の中では、雪衣ゆきえはまがいものの制服を着る。


 安手のセーラー服には不満がたくさんある。ごわごわした生地の着心地は最悪で、赤いリボンタイは慎みに欠け、何よりもスカートが短すぎる。スパッツで膝の上まで隠していても、周囲の視線がその奥を這い回っているようで、落ち着かない。太ももに蔦を巻き付けて隠してしまいたいくらいの時もあった。

 けれど、いまの雪衣はこれでいいと思っている。セーラー服のほうが観客受けがいいとか、ふだんと違う服でないと特定されるとか、ソフィアが説く生々しい事情は二の次だ。


 出来損ないの衣服をまとい、黒髪をたくし上げ、目に痛いほどの明暗を生むスポットライトの下、嗄れた声援とケミカルライトの光を浴びて、九鬼くき雪衣という本名ではなく【スティンガー・ユウ】なるセンスの悪いリングネームで呼ばれる。それが、彼女には必要なことだった。


「赤コーナーは、ランキング七位! 実力も人気もただいま爆上げ中! 彼女から決して目を離すな! ヴェノム・ミライ!」


 甲高く割れた声がスピーカーから響いて、雪衣は意識をすこしだけ外の世界に向ける。


 オクタゴンの対角線上、タンクトップ姿の少女が、飛び跳ねながら観客にアピールする。彼女がちょっと腰を屈めて、最前の客に何か話しかけると、認知をもらったその客は金網に紅潮した顔を押しつけて荒ぶる。


 こちらを向いたヴェノム・ミライは、熱っぽい頬にはじけそうな笑みを刻んで、雪衣を真っ向から見据える。リングの上にいる自分を、肯定しているのだろう。喜びを全身に張りつめさせて、これから始まる一戦に闘志を燃やしているようだった。

 我慢できない、とばかりに、ミライは拳を打ち合わせた。その両手は、ボールペンほどに太い茎でぐるぐる巻きにされていて、ピンポン球ほどのつぼみが電飾のようにあちこちにぶら下がっている。つぼみの破裂に巻き込まれれば、皮膚どころか肉までえぐられるという。

 ミライのスタイルは接近戦だそうだ。自慢の脚力と瞬発力で間合いを詰めて、あの両拳で殴りつける。一撃必殺、わかりやすくて恐れを知らないその戦術が、ミライの強みだ。

 近づかれる前に片をつけなくてはいけない。それは、雪衣自身のいつもの戦い方でもある。


 雪衣の両腕からも、すでに幾本もの細長い蔓がぶら下がっていた。緑褐色の蔦は、数限りない微細な針で覆われている。布一枚も通らないちっぽけな代物だが、肌をかすめでもすれば激痛に襲われ、屈強な男たちでも悲鳴を上げて転げ回る羽目になる。

 それが雪衣の”花”。スティンガーの名を彼女にもたらし、コロシアムでのランキングを一位に上り詰めさせた、彼女の”白弦薔薇しろつるばら”。


 せわしなく動き回ってアピールするミライと対照的に、雪衣はあごを引いた真っ直ぐな姿勢を崩さない。

 スピーカーから轟く音楽とアナウンスも、観客たちの狂奔も、汗のにおいも、温度も、雪衣の意識から追い払われる。呼吸で上下する横隔膜の動きが心の大半を覆い尽くすが、いつしかそれも消えてなくなる。

 心が絞られていく。五メートル先にいる、対戦相手の少女の気配が、感覚を埋め尽くす。


『一分以内、十発以内』


 雪衣は毎日、すべての行動にノルマを定める。檻の外でも中でも変わらない、雪衣の行動様式だ。


 ゴングが鳴った。


 ミライがカンバスを蹴り、一直線に突っ込んでくる。


 雪衣は右腕を前に掲げた。彼女の二の腕、白い半袖の奥から緑褐色の蔓が這い出し、ミライの足下めがけて伸びる。


 ミライはその蔓を横っ飛びで避けた。速度が落ちない。格闘技か、パルクールの経験でもあるのだろう、バランスのよい身のこなしだ。


 雪衣は右手からさらに何本もの蔓を繰り出す。しかし、狙いの粗い攻撃は、ミライによってことごとく見切られた。視力も勘もいいのが”花”の副作用で強調されているのだろう。


 ミライの凶悪な笑顔が間近に迫る。観客にアピールするような大振りのストレート。


 雪衣は後ろに跳ぶ。ミライの拳は空を切る。ミライは驚きを見せつつも、油断なく踏み込んで左からのジャブ。軽い打撃だが、拳にぶら下がるつぼみの威力に変わりはない。バックステップで間合いを取って攻撃を避ける。

 そのうち、雪衣はフェンス越しまで追いつめられてしまう。雪衣の顔面めがけ、ミライがストレートを放つ――しかし、その寸前で彼女は目を見開き、飛び退いた。


 足下に張り巡らされた蔓に気づいたらしい。それは、ゴングが鳴った瞬間から雪衣の張っていた罠だ。

 無効に終わった仕掛けをすぐに腕の奥へと引き戻す。残念、と言う代わりに、軽く肩をすくめた。


 打撃の射程から離れ、ミライは一瞬、息をついた。ほほえみを浮かべようとさえしていたかに見えた。雪衣の罠を回避したこと、そして雪衣が力を抜いたのを見て、意識がすこしだけゆるんだのに違いなかった。


 次の瞬間、ミライの無防備な左の脇腹を、蔓がえぐった。


 蔓は、だらりとぶら下げられた雪衣の右腕から伸びていた。指先一本すら動かさず、ただ蔓だけを操って放った一撃。雪衣の全神経をそこに込めた、渾身の一撃だった。

 ミライが背中を丸める。トゲの痛みはなくとも、少女をダウンさせるには蔓の打撃力だけで十分だった。


 ここまでで三十秒と、一発。


 ひざを曲げてうつむくミライの顔に、今度は左腕から放った蔓が直撃した。顔をのけぞらせたミライの悲鳴が耳をつんざく。頬に突き刺さったトゲから分泌する、神経毒の効用だった。

 健康的に日に焼けた肢体が、あおのけにカンバスに倒れる。痛みに転げ回ろうとした彼女の顔を、蔓で殴りつける。

 右に転げた顔を右から、左に転げた顔を左から。

 お手玉をするみたいに、雪衣はミライを打ちのめした。まっすぐに突っ立ったまま、蔓の動きだけに意識を集中した。最適な打撃力を発揮する角度と速度で”白弦薔薇”は少女の顔をなぶり続け、ミライの快活だった面差しは、傷と腫れで真っ赤に染まって、涙と血が頬の上で混じり合った。

 最初から数えて八発目がミライの頬を打ち抜いたところで、彼女はとうとう手足をカンバスに横たえて、動かなくなった。涙と涎と尿が彼女の寝床を汚していた。痛みで意識のスイッチが切れるのは、幸福なことだ。

 ノックダウンと判断したジャッジが、ゴングを乱打した。アナウンスが告げた試合時間は、四十九秒。ノルマは果たされた。


 怒号のように雪衣の名が場内をこだまする。ケミカルライトの輝きが、津波のように揺れて彼女を包む。さっきミライに認知された客も、今は、雪衣を象徴する白のペンライトを掲げている。興奮した客が体ごと金網を揺さぶり、天井近くまでその振動が伝わっていく。しかし、ソフィアの”花”に支えられた金網は、客の暴動程度では決して壊れることはない。


 雪衣は軽く顔を伏せて、拳を空に突き上げる。


 ひときわ太く力強い蔓が高く高く伸び上がり、そのてっぺんで、真っ白い大輪の花を咲かせた。幾重もの花弁を重ね、ただ美しいだけの”白弦薔薇”の花は、雪衣にとってはあまり価値はない。しかし、彼女は勝利の証にいつもこうして、リングの中心で花を開かせる。いつしかその花の色こそが、【スティンガー・ユウ】と名乗る彼女のトレードマークとなっていた。

 まがいものの彼女には、それがふさわしいのかもしれなかった。

 大輪の花に日傘のように覆われて、雪衣の視界がつかのま陰る。そういうとき、彼女はいつも、ここではない場所で花を咲かせるひとりの少女のことを思い出す。


 ――理楽りかも、ここに来ればいいのに。


   ※    ※    ※


 ”千虹菫せんにじすみれ”は、この路地裏によく似ている。


 金刺かなさし理楽の懐では、すでに開花が始まっていた。生理のときの血に似た色の花びらは、表通りのカフェで出される特大パンケーキよりも分厚い。しかも、花びらはすぐに育ち、人がすれ違うのがやっとの狭苦しい路地をあっという間に埋め尽くしてしまう。

 理楽は両手を広げ、花を路上に抛り出す。アスファルトにぶつかった衝撃で、つぼみから花弁がこぼれ出した。花びらは互い違いに重なりながら、器のような形状となって、真夜中の沈んだ路地にあざやかな色彩を描き出す。手持ちぶさたな理楽は、吐瀉物と酒で汚れた看板の、頼りなく点滅する黄色い光に目をやる。

 花の真ん中に、一本の長い雌しべと十本ほどの細い雄しべが立ち上がる。その根もとには、果肉で出来た、大きなボウルほどの器があって、そこにぬるぬるした液体が満ちている。


 理楽のうしろで、不規則な足音が遠ざかっていく。たぶん、路地に迷い込もうとした酔っぱらいが逃げ出したのだろう。”千虹菫”は、その名前通り様々な花を咲かせ、色と形状ごとにその効用を変える。いま路上に開く血色の花は、獲物だけをおびき寄せる誘因の花だ。その発する無色無臭の気体は、ひとたび吸い込むと頭痛と嫌悪感に襲われて、一刻も早くその場を離れたくなる。その空気に耐えられるのは、花の宿主である理楽と、そして理楽が認めた特定の相手だけ――それら対象者にとっては、花の気配はきわめて甘美な誘惑となり、逆らう術もなく引き寄せられてしまう。

 もう少しすれば、狙いの相手が花の匂いに引き寄せられてくる。それを待つ間、理楽は宵闇の路地にふたたび目をやる。


 狭い道の両側はキャバクラとホストクラブで、薄い壁の向こうから男女入り交じった嬌声が漏れてきていた。不規則に点滅する看板は警告みたいだ。実際、その先は窓もなく人目も届かない袋小路で、まともな人間はその不吉な気配だけで近づくのをためらう。逆にそうでない人間にとっては絶好の狩り場で、しばしば恐喝や強盗の場になり、他のときには援交女子やプッシャーの稼ぎ場となる。

 夜の街に慣れた理楽でも、あまり近寄りたくはない場所だ。なぜか地面がひどく脂ぎっていて、スニーカーの底からぬめりが浸入してくるようで、落ち着かない。それでも、理楽はここで網を張っている必要があった。


「うえっ……」


 路地の入り口から、かすかなうめき声がして、理楽は振り返る。一人の女の子が、壁に肘をついてよりかかるような姿勢で、うつむきながら上目遣いで理楽を見ていた。キャミソールの上に厚いコートを羽織り、胸元は男を誘うように空いていて、鎖骨のあたりに黒い蝶のタトゥーがある。

 その肌を覆い隠すように、細長い葉がまとわりついている。茎の先端に咲く黄色い花はささやかだが、花弁の奥から伸びる細い雄しべが幾本も彼女の皮膚に突き刺さり、不気味な湿疹を生み出している。


「アイちゃん?」

「……誰よ……ウチ、めっちゃ気分悪ぃんだけど」


 喧嘩腰のアイの言葉はしかしひどく弱々しく、唇も細かくふるえていた。理楽は、こんなふうに”花”に蝕まれる少女を何人も見てきた。


「まーまー、落ち着いて。あーしは味方だから」


 理楽はことさら軽く言いながら、アイの方に歩み寄っていく。


「おい……近寄んなよ……」


 接近する理楽を、アイは目線と声で精一杯拒絶しようとする。と、同時にアイの足下、ミュールからのぞくつま先から、小さな葉を持つ茎がちょろちょろと伸びる。


「くっそ、何だよこれ……」


 いらだたしげにアイは右足で宙を蹴るが、自分の足から生える茎が微動だにしないのを見て、よけいに不愉快そうに顔をしかめた。


「くそ、くそ、くそ……!」

「落ち着いて、アイちゃん」


 彼女をなだめるように、理楽はゆるりと右腕をアイにさしだす。


「だいじょぶ。すぐによくなるし」

「お……おい……!」


 アイの抵抗もかまわず、理楽は少女の頭を、右腕でぎゅっと抱きしめた。左手は、アイの鎖骨のあたり、黄色い花の根本を軽く摘まむ。


「うっ……」


 理楽の胸の中で、アイが困惑気味の声を漏らした。自分の”花”に初めて触れられて、未知の感覚を扱いかねているのに違いない。許容できるものを越えた感覚は、たとえどんなに心地よく優しいものでも、つい拒絶してしまうものだ。けれど、そうして”花”を拒んでいては、苦しみから解放されることはない。

 アイの花をなぞると、かすかに草の匂いが香るようで、理楽は胸の痛むような郷愁に駆られる。理楽は胸中にその感情を押さえつけながら、そっと、アイのこめかみに右の手のひらを添わせた。

 いつしか、あたりに満ちる気体の香りが変わっていた。


「やめ……」

「心配ないってば。最初は変でも、すぐ馴れるし」


 アイが、そして多くの少女が”花”に苦しむのは、それが自分の体に生じた新たな器官だからだ。新しい手足がいきなり生えてきても、うまくは扱えない。同じように、花を体に慣らすためには、相応の練習がいるし、それが出来なければ七転八倒するばかり。

 ”千虹菫”は、そんな彼女らを救う力も秘めている。紫の花の香りは、彼女たちの身体感覚を拡大し、五感を拡張する。幻惑状態で”花”に触れられることで、少女たちはそれを、自分の体の一部として受け入れられる。治療と言うほど大げさなものでもない。ただの儀式だ。


 こわばっていたアイの体から、次第に緊張がほぐれていくのを、理楽は胸元の重みから感じていた。

 理楽は、軽く彼女の体を押して、その場に立たせる。アイの体を縛っていた”花”は、張りを失って垂れ下がっている。葉は枯れ、黄色い花はしぼんで、もはや宿主に害をなすことはなさそうだった。

 そしてアイ自身も、その面差しからすっかり険がとれて、茶目っ気を残したような愛嬌のある表情がのぞいている。自分の手足をきょとんと見つめながら、両手を握りしめたり、つま先でとんとんと地面をつついたりして、得体の知れぬ植物が自分の体から生えていないことを確かめているみたいだった。


「もう平気?」

「……あ、ああ。……あんた、いったい何したん?」

「おまじない」


 はぐらかすような理楽の答えに、アイは首を傾げていたが、それ以上は何も訊かずに「まあ、なんかありがとな」とうなずいた。”花”をひとまず抑えこんだことで、暴力的な気分も影を潜めたようだった。

 会釈して背を向けるアイに、理楽は、


「あ、ちょい待って」


 ん、とアイが振り返ったところへ、理楽は小さな銀紙包みを投げた。目をぱちくりさせて、アイはその銀紙包みのチョコレートを受け取る。


「おみやげ」


 理楽が手を振ると、アイは今度こそ、背を向けて去っていった。もう会うこともないかもしれないし、どこか街中でひょっこりと顔を合わせるかもしれない。向こうに未練がないようなら、たぶんそれきりだろう。そういう、運命としか言いようのないこの世のありようを、理楽は信じていた。


 彼女の手の中で、一対の葉はすでに枯れ落ちていた。路上に広がっていた巨大な花もしおれて、地面に溶けて消えようとしている。”花”がどこから来て、どこに行くのか。それは理楽も知らない。それを知っていた唯一の人物は、もうこの世にいない。


 体の芯にけだるさを残したまま、彼女は、静まりかえった路地に立ち尽くしている。黒のニーハイで固めた両足が、路地の暗黒と同化して、理楽をそこに縛り付けているようだった。それとも、自分は最初からこの悪所の一部分でしかないのかもしれない、と思う瞬間もある。ここから抜け出し、歩き出すための途方もない力は、理楽の身の内からはなかなかわき上がらない。


 彼女に帰る家はない。十年以上苦しめられ続けた父親の暴力から逃げ出したのが、今年の三月のこと。それ以来、一度も家には帰っていないし、そのつもりもなかった。帰ればきっと、殺される。


 理楽の容姿と”千虹菫”の香りがあれば、男を誘うことは造作もなかった。そうして一夜の宿を得ることに、すでに彼女は慣れていた。しかし、今夜はどうもそんな気分にならない。すこし前、釘を刺すように言われたささいなひとことが、ちくりとする胸の痛みを残していた。


 理楽は、スマートフォンからアドレス帳を呼び出して、ひとりの友達を呼び出す。彼女はまだ、理楽を突き放したりしないはずだった。


「……ソフィちゃん? あーし。今夜泊まれる?」


 ひょっとしたら、雪衣も、そこにいるかもしれない。

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