きっかけなんてそんなもの

塩畑 どら

第1話

「おはよう」

「おはようございます!」

 先輩に後ろから声を掛けられて、田中春矢は振り向いて挨拶をした。

 廊下を少し歩いて部屋に入るなり、自分の椅子にどっしりと座って「よし」と気合いを入れてから仕事を始めた。

 こういう日は度々昔のことを思い出す。高校時代なんてだいぶ遠くにあるように思うけれど、不思議と鮮明に脳裏に浮かぶ。きっかけなんてそんなもの。そう思いながら春矢は手を動かし、気の赴くままに過去に思いを馳せた。


 高校に入学して数日のこと、昼休みの途中、一年三組の教室の戸から、

「田中ってやついる?」

という声が聞こえた。

 条件反射で立ち上がり、そのまま戸の方まで歩いていくと、呼んでいた男子学生が、

「あれ?田中って女なの?男かと思ってた」

と言った。見ず知らずの生徒にそう言われても知ったことではない。春矢がそう思っていると、横から他の生徒が、

「春矢って男みたいな名前だから間違われやすいんだよなあ」

と茶々を入れてきた。

「ほっといて」

 春矢は一蹴して話を戻した。

「で、なんて?」

「第三多目的室に来いって」

「何の用だろ」

 春矢がふらふらと教室から出ようとしているのを見て、小走りで後を追ってきたのは幼馴染みの実摘だった。

「どうしたの?」

「第三多目的室に来いってさ」

「誰に呼ばれたの?」

「あ」

 左右を見回すも、伝書鳩はもういなかった。

「まあ、行けばわかるじゃん」

 春矢が廊下を歩きはじめてしまったので、世話焼きの実摘はついていくしかなかった。

「第三多目的室ってどこだ?」

 二人は慣れない校舎の中をうろうろして、ようやく辿り着いた。

 こんこん、というよりはごんごんという音を立ててから春矢は戸を開けた。

「失礼しまーす」

 第三多目的室とは名ばかりの物置部屋は、教室の四分の一ほどの大きさで、古くなった机や棚、適当に積み上げられた段ボールなどで床の半分は埋められていた。

 まさに物置部屋。物が置いてあるだけで、人の姿が見えない。誰かがすぐそこにいて、返事が聞こえるのを想定していた春矢にとっては、肩透かしを食らったような光景だった。

「あら誰も」

いない、と言いかけたとき、奥のカーテンが揺れて、その端から手が出てきた。

「はあい。あなたは」

 声の主はその手でカーテンを少しだけ引き、顔を春矢に見せた。狭い物置だと思ったが、奥にもう少し空間があるようだ。

「一年の田中春矢です。呼ばれてるって言われて来たんですけど」

「呼ばれてる?見学に来てくれたのかしら?」

「は?」

 春矢が口を開けたまま小首を傾げると、相手も鏡のように小首を傾げた。

 カーテンから顔を覗かせたのは髪の長い女子学生で、どことなく大人っぽいのできっと上級生だと春矢は推測した。

「あら見学じゃないの?」

 言いながらカーテンを体に滑らせ、彼女はするりと奥の部屋から出てきた。

 背は春矢よりやや低め、すぐ後ろにいる実摘と同じくらいだろうか。制服の改造は一切せず、伝統的な着こなしをしているせいか、上靴が妙に似合っている。

「ちょっと待ってヒナタさん、それ人違いじゃないすか?」

 今度はいかにも男子学生という声と身なりが奥から現れた。その奥にまだまだ人がいるのだろうかと思い、春矢は傾げていた首をさらに倒してみたが、カーテンの隙間が狭くて何も見えなかった。

「人違いなの?」

「俺、さっき会った友達に一の三の田中を呼んでって頼んだんすよ。でも二人いたんだな」

「二人?」

「田中が二人」

 何やら二人で話しながら春矢をじっと見ている。そして一瞬の間。じろじろ見るだけ見て人を放っておくなよ、と思いながら春矢は髪の長い方を見返していると、後ろから実摘が、「どうしたの」と状況を知りたそうに小声で話し掛けてきた。

「あなたは一年三組の田中さん?」

 髪の長い方がようやく春矢に尋ねた。

「はい」

「ごめんなさいね、間違えてあなたを呼んでしまったみたいなの。でもね、これも何かのご縁だと思って、ちょっと見学していかない?」

「何のですか?」

「わたし達の研究会。不自然研究会」

 それを聞いた途端、後ろの実摘が春矢のブレザーを引っ張って抵抗した。

「帰ろう」

 耳元で言われたが、春矢は動かなかった。

 春矢の長所であり短所である無防備な好奇心が、じっと部屋の奥をみつめていた。春矢は振り返り、実摘を説得した。

「いいじゃん。見学だけだよ」

 実摘は眉をひそめて無言の抗議を続けた。

「大丈夫だって」

と軽く実摘に言い放ち、春矢はまた前を向いた。

「見学だけですぐ帰ってもいいですか?」

「もちろんよ。さあその辺にお掛けになって」

 春矢はブレザーを掴んだままの実摘の手を振り払い、反対にその手を自分の方へ引き寄せて、無理矢理部屋の中へ入れた。

 その辺にお掛けになってと言われても、見当たるのはガタガタの椅子と机ぐらいなものだったので、春矢はその椅子に腰を下ろし、実摘の手をさらに引っ張って隣の椅子に座らせた。

 小さく溜め息を吐いた実摘は、春矢の表情を確かめた。春矢は大丈夫だと言わんばかりの顔で実摘の膝をぽんぽんと叩いた。

「では簡単に自己紹介をするわね。わたしは三年一組の日向夏子。フシケンの会長です。そしてこちらが会員の横井くん。一年何組だっけ?」

「四組です」

 二人は少し斜めになった机に軽く腰掛けた。

「わたし達はね、日常のあらゆる不自然な現象について話し合って研究しているの」

「へえ」

「例えば、なぜ傘を持っていない日に限って雨が降るのか、とか、なぜ双子が離れていても同じ行動を取るのか、とか、なぜ週に四回は帰り道に同じ子に遭うのか、とか」

「なぜあの人は六十にもなってシワひとつないのか、とか」

 実摘は無表情を貫こうとしていたが、呆れた様子がときどき目元から漏れていた。

「面白いこと考えてるんですね」

 春矢はにやにやしながら言った。

「ところで、あのカーテンの奥はどうなってるんですか?」

 そう、春矢の興味はその一点に集中していた。カーテンの奥に何があって、どんな空間が広がっているのかと勝手に期待を膨らませていた。春矢の興味というのは大抵その程度のものだったが、本人はまともにそれを楽しんでいた。

「カーテンの奥?それはね。内緒」

 うふふと笑いながら人差し指を口に当てて、日向はそれ以上何も言わなかった。

 期待外れの答えに春矢はぽかんと口を開けて驚きの表情を日向に向けた。

「あなたが会員になって、役員になったら開けてあげる」

「ハードル高いですねえ。でも気になるなあ」

 隠されるとそれだけの価値を期待してしまうのが人の性。春矢はますますカーテンを開けてみたくなった。

「あの、見学とは何を?」

 春矢が悪乗りするのを止めるために、実摘はわざと話を戻した。

「この部屋を自由に見て回ってちょうだい」

 見て回るというほどの広さもなければこれといって見るものもない。汚い棚とか段ボールをわざわざ開けることもない、と実摘は思った。唯一目に留まったのは、重なった買い物かごの上に置かれた数学の問題集と「日向夏子」と書かれたノートだった。この人達はただここで宿題でもしているだけで、適当な嘘で自分達はからかわれているのだと見当がつくと、実摘は腹立たしくすら思った。

 それなのに隣の幼なじみはあっけらかんとして立ち上がり、壁に張られた環境美化のポスターをしげしげと見たり、四角い菓子の缶を開けてみたりしていた。

「そのポスターの絵、二年に一度は隣の高校から選ばれるの。全市で募集しているのに、不自然よねえ」

「確かに」

「その缶の中身はね、近くの川で毎週みつけるの。きれいに磨かれたような四角い小石が週にひとつ、川底に落ちているのよ」

「それは誰かが落としているのでは?」

「あら、どんな魚なのかしら?」

「そう来たか」

 思いの外盛り上がる二人を半ば白けながら、半ば心配しながら実摘は見ていた。

「あ、俺ら頭おかしいわけじゃないからね。怪しいもんじゃないよ。説得力ないけど」

 立ち上がって椅子から離れていた実摘に、横井は声を掛けてその場を取り繕おうとしたが、

「ふうん」

と気の乗らない返事で実摘は会話を閉じた。

 横井は口を一文字に引いて少々落胆しているようだった。

 何度見渡しても同じくだらない画面を、ときどき目を閉じて掻き消し、実摘は二人が遊び終えるのを待った。馬鹿馬鹿しくて話の内容も頭に入ってこない。ただ笑い声だけが耳についた。

 そこへようやく待ちわびたベルの音が、廊下のスピーカーから聞こえてきた。

「ベル鳴ったよ。帰らないと」

 実摘は日向から春矢を引き剥がすように腕を掴んで自分の方へ寄せた。

「あらほんと。もうこんな時間」

 腕時計を見て、小さく驚いた顔をする日向。今がチャンスだとばかりに実摘が失礼します、と言おうとする一瞬前に、日向は春矢に一言声を掛けた。

「ねえあなた、明日もいらっしゃいな。あの部屋が気になるんでしょう?」

「明日も来たら見せてくれるんですか?」

「はるちゃん!」

 掴んだ腕にぐっと力を掛けるが、春矢はそれに振り向きもしない。

「あのね、わたしを楽しませてちょうだい。それでわたしが満足したら、特別に見せてあげるわ」

「と言いますと?何をすれば?」

 日向はいたずらを含んだ笑みを見せ、それから突然、

「まあポチ、どうしたの?お腹が空いたの?」

と言いだした。

 春矢はもちろんのこと、春矢の腕を掴んだままの実摘もぽかんとして固まった。

 日向の視線は明らかに春矢に向いているのだが、春矢はポチではないはずだ。日向の意図を訊こうと目を見開いてみつめ返してみても、日向は表情を変えない。

 仕方がない、何もわからないが次にやってみることはひとつだ、とばかりに春矢は日向の様子を窺いながら返した。

「わ、わん?」

 それを聞いて思わず実摘は春矢の顔を覗き込んだ。それと同時に、少し高い日向の声が狭い部屋に響き渡った。

「やっぱりそうなのね!じゃあお手をしたらご飯をあげましょう。はい、お手」

 日向が左の手のひらを上にして差し出すと、条件反射のごとく春矢は右手をその手に乗せた。

「偉いわね!さあ、ご飯をどうぞ」

 素早くブレザーのポケットから取り出されたのは小さなチョコレートの袋だった。

 春矢は「わん」と言いながら、迷いなく左手でそれを受け取った。

すると、日向は両手を合わせてパチンと音を立て、楽しそうに笑った。

「わたしの見立てのとおりだわ。あなた、面白いじゃない。また明日もいらっしゃいよ」

「考えておきます」

 すかさず実摘が顔を出し、そのまま春矢を引きずって戸の方に向かった。

「ありがとうございます」

と、手に掴んだチョコレートを振る春矢に、日向はにこにこしながら右手を小さく振っていた。

 第三多目的室を出て、廊下の角を曲がったところで実摘はようやく春矢の手を離した。予鈴が鳴ってから三分は経っていたから、歩く速度はそのままに、並んで教室へ向かった。

「もう!変な人に絡んじゃだめ」

「変わった人だったけど、悪い人じゃなくない?面白かったし」

「どうして一度見ただけで悪い人じゃないってわかるの」

 実摘は少し苛立ちながら春矢をたしなめた。暇を持て余している春矢があっちへふらふらこっちへふらふら回遊しているのはいつものことだが、実摘はそれに毎度頭を悩ませていた。

「ねえ、あのカーテンの向こう、気にならない?」

「人の話を聞きなさい!」

 このとき実摘には翌日の予想がついていたが、あえて認めないでいた。春矢が跳ね回るのを止めることはできない、けれども怪我をしないように紐をくくりつけて軌道修正することはできる。だから実摘はその紐を常に手放さずにいた。

 ごんごんごん、と戸を叩き、半分ほど開けた。案の定、翌日の昼休みにも春矢は第三多目的室の前に立っていた。そしてその横には実摘が監視役として立っていた。

「はあい」

 昨日と同じようにカーテンを引きながら、日向が顔を出した。

「あら、本当に今日も来てくれたの?嬉しいわあ」

 手のひらを合わせて右頬の横に持っていき、満面の笑みを浮かべながら一歩前へ進むと、急に顔色を変え、眉間に皺を寄せた。

「して春矢。奴の居所は掴めたのか?」

心持ち声を低く重くして、日向は言った。

「ほ?」

 春矢は口を縦に開けたまま、固まった。その横で実摘は日向から目を逸らし、聞こえないくらいの小さい溜め息を吐いた。

「忍のお主にはたやすいことであろう?」

 日向は間違いなく春矢の目を見て言っている。この人はいったいどうしたのだろうか、何を言っているのだろうか。三秒考える。読めない。わからない。ならばとりあえずいつものように。

「み、みつけたでござる」

 深く考えずに話の流れに乗ってしまうのが春矢の癖だった。

「さようか。奴はいずこに?」

「あの山の麓に小さな茶屋がござる。そこにいるでござる」

 カーテンの奥から控えめに笑う声が漏れ聞こえた。

「茶屋?」

「茶屋でござる。みかんの柔らかい菓子が美味でござる」

 春矢が指差した方向には斜面に広がる住宅地があり、その手前には喫茶店が一軒ある。そこの名物はオレンジのショートケーキだった。

 日向は笑いたいのを堪えていたが口元が緩くなっていた。それでも口調を変えずに会話を続けた。

「では春矢よ、奴を捕らえよ。そして我が城へ連れてくるのだ」

「が、合点」

 話の流れを止めずに、いかにうまく振る舞うか。特に意味のない春矢自身の戦いは続いていた。目をぐるぐる回し、必死で次の句を考えた。

「ところで姫、奴を捕らえてどうするおつもりで?」

 相手に話を振ってしまうのは少し卑怯な気もしたが、会話が澱んでしまうよりましだと春矢は判断した。

「話を聞くのだ。なぜあの巻物を盗んだのか」

「なるほど。それは確かに聞いておかねばならないでござる」

「そういうことだ。話がわかったなら、さあ、ゆくのだ春矢!」

 日向は右腕を伸ばし、人差し指を戸に向けて突き出した。

「はっ!」

と言って春矢は第三多目的室から飛び出した。

「はるちゃん!」

 慌てて実摘は閉じてしまった戸を再び開けようと把手に手を掛けた。すると同時に扉が開き、危うく突き飛ばされそうになった。

 驚いて戸から二歩下がるのと同じ拍で春矢が扉を半分開けたまま半身を部屋に入れてきた。それを見て遂に日向は笑い声を上げた。春矢は何かを言おうと口を開けたが、それに気付かない日向は笑ったままだった。

「あなた、本当に飲み込みが早いのね。とても面白かった。もう少し続けようかなと思ったけれど、充分に楽しんだわね。はい、どうぞ」

 片足を廊下に放ったままの格好で春矢は目をしばたたいた。よく見ると日向の右手には丸いものが乗っている。

 その右手に近付きながらそろりと左手を伸ばし、戸の把手から右手を離した。そして日向の目の前に立つと、春矢の左手の上に丸いものが落ちてきた。

「マドレーヌだ!」

「おいしいから食べてね」

「ありがとうございます!ところで」

 マドレーヌをしっかり握ったまま春矢は肝心な話を切り出した。

「カーテンの向こうは?」

 日向は目を少しだけ細めて余裕の笑みを浮かべた。

「まだね。もっとわたしを楽しませてほしいわ」

「日向さんは妥協を許さないからなあ。ここに入りたいならまだ通わないと」

 カーテンの奥から出てきたのは昨日もいた横川という一年生だった。

「そうそう。気になるだろ?」

「もう一人出てきた!」

 思わず心の声が外に出てしまった。春矢は目を丸くしてもう一人を見た。横川の後ろから続けて姿を現したのは目の細いひょろっとした男子学生で、四角い目をした小柄な横川と並ぶと凸凹コンビのようだった。

「あれ?うちのクラスにいない?」

「お、よくわかったね」

「ていうか田中君じゃなかったっけ?」

「そ」

 実摘に指を差されてへらへらと笑う田中。春矢は二人を交互に見てから小声で実摘に問い掛けた。

「みっつん、なんでわかったの?」

「たまたま思い出した」

「聞こえてますけどー。ほら、田中が二人いるうちの一人よ」

 田中は自分と春矢を指して言った。

 昨日間違えてこの場所に呼ばれた春矢だったが、本来の田中はこの田中涼哉のことだったらしい。

 高校生活が始まってまだ数日なのに、もうクラブのようなものに入って和気藹々としているのを不思議に思った実摘が話を聞いたところ、高校に入る前からの知り合いで元から仲がよかったということだった。

 これは研究会でも何でもなくて、ただの昼休みの暇潰しなのではないかと呆れる実摘に対して、春矢はそんなことお構いなしで、カーテンの向こう側が気になって仕方がないのに変わりはなかった。

 不自然研究会の本日の議題は涼哉が持ち出した「不自然な雨」。この一週間の中で、四度も通り雨に遭った。しかもずぶ濡れになるほどの雨。これはおかしい。そういった話を、コーヒー牛乳片手に涼哉はだらだらと披露していた。横川は適当に話を聞きながら、ときどき春矢と実摘に相槌を打たせようとした。日向は真面目そうな顔をして、何やらノートに書き留めていた。

 いつまで続くのかと、実摘が半ば苛立ちを顔に出そうかと思ったとき、ちょうど予鈴が鳴った。実摘は肩で息をして疲れを落とした。

「帰るよ」

 実摘が春矢の背中を叩くと、

「また明日ね」

と日向は二人に向けて手を振った。

 昨日と同じように廊下を曲がったところで実摘は春矢に話し掛けた。

「明日は行かないよね?」

「これデパートのマドレーヌだよ!」

「人の話を聞いて」

「はい、何ですか?」

「明日は行かないよね?」

 むっとした顔をして実摘は詰め寄った。

「え、でも気になるじゃん」

「ならないよ」

「マドレーヌ半分あげるから」

「いらないよ」

 そんなことを言っていたのに、春矢は第三多目的室に行くのをやめないし、実摘も結局付き添ってしまうのだった。

 日向に会う度に春矢は一発芸を披露するかのように何にでもなりきった。それが担任だろうが猫だろうが、木だろうが、話に合わせてなってみせた。春矢は暇だから元気が余っていたのだ。それを見て日向はもちろん、横川と涼哉までが笑っていた。

 二週間ほど経った頃、日向を訪ねて戸を開けると、日向は春矢の顔を見るなりこう言った。

「いらっしゃい、蒲鉾ちゃん」

「かま?ぼこ?」

「あらやだ、うっかり言っちゃった。あなたの寸劇も板に付いてきたわねって今話してたの」

 二週間通ってもカーテンの奥は見せてもらえず、ただ友人が馬鹿にされただけだと思うと、実摘は耐えられなかった。

「はるちゃん!」

 春矢の手首を力任せに掴み、睨みを利かせた。痛くて驚いた春矢とは別に、きょとんとした顔をした後でクスッと笑う横川がいた。それに気付いた実摘はそのまま横川に視線をずらした。

「ごめん、怒らないで。たださ、二人ってすごく仲良くて、言葉は要らないんだなって思って。毎日見てたら姉妹っていうか双子みたいに見えてさ」

「は?本物の双子に言われたくないし」

 実摘は横川と涼哉を顎で指しながら、不機嫌な視線をぶつけた。

「え?」

 実摘と春矢以外の三人が同時に声を上げ、続けて涼哉が言った。

「なんで俺達が双子だって知ってんの?」

「双子なの?」

 春矢がすかさず口を挟む。

「おんなじ匂いがするじゃん。何とぼけてんの?」

「実摘ちゃん、匂いって何?」

 不思議そうな顔で日向は首を傾げた。

「だからその人の匂いですよ。二人はほとんどおんなじじゃん。同じ学年なんだし双子でしょ」

「そういうの、わかるものなの?」

「わからないんですか?ねえ、はるちゃん」

「え、あたしもわかんない」

「え?」

 しばしの沈黙。それを破ったのは日向だった。

「実摘ちゃん、あなたを役員に選出します!カーテンも開けてあげるわ」

「あたしの苦労は?」

 あんぐりと口を開けて春矢は抗議した。

「あなたも一緒にご覧なさいな」

 目を輝かせて春矢に言った日向だったが、その眼差しのほとんどは実摘に向けられていた。

「では開けるわよ」

 日向はカーテンの端を軽く持ち、ゆっくりと横に引いた。少しずつ視界が広がるのを、首を前に出してわくわくしながら春矢はみつめた。

「お?おお?」

 カーテンが開ききったところで春矢達が目にしたのは、教室と同じ机が四つに椅子が六つ。そしてその狭い空間にびっしりと大小さまざまなぬいぐるみが詰め込まれていた。その全員が春矢達をじっとみつめているようにみえる。妙だし落ち着かないと思う反面、春矢はこの小さな空間が別世界で面白いとも感じた。

「何してるんですか?」

 実摘は顔を引きつらせて、カーテンに近付こうとすらしなかった。

「ここでみんなとお話して研究しているのよ。仲間は多い方が楽しいでしょ?」

一匹の狐のぬいぐるみを抱き上げながら、日向はうふふと笑っていた。

 それからというものの、春矢は会員になった気分で不自然研究会に顔を出し、実摘は付き添いに加えて、他人との感覚の差異を確かめるという目的で日向達と頻繁に顔を合わせることとなった。

 春矢の日課は一年近く続いたが、日を重ねてもこの研究会が何なのか、よくわからなかった。実摘は、ただ適当に名前を付けて遊んでいるだけだと判断した。

 二月のある日の放課後、実摘に付き合って図書室にいた春矢は、背表紙のきれいなものをみつける遊びに飽きて、実摘に話し掛けた。

「日向さんはさあ、不自然研究会っていうけど、いちばん不自然なのは日向さんの話し方とか仕草だよね。いつの時代のドラマだよって思う」

「まあ、確かにね」

 にやにやと悪い笑みを浮かべる春矢に目もくれず、実摘は本を探しながら簡単に返事をした。

 するとその直後、上の段から本が一冊落ちてきて、真下にいた春矢の頭に直撃した。

「いてっ」

 大きな声を出した春矢に、他の利用者からの冷たい視線が刺さった。慌てて両手を口に当てながら周囲に目を向けると、黙りこくった生徒達に紛れて、よく見た人影がすっと通り過ぎた。

「日向さん」

「大丈夫?もう、はるちゃんが悪口言うから本が落ちてきたんじゃないの?」

 その瞬間に、実摘の言葉を否定できない何かを感じたのは気のせいではない、と春矢はその先ずっと思っていた。

 それから数日後、突然日向は卒業間近で学校を辞めてしまった。理由も何も言わないまま彼女は姿を消した。別れの挨拶は、春矢と実摘の机の中に残された小さなカードだった。ただ一言、「また、いつか会いましょう」とだけ書かれていた。


「春矢ちゃん!準備できてる?」

 不意に鏡越しに目が合った先輩に、はっとして我に返った。

「できました!」

 春矢は勢いよく立ち上がり、部屋から出た。

「緊張してる?」

「まあ、ぼちぼち。でもわくわくしてるかも」

「位置だけは間違えないでよ?」

「はい!」

 暗い床の上を滑るように歩き、自分の立ち位置を確かめる。鼓動が少しずつ早くなる。聴覚が研ぎ澄まされ、ざわめきがくっきりと音になって聞こえる。

 ぱっと視界が開けたとき、どんな風景が待っているのか、春矢にとって、いつもその好奇心が仕事の原動力になっていた。それを胸に留めながら神経を集中させる。

 ブザーが鳴った。静けさが耳に響く。一度だけ深呼吸をすると始まる。

 今、初日の幕が上がるのだ。

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きっかけなんてそんなもの 塩畑 どら @chocolate-stew

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