112-54 嗚咽治めに
「『かの者の深きに巡り、心肺穏やかにその意識に安寧を齎せ』《
柔らかく、少し暖かい光がわたしの身体を包む。
……でも、何も変わったようには思えなかった。
「え、全然治まってない!? そこまで!?」
マリューが驚きの声を上げる。
多分、この吐き気の症状を緩和する魔法を使ってくれたのだ、とは思ったけれど、全然楽にはなっていなかった。
変わらず、わたしは呻き続ける。
わたしの肩を支えるマリューは、頭を抱えて悩み、そして唸った。
「これは、学院長に頼るしかない、か……」
呟くや否や。
「サクラ、立てる!? ほんとごめんね、でも私じゃこのノロイ解除できないから…… 学院長にお願いして、特大の解呪魔法使ってもらうけど、良いよね!?」
「ぅぐ…… う、ん……っ」
断る理由があるはずもないので、吐き気に耐えながら、なんとか頷いた。
マリューがどこかからか引っ掴んできた皮袋を、わたしは震える手で受け取って、肩で支えられながら、研究室を出て学院長室に向かう。
時折、不意に吐き気が強まり、否応なく苦い液体が胃から遡ってきて足を止めさせてくる。
お腹が痛くて、胸焼けがひどいし、喉も熱くひりひりしてきた。
呼吸もつらくなってきて、喉を空気が抜ける時に、笛のように、ひゅー、と鳴る。
「さ、サクラ、血は、吐かないでよ! 血まで吐かれたら、私が罪悪感で死んじゃう!」
さすがに血を吐くだなんて、と思った。けれどすぐに、お腹や喉の痛みを思い出して、ちょっと心配になってきた。
呼吸も充分にできていないからか、意識も少し朦朧としてくる。そこに、現実逃避してしまいたい、という気持ちも加わって、半ば意識が飛び始めて、意識が飛んだ分、不安の気持ちが増してくるようだった。
──わたし、大丈夫かな……
ちょっとだけ、怖くなった。
冬休みで人が少ないお陰で、道中は誰とも出会うことなく、どうにかこうにか学院長室にたどり着く。
ノックもなくマリューが乱暴に学院長室の扉を開け放つと、なんらかの気配を察していたのか、窓際の席を立ち、待ち構えるようにしていた学院長が驚きの表情になった。
「何事じゃ」
「実は、サクラが私の盗難防止魔法に当たっちゃって、吐き気が止まらなくなっちゃったのよ!」
「……はあ!?」
学院長の顔が、さらに驚きの色を濃くした。
「という訳だから、とにかく《
「な…… いや、しかし……」
「いいから!」
なぜか学院長は渋るように口籠ったけれど、『既設魔法陣』とか『特大』とか、いろいろ大変な話なのかもしれなかった。
というか、そんなに大仰なことをしなければいけないほど、今のわたしは大変な状況なのか、と内心で驚きながら、自分からもお願いしなくては、と吐き気の合間を縫ってなんとか言葉を紡ぐ。
「お願いっぐ、ぅ…… します……」
わたしのそのお願いで納得してくれたのかは分からないけれど、悩むようにしていた学院長が、ひとつ頷いた。
「……分かった。準備をするでな、先に陣の部屋に行って待っておれ!」
「はいよ!」
許可が出るなり、マリューはわたしを連れて学院長室を出た。
少し強くなってきた雪の降る庭を抜けて、いくつかあるなだらかなドームのうちのひとつの手前の階段を降り、半地下の部屋に入る。
ひとりでに灯った明かりに照らされたそこは、そこそこ広い円形のだだっ広い無機質な部屋で、足元にはなんらかの丸い魔法陣が刻まれていた。
マリューに支えられたまま、その魔法陣の中心に至る。
「多少楽になったら良いんだけど…… 『かの魔法を弱化せん。その身の深きに染みて繋ぎ、思いに向かうその道を妨げよ』《
優しい感覚が身体に染み込んでいく。
意識がぼんやりして、感覚が鈍る。足腰が立たなくなって、ぺたん、と力なくその場にうずくまってしまうけれど、少しだけ気分は楽になったように思えた。
それでも、胃が縮み上がる感覚は未だに治まることなくわたしを襲い続けているし、そんなお腹から口にかけての違和感も消え去ったわけではないので、直接的な苦痛が和らいだだけらしい。
マリューはわたしの身体と、わたしが持っていられなくなった皮袋を支えながら、背中をさすり続けてくれていた。
そして、わたしたちの到着から少し遅れて、学院長がやってきた。
黒く控えめな装飾の施されたローブを纏い、先に付いた宝玉が怪しく光る立派な杖を携えて、少し息を乱して魔法陣の縁で立ち止まった。
そこで学院長は杖を構えながら、一言。
「本当に始めるが、構わんのじゃな?」
「当たり前でしょ!」
念押しの確認に、マリューが吠えた。
わたしはなんとか肯定の意思を示そうと、麻痺してよく動かない身体をどうにか動かし、大きく頷いた。
それを確認した学院長は、静かに目を閉じる。
「ならば……」
詠唱はなかった。けれど、学院長が杖を構えると、足元の魔法陣がぼんやりと光りだし、周りの空気がゆっくりと動き出した気がした。
静かに時間が過ぎる。
少しずつ、ともすればじっと見ていると気づけないほどゆっくりと、魔法陣の光は強くなり、何分が過ぎたのか、いよいよ眩しさを覚えるようになったころ。
「トタッセン先生! 先生も手伝わんのか!」
突然そんな叫びが聞こえた。
「私はサクラを介抱してあげなくちゃいけないから、むーりー」
学院長の言葉を、マリューは案外軽い調子で跳ね除けた。
学院長が何か言いたそうにしている気配を感じたけれど、結局何も言うことはなかった。
一方で、なぜかマリューが満足そうに鼻を鳴らしていた。そして、わたしの背をさすりながら。
「落ち着いたら、レジストについて一緒に考えようね…… あと、《
わたしは呻きながら頷いていた。
ちょうどその時、学院長の魔法が完成した。
「では行くぞ! 《
学院長が高らかに発動詠唱を行い、わたしとマリューは、目も開けていられないほどのまばゆい光に包まれた。
◇
「……はっ」
気がつくと、花畑の中に立っていた。
一瞬、その状況を理解できず、慌ててここまでのことを思い出して──少しずつ、落ち着きを取り戻していった。
結局あの後、ノロイは無事に解呪された。
……ただ、〝光に包まれた〟ことでちょっと嫌なことを思い出してしまって、ノロイとは別の理由で、少し気分が悪くなってしまった。
どうしたの? というマリューの問いに、ちょっと嫌なことを思い出しちゃって…… と返したところ。
「何!? 何か思い出したと言うのか! 一体、何を思い出したんじゃ!?」
と学院長が詰め寄ってきてびっくりしたり、
「あ、あの…… 前世で、死んだ時のことを思い出して……」
と答えたら、マリューが学院長をはたき飛ばしてさらにびっくりしたり、なんてことはあったけれど、結果的には学院長のお陰で、やっと落ち着くことができた。
その後は、わたしも体力が底をついていたし、安静に、ということでマリューの部屋に戻った。
本当はお風呂に入りたかったけれど、そんな体力の余裕もなくて、そのまま眠り、目が覚めたら、またこうしてここに来ていた。
振り返ると、やっぱりあの古い魔法使いさまが座っていた。
テーブルには、いつものように湯気立ち上る紅茶のカップが置かれている。
「こんにちは」
にこりと微笑み、古い魔法使いさまが対面に空いた椅子を指す。
「あ、えっと、お久しぶりです」
挨拶をしながら、お呼ばれした。
紅茶はいい香りがしているけれど、さっきまで吐き続けていたこともあって、あまり口をつける気にはならなかった。
「あら、今日は紅茶はいらないかしら?」
「あ、あの…… すみません、今日は、ちょっと……」
古い魔法使いさまは、わたしのそんなちょっとした様子に気がついたらしい。
「ふふ。気にしないで」
そして、古い魔法使いさまが指先をひとつくねらせたと思ったら、目の前のカップは洗った後のように綺麗に空になった。
ぼんやりとまわりの花畑を見る。
前回ここに来たのは──王都に来る直前、夜中に凍死していた頃だったかな、と思い出す。
わたしは死にかけるとここに来るのかな、と思った。
「感じるわ」
唐突に、古い魔法使いさまがそんなことを呟いた。
あまりに突拍子のない言葉に、思わず、え? と声が漏れてしまう。
「そろそろ、来る気がするの。良いとも、悪いとも言えないけれど、ね」
「あ…… は、はい……」
「気をつけて、ね?」
にこり、と微笑みかけられて、わたしは頷きつつ、一体何に気をつければ良いのだろう、と思う。
そこで、単純になにに気をつければ良いのか訊いてしまえばいい、とまでは思い至ったのだけれど……
しかしそれを訊く間も無く、わたしの意識はまた白に飲まれていた。
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