112-53 ノロイ

 また幾らか日が経ったころ。

 十二月も半ばをとうに過ぎ、年の瀬を感じる頃合いになってきたけれど、こちらの世界の年の瀬は、特別に何かするということはなかった。

 当たり前だけれど、クリスマスがあるわけもなく、また、新しい一月を迎えるからといっても、特にそれを祝ったりするようなことはないらしい。

 だから、学院の中はいつもとなにも変わらない。

 たまにマリューについて学院外に買い物なんかをしに行くこともあるけれど、町にもこれといって変わったことは見当たらなかった。

 そんな、これといって慌ただしさのない年の瀬に、少しだけ寂しさを覚えなくもない。

 いつも通りの穏やかな毎日が過ぎていく。


 ……でも、その日の朝ばかりは、わたしとマリューの二人で珍しく慌ただしくしていた。

 まぁ、なんてことはない。ただ、どういうわけか、その日は二人して寝過ごしてしまったのだ。

 普段なら、八時前にはマリューの研究室にいるのに、目が覚めたときには時計はもう十時過ぎを指していた。

 お腹のあたりが、きゅっとなる感覚を覚えたのはいつ振りだろう。

 別に始業時間が厳密に決まっているわけでもないし、急ぐ用事も仕事もあるわけではないのだけれど、遅れている、と思うと、なんだかやたらと気持ちは焦ってしまう。

 マリューも寝過ごしたことに慌てているものだから、マリューの焦りにあてられて、わたしもなおさら焦燥感に駆られてしまっていた。

 取り急ぎ最低限の身だしなみだけを整えたら、二人して転げ出るように部屋を飛び出して、そのままわたわたとマリューの研究室に飛び込んでいた。


「はぁ…… ごめんね、急かしちゃって……」

「ううん、大丈夫……」


 研究室に飛び込んで、ひとまず一息つく。

 夜更かしした覚えはないんだけどなぁ…… というマリューの呟きを右耳に聞きながら、わたしはとりあえず乱れた呼吸と焚きつけられた焦燥感を落ち着けようと、水瓶からガラスのコップに水を注いで飲む。

 ついでに、マリューが育てている謎の植物にも水をあげようと、窓際に近づいたところで──


「あ、雪だ」


 窓の外に、雪がちらほらと舞っていることに気がついた。

 今はまだおとなしい振り方だけれど、空の暗さを見るに、これから本降りになってもおかしくなさそうに思えた。


「わぁ、ほんとだ。あー、これは結構しっかり降りそうな予感がするねぇ」


 マリューも同じような見立てらしい。わたしよりもずっとこちらの気候に詳しいだろうマリューがそう言うのだから、きっとそうなるのだろう、と思った。


「今年は積もるかもね」

「……クライアさんに、ミフロの辺りはあんまり雪は降らなくて、降るときはまとまって降る、って聞いたんだけれど、今年は積もるくらい降りそうなの?」

「え、うーん、今季を通してどうなるかはよく分からないけど…… この辺りのここ何年かは、積もるほどは降らなかったからね。そろそろ積もってもおかしくないかなって思っただけだよ」

「そう……」


 窓の外を見る。

 ちょっと話していたこの一瞬で、雪の勢いが少し強くなっている──気がした。

 ミフロでも、今頃雪は降っているのだろうか。そして、雪は積もるのだろうか。

 ぼんやり、とミフロのことを思う。


「…………うち、雪の重さで潰れないかな」

「あっはは、それはさすがに…… まぁ…… あんまり強くは否定できないけど、ミフロの方はこっちよりは積もる量も少なかったはずだから、大丈夫じゃないかな……」

「だといいなぁ……」


 ミフロの自宅のことを思い、ふぅ、とひとつ息を吐く。

 と同時に、ぐぅ、とお腹もひとつ鳴った。

 寝過ごした、と慌ててマリューの部屋を飛び出してきたものだから、朝ごはんなんて食べられていなかったことを思い出す。


「ふふ。とりあえず、朝ごはん代わりに砂糖多めの紅茶でも飲んでから仕事しよっか。どうせあとちょっとでお昼だしね」

「そうだね」


 マリューが紅茶を淹れてくれた。

 そして、そこに砂糖が惜しげもなく大量投入されている。

 もちろん、砂糖は高級品である。

 さすがに二ヶ月近くここで生活を続けているので、多少は慣れてきたけれど、それでも適量を遥かに超えた量の砂糖を、どばどば、と投入されると、もとより貧乏性のわたしはそわそわしてしまう……

 まだ治り切っていなかった焦燥感と合わせて、嫌に落ち着かない気分が再燃しつつ、わたしは甘ったるい紅茶をちびちびすすりながら資料整理のお仕事を始めた。



 微妙に気疲れしたまま仕事をしていても、そわそわと落ち着かない気分はなかなか治らなかった。

 いつもなら、ときどき時計を確認した上で、仕事のキリのいいところで迎えている正午の鐘も、今日は鳴って初めて気がついた。

 心ここに在らず、というか……

 どうも、いつもの調子が出ない。

 んー、と唸り、とりあえずお腹もぺこぺこなので、ご飯を食べて気分を改めようと思う。

 マリューは一緒に行けるのかな、とそちらを向くと……

 なにやら、マリューは机の上を引っ掻き回していた。

 おまけにその表情は少し険しくて、穏やかではなさそうに見える。


「マリュー、どうしたの……?」

「あ…… いや、あの、本が、なくて…… あの本をなくすのはちょっと…… いや、結構──かなりまずいんだけど…… あれ……?」


 いいながらも机の上を引っ掻き回すマリュー。

 いつになく大惨事の机だけれど、器用にものを落とすことがないのはすごいと思う。


「本って、なんの本?」

「あぁ、えっとね…… 研究の資料というか、まとめというか、なんというか……」

「……ん? 中を見られたりしたらまずいやつ?」

「中を見られるとまずいというか…… 見られてもまずいんだけど、とにかく失くすとまずい、本当にまずい。死人が出るレベルでまずい……」

「そ、そんな大仰な……」


 どうにも歯切れの悪い、曖昧な説明になっているけれど、マリューがそれだけ取り乱すほどに、話は大事なのかも知れない。

 いや、むしろ、マリューもお腹が空いているだろうし、空腹で思考力が落ちているのかも。

 そういう時は大概、探し物はびっくりするほど簡単なところにあるものだ。わたしも今は、他人の事をいえないくらいには、ぼーっとしているかも知れないけれど、それでも他人の目から見れば、探し物はすぐに見つかってもおかしくはない。


「ねぇ、マリュー。その本って、どんな見た目の本?」

「あぁ、えー…… 赤黒くて、金の模様が入ってて…… 表紙に髑髏のレリーフが付いてる……」

「え、なにそれ…… 怖い……」


 予想外におどろおどろしい見た目の情報が出てきた。

 それに若干引きつつも、そんな見た目の本が何冊もあるとは思えないので、分かりやすい見た目なのだ、と捉えて、まずはぐるりと部屋の中を見回してみる。

 そうしたら、それだけであっさりそれらしいものが目に入った。

 出入口のすぐそばにある棚の上に、赤黒い色の本がある。近付いて見てみると、今聞いた特徴的な見た目の──髑髏の意匠の付いた本だ。まず間違いなく探し物はこの本なのだろう。

 だからわたしは、当然、その本をマリューに届けようとする。


「ねぇマリュー、その本ってこれじゃないの?」

「……え?」


 持って行くために、ついでにこの距離からでもマリューに表紙を確認してもらえるように、掲げるつもりで本に手を伸ばして──


「……あぁ!? 待って! いくらサクラでも──!」


 その本に手を触れた瞬間。

 ぞっとするような不気味な感覚が、指先からわたしの全身を駆け抜けた。

 それが一体なんだったのか、考えようとするよりもずっと早く──


 ──途轍もなく強烈な吐き気が、わたしを襲った。


「──っ!? ぅぐぇ──っ!?」


 咄嗟に口を押さえて、込み上げてきたものを反射的に飲み込もうとしたのだけれど、その衝動は、自分の意思でどうにかできるような生易しいものではなかった。

 本を汚すわけにはいかない、と慌てて振り返った直後、胃の中にあったものが、一切の抵抗を許さずに逆流して、むせ返ったときのような勢いで、指の隙間から噴き出した。


「サクラぁ!?」


 わたしはその場に膝をついてうずくまる。

 さっきまで飲んでいた紅茶の香りと甘みが嫌に濃く感じられた。

 吐き気はまだ続いている。けれど、寝坊したことで朝から紅茶以外口にしていなかったことは、不幸中の幸いだったかも知れない。


「サクラ! だ、大丈夫!?」

「うっ……ぐふっ」


 吐き気は全く治る気配がなかった。

 もう、さっき飲んだ紅茶は全部吐き出してしまったはずなのに、それでもなお、胃は中身を押し出そうと、全力で縮み上がっている。


 ──なんで、こんなことになってるんだろう……


 なんて、ちらりと思うけれど、まともにそれを考える余裕はなかった。

 断続的に、止めどなく押し寄せる吐き気に涙がこぼれる。

 でも、涙も汚れた手すらも拭う余裕とて全くないほどに、強烈な悪心が容赦なくわたしを襲い続けていた。


「ご、ごめんサクラ! この本には、私以外が触れると吐き気を催させる盗難防止用のノロイが掛かってて──」


 マリューの言い訳のような説明が、随分遠くに聞こえる。

 それを聞いている間も、吐き気は治まる気配を全く見せない。甘ったるかった口の中に、ものすごく苦い液体が遡ってきて、涙の量が増えた。


「で、でで、でも、いくらなんでも効果強く出すぎじゃない!? ねぇサクラ、レジストは!? なんで切ってんの!?」


 あからさまに取り乱したマリューが、何か言っているけれど……


「レジぅっ、ストって…… うぐっふ、なに……?」


 言葉の意味合いから、なんとなくは分かるのだけれど、切るとか切らないとか、その辺りがよく分かっていなかった。

 その辺りが分かっていないだけ、と思っていた。


「な、なにって、魔法に接してたら自然と身につく魔法への抵抗力のこと、で……」


 心配に歪んでいたマリューの顔が、見る間に驚愕のそれに変わって、絶叫した。


「ああぁ! そうか! サクラってば魔法のない世界の生まれじゃん! そりゃ抵抗力もめっちゃ弱いよね! あぁ! ごめん、完全に失念してた!」


 そんなマリューの叫びをいまいち理解できないまま、わたしはわたしは地べたにうずくまって、未だ鮮烈な吐き気に震えていた。

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