106-55 月
廃屋は広くはない。
玄関から入った部屋が一番大きくて、それでも、たぶん八帖くらい。麓の集落の側とは反対側にある玄関の上の屋根は、崩れて落ちている。かまどと、机と、椅子と、何個かの棚があったけれど、最初に見つけた白紙の本以外は、羽ペンと瓶詰めのインク、あとは少しの食器と調理道具が残されているくらいだった。
隣接する部屋には、ベッドが二台と、棚があるだけだ。ベッドは二台とも、布の部分がボロボロに朽ちて、中綿がわりの藁もボロボロになっていた。棚には、ベッドと同じように朽ちた、衣服だったものが少し入っているだけだ。
建物の中は、それだけだった。
建物の外側には、たぶんトイレ的なスペースがあったけれど、なにもなかった。
他には、薪を置くような場所や、その近くには、斧やシャベルや鍬や鋤といった農具類と、鋸や金槌や鑿といった工具類の置き場があった。
そもそも探すようなところが少ないので、ゆっくり丁寧に、時間を掛けて見落としがないように、全てを見て回ったのだけれど、日にちが分かるようなものは何もなかった。
そうして気づけば、太陽も傾いていた。
「あ、暗くなっちゃう……」
電灯は見当たらないので、夜になると身動きが取れなくなりそうだった。
蝋燭も、火を起こすための道具もない。
眠ってやり過ごすにも、そこのボロボロのベッドに横になる勇気は、ちょっとなかった。
そう言えば、何も食べていなかったので、お腹もすいていた。
もちろん、食べ物なんて見かけていない。
脳裏に、クライアさんの顔が浮かんだ。
迷惑だとは思うけれど、頼れそうな人は、今はそれこそ彼女しかいなかった。農業なら少しは知識もあるので、仕事を手伝うことで助けてはもらえないかな、と考える。
とは言え、歩きにくい山道を下っている間に真っ暗になってしまえば遭難しかねない。
わたしは、日没までに下りられるだろうか、と思いながら、窓枠から空を見上げてみて。
「…………え?」
そして、目を疑った。
空に、二つの月が、輝いていた。
見間違いではない。雲や、飛行機ではない。
二つの丸っぽい大小の月が、確かに空に浮かんでいた。
その意味がわかるくらいには、わたしにも知識はあった。
二つの月から目を離せず、思わず後ずさる。
「そんな…… あり得ない……でしょ? ぅあっ!?」
足を引っ掛けて、後ろに転んだ。
そのまま後頭部を床に強打してしまう。
「ぃ……たい…… ……ッ!?」
のたうって、腹ばいになった時だった。
寒気のような感覚が走った。
頭を打ったからだろうか? それとも、痛みを感じながら腹ばいになる、あの時の状況に近づいたからだろうか?
わたしは思い出した。
思い出してしまった。
「あの時」
おばあさんもろとも倒れ込んだ時。
「わたしの首に」
わたしの首に、ナイフが突き刺さったこと。
「そのまま……」
そのまま──
──わたしは、死んだんだ。
わたしは、大声で、泣いた。
自分が死んだことより何より、両親を残して死んでしまったことが、申し訳なくて、つらくて、とにかく悲しかった。
なんの恩返しもできていないのに、まだこれからだったのに。
その機会は永遠に絶たれてしまった。
おとうさん、おかあさん、と。
ごめんなさい、ごめんなさい、と。
わたしは泣き続けた。
ずっと泣き続けた。
声が枯れても、涙が枯れても気持ちは治らなくて、泣いて、泣いて、泣き疲れて、いつのまにかその場で意識を失って。
目が覚めて、また泣いた。
そしてまた、疲れて意識を失って。
また起きて、泣いて。
それを何度も繰り返した。
ずっとずっと、泣き続けた。
激しく動揺した感情の水面が落ち着きを見せ始めるまでには、かなり長い時間がかかった。
それでも、少しずつ、少しずつ、落ち着きを取り戻していった。
ただ、あまりに全力で泣き続けて、いつのまにか、床に倒れ込んだまま、もう指一本も動かす力はなくなってしまっていたけれど。
時々うわごとのように、ごめんなさい、とつぶやくだけで、もう涙は枯れ果てて一滴もこぼれていない。
そうして、微動だにしないまま時間が過ぎて、また日が暮れて。
わたしの意識は、何度目かの暗闇に沈んでいった。
◇
目が覚めたとき、わたしの心模様は、ようやっと少しすっきりしていた。
とは言っても普段のことを思えば、今にも降り出しそうな、ぎりぎりの曇り模様ではあったけれど。
重い身体を起こすと、窓枠から差し込んだ陽の光が、ちょうど顔に当たる。
まぶしさに顔をしかめる。
でも、まぶしさ以上に、顔をしかめるような、気になることがひとつ。
「お腹すいた……」
とにかく、腹ペコだった。
ここが死後の世界なのか、違うのかは分からない。お腹はすくけれど、だからと言って餓死するのかも分からない。
そう言えば、と泣き出す前のことを思い出した。
お腹がすいていたけれど、ここには食べ物がなかったので、クライアさんに助けてもらえないか、と考えていたんだった。
少し、悩む。
やっぱり、迷惑かとは思うものの……
必要かどうかは別にしても、この空腹感は
脱力感の激しい身体をどうにか動かして、少しふらつきながらも、わたしは山を下りることにした。
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