106-54 麓で出会った人
そんな不安が降ってきて、ここまでに積もった不安と合わせて、わたしの足はひどく重たいものになり、ついには道の真ん中で立ち止まってしまった。
必死になって、漠然とした不安感を頭から追い出そうと努めた。頭を抱えて、しばらくの間、その場に立ち尽くす。
そんなわたしに声が掛かった。
「お嬢ちゃん、こんなところでどうしたんだい? 具合でも悪いのかい?」
びっくりしながら顔を上げると、柵越しに、フォークを担いだ一人の女性が、心配そうにこちらを見つめていた。
「え……えっと……」
「顔色もあんまり良くないようだけど……」
「い、いえ。大丈夫……です……」
否定の返事はしたけれど、半分くらい生返事だった。
わたしに声をかけて来たその女性は、見たところ日本人ではない。
赤毛で、肌の色が薄い。瞳は茶色いけれど、顔立ちは日本人のものではなく、しかしヨーロッパ人ぽくもなく、わたしの知識では、どんな系統なのか、よくわからない。
そして、なにより──彼女が喋っている言葉は、日本語ではなかった。
だと言うのに、わたしには、彼女が何を言っているのか理解できてしまった。全く聞いたこともない言語なのに。本の文字と同じように。
頭の中に、疑問符が溢れていた。
「そうかい? それなら良いが…… それにしても、お嬢ちゃん、ここいらじゃ見ない顔だね。あたしはこの農園を切り盛りしてるクライアってんだ。お嬢ちゃん、名前は?」
「…………サクラ・ノノカ、です」
「サクラ・ノノカ…… 珍しい名前だね。サクラちゃんは、旅行者って様子でもないようだけど、どっから来たんだい?」
「えっ……と……」
ここが何処かすらわからないので、どこから来たと言うのが好ましいのか、分かりかねた。
何か考えるわけでもなく、自然と視線が、すっと小山の頂上に向く。拓けて草はらになっている山の上の真ん中に、小さく、あの廃屋が見えていた。
視線を追ったクライアさんは、何かを理解したように、ああ、と言った。
「もしかして、あの空き家に越して来たのかい? まあ、前に住んでたご夫婦が引き払って以来、誰にも管理されずにほったかされてたからね、若い子が住んでくれるって言うんなら、あたしも嬉しいよ」
にこりと微笑みかけてくれるクライアさんに対して、わたしは笑顔を返せない。
少しの間、無言の時間があって、それからやっと、わたしは口を開いた。
「……あ、あの」
「ん、なんだい?」
なんだか怖くて気が引けていた。でも確認しないわけにはいかないと、意を決して訊ねた。
「……ここは、どこなんでしょうか……?」
「ええ?」
クライアさんは、ちょっと間抜けな声を出して驚いていた。
そりゃあ、引っ越して来たと思っていた人が、ここはどこだ、なんて聞いて来たら、そうもなるだろう。
と、その直後、クライアさんの答えが返ってくる前に、遠くの方から誰かの声が響いて来た。
「奥さまー! 何処においでですか、奥さまー!」
その声を聞いたクライアさんは、おっと、と呟くと、振り返って声を張り上げた。
「いま戻るよ、ちょっと待ってな!」
生まれてこのかた、聞いたことのないような大声量だった。思わず腰が引ける。
「ごめんね、仕事の途中だったのさ。また今度、ゆっくり話でもしようじゃないか」
「あ、はい……?」
まだ聞きたいことはたくさんあったけれど、大声にちょっと
そんな内心を知る由もないクライアさんは、フォークを持っていない左腕を広げると、わたしに向かって歓迎のポーズをとった。
「ようこそ、デリーナのミフロ村へ! まあ、ちょっと距離はあるが、お隣さん同士、これからもよろしくね、サクラちゃん」
それから、じゃあまたね、と言ったクライアさんは、足早に建物の方へと歩いて行ってしまった。
残されたわたしは、しばらく呆然として。
「……んぇ?」
素っ頓狂な声を出して、そのまま、しばらくその場で立ち尽くした。
◇
行くあてのないわたしは、山の上の廃屋に戻ってきていた。
頭の中ではずっと、デリーナのミフロ村、という言葉がぐるぐるしている。
デリーナという地名も、ミフロという地名も、聞いたことがない。
少なくとも、ここが日本ではなさそうなことは分かる。でも、なぜ自分がここにいるのかが分からない。
そもそも、どうして異国の言葉が分かるのか、それが一番理解できない謎だった。
色々考えて、あり得そうな話として思いついたのは、なんらかの理由で自分が忘れているだけで、実はかなりの時間が経っていて、その間に外国に渡って、言葉をマスターしていたという可能性だった。
……とは言っても、ではなぜ記憶を失って、その辺に倒れていたのかは分からない。
地元の住民であるクライアさんも初対面だったようだから、この辺りに住んでいたわけではないと思う。でも、旅行か何かで来たわけでもないだろう。荷物は何も持っていなかったのだから。
となると…… 誰かに連れてこられたのだろうか?
──わたしは、なにかの事件に巻き込まれたのだろうか?
そう思うと、急に不安がぶり返して来た。
なんとなく自分の身体を検めてみるけれど、怪我もなく、違和感はなかった。むしろ、肌ツヤが良い気さえする。
そして、思い出す。
「そう言えば、あの時……」
そっと喉に触れる。
思い出せる限りの、意識を失う前の記憶。
火の手の上がる太田のおばあさんの家で、呆然としていたおばあさんに飛び付いたことは覚えている。
「おばあさんに飛び付いてから、確か、喉に……」
確かあの時、何かで喉を強打した気がする。ちょっと記憶が曖昧だけれど……痛かったような気もする。
でも、喉に違和感はなかった。触れた感じも、息をする感じも、喋った感じも。
わたしは、あの後のことを、頭を抱えて思い出そうとする。
……しかし、なにも思い出せない。
あの後、自分が意識を失ったのか、辛くも逃げられたのか、喉を打ったということから先は、ぷっつりと記憶が途絶えていた。
そして気がついたら、そこの草はらに倒れていた。
「んん…………」
しばらく頭を抱えてみたけれど、だめだった。
いったん、思い出そうとするのは保留にする。
せめて、今が一体いつで、あれからどれだけの時間が経ったのかが分かるものはないか、と廃屋を家探ししてみようと考えた。
正直、廃屋には何も残っていないような気はしたのだけれど。
何もしないより、何かしていたい。あわよくば、何か手がかりになるものが見つかればいいな、と思ったのだ。
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