新幹線
三時間。
駅から岡山までの時間である。それがどれほど膨大な時間か理解できるだろうか。時は金なり。タイムイズマネー。時給九百円のバイトなら、二千七百円にもなる。
二千七百円。にせんななひゃくえん。
一日中カラオケで歌ってもおつりがくる。ゲームセンターのゾンビを倒すゲームなら余裕でクリアできる。ファミレスで一番高いステーキだって食べられる。おまけにデザートだってつくかもしれない。
高校生男子にとってはそれほどの大金だ。さらに「受験生の」と頭につけば、百万、いや、一千万の価値がある。
僕は物理の参考書を開いた。新幹線は滑らかに揺れひとつなく走っている。熱力学の公式が顔を出す。WとかUといった文字が踊り始める。うむ。物理は良い。自然の何もかもが公式一つであらわされるのだ。
あれはピカピカの高校生になりたての頃だと思う。鉛直投げ上げの問題を解いていた。速さをXとして公式に代入する。解が出ない。おかしい。一から見直す。ああ、二を掛け忘れてた。すらすらと解くと二次関数が出てくる。おかしい。僕はある高さでの速さを求めている。ここまではいい。二次関数というものは答えが二つ出るものだ。速さが二つ? ありえない。首をかしげながらXの値を求める。やっぱり答えは二つ出てくる。そこでようやく僕は気付いた。投げ上げられ、落ちてきたボールは二回同じ場所を通る。ああ、だから二つ答えが出るのか——。
よく考えてみれば子供だって分かる当たり前の話だ。でも、その時の僕は、ツチノコを見つけたような、あるいは世界の秘密のうち一つを暴いたみたいな、要するに、万能感に酔ってたんだろう。
ジュールの顔写真が笑いかけてきたところで顔を上げた。目の前にはさっきの少女が座っている。手を膝の上に乗せ、じっと窓の外を眺めていた。日はすこしずつ傾いてきていた。アパート街を抜けて、農園地帯が来たと思ったら、ビルが立ち並び始める。そういったものを後ろへなぎ倒し、新幹線は走っていく。何の変哲もない景色だと思った。これをずっと眺めろっで言われたとしたら、僕は拷問としか思えないだろう。なのに、少女は目をキラキラと輝かせながらそれを見るのである。不思議でしょうがなかった。
白いキャペリンは相変わらず彼女の頭を食べようとしている。その帽子の別称は、女優帽だとテレビのクイズ番組で売れない芸人が自慢げに話していたのを僕はなぜか覚えていた。
ふと、思う。
もしかしたら、少女はドラマとか、映画とかの撮影中なのかもしれない。帰省した田舎で出会った青年との恋、引き裂かれていく二人、夕陽を背景に二人はドラマティックなキスをし、残酷な運命に涙する。それらのシーンを終え、今は彼との思い出を反芻しながら帰るシーンなのだ。楽しかったこと、悲しかったこともあったけど、貴方と恋した一か月、私は幸せでした。そんなモノローグの後、エンディング。名前だけ知ってるバンドの曲と共に少女の名前が流れていくんだ。
車内をきょろきょろ見まわす。男が一人あくびするのが見えた。もちろんカメラなんてどこにもなかった。
新幹線はゆっくりと減速し始め、大阪駅に到着した。サラリーマンたちはノックアウト寸前のボクサーのように立ち上がって、ぞろぞろと通路に出てくる。それが、僕にはゾンビがお行儀よく並んでいるように見えた。
乗客を吐きだせるだけ吐きだすと、再び新幹線がのろのろと加速し始めた。限界まで吐き出したのだろう。車内はずっからかんで、お母さんが一人、赤ん坊をあやしつけていた。それだけだった。僕と少女はそれが自然のなりゆきでもいう風に、窓際に寄った。世界には、僕たち二人しかいないように思えた。
少女はガラスにへばりつくようにしていた。吐息が窓を白く染め上げる。飽きもせず、じっと外を見ているようだ。
その光景を見ていて、何気なく僕は思い出していた。一年生の時のか二年生の時のか忘れたが、国語の問題集だった事は覚えている。たしか、鉄道で旅立つ少女が、見送りに来た弟たちに窓から蜜柑をぽいぽい放り投げる話だ。文字に起こせばたったそれだけの、短い物語。タイトルは覚えてない。
もちろん目の前の少女に、おもむろに背中のバッグから蜜柑を取り出して投げたり、窓を開いたりするそぶりはない。それに、新幹線は時速三百キロメートルで走ってるんだ。時速三百キロメートルで飛んでいく蜜柑。プロのキャッチャーでもお手上げだろう。第一、新幹線の窓は開かない。電車はどうだろうか。時速百メートルで飛んでいく蜜柑。小説に出てきた弟たちが何歳かは知らないが、キャッチするのは至難の技に違いない。
外は半ば暮れていた。空の上半分が青く、下半分が茜色と言った風に、薄膜で仕切られているような空だった。太陽はいつのまにかオレンジ色のボールになっていた。遠くに見えるのは棚田だろうか。夕日に照らされ、燃えるような田んぼが階段状に連なっている。耕しにくいだろうな、と思った。収穫大変だろうな、と。
客車と客車を繋ぐ扉が開いた。車内販売だ。重そうなカートから手を離し、若いお姉さんがゆったりと礼をする。律儀に一つ一つ席を見回りながら、僕たちのところまで来た。お姉さんは微笑んで、
「飲み物はいかがですか」
と、小声でささやいた。ほかの乗客に配慮する必要なんてないはずなのに。
「じゃあ、オレンジジュース一つ」
喉も乾いてないのに僕は頼んだ。財布を取り出す。百五十円になります。ごそごそ小銭を探す。二十六円。桜花、ましてや桐ひとつ、入って無い。虎の子の一万円札を差し出した。
「お連れ様は、なにかいかがでしょうか」
お姉さんは少女を見た。少女は気付いていないようだった。
「じゃあ、オレンジジュース、二本で」
お姉さんはお釣りの千円札が九枚だということを、これでもかと確認し、のろのろと後方へ消えていった。
少女の肩を叩く。ゆっくりと少女は振り向いた。
「これ、あげるよ」
僕はオレンジジュースを少女に差しだした。
「いいんですか?」
僕が自分の分のオレンジジュースに口をつけると、彼女もおずおずとキャップを開いた。あまりおいしくない。ラベルには果汁二十五パーセントの文字。残りの七十五パーセントは一体なんだろう。
「おいしいです」
少女はにこりと笑った。改めて、僕は少女を見る。どうしても少女の年齢が分からない。見ようによっては、十代にも、二十代にだって見える。もしかしたらそれ以下かもしれない。そんなふわふわとしたアンバラ
ンスさを、彼女は持っていた。
「あの、おいくつですか?」
言ってしまって後悔した。背中から脂汗が吹き出る。よくよく考えたら、いや考えなくても、初対面の女性に歳を聞くは、これ以上ないほど失礼だということを、僕は失念していた。
「十九歳です」
あわあわする僕とは対照的に、少女は何でもないと言った風に答えた。十九歳。つまり、大学生。思わずえっ。と、ら声が出た。
「気にしないで、ください。よく、間違われます」
照れたように少女は頭を掻いた。そして続けて、
「あなたは?」
と聞いた。
「十八です」
答えると、少女は目を丸くした。
「本当?」
「本当」
僕は間髪入れずに返した。
そして、少女はぽつぽつと語り始めた。まとめると、どうやら僕のことを、駅員さんか何かかと少女は思っていたらしい。確かに黒い外套と制帽の組み合わせは、はた目から見ると駅員さんにも見える。まあ、制帽がある高校なんて少ないからしょうがない。それに、自分より身長が高い人は、問答無用で自分より年上かな、と思ってしまうのだと。
「僕も身長が低い方だからよく分かります。その気持ち」
お互い大変ね。ほんとね。くすくす。うはは。しばらく二人で笑った。妙な親近感といったものが湧いてきた。それから二、三言話した
そこまでしてようやく、さっき駅で感じた、少女の喋り方の違和感に、僕は気づくことができた。簡単なことだったんだ。そういえば、中学の時、アメリカからはるばるやってきた英語の先生が、僕たちの英語を聞いでる時、妙にイライラしていただった。今なら、その先生の気持ちが分かる気がする。
彼女は外国の人かもしれない。顔立ちこそ、京で純粋培養されたお嬢様といっても通じそうではある。でも、アジア系の国には、日本人に似た顔をして人だってたくさんいる。少し前に流行った韓流ドラマだって、日本人に瓜二つ人ばかりだったし。ハーフとか、クオーターとかの可能性だってある。
「どこから来たんですか」
「ベトナムです。ホーチミンから」
ベトナム。その単語を口の中で繰り返す。僕は気の利いたことを言おうとした。何も思いつかなかった。考えてみれば、僕はベトナムについて、恐ろしいほど何も知らなかった。韓国や中国ならよく知ってる。キムチ、パンダ、万里の長城。さらさらって思い浮かぶ。でも、ベトナムだ。王制なのか、共和制なのか、はたまた社会主義なのか、それさえ知らなかった。場所はどの辺だろうか。タイとか、シンガポールとか、あの辺だったような気がする。ホーチミンってどこだろう。岡山県。みたいなものだろうか。公用語はベトナム語だろうか。名産物は? 国教は? 首都は? 首相の名前は?
「遠いところから、来たんですね」
そんな言葉をどうにか絞り出した。難解な問題を前にして、時計をじっと見ているような、そんな感覚が僕を襲った。要するに、
僕は十八歳で、
未成年で、
高校生で、
子供で、
自分の事に精いっぱいで、
小さいことにすぐ心が揺さぶられて、
社会の事なんて分がってるようで全く分かって無くて、
たった一国の場所さえ知らなくて、
だから何も知らなかった。
「ええ」
少女は僕の目を見て、それから小さく伸びをした。二人向かい合っているのに間には数百キロの隔たりがあるように感じた。
「とても」
その言葉が遠く、聞こえた。
沈黙が数票ほど続き、それに耐えかねて、僕は口を開いた
「どうして、日本へ?」
少女は少し考えるようにしてから、小さく首を振った。
しまった。踏み込み過ぎたかも知れない。
もしかしたら少女は、ベトナム国王の一人娘とかなのかもしれない。血で血を洗う革命が起き、王制が終わって共和制になったけど、王の一人娘だけはみつからない。少女は革命軍が城に迫りくる中、王宮からこっそりと抜け出していた。つらい逃避行の末、どうにか小さな村にたどり着く。村の人たちは少女の正体に薄々感づいていたけど何も言わず、少女を暖かく迎え入れてくれた。でも、村には王の血統を許さない政府の秘密警察がたまにガサを入れに来る。だから革命のほとぼりが冷めるまで日本に逃げてきた。
きっとそうなのだ。
「——あなたは?」
少女は尋ねた。
「僕は今から家に帰るとこ」
「じゃあ、その前」
「受験、だったんだ」
「受験?」
僕は少女に身かるように、話し始めた。
枠が余ったからと、大学への推薦入試をすすめられたこと。それなりに名の知れた難関校で、僕なんかがジャンプしても、どうにか届くか届かないかということ。化学の出来が芳しくないこと。面接の人がずっと不機嫌だったこと。ホテルのごはんが壊滅的に美味しくなかったこと。後半からはただの愚痴で、少女に聞かせるようなことじゃなかった。なのに、すらすらと言葉が出てくる。本当は、誰かに聞いてもらいたいのかもしれなかった。
少女は相槌を打つ以外は、なにも言わずにずっと聞いてくれた。
オレンジジュースは、すでに空になっている
話し終えたところで、ちょうど新幹線が止まった。
岡山駅。
それが旅の終着点だ。
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