【4】


 五月、上野公園は葉桜の時期だ。

 賑わう園内にあって、池のほとりは静かだった。


 薄ピンクのジャンバーを羽織ったジジイから聞いたのは、とある男の半生だ。

 一人の女性を愛した、男の。


「寂しくなりますね。二人でやってきたお店を閉めるなんて」


「オリンピックの年にワーっと騒いではじめたかンな。今度のオリンピックでまた騒いでパッと終わらせンだよ」


「ああ、開店したのは前の東京オリンピックの年なんですね。昭和39年でしたっけ?」


「よく知ってンな作家先生。俺ァ年まで覚えてねェぞ?」


「最近はテレビをつけたらオリンピックの話題ばっかりですからね」


「東京でやるってことは、いろんなトコから人が来ンだろ? 『たまには顔見せろ』ってご無沙汰なヤツらを呼び出してやろうと思ってな」


「なるほど、だからオリンピックが終わってからお店を閉めようと」


「おう、ぱっと咲いてぱっと散る、見事なもンだろ?」


「あれ? 『散ってしまったら寂しい』んじゃないですか?」


「ハッ、アイツはンなこと言って蓮を褒めてたけどな、そればっかはわかンねえなァ」


 そう言って、ジジイはぼんやりと不忍池を見遣った。

 その瞳に、祭りの前の輝きはない。


「ほらほら、ぼーっとしてますよ。奥様に『クヨクヨするな』って言ってたんでしょう?」


「言うねえ作家先生。けどなァ、ここは『しのび、忍べず、不忍池しのばずのいけ』だぞ? ここじゃしのべねえんだよ」


 池を、薄緑の蓮を見つめて、ジジイは言った。


 そうだ。

 だから、寒くないように新聞を敷いて。

 桜も葉桜も目をくれずに蓮を見て。

 池を渡る冷たい風に頬が赤くなるほどの長い時間、座り込んで。


「俺ももうすぐアイツんとこ行くしな。あんまり待たせちゃまた怒られちまう」


「『ずいぶん長い御手水おちょうずでしたね』ですか?」


「一発で覚えるたァやるじゃねェか。さすが作家先生」


 よっこらせっと声を出して、老人が立ち上がる。


「じゃあな、作家先生。俺が閉める前に、次ァ店に遊びに来いよ」


 俺は何も言えずに、ただ深く腰を折って見送る。


 姿勢を戻すと、老人は背中を向けたままヒラヒラと手を振った。

 池のほとりのベンチに向かって。

 きっと、寂しげな笑みを口に浮かべて。




 老人が去っても俺は動けなかった。

 体重を預けた背もたれがきしむ。

 目の前の池を見つめて、四年前の秋の池を、五十三年前の夏の池を脳裏に描く。


 しのびしのべず、しのばずの、お池のほとりの『しのばずエレジイ』。


 やっと出せた俺の本は、一人の女性を愛し続けた男を書ききれただろうか。



  * * * * *



 俺は、ベンチの背を押して立ち上がった。


 不忍池の蓮を横目に、弁天堂に続く参道を通り過ぎる。

 ゆっくりと、大丈夫だと自分に言い聞かせて動物園通りを渡る。


「祭りは、オリンピックは去年終わったよ」


 喉が詰まる。


「もう平成でもなくなったんだ」


 明るくハキハキした、ジジイみたいによく通る声は出ない。


 木々の横を抜けて広めの道に出る。


 すぐに、ベンチに座る一人座るジジイが目に映った。

 葉桜のたもとで、ぼんやりと小さな看板を眺めている。


「何を見てるんですか? ああ、葉桜ですか」


「あン? なんだ兄ちゃん、俺ァ何も買わねえぞ?」


 べらんめえな、けどハキハキした声。

 言葉を出せないでいると、ジジイが続けた。


「押し売りじゃねェんなら、ここ座れよ」


 ガサガサと新聞紙が広げられる。

 歯を食いしばって新聞紙の上に座る。


「見てンのは葉桜じゃねえ、精養軒って店だ。知ってッか?」


「はい。何度か連れて行ってもらったことがあります」


「まァ行ったッても、兄ちゃんが知ってンのは味気ねェ建物だろうな」


「昔は違ったんですか?」


「おう、そりゃァ小洒落てたンだぜ? 昔っから古かったけど味があってなァ」


「へえ、そうだったんですね」


「夏の盛りにゃァよ、このあたりにテーブルを並べてビアガーデンをやっててよ。みんなめかし込んで行ったもンだ」


「ジジ……お爺さんも行かれたんですか? 誰かを連れて?」


「おっ、なんでェ兄ちゃん。こんな話を聞きてェのか? 変わりモンだねえ」


「ぜひ聞かせてください」



 何度でも。



 不忍の、池を背にした庭園で。

 俺はうまく笑えただろうか。



——『あァ? 父さん? チッ、あんなヤツと一緒にすンな。俺のことは「ジジイ」と呼べ。歳も離れてッしな』

——『あら、じゃあ私は「おばあちゃん」ね』



 何度でも、聞かせてほしい。



「あの頃の精養軒はお高くってな、けどビアガーデンだけは割安だったのよ。そンであれはいつだったか、アイツとの初デートでな——」



 ジジイが俺のことをわからなくなっても、話したことを忘れても、また家を抜け出してここに戻ってきても。


 身を忍んで、一緒におばあちゃんを偲んで、元気な頃のジジイはしのばずに。


 二人の『しのばずエレジイ』を、何度でも聞くよ。




 父さん。




(了)


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『しのばずエレジイ』(改稿版) 坂東太郎 @bandotaro

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