【3】
十月、上野公園に秋風が吹き抜ける。
夜半も深い時間、池のほとりに人影が二つ。
「こんなところにいたのか」
「あら、どなたかしら? 私、知らない人に声をかけられて気をよくするほど安い女じゃないのよ?」
「あァ、そうだな。お前は柳橋一の芸妓だもんな」
不忍池のベンチに座る年老いた女性が答え、薄汚れた服にゴム長の老人が力なく笑う。
「蓮の花を見に来たのかしら? この時期はダメよ、フチが茶色に変わり始めてるもの」
ドサっと、老人は女性の隣に腰を下ろした。
老いてなお、女性の背筋はピンと伸びている。
初めてのデートで男が見惚れた時と同じように。四十九年を重ねて平成二十九年になっても。
「忍びじゃねェんだ、お前が忍んでどうすんだよ」
秋の夜、池のほとりとなれば冷え込みは厳しい。
男は羽織っていたジャンバーを脱いで女性の肩にかけた。
「忍、忍べず、不忍の……私、また」
言葉がきっかけになったのか。
女性は目を丸くして——
瞳に絶望の色を浮かべた。
まるで、自分がいまどこにいるかようやく気づいた、かのように。
「ごめんなさい。ごめんなさいあなた、ああ、手がこんなにつめたく、手は板前の命なのに」
「いいんだ、ンなこと気にすンじゃねえ。お前が見つかってよかった」
ぽん、と、男は優しく女性の手の甲を叩いた。
節くれだった男の手を、皺だらけの女性の手がさする。
「これじゃ私、もうあなたのお店には立てないわね」
「なに言ってンだ、ふぐにあんこう、冬は忙しくなンだぞ? 終わりゃすぐ花見で、今年の夏はオリンピックもあンだぞ? 祭りはこれからじゃねえか」
「夏のお祭り、精養軒のビアガーデンは、なくなってしまいましたものね」
男の話を聞きながら、老女は池の向こう側をぼんやり見つめた。
暗い木々の奥に、かつての瀟洒な建物はない。
つられ男も目をやって、ぼそりと呟く。
「もう、店ァ閉めるか」
「なに言ってるの。あなたが始めたあなたの城よ。私がいなくったって続けてちょうだい」
「けどよ」
「私、施設に入るわ。これ以上迷惑かけたくないの」
「俺ァ迷惑だなんて思ってねェよ」
「私がいなくても、あなたはお店を続けて。一国一城の主なんでしょう?」
重なる四つの手の上に、ポタリと一滴涙が落ちる。
手を離して、男は女性を抱きしめた。
「すまねえ。すまねえ」
うわ言のように繰り返す。
女性は背筋を伸ばしたまま、そっと男の背中をさする。
励ますように。
別れを惜しむように。
「私が先に死んでも、クヨクヨしないでね。
不忍の、池のほとりのベンチで。
老女は泣きながら笑った。
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