【2】
風が枯蓮を鳴らして、落ちた
ひょろ長い若者はきっと左肩のあたりを睨みつけ、顔を戻して横目で老人を窺う。
老人は目を丸くして——
笑った。
「ははっ、そうか、そういうことか兄ちゃん! こんな爺に声かけてくるなんて酔狂なヤツだ、なんて思ってたぜ!」
誰もいないところから聞こえた声に、老人は合点がいったとばかりに笑う。
ばんばんと若者の右肩を叩き、胸元に顔を近づけて覗き込むように見上げた。
若者の左肩の上。
女性の声がした、何もない空間を老人が見すえる。
「この感覚ァひさしぶりだ。兄ちゃん、憑かれてンな?」
「あら、私のことが見えるのかしら?」
「見えねェけど聞こえるぜ。それに、この感覚は初めてじゃねェんだよ」
「ふふ。さすが、地獄行きが約束された人は違うわね」
寂しげな老人の姿はない。
覇気にのけぞる若者をよそに会話は続く。
「俺に霊感はねェけどよ、仕事柄、いるかいねェかはわかる。それに——」
虚空を見つめて老人は笑う。
「嬢ちゃんとは、俺が
視線を移して、若者に微笑みかけた。
「ってことは兄ちゃんが今代の『墓守』か」
「代行です。俺は藝大生なんで。建築科の学生で『墓守』を継ぐ気はないんで」
「ハハッ! 昔ァ跡目争いもあったってのにな! 言うねえ兄ちゃん、悪くねェ、ああ、悪くねェな!」
何がおかしいのか、老人はばしっと若者の胸を叩く。
と、急に黙り込んだ。
まとう空気がまた変わる。
蓮の枯葉におおわれた不忍池を睨みつける。
「どうかしたんですか?」
「ん? ああ、仕事だ仕事。地獄行きを約束された爺が、ちょっくら道連れを増やしてやンだよ」
キャンバスはそのままに、すっと立ち上がって池に近づく。
かくしゃくとした歩みは歳を感じさせない。
老人は
「……初めて見ました。本当に、人は水面に立てるんですね」
「ハッ、俺ァまだ
ちゃぷっと水音がする。
楽しげな老人の表情が変わった。
嗤う。
目を細めて、口を歪めて、三つの三日月が並ぶ凶相。
濃緑の作務衣に薄ピンクのジャンバーで不忍池の水面に佇む老人は、まるで季節外れの蓮のようで。
——狂い蓮。
「あらあら。江戸の頃から、このお池は殺生禁止なのよ?」
「なァに、心配いらねェって。ここは不忍池。蓮の下に忍んでるヤツなんていねェんだよ」
枯葉が擦れる音も水の音もなく、老人は蓮の上を歩く。
冬といっても、ここは上野恩賜公園だ。
トランペットを鳴らす奏者も、演奏を聴くカップルも、足早に通り過ぎるサラリーマンも、弁天堂に向かう観光客もいる。
けれど誰も、不忍池を歩く老人を見ていない。
老人がそこにいるのに、いないかのように。
「最近、ある集団が痴呆を発症させる薬を売りさばいているそうです。原材料はこの池に生える蓮の根だそうで」
独り言のように漏らした若者の声に、老人がぴたりと足を止める。
「権力者がついたか、それともお金か。いずれにせよ、『墓守代行』としてどうにかしろって話が出てたんですよ」
肩越しに、老人が若者を振り返った。
「しばらく好きにさせてくれや。ふざけたヤツらは俺が始末する。これは誰から頼まれたわけでもねェ、俺の仕事だかンな」
「復讐、ですか? 奥様に呆け薬が使われた仕返しに? 忍は、刃で己の心を殺して律するはずでは?」
老人を止められると思ったわけではない。
それでも、「極楽浄土には行けない」と口にした老人を慮って、若者は持ちかけた。
あとはこちらに任せてくれないか、と。
老人は口の端を持ち上げる。
「わかってねェな兄ちゃん。忍はな、任務のために刃で己の心を殺すんじゃねえ。心の上に刃を置いて、己の心で受けた任務をまっとうするのよ」
細い蓮の枯れ茎を横切ると、老人の姿が消える。
「忍ヶ岡の最後の忍として、あとでちゃんと報告に行くからよ、兄ちゃん。いや——」
ばちゃっと音がする。
どこかで魚が跳ねたような、小さな水音。
こぽこぽと、空気が弾ける音も。
「——上野鎮守府、徳川家墓所守代行殿」
言葉を最後に音が消えた。
いつの間にかトランペットの演奏も終わっている。
満開の蓮が描かれたキャンバスがなければ、先ほどの会話も老人の存在も幻のようで。
「身元不明の遺体が次々に見つかるっていう、墓守サマの頭を悩ます問題は解決したみたいね」
「はあ。いいのかなあ、これで」
一人ベンチに残った若者は虚空と会話する。
老人が『憑かれてンな』と表現して見つめた、左肩の上の空間と。
「不忍池の蓮を描いてる爺ちゃんと思ったら、痴呆で亡くなった奥さんを偲んでて。あげく、忍だなんて」
見えない存在の重さを感じたかのように、長身を丸めて肩を落とす。
憑かれて初めて知った世界に疲れて。
「やっぱ俺に『墓守』は無理」
「あら? でも、知ったからにはいままで通りにはいかないわよ?」
「それなあ。祖父ちゃんも何考えてんだか」
「目指す道に才能がなく、別の才能が明確なんだもの。私、誰でもいいってわけじゃないのよ?」
はいはいと軽く流しながら若者は立ち上がった。
キャンバスに目を向ける。
極楽浄土を彩る蓮の中、一人ぽつんとたたずむ女性を。
「『忍、忍べず、不忍池。偲びし忍、不忍を守る』、か」
言い残して歩き出す。
ふらふらと細長い体を揺らして、喧騒を求めるかのようにアメ横方面へ。
上野は歴史が残る街だ。
路地裏には昭和後期の建物がいまも使われて、アメ横は戦後の闇市の面影のままに活気を見せる。
中でも上野恩賜公園には、歴史がいたるところに存在する。
昭和、大正、明治、江戸。
時代ごとに変遷しながら、変わることなく。
歴史の影に眠る、語られぬ歴史もまた残る。
上野の地に、人知れず。
(了)
上野異聞録 〜 冬、不忍池 〜 坂東太郎 @bandotaro
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