上野異聞録 〜 冬、不忍池 〜
坂東太郎
【1】
上野は歴史が残る街だ。
路地裏では昭和後期の建物がいまも使われて、アメ横は戦後の闇市の面影のままに活気を見せる。
そんな上野の中でも、上野恩賜公園にはいたるところに歴史が存在する。
昭和、大正、明治、江戸。
時代ごとに変遷しながら、変わることなく。
上野東照宮の鳥居を越えて一人の男が振り返る。
すっと頭を下げて神域にいとまを告げる。
男はふらふらと体を揺らして歩き始めた。
「あんな事件が報道されたのに、動物園は今日も繁盛してるようで」
「不忍池と上野動物公園が結びついてないのかしら? 遠方から来る人ばかりだものね」
「さすがにわかってるだろ。それよりさ」
「なあに?」
「神域に入っても神域を出ても変わらないんだな」
「ふふ、いまさらじゃない」
ぼそぼそと呟きながら、男が上野恩賜公園を歩く。
東照宮から動物園入口の混雑を抜けて右に曲がる。
男の歩みは遅い。
背が高く線は細くひょろりと長いシルエットは
もちろん、上野の地に昼間から西洋の
上野恩賜公園を歩いているのは二十歳前後の男だ。
長い前髪が男の両目を隠す。
「不忍池で身元不明の死体が次々と見つかって、犯人はわかってない。気にしそうなものだけどなあ」
「上野は昔から『死』が溢れる地なのに、みんな気にしてないじゃない。それもいまさらね」
「え?」
「ほらやっぱり。現代人は暢気なんだから」
「……どういうこと?」
「自分で調べなさい、
公園内の細い道を下って、男は不忍池を見下ろした。
事件が報道されたにも関わらず、池のほとりや弁天堂には観光客がいる。
「けど、お池は江戸の頃から殺生禁止で釣りだって駄目だったの。お池で死体が見つかるのは珍しいのだけれど」
「へえ、そんな昔から池があったんだ。やっぱり蓮は有名で?」
「そうよ、大名諸侯だって、寛永寺の下でお池の蓮を愛でたのよ? 知らなかった?」
「湯島側はあんまり来ないからなあ」
「もう、怠慢ね」
上野恩賜公園が公園となる前から不忍池はこの地にあった。
蓮が定着した時期は不明だが、江戸中期には観蓮会を行ったという記録がある。
歴史を知らなかったらしい男は、横断歩道を渡って池のほとりに到着した。
整備された遊歩道を歩く。
池を右手に見ながら、弁天堂に続く参道を無視して湯島方面へ歩く。
時おりぐるりと視線を巡らせる男は何を探しているのか。
その目が止まった。
男は足も視線もまっすぐに、池のそばのベンチに向かっていく。
ベンチには一人の老人が座っていた。
イーゼルに立てかけたキャンバスに、一心不乱に油絵の具を塗りつけている。
指先が汚れても、ベンチと足元に敷いた新聞紙に薄紅が飛んでも気にした様子はない。
鼻を刺すテレピン油の臭気のせいか、濃緑の作務衣に薄ピンクのジャンバーという老人の出で立ちのせいか、隣のベンチに人はいなかった。
下町民族資料館の前で吹き鳴らされるトランペットが物哀しい。
老人の孤独をくっきり
キャンバスには、水面に浮かぶ満開の蓮が描かれていた。
目の前の蓮は枯れて、一面に茶色が広がっているのに。
「……まあ、いまの池を描くより楽しいか。画角は変わらないだろうし」
「この公園でその言葉、まるで藝大生みたいね」
「おい、俺はいちおう藝大生だぞ。建築だけど」
「辞めてしまえばいいのに。そちらには才能がなく、別の才能は明確なんだから」
「できないから辞めるって、大学はそういうものじゃないんだよ」
わかってないなあと小さく頭を振りながら男は足を進める。
ぼそぼそした声を耳にした者はいない。
上野恩賜公園のこのあたりが混雑するのは、せいぜい春の桜や夏の蓮の頃だけだ。
とあるアプリのおかげで一時期は弁天堂と参道に人が溢れたものだが、いまは落ち着いている。
「何を描いてらっしゃるんですか?」
「あン? なんだ兄ちゃん、俺ァ何も買わねえぞ?」
べらんめえな、けれど明るくハキハキした声が響く。
孤独な老人の輪郭が霧散する。
「押し売りじゃねェんだったら座れよ兄ちゃん。どうせ俺ァひまだからな」
角が磨りきれたカバンから新しい古新聞を取り出して広げる。
男——ひょろりとした若者は、少しためらってからベンチに座った。もとい、ベンチに敷かれた新聞紙の上に座った。
「夏の、蓮の盛りを描いてらっしゃるんですね」
「そりゃそうだろ兄ちゃん。誰が好き好んで墓標みてェな蓮を描くってンだ」
「墓標、ですか。そう言われるとそう見えてきます」
茎は茶色く枯れているのにまっすぐ伸びて、垂れ下がった
枯蓮。
俳句では冬の季語となる、目に寂しい景色だ。
「墓標……最近、このあたりで身元不明の遺体が次々と見つかってますね」
返事はない。
老人は絵筆を一心に動かしている。
絵画の中では無数の蓮が花開き、奥には弁天堂と、池の向こうの精養軒が描かれていた。
華やかな夏の不忍池。
池の手前、絵の中心は一人の女性だ。
背はすっと伸びて、夏のはずなのにピンクのジャンバーを羽織っている。
「おう、下手の横好きなんだ、そんなじっくり見ンじゃねェよ」
「すみません。でも、いい絵ですね。上手い下手じゃなくて、想いが伝わってくる気がします」
「ハッ、言うじゃねェか兄ちゃん」
「ジャンバーが同じってことは、この女性は奥様ですか?」
「まァな。春に死んじまった連れ合いよ」
「……すみません、気がまわらずに」
「いいっていいって。よし兄ちゃん、申し訳ねェと思ったンならちょっと年寄りの繰り言を聞いてけや」
「はい。ぜひ、聞かせてください」
* * * * * *
「俺ァ商いをやっててな。まァ、親父から受け継いだ小せェ店だけどよ」
枯蓮を前にした不忍池のベンチで、老人は絵筆を置いてぽつぽつ語り出した。
「アイツはよく働いてくれてなァ。俺ァ愛想が悪ィからよ、助けられてばッかだったな」
「すごく幸せなご夫婦だったんですね」
「ハッ、どうだか。俺ァ忙しくて何もしてやれなかったかンな。それでもアイツは『幸せだ』って言ってな、本音は知らねェけどよ」
枯れ果てた蓮を見ながら、老人は蓮を見ていない。
弁天堂も、奥の精養軒もその目に映っていない。眼前の景色は。
「もう一つの商売が忙しくて……まァ忙しいってのは言い訳だな。俺がちゃんと見てりゃ、あんなことにならなかったのによ。せめてもっと早く気づいてりゃ」
「あんなこと、ですか?」
「呆けちまったのよ。まァ歳だからしゃあねえと思ってたンだけどなあ」
「……それは」
「そのうち、どうやってたンだか夜中にふらっと抜け出すようになってなァ。そのたびに探しまわったもんよ。不思議なもんで、
老人は空虚な目で絵筆をとり、キャンバスを筆先で示した。
筆の震えは歳か寒さか後悔か。
「もう一年ぐれェ経つのか。その日はちょうどここにアイツが立っててなあ」
「不忍池は、思い出の場所だったんですか?」
「……ずうっと昔な、俺とアイツが初めてデートしたンだよ。暑いってのに慣れねえ一張羅着て精養軒でメシ食って」
筆が落ちた。
トサッと足元の新聞紙が音を立てる。
「蓮が見頃だったかンな、ぐるっとお池を散歩して。『忍、忍べず、不忍池』なんて歌うように言ってよ。『でも不思議ですね、蓮が池の中を隠すのに、忍べないって』とか言ってたもンよ」
「ああ、
「一年前、探して探して、ここでやっと見つけたアイツはなァ、俺を見て言ったンだよ。『あら、どなたかしら?』って。たまんねェよなァ」
水滴が落ちた。
トッと新聞紙が音を立てる。
「手も体もすっかり冷たくなっててよ。お前は忍じゃねェんだ、忍んでどうすんだって言ってよ」
トッ——トッ——と水音が続く。
若者はじっとキャンバスを見つめる。
「そしたらアイツは我に返ったみたいでなァ。『私、もう、あなたと
「気丈な人だったんですね」
「そうだったなァ。いつだって背すじを伸ばしてよう、俺ァその立ち姿に惚れたようなもンだ。けどあン時は背中を丸めててな」
「それは、その、なんというか、お悔やみを」
「呆けがこんな辛えなんてな。だから俺ァ」
「あれ、でも一年前ってことは冬だったんじゃないですか? 絵は夏の不忍池ですよね?」
「死んだのはそのあとすぐ、春だかンな。俺ァ未練がましく蓮を描いてんのよ。アイツが見られなかった今年の蓮を。それになァ兄ちゃん」
ガサッと音を立てて老人が座り直した。
目に光が灯る。
「蓮は蓮華。極楽浄土に咲く花だかンな、アイツがあっちで楽しめるようにと思ってよ。俺ァ極楽にゃ行けねェからな」
口元を歪めて老人は言った。
線の細い若者は答えず、答えられず、ぐっと眉を寄せる。
「行き先は地獄って決まってるものね」
老人と若者。
二人が座る、二人しかいないベンチに、女性の声がした。
「奥様の言葉を借りるなら、『忍、偲んで、不忍池』かしら?」
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