一章 1 境界を歩く 1

 町には表情が溢れている。

 静かなカフェの落ち着いた顔。失敗に気付いた焦る顔。相手との待ち合わせ場所へと走る苦しそうな顔。友人と歩いて会話する楽しそうな顔。

 これら全ては表の顔だ。


 表の顔があるなら、当然、裏の顔もある。

 静かな事務所の落ち着いた顔。体格の良い男が現れ焦る顔。死へ向かって走らされる苦しそうな顔。同僚と座って密談する楽しそうな顔。

 同じ顔でも全く意味が違う。


 表裏一体ならぬ、表裏同一。


 例え人々が片方のみの側面を望んでいたとしても、町は清濁併せ呑む。

 一つのキャンバスに、別々の人物画を重ねて描いたのに、それ自体が全く違和感なく、元より二人の人物が描かれる予定の絵だったかのような、不思議な一枚絵こそが町なのだ。


 ただ、描かれたそれぞれの人物が、もう一方の人物の肩を叩くことは滅多にない。いくら、一枚絵のようだと言っても、結局は別の絵が重なっているのだから、もう一方は関係のない世界だ。

 自分の与えられた世界を飛び出し、全く別の世界へ手を伸ばすなど、物好きか、馬鹿、またはその両方を勇気と勘違いしている者である。


 そして、両方の絵から外れた者、外れてしまった者、外された者、外れかけている者は、不思議と一か所に集まる。


「仕事を頼みたい」


「ご注文は」


 カフェのカウンター席に座った女は、目の前でコップの手入れを行うマスターへ話しかけた。

 懐から一枚の写真を取り出した女は、マスターに見えるよう、カウンターの上に置く。


「それより、仕事だ。この女を捜している」


「ご注文は」


 明らかに横柄な女だが、マスターは写真に目をくれもしなければ、顔色の一つも変化しない。


「聞いてるのか? 仕事だよ、仕事。ボケてんのか? それともロボットか?」


「あなたこそ聞こえていますか? ご注文は」


 話の通じない苛立ちと自分を馬鹿にするような態度に、女は静かに腰を浮かせた。

 分からない相手には、武力と権力を匂わせ従わせる。それが今まで女の歩んできた道だった。

 相手の襟を掴もうと手を伸ばし──女はそのまま硬直する。


「ご注文は」


 繰り返されるマスターの言葉からは、先ほどまで無かったはずの重圧を感じた。近付いて初めて気付くマスターの鋭い眼光が、女から身体の動き方を忘れさせる。


「……アイスコーヒー」


 拘束はすぐに解け、女は伸ばしていた腕を誤魔化しながら席へ戻った。

 一瞬の出来事だったはずなのに、女には多大な時間を消費したように思えた。


 無言で用意を始めるマスターに、苛立ちを隠せない様子の女が、カウンターを断続的に指で叩く。

 その実、下に見ていた目の前のマスターへ少しでも恐怖を抱いてしまったことを悟られないよう、必死で取り繕っていた。


 状況を考え跳ねる心臓へ耳を傾けていると、コーヒーの用意をしているはずのマスターの手がいつの間にかカウンター上に現れ、思わず女は身を引いてしまう。

 すぐに戻って行った手のあった場所には、丸いコースターと紙に包まれたストローが置いてあった。


 もうすぐできるのだろうか。

 何となしにそれらを眺めると、ストローがソフトドリンクなどに付けられるものより、かなり太い気がする。タピオカ入りのドリンク用のストローくらいはありそうだ。

 コースターもコースターで、店のロゴなどではなく、白色をメインに、うねる黒線が何本か刻まれていた。


 ──いや、これは……。文字……?


 考え方一つで、黒線は文章となり、女へ意味を伝える。


『写真の裏に持っている情報と、おまえの連絡先を書け。手付け金は三枚だ。用意でき次第、写真と手付けをカウンターにおいて店を出ろ。飲食代の会計は別だから、ちゃんと精算すること』


 もしやと、ストローの袋を破れば、中からは筆記具が現れる。


「お待ちどう」


 何食わぬ顔のマスターは、半ば無理に注文させた品をコースターに乗せると、初めと同じ場所で同じ作業へ戻った。


「……受けるのか?」


 寡黙なマスターは、初めから一切の変化がない表情で女を見やる。

 今度は身体も難なく動く。

 女はそれを肯定と受け取り、写真を裏返して筆記具を手に取った。


 書くべきことを書く途中、ストローのないアイスコーヒーに手をつける。


「甘っ!」


 何も入れていないというのに、すでに甘さが苦味を塗りつぶしていた。

 そこまで甘味が得意ではない女にとっては、到底、飲めるものではないが、近くに恐怖の対象がいるせいか喉が渇く。むしろ、このやたら甘い液体のせいかとも思うが、どちらにせよ飲み物はこれしかない。致し方なく飲み込んでは、筆記具を写真へ滑らせた。


 全てを情報を書き終えると、丁度、グラスの中身も氷だけとなった。

 財布から取り出した三枚の最高金額紙幣をカウンターへ置いた女は、その上に再び裏返した写真を重ねて席を立つ。


 直後、近くで待機していた店内唯一のウエイトレスへ視線を送ったマスターは、女の席に置かれていた全てのものを素早く下げた。


 女がカフェから出た後、カフェの隅の小さなテーブル席に座っていた男が立ち上がり、女の居たカウンター席に座りなおした。

 マスターは何も言わず女の置いて行った写真と紙幣を二枚渡す。


 写真の裏を確認した男は写真を懐へ仕舞うと、紙幣の一枚マスターに返して、立ち上がりながらにもう一枚をズボンのポケットへねじ込む。


「今月分のコーヒー代に充ててくれ」


 押し開けた扉の外は、藍色の空が広がり、夜の臭いが漂い始めていた。

 上着から煙草を取り出し、カフェの前に設置された灰皿の近くで火を点ける。

 それから数分。よれたロングTシャツにジーパン姿の男が、煙草を吹かす男の元へ歩いて来た。


「待ったか、探偵。今回は何だ?」


「人探しだよ。おまえの得意分野だろ」


「まあ、そうだな。」


 細く煙を伸ばす探偵──ミスズは、相棒のトーサカから心強い返事を聞いて、煙草を灰皿に落とす。

 そうして、言葉を交わしながら、自然と歩き始めた二人は、未だ賑わう町に溶けていった。

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