Ascension / 次元上昇



『今のは――?』『誰か、誰か、誰か』「四藏匡人は……」『光が……光が溢れてくる!』「四藏匡人はどうなったのだ?」『割れる……頭が割れそうだ……』『皆、死ぬのだ……』『おい、天海祈はどうなった』『救済だよ』『終わりだ』『成程エウレカ! 全てを理解したぞ!』「……煩い煩い煩い……」『そうだ、完結だ……』


 混乱が渦を巻く観客席。その真っ只中に身を置く香椎康もまた、舞台上の事態を把握できずにいた。一体、何が起こったのか。突如として、『首輪』から解放され自由奔放に止めどなく溢れ出る思考。発光し天に登りゆく四藏匡人のような白い何か。そして、それを見て跪く天海祈。全てが理解の範疇を越えていた。


「〝身体は雪のように白く、薔薇のように赤く、髪、特に頭頂部は羊毛のように白く、眼は美しく、一度ひらけば、それは太陽のように屋内を隈なく照らした――〟」

「何、を……」


 不意に隣にいた神辺梵天王が神話の一節を諳んじた。その描写は、現在目の前にいる人間離れした四藏匡人の容姿に酷似している。


「エチオピア語エノク書に語られる『ノア』の容姿です。恐らく、彼は至ったのでしょう。天海の信ずる『正義』へ……そして、アレは四藏匡人という個人が思い描いた『神』の姿……」

「あ、あの」


 声を出したのは、遅れて動揺から抜け出した望月要人。彼女は胸中の疑問を率直に神辺梵天王へぶつける。


「どうしてここで『ノア』が出てくるんデスか? 『ノア』って『ノアの方舟』の……デスよね?」

「はい。『Atraアトラ-Hasisハシース』は、『ノア』と同様に『方舟』を用いて洪水を凌いだ人物なのです。きっと、その共通項が彼にイメージを想起させたのでしょう……いくつか、関係する書物を求められ、貸した覚えがありますので」


 それらの書物は、全てMCGを離脱する前には返却されていた。自分もここへ至る片棒を担がされていた事を、今ならば容易に理解できた。

 知らず識らずのうちに不安げな顔になっていた神辺梵天王の肩を、背後から岸刃蔵が軽く支える。


「あれが『ノア』であるというのなら、必ずしも悪い方へ進むとも限りません。旧約聖書創世記においてレメクは『ノア』を見てこう語っています。〝この子こそ、主が地に呪いを与えたが為に働く我々を慰めるもの〟……と。祈りましょう。もはや、観客の我々にはそれぐらいしか残されていません」



 その時、舞台では天海祈による祝詞のりとが粛々とみ上げられていた。



「永遠の『正義』なんて、絶対の『正義』なんて存在しない……そんなことは分かっていた……」


 知っていた。

 それは、幾度となく時間を戻し、永劫にも近しい時の中でひたすら[奇跡]を洗練させ[魔術]を生み出し、やがては宇宙の果てを知り、終わりを知り、他の平行世界線を覗くまでもなく――分かっていた事実だった。


 人間は、どうしてこうも愚かなのか。

 見えていない。

 過ぎ去りし過去も、いまぬ未来も、うつつりし現在いまでさえも。

 愚かな人間の目には何も映っていない。

 あまつさえ『正義』など顧みることもない。

 ただただ無秩序に軽率な選択を繰り返し、自己の利益を最大化させる事にしか興味のない自意識エゴの奴隷ども。


 ……分かっている。

 私もまた、他の人間と同じく奴隷の身でしかないという事ぐらい。

 それでも、私は一度夢想した『正義』を捨てられなかった。


 そして、を肯定した。


 ああ、そうだ……だろうとなんだろうと構わない。

 どうしようもない人間たちバカどもが迷わず争わず幸せに生きて行けるのなら……。


 しかし、現実に絶対的な上位者なんてものは宇宙のどこを探しても存在しなかった。もちろん、紀元前の神代にもいなかった。上位次元なんてものもなく、第三次元宇宙と呼称したこの宇宙こそが唯一絶対の世界生活圏で、どん詰まり。先なんてどこにもなかった。


 仮に、上位次元が存在して、上位者なる存在もいたとして、しかしそれは人間同士の諍いに一々介入してくれるような普遍的な存在ではないのだからやはり無意味だ。


「だから、作らなければならなかった。人間に寄り添い導く最高実在を。それが、私という稀代きたいに課せられし使命。私以外には出来ないこと……でしょう?」


 たくさん嘘をついた。

 十二次元宇宙論、鈍色の鍵トゥプシマティ次元上昇アセンション、上位者……数え切れないほどに。

 全部、皆の認識を誘導する為……『首輪』もそう。


 でも、いつまでも矯正していたって私の望む答えには永遠に辿り着けない。歪みや疑い混じりの認識では辿り着けない領域。どこまでも純粋ピュアでなくては……自転車の補助輪をいつかは外すように、どこかで『首輪』の軛から自立して貰わなくてはならなかった。


 とはいえ、そのタイミングが早すぎても至れず、遅すぎても失するだけ。

 結局、機を見て段階的に一律で解除する方式に落ち着かざるをえなかった。その周回時における見込みある人材全てを逐一監視し微調整を加え続けるなんて、私にも現実的ではなかった。それよりも、致命的な失敗が判明した時点で、ある程度の[巻き戻し]をする方が簡単だったから。

 それに、やっぱり最後はの力に頼る必要もあった。それ以外の全てを試みて失敗してきたから、運否天賦に身を任せるしかない所にまで行き詰まっていた。今回は、その【短剣】が実に都合の良い影響を及ぼしてくれた。


 結局のところ、大いなる運命の前には私もちっぽけな塵芥に過ぎないの。


 プラトンは知ってるわね?

 前に岸刃蔵から本を借りて読んでいた筈よ。私は彼と直接話したこともあるの。彼が『国家』で語った理想の国政……哲人王によって統治される優秀者支配制アリストクラティアは、私の思想と近しいものだったわ。


 じゃあ……ギリシャ繋がりで、エウリピデスの悲劇を知ってる?

 エウリピデスは古代ギリシャの悲劇詩人。彼は悲劇の結末に機械仕掛けの神デウス・エクス・マキナをよく用いたわ。物語の最後にいきなり凄い神様が登場して全てを丸く収めるの。勘違いしないで欲しいのだけど、彼自身がこの結末を好んでいた訳じゃなく、のよ。きっと、私もその一人……。


「ねえ」


 その小さな空っぽのてのひらが、今や宇宙そのものなのよ? 疑問や矛盾を認識する間もなく《握った》世界は、もう全てが貴方の思うがまま……そうなるように干渉したのでしょう?


 なら、やる事は一つしかないじゃない?


 哲人王、時の氏神うじがみ機械仕掛けの神デウス・エクス・マキナ……或いは、アヌンナキの長マルドゥクでも良い。呼び方なんて、なんでも構わない。


 だから、貴方が私に求めたことを代わりに……永久とわに、『正義』を。

 答えのない問いに答えを。

 曖昧なる境界に明確なる線引きを。


 それは、在りもしない全宇宙の権限トゥプシマティをその一手に《握り》、存在し得ない神になった貴方にしかできないこと。貴方の言う惹句の一つ、『権威』そのものになった貴方にしか。


 個人間の複雑な因縁も、国家間の捻くれた感情も、民族間の拗れた確執も……全部、その手で……。


「お願い申し上げます……今、貴方の存在だけが唯一現存する『正義』なのです」


 例え、判決に納得が行かなくとも、矮小なる人間は納得せざるを得ない。

 なにせ、神が直々に言うのだから……従うほかない。

 不平も不満も呑み込んで、今日と明日を懸命に生きるだけ。

 それで、良いの。

 面倒なことに頭を悩ます必要もなくなって、貴方によって明るく照らされた道を、迷わず進んでゆけばいいだけ……。


 だから、どうか……。




「――全てを理解した」




 この世のものとは思えぬ荘厳な声と共に、太陽のように美しい眼が徐に開かれ、アセンション島を、地球を、世界を、優しく照らした。


「天海祈」


 過去、現在、未来。宇宙の誕生から終焉に至るまで、その全てが俺の中にある。全てを理解したという言葉に脚色や誇張はない。当然、天海祈というが歩んできた荊棘けいきょくの道もこの目で見てきた。


「よく、頑張ったな……。俺というはお前を尊敬する」

「おお……有難き御言葉です……」


 天海にも、必要だったのだ。

 拠って立つ地面が、身を縛り付ける重力が、なまじっか何処へでも行けるから……彼女は宇宙の果てに、全てを見失っていた。


 寄る瀬なき宇宙では、人は生きて行けないから。


 地球上の誰よりも……いや、平行世界線を含めた知的生命体の存在可能性の中にも、天海ほど指針を欲したものはいないだろう。


 だから、その『指針』そのものとなった俺が言う。


 お前は気負い過ぎなんだよ。


 運命に選ばれた……だなんて、確かに一片の疑いもなくそう思い込んでしまえる程にお前は強かった。それでも、結局は一個の人間に過ぎない。自覚していた筈だろう。

 人類全てを救おうだなんて、そんなことは人の手に余る所行だ。


 そう……そんなことは、のだから。


「神よ……どうか、お導きを」


 天海祈の陶酔まじりの嘆願に対し、俺は心苦しくも首を横に振らざるを得なかった。


「残念だけど、それはできない」

「なっ、なぜっ!?」

「逸脱してしまったが故に理解した。《異能》の性質――それは世界を思うがままに干渉する能力。本来なら炎を操るだけ、水を操るだけといった制限など存在しない……が、どうやら純粋ピュア主観認識イメージを媒介にしても、数値データを弄って至れるのはここらが限界のようなのだ」


 沈む、沈んでゆく。

 俺の身体が空間に溶け、虚空へと落ち込んでゆく。

 かつて、[SAG・やまなみ・treow]が俺に語った考察は、奇しくも真実と近しいところを付いていた。宇宙に生きる一個の生命体の掌に存在する宇宙……という矛盾パラドックスこそ、この融合現象のおおもと。

 この矛盾を解消するには、俺と宇宙が一体であれば良い。

 俺即ち宇宙、宇宙即ち俺となれば、何ら論理的矛盾はない訳だ。

 現在は、《握った》権限で数値データを書き換え続けることによって存在を維持しているが、それもジリ貧。沈下を止めることはできていない。これを完全に食い止めるには、せっかく《握った》宇宙全体の管理権限を手放すほかないだろう。


 だが、もし俺がこの身を犠牲にすることを厭わないのであれば……完全に沈みきってしまう寸前、宇宙と同化し主観認識を失ってしまう前に……少しぐらいならば、出来ることがない訳じゃない。


 自己犠牲は『正義』じゃない。

 そんな事は重々承知の上で、ただ俺がしたいからそうするのだから、これは……俺の最後の『我儘エゴ』という事になる。


「聞いてくれ」


 これより、お前の撒き散らした歪みをただす。

 だが、幾星霜の間に費やしたお前の努力は決して無為にはしない。


「過去、現在、未来……その全てを見てきた俺が言う。人間は、お前が一人で背負って立たなくてはならないような脆弱な存在でもないようだぞ。俺も、他の誰だって、そんなことをする必要は全くない」


 壮大な思想も、献身も、所詮は人間という種の織りなす、ささやかな営みの一つとして消化されるんだ。


 人間は死なず。

 ここでまた一歩、前へ進むだけだ。


 これは有り難い神の言葉だぞ?

 だから、泣くな。

 笑え。


「――そうだ、それでいい」


 じゃあね、皆。

 じゃあね、天海祈母さん



 別れを済ませた俺は眠るように静かに瞑目し、書き換えによる沈下現象の妨害を止めた。すると、一瞬のうちに宇宙全体へ己の身体が飛散してゆくような感覚に襲われる。しかし、覚悟していたことだ。少しでも気を抜けば吹き飛んでしまいそうな意識をどうにか繋ぎ止め、俺は最期の書き換えを恣行した。



 ――世界は、光で満たされた。


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