3-2-2 正当ならざる要件



 正当ならざる要件



 何事もなき日の夜夜中よるよなか、誰しもが寝静まる住宅街を一人のサラリーマンが駆け抜ける。年は四十前後、老年には遠く壮年を越えて中年に差し掛かろうかという風貌の彼は、仕事終わりのスーツ姿のまま、かれこれ数時間も走り続けていた。

 体力の限界など、とうの昔に迎えている。全身から流れ出た水分はシャツに含まれている分で打ち止め、乾き切った顔色はまるで死人の様相だ。

 それでも、なお彼が足を衝き動かし続ける理由は、彼の視界を占める「恐怖」に起因していた。


「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから」

「言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから」

「行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから」

「習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから」

「性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから」


 それは実に原始的な錯誤。枯尾花かれおばなと幽霊とを繋ぐ誤認。

 吹き抜ける軟風やわかぜを「説法」とたがえ、降り注ぐ星の輝きを「怪物」とたがえた。それ故に彼は走らなければならなかった。逃げ場など、何処にも無いというのに。

 極度の疲労から足は蛞蝓の如き速度にまで鈍り始める。その背後に悠々と忍び寄る影が一つ。


「ん――名言。キリスト教なんぞは中身を大して知らんから好きでも嫌いでもないが……それはそれとして、マザー・テレサは良い事を言ってる」


 素晴らしい解放感だった。夏場にも関わらずサングラスとマスクを装備する彼女は、パンプスに押し込まれていた過去を自由なスニーカーに取っ替え、手入れ不足により輝きを失った長い黒髪を閑寂に靡かせる。

 須藤史香すどう ふみか――今日は三十四回目の誕生日の翌々日である。


及川繁おいかわ しげる。四十五歳、既婚。タワーマンションの最上階に妻と、双子の赤ん坊、りょうくんと奈々ななちゃんと暮らしている……」


 恰も裁判官が判決文を言い渡す時の様な淡々とした読み上げ口調で、及川の経歴を述べた後、須藤史香は嘲り笑う様に鼻を鳴らした。


「ハッ! かつての強姦魔が今やベンチャー企業の社長か、良い御身分だ。今日も取引先の連中と仲良く騒いでたんだろ? 着る必要もないのに高いスーツをこれ見よがしに……楽しかったか?」


 息も絶え絶えになっている及川の顔を覗き込んで、須藤史香はこれでもかと煽り立てる。彼には、彼女の姿は見えていない。その筈だが、蹌踉よろめきながら反発する磁石のように独りでにスっと横へ進行方向を微妙に変更し、彼女にぶつからないように避けた。

 及川が新たに向かい始めた先を確認し、須藤史香は底冷えするような悲憤で喉を鳴らす。


「――藤川笑美ふじかわ えみはどうなったと思う?」


 これは弔いなのだ。故に、私事わたくしごとは極力控え、神妙でなくてはならない。


「勇気を出して警察のもとへ出向き、間もなく犯人が捕まった事を知るも、終ぞ社会には復帰できなかった。身体的、精神的苦痛を誰にも理解されず、停滞の日々の内に自死を選んだ。なんと痛ましい。それに比べて貴様はどうだ。このまま、のうのうと生き永らえるつもりか?」


 須藤史香のの最中にも、断罪の時は刻一刻と迫っていた。被告人たる及川の進路上には、底の深い水路が街灯の光も届かぬ暗澹たる闇を纏ってそこにあった。落下死するような落差ではなく、水位も膝丈ほど。だが、今の弱りきった及川を殺めるには、それで充分だった。


「――そんな事が赦される筈もない。例え神が赦そうとも私が赦さない」


 後、一、二歩進めば尋常ならざる様子の及川は水路に転落する――といった所で、猛る須藤史香が直接的な干渉に出た。疲労で左右に大きく揺れる背中を、思い切り蹴り飛ばしたのである。

 落下、着水した及川が、その衝撃と顔にかかる水に慄き、本能的に暴れて辺りに汚れた水飛沫を撒き散らす。しかし、それは羽虫が死前に見せる藻掻きに似たるもの、けして長続きはしないものである事を、須藤史香は経験から看破していた。


「安心しろ……お前にかけられた保険金で遺族は安泰だ……」


 力尽き、段々と収まりゆく水飛沫を背に、冷淡なる須藤史香は、その意志に反して場に留まらんと抵抗する足に力を込めて無理矢理に踵を返した。

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