2-3-7 宮城支部奪還(裏)



「ここも、誰も居ない……」


 開いた扉に寄りかかる藤さんは、何も置かれていない部屋内を見渡しながら、ポツリと呟いた。

 俺としては、警戒もせずアチコチ扉を開けて回るのは、待ち伏せやら鉢合わせやらを考慮してやめてほしい所だが、ついぞ、声には出せなかった。何故かと問うに、彼女と行動を共にしている俺も、警戒なんて馬鹿らしく思えてしまう程に大量の「空振り」を目撃してしまっているのだから。説得力のある警句など、不器用な俺の口から出るはずもない。加えて、探知機レーダーの方もうんともすんとも無反応なのだ。

 先刻、なぜか仲間の死体を捨てに来ていた黒衣二人組を速やかに片付け、MCG支部ビル特有の白い廊下を進み始めた俺達だったが、早々に避けようのない違和感にぶつかる事となった。

 行けども行けども、オペレーターが『始まっている』という戦闘が全く見えてこないのだ。もう、だいぶ時間が経ってしまっているというのに、音も、それらしき痕跡も、一切合切見当たらない。それどころか人が居る様な気配も全く感ぜられず、まるで廃墟を歩いている様な気分だ。

 そうこうしている内に無限にも思えた廊下の終焉――壁が見えてきた。行き止まりかと驚いて近付くと、輪郭の曖昧な白一色に溶ける様にして左右に分かれ道が続いていたので安心した。……いや、安心ではないか。


「オペレーターさん、位置情報はどうなってます? ……駄目ですね」


 深入りした所為で電波状況でも悪化したのか、先程から通信も途絶している。


「ちょっと、どうする……?」


 藤さんが弱音を吐く。出発前の威勢はどうした。

 それにつられてか、色々と余計な想像を巡らせてしまって、俺はブルッと身震いをする。手すりもない高所に立っている様な不安感が足元から襲いかかってくる。


「あってるとは、おもう」


 振り向けば、六道さんが俺をじっと見つめていた。黒い、水晶の様な瞳で。


「最初のふたりは黒衣を着てた。その意匠はアナタの記憶とも相違なかった筈だし、何より探知機レーダーにあったのは纏骸者の反応だった。だから間違ってはいない……とおもう。おそらくだけど、これは敵の何らかの能力かもしれない。近衛旅団の二宇が侵入できなかった理由も、それかもしれない。でも、。とにかく、こうなった以上は陽動部隊の戦闘に加勢する事はあきらめて、現状いまをどうにかしよう」


 急にリーダーシップを発揮しだした六道さんに戸惑いつつも、俺はその言葉に頷いた。身の回りの異変を全て能力だなんだと言い出したらキリがないが、今回ばかりはその線が濃厚である、これは俺の体感だが、蜘蛛の巣の様に広がるこの廊下を歩いた限りでは、東京支部の一階層よりも広く思えた。


「ま、後には退けそうにないしね……」


 藤さんの呟きに同意する訳じゃないが、ここまで深入りしてしまった時点で、俺たちは既に胃袋の中かもしれないのだ。そういう訳で、ある程度の開き直りを得た俺たちは、区画ごとに手分けして探索にあたる事にした。危険は承知である。

 東を俺、西を藤さん、南(来た道)を六道さんが戻って確認する事になった。先も述べたと思うが北は壁である。


「定期的に連絡をとりあおう。なかったら死んだとみなすから。それと、探知機レーダーの確認も怠らないように」

「分かりました」

「はーい、むっちゃん」


 二人の足音が遠ざかってゆく。すると、ただでさえ希薄だった人の気配が完全に失せていった。

 不安を掻き立てる様な静寂の中、適度に気を張りつつ目に付いた扉を片っ端から開いてゆく。しかし、いずれの部屋を覗いてみても、中には既視感にまみれた白が広がっているだけ。探知機レーダーにも反応はない。

 そうして開いた扉の数が二桁に乗ろうかという頃、感覚も狂い、好い加減に敵でも何でも良いから変化をくれよとヤケクソ気味に思い始めた所へ、望み通りにそれは訪れた。

 扉を開いた途端、転瞬、予想していた理路整然の白は彼方へ、その代わりとして墨汁の様な黒が部屋の奥行きを塗りつぶしていた。明らかに、他の部屋に比して広く、異質だ。

 俺は、ヘッドセットから二人へ呼びかけた。


「すみません、お二方。ちょっと何か様子がオカシイんです。東に来てもらえます? 場所は別れた道からちょうど――十二個目の部屋です」


 ヘッドセットから返ってくる二種類の了承の声を聞きながら、灰崎さんから貰っていた懐中電灯を点ける。まだ、二人共、それ程までに離れてはいないだろうから、中に入るのは合流してからでも良いだろう。そう思いながら、俺は中を照らしてみた。折りたたみの小さな懐中電灯だったが、軍用らしくパワーは十分な様で車のハイビーム並の光量が部屋内の黒の一部を暴いた。

 正面には、椅子に机……その上に乗っているのは紙束だろうか。概算して100枚ほどの紙が束ねられている。壁はここから見える限りにはない……と、その時だった。右端の方にチラリと光を反射するものがあった。

 何かと思い、反射的に懐中電灯を突き出してみると、深い影の中に――鹿刎番しかばね つがいが横たわっていた。勿論、それは頭を此方へ向けて横たわっていた為、正確には鹿刎番となのだが、気が付いたときには、俺の身体が勝手に部屋の中へと踏み入っていた。


「大丈夫か!?」

「う……うぅ……」


 強力なライトに照らされ、眩しそうに呻く顔を見て確信する。間違いない、彼女だ。古びた衣服、痩せぎすな身体、そして節足動物の様な髪……全てに見覚えがある。


「鹿刎番ちゃん。俺の事、覚えてる?」

「あな、たは……四藏、匡人さん……? 助けに、来てくれたの……?」

「そうだよ」


 身じろいだ彼女に遅れて、ジャラジャラという金属の擦れ合う音が響く。良く見ると、彼女の両足は太い鎖が嵌められており、墨汁を塗り固めた様な壁に繋がれていた。


「繋がれているのか……でも、大丈夫。俺なら破壊できるから」


 足首に嵌められていた鎖を握り込んで破壊する。

 開放された足を撫でる彼女に上着を掛けながら「他の人は?」と尋ねると、彼女は際限なく広がる黒を指差した。その方角へ懐中電灯を向けてみると、縲絏なわめに掛けられた人群が一列にずらっと現れた。黒の所為で全体は把握できそうにないが、途轍もない人数が果てしなく続いていた。


「こんなに……」


 流石に、この人数を一度に連れ出すのは不可能だ。オペレーターと連絡の取れない現状では、向こうとの連携も取れそうにない。動けそうな者を何人か選抜して、数人だけでも――。


「ま、匡人……さん?」


 その時、不意に聞こえたそれは、蚊の鳴くような……か細く、聞き逃してしまいそうな……しかしそれでいて、とても聞き覚えのある声であり、俺の意識を瞬く間に囚えた。瞬間的に、俺の脳内にはある一人の女性が浮かび上がってきた。


「瞳さん」


 彼女は居た。

 壁に鎖で繋がれたその姿を視認した途端、脳は余計に暴走する。

 歓喜、安堵、感謝に……憎悪? 前後のイメージが脈絡なく繋がり、妄想と現実が逆転する。この溢れ出る数多の感情の名前は何だろう。大きいものから小さいものまで、どれも今ひとつ判然とせぬものばかり。

 ほどなく、それらの感情は、思わず鹿刎番を捨て置いて駆け寄りつつ呟いた、


「生きていてくれたのか」


 ――という一言に凝縮された。

 ああ、戻ってきた。

 瞳さんが戻ってきた。

 かつて、かつての、西日に伸びる細長い影のような……頼りなく、弱々しく、たおやかにして冷血な……薄ら寒い笑み。艶やかさを失った栗色の髪。瞳孔は暗闇に散大し、口唇はカサつき、丁寧に施されていたであろうメイクは汗で流れ落ちている。

 これは、既視感だ。

 それでいい。

 それがいい。

 影の中にぼうっと浮かぶ顔を目指して、俺は掴み取るための右手を伸ばした。


「ばーん!」


 左後方の、入口があった辺りから藤さんの声が響く。それと同時に、俺の憧れはフグの如く膨張し――弾けた。

 飛び散った体組織が目元に掛かる。それを拭わず、振り返った。


「ばーん! ばーん!」


 気の抜けるような巫山戯た掛け声を繰り返しながら、藤さんは自らの【武装】を以て殺戮を続ける。その時、背後に居た筈の鹿刎番の姿は黒に消えて見当たらなくなっていた。

 光が届く限りを殺し終え、「ふぅ」と藤さんは息を吐く。そして、セールスマンのような貼り付いた笑みを携えて歩み寄ってきた。


「危ない所だったね……!」

「何が」


 聞くと、藤さんは得意げに言う。


「説明は難しんだけど、私の目には人とは違う景色が映ってるの。彼女たちは……うーん……死んでたの」


 これが……RED、なのだろうか。「正気じゃない」と、心に浮かんだ文面がそっくりそのまま口を衝いて出た。


「正気じゃないのは~……どっちでしょ。これは、あれよ。情にさおさして道連れのパターンですよ。つまり、まんまと誘き出されてたの! ちょっと考えればわかるでしょ! 探知機レーダーにも反応なかったし! つーか、こっちの……鹿刎番だっけ? 通信が聞こえてたけどさ、確か、けっこう昔に連れ去られたんでしょー? 絶対に死んでんよ? むしろ生きてる方がおかし――」

「もう……喋るな……喋らないでくれ……」


 今は他人の言葉を聞き入れる様な気分じゃなかった。

 左手に冷たい感触が走る。無意識の内に銃を掴んでいたのだ。その時、ふとした違和感を覚えてそちらに目を遣ると、左手が細かく震えているのに気が付いた。何の震えだ。今までの戦いに於いて、緊張した事はあったが震えを催した事など一度も無かった。

 そんな俺のあからさまな敵対行動は、さほど離れていない正面の藤さんも知る所である。当然、彼女の銃口もゆっくりと俺へ向けられる事となった。それでも、なお左手の震えは収まらない。


「迷っているなら撃たないほうが良い」


 私の方が速いから――と藤さんが言う。

 迷っているなら……?

 その言葉に、なにか、取っ掛かりを得たような気がして、グルグルと脳内で思考が駆け巡る。その間、にらみ合いの硬直が続く。

 俺は、迷っているのか?

 嗚呼、イヤ、これは迷いなんかじゃない。

 段々と震えが収まってきた。

 分かってきたのかもしれない。

 これは、これは――。


「……なんてね。今のジョジョの台詞だよ、知ってる?」


 パッ、と俺の左手が銃から離れたのを見て、藤さんも気を緩めたのか銃口を下ろした。

 ありがとう。

 普段、対人経験の少なさから口下手な俺だが、今だけは言うべき言葉がすぐに浮かんできた。彼女に歩み寄りながら呟く。

 ありがとう。ありがとう。ありがとう。


「藤さん……ありがとうございます」

「いやいや。別に、そんな、畏って言うことなんて――なぇ……?」


 励起。


 これは――脱皮。

 震えとは古い殻を破らんとする蠕動ぜんどう

 心胆から左手へ衝き上げて来る力を、俺は本能のままに解き放った。その瞬間、骨を丸ごと引っこ抜かれた様な虚脱感が全身を走り抜け、左手首から真の純粋無垢ピュアなる黒のきっさきが幻出した。

 この【短剣】は……たぶん、俺なんだ。

 だから……ありがとう、ございました。

 すかさず、【銃】を保持している藤さんの手首を右手内みぎてのうちに握り込みつつ、産声がわりの斬撃を喉元から脳天に向けて食らわせた。


「ぇ、あ……」


 形容し難い音が、縦に割れる傷口の奥から血泡けっぽうを伴って断続的に這い出てくる。それは生存を意味するものではない。肺の空気が漏れ出ているだけ。その証拠に、俺の身体に反撃は襲ってこない。何処も肉塊にはなっていない。弾けもしない。

 やがて――彼女の体がフラッと前のめりに倒れ始めた。俺は、その体を優しく受け止め、床に横たえさせた。


「……六道さん」


 横隔膜がせりあがってくる。


「……今の見ていましたか?」

「……うん。みてた」

「そうですか……」


 俺は左手に吸い付いて離れない【短剣】を眺めた。

 蛇の様にグニャグニャの柄。その上にある、まるで水晶のような半透明の黒い二等辺三角形の刀身には、近衛旅団の人に見せてもらった神字の写しと同じ模様が幾つかと、それを取り巻くようにちりばめられた銀河が幽玄に瞬いている。

 “暇潰しに読んでいた神辺さんのコラム”を思い出して『消えろ』と念じてみると、短剣はズブズブと音もなく手首の中に戻っていった。


「俺……ついに味方を殺しちゃいました。敵だけじゃなく……」

「言わなきゃバレない」

「そうかもしれません」


 六道さんは実にREDらしい慰めの言葉をくれたが、それじゃあ駄目だ。俺が今、仕出かした事は……多分『正義』ではないのだ。それが、その自覚が、俺に胸中に耐え難い苦痛を生じさせている。

 その時、視界の端で、砂地に突き立てられた木の棒のように脱力して突っ立っていた六道さんが、ふと、揺らいだ。


「かじかじ……みたい」

「……それ、香椎さんの事ですか?」


 六道さんは頷いた。


「かじかじなら同じ様にしたかも」


 思わず、天を仰いだ。

 “愛”……か。そういえば、前にも似たような言葉を受け取った事を思い出したからだ。あの時は、確か、初対面時の神辺さんが『隣人愛アガペー』と、俺の行動をそう称した。

 上には、四方の眺めと同じく深遠な影だけがあり、果てなど見つからなかった。だから、すぐに見るのをやめて顔を戻した。


「……俺、自分というものが分からなくなってきました。以前の俺なら『自分なんて考察する価値もない』と思ったでしょうけど、今はそうもいかなくて……でも……」


 俺は――陰ながら『正義』であろうと努力してきた。

 何故かって? そりゃあ、正義を知りたかったからだ。

 知りたかったのは何でかって? それは……MCGに来た時、灰崎さんと神辺さんに瞳さんを殺された事に怒ったのを褒められて……すごく、嬉しかったからだ。ちっぽけで薄っぺらな人生を、その中で培ってきた感性を、初めて誰かに認められた様な気がして、言いしれぬ幸福感を感じた。それが理由。それが動機。

 鹿刎番の折、ネㇾクフとの戦いの後、灰崎さんに『手本は沢山あるんだから、そこから学べばいい』と、鹿刎番にも言った様なアドバイスをくれたから、取り敢えずはその通りに学び、業務の中で実践していこうと決めた。その内に、正義とやらも見えてくるだろう、と漠然とした予想を立てたりもしていた。

 寄る瀬なき宇宙では、人は生きて行けないから……だから、俺は『正義』を指針と定めたんだ。

 ――けど、事はそう単純じゃなかった。『正義』というものは腕時計の中身より複雑で、部分部分を見つめても一向に全体は見えないし、一度、離れて全体を俯瞰してみようにも今度は巨大すぎて駄目なんだ。


「瞳さんが蕃神信仰に殺された事……俺は、前に天海に殺された時と違って、憤りも、悲しみも、あまり感じていないつもりでした。だけど、今のこれは……何だろう……感情を上手く言語化できません。自分が自分じゃないみたいなんです。何か、すごく大きな流れに背中を押されている様な……これが“殺意かなしみ”なんでしょうか」


 自分でも何を言っているのか分かっていない。ここは敵地だぞ。そう戒めるも、体は重く、動かない。

 気が付くと、六道さんは俺のすぐ後ろにまで来ていた。


「それは……私の口から言うべき事じゃない。……ただ、『自分のコトは自分が一番よく知ってる』なんて言うけど、そうでもないと思う。みんな、わかった気になってるだけ」


 普段の六道さんからすれば、なんとも似つかわしくない、優しい言葉。それは単なる慰めに過ぎないが、それでも有難かった。暫く――部屋の隅の暗がりにでも座り込んで感傷に浸っていたい気分だったが、それは許されないようだ。

 俄に影、光、内装の全てが曖昧に溶け始めた。水面に垂れた墨汁の様に歪み、ひとつの淡い影となり、そして濃さを増してまた広がった。


「おめでとう! これでまた一歩、世界は漸進ぜんしんした!」

「お前は……」


 そこに居たのは見覚えのある女だった。全身を覆う黒装束、隙間から覗く黒肌、そして、其れ等に反発するが如く浮き、映える白髪……その名を聞いたのは一度きりだが、忘れようにも忘れられない。


「……ジェジレㇿ……?」

「如何にも」


 未だ硬直して動けずにいる情けない俺のかわりに、六道さんが発砲した。しかし、名手の六道さんにしては珍しく、放たれた弾は掠りもしなかった。ひとつとして。


「当たらんよ。蓋然性の入り込む余地などなく、必然的にな」


 その言葉にムキになったのか、六道さんは装填されていた弾を全て撃ちきるが、それでも命中しない。速やかなる再装填の後、銃は再び構えられるが、今度は引き金を絞られることなく降ろされた。名手故に、力量による撃ち損じでない事を知ったのだろうか。その判断を尊重し、遅れて再起動した俺も弾の無駄使いは避ける事にした。


「それでいい。この空間からは好き勝手に出れんのだ。大人しく従うならば悪いようにはしないさ……」


 満足気に頷いたジェジレㇿは、廻転を始めた左掌上の探針プローブを手中に仕舞い込みつつ、大仰に喜びを弾けさせた。


「さぁて、交誼を深めようじゃあないか!」

「交誼、だと……?」

「私は中旗ちゅうき、ジェジレㇿ。かつてはLisaリサ Fernandezフェルナンデスと名乗っていた。国籍はアメリカ……だったが、今は消されているかもしれんな。はははっ!」


 聞いてもいないのに、ジェジレㇿは勝手に自己紹介を始めた。そこに、攻撃の気配や予兆は見られない。まるで、街中で見かける家族連れの様にリラックスして、底抜けに明るい笑みを浮かべている。

 この空間はやはり敵の能力なのだろう。しかし、さっさと俺たちを殺さない理由が謎だ。最初から俺たちを殺す事が目的じゃないのか、それとも何らかの制限があって殺せないのか……或いは、敢えて生かす事で別の目的に利用するつもりなのかもしれない。情報を引き出したり、洗脳して手駒にでもするのか。

 とにかく、奴の腹はさっぱり見当も付かないが、もし奴が射程距離内に入りやがったら……その時は即、俺の異能でその喉笛をエグり取ってやる。


「……わたしは六道鴉りくどう あ


 唐突に六道さんが名を名乗った。ひとまず、奴の話に乗って活路を開くつもりだろうか。すると、交誼を深めようなどと狂言をほざくだけあって、ジェジレㇿが食い付きをみせた。


「ほう、それはお前の名前か? 不思議な響きだな、どう切るんだ? こっちの日本だと、姓と名で構成されているんだろう? 発音と語彙はネイティブ並だと自負しているが……別の地球という事もあって、文化面がピンと来なくてなぁ」

「いちおう……姓が六道りくどうで、名がって事になってる」


 六道さんが答えると、ジェジレㇿは「虚を衝かれた」という様な素っ頓狂な顔をした後、弾けたように大声で嘲笑いだした。


「なっ、ふ、ふふっ……はははははっ! 名が『あ』だけ!? それはパスポートを取る時に絶対困るだろう! アルファベット表記だと"A"の一文字だぞ!? アメリカで諸々の書類に書いてみろ! 絶対に『頭文字だけは駄目です。フルネームで』って突っ返される! あっはははは!」

「……適当につけた名前だけど、そんなフウに笑われるとキズつく……」


 ジェジレㇿは一頻り笑った後、目元に滲んだ涙を拭って、此方に向き直った。


「中々に愉快な育ち方をした様だな。環境の所為か? ま、それは一旦、置いておくとして……そっちのお前も名を教えてくれ、被驗體ひけんたい番號ばんごう肆よ」

「――はっ? お前、今なんて……!」

四藏匡人よつくら まさと。四藏と匡人」

「ほう、そっちは名前らしい名前だな。バランスもいい。四と三で七文字だ」


 ひ、被驗體ひけんたい番號ばんごう肆……? それは『被験体・番号4』って意味で良いんだよな? その言葉が俺の事を指しているとして、一体何の……と、そこまで考えて、はたと気付いてしまった。


「ま、まさか……!」


『別地球αで行われた『実験』に志願する事で異能を会得した』――麻薬組織に所属していた元・蕃神信仰の信徒、ゲㇳシュ(若田部後胤わかたべ こういん)の言葉が過る。

 すると、俺の隣りにいた六道さんが、スタスタと無警戒にジェジレㇿの側に歩み寄り、その腰元に抱きついた。


「いやいや、よっちゃん。なに驚いてるの? もともと、ウチらってコッチ側で造られたクローンじゃん? やっぱ、記憶バグってんね。わたしも今思い出したけど」

「ククク……そういう事らしいぞ。安心しろ、私も研究分野は門外漢だから驚いた。噂には聞いていたが……まさか、あの時に会遇した奴とこんな所で『縁』があるとはね。ククク……」


 愕然とした。と、同時に、何処か得心が行った。

 俺の記憶する三年ちょっとの生。余りにとは常々思っていた。だが、敵意さえ抱きかけていた『蕃神信仰』が、まさか俺のルーツだとは夢にも思うわけがない。

 なんといっても、鹿刎番を殺し、瞳さんを殺し、宮城支部の職員たちを殺してきたあの蕃神信仰だぞ。恐らく、俺の認知していない犠牲者も大勢いる筈だ。此方の地球だけでなく、別地球αに於いても……。

 思わず身震いした。

 過ぎ去りし過去と、直面させられ続けている現在と、来たる未来とが錯綜し、俺の犯した罪と並び立つ。

 正義とは……正義でないとは……。

 俺はそれらの葛藤を飲み下した。


「だ、だが……俺の出生がどうだというのだ……! 俺の行く末は俺が……俺だけが決める……!」

「ふむ……」


 関係ない! 考え込む様なジェジレㇿの顔を見て、してやったりの笑みを浮かべる。そんな事で揺らぎはしない。

 そうだ、まだ洗脳の線だって残っている、気を強く持て……!


六道鴉りくどう あ、撃て。背信者だ」

「ういうい」

「――はっ!」


 己の内に沈みかけていた思考を急いで引き上げ、その場を逃れようと飛び去るが、流石に六道さんの方が早かった。


「く……っ!」


 右足に熱を感じながら無様に転がる。それでも、どうにか左手の拳銃を向けるが、既に二人の姿はそこになかった。

 くそっ、《透明化》か――!

 その一瞬の硬直がまたも命取りとなる。虚空から放たれた弾丸が俺の左手と左脚を的確に捉え、貫いた。俺の身体は崩れ、左手の拳銃は保持できずに床を滑って黒の中へと消えてゆく。

 数秒経過して現れた二人は、其の場から一歩も動いていなかった。それもそうだ、あの短時間で大きく動けるはずもない。メクラでも、俺は撃つべきだったのだ。

 完全に後手後手にまわってしまった。


「六道鴉、なぜ、一番危険な右手を残した?」

「……わかんない」

「教えてやる。それがモナド嚮導みちびきだからだ」


 訳のわからないことを言いながら、ジェジレㇿが此方へ歩み寄ってくる。

 何をするつもりだ? 俺の記憶がオカシイから矯正せんのうでもするってか?

 ――殺してやる。

 射程距離内に入ったら殺してやる。俺の自由意志が何者にも縛られない事を証明してやる。しかし、あと一歩。あと一歩進めば射程距離に入る、といった所で、ジェジレㇿはピタッと足を止めた。


「四藏匡人……お前は今、私を殺そうと考えたな? いや、いいさ。だが、保険を掛けておくべきだな。成功するかは分からんが……どれ、本番前のにやってみるか」


 ジェジレㇿは、何処からともなく紙束を取り出し、


「[體名たいめい("―条――")] [約款やっかんの追加] [Lisa_1("Lisaリサ Fernandezフェルナンデス"の許可なくば、生命活動を維持する以上の能動的行動を禁ず)]」


 用意された原稿をただ読み上げる時の様に抑揚なく、意味のわからない言葉を並べ立てた。すると、その効果が瞬く間に現れる。俺の全身の筋肉が、形容し難い姿勢で彫像の如く固まり始めたのだ。

 催眠……の範疇レベルを遥かに越えている。なにせ、奴の言っている事が全く理解できていないというのに、催眠が満足に動作する筈がないのだ。フランス語で命令されても日本人の大半が理解できないのと同じ様に。

 マジに指一本動かせないまま変な姿勢で床に転がりながら、視界外に消えたジェジレㇿの次の攻撃について思いを馳せる。


「ほう、意識して此方の指示に合わせられる領域に無い動きだ。成功か……[行動を許可する]」

「――ぐっ、ぷ、はぁ……はぁ……」


 本当に生存ギリギリの分の呼吸しか出来なかった為、姿勢を立て直しながら不自由のない酸素を求めて存分に呼吸を繰り返す。その隙に、ジェジレㇿはまたも何事か言い始めた。


「[體名("―条――")] [約款の変更] [Lisa_1("Lisa Fernandez"の許可無くば、"Lisa Fernandez", "六道鴉りくどう あ"の両名に対する攻撃行動の一切を禁ず)]」

「くっ……お前……」

「さて、身の安全も確保した所で本題に入ろうか」


 俺の言葉を遮って、ジェジレㇿが歩みを再開する。こいつ、初めに「交誼を深めよう」などと言っておきながら、俺の話に一切耳を傾ける気がない。

 一応、試しに喉元を狙って無事な右手を握り込んでみたが、能力は発動しなかった。なら、直接的な攻撃行動でないならどうだ、とジェジレㇿが次に踏む床を削り取ろうとしたが、これも不発に終わった。恐らく、明確な害意を俺が自覚していた為だろう……。

 ジェジレㇿは、俺の目前にまで来るとしゃがみ込み、紙束からあるページを千切り取った。


「四藏匡人、これを見ろ」

「なになに、わたしにも見せて」


 突き出されたその紙には、〈X 3,397,481.251m〉、〈Y 4,891,396.149m〉、〈Z -2,275,297.477m〉と、桁の大きな三つの数字が書かれていた。


「これは地心直交座標だ。地球に於ける三次元的な位置情報を数字に変換したもの、とだけ理解すればいい。お前にはこの位置まで我々を運んでもらう」

「は……?」

「じぇっじ~、よっちゃんはそういうの出来ないとおもうけど……Βベルカンだし」


 その通りだ。俺の異能は視界内かつ二、三メートル以内にしか干渉できない。まさか、さっき自覚したばかりの【骸】とやらを期待しての発言ではないだろう。何故なら、当人である俺ですらそのずいまでは自覚していない上、この世界線上では使用つかえないとが教えてくれている。

 ……大いなる意思?

 何かが、霞がかかり始めた頭の片隅に引っ掛かる。試しに使ってみればいい。その筈だが、何故だか、やる前から無駄と分かる。……何故だ、何故……。


「なんだ、六道鴉、お前にもロックが……いや、それはたぶん、MCGでかけられた別口だろうな。まあ待て、確かこの『仕様書』によるとだな……」


 パラパラと紙束を捲るジェジレㇿの黒い手は、もう少しで全てのページを捲ってしまうという所で、ようやく止まった。


「ああ、あった。[體名("―条――")] [約款の削除] [3]」


 その言葉は、前の二つの命令とは決定的に違う、青天の霹靂にも等しい衝撃を伴っていた。俺の脳内に燻っていた霞を、一部、晴らしてしまうほどの――。


「……あっ……」


[3] = [座標]


《體》

 ――五感によらずアプリオリに定義したい場合は[座標]か[4]を用いる――


《異能》

 ――対象體と行使者の距離が遠くなる程に干渉は滞るが、対象體の位置する[座標]を正確に認識している場合はその限りではない――

 ――また、正確には[座標]は體ではない――

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