2-3-6 宮城支部奪還 その4



「我が眦を決――っ!」


 我を遮るもの無しとばかりに揚々と詠唱していたレㇻーグだったが、最後の二文字を発声する直前で寸断の憂き目にあう。そうせざるを得なかった。前方から破れかぶれに突っ込んでくる神辺でなく、別の要因によって。

 ここで、あらかじめ備えていたアッㇳマーが、すぐには動けぬレㇻーグの代わりに振り向き、そして叫んだ。


禍福かふくふさぎ、とお擯斥しりぞけよ!」


 第二階梯だいにかいてい [牆壁HLEO]――指定された相対座標に不可視の[牆壁しょうへき](初期設定デフォルトでは前後の厚さが0(に極めて近い)で、それ以外の辺が1.5m)を出現させる魔術。その飾り気の無さ故に極めてエネルギー効率が良く、基本スタンダードと称されるもののひとつ。

 童子らは、自身らだけの通過を許可した[牆壁しょうへき]を予め前方に展開させていた為に、破損事象の炸裂を無傷でやり過ごせ、また神辺が出合い頭に投擲した體化光子の針からも身を守れたのだ。

 アッㇳマーは、[牆壁しょうへき]の詠唱と同時にレㇻーグの手を引く。彼が指定している[牆壁しょうへき]の相対座標は[正面・2m]なので、そのままだとレㇻーグの身体が邪魔になり、思うように展開できなかったからだ。レㇻーグの身を自らに寄せつつ、自身も左方へ向き直って[牆壁しょうへき]を展開させると同時に、視認できないほどの速さで童子らに向かって飛んできていた極小の【針】が音もなく宙空――不可視の[牆壁しょうへき]に突き刺さった。

 防御は滞りなく成功し、童子らの笑みが深まる。そして、レㇻーグは「――せよ!」と、第一階梯 [BÆL]の詠唱の続きを言い切った。

 喜びを顕にする童子らとは対照的に、積み上がる瓦礫の陰で茱萸グミは静かに舌打ちをした。


「防がれた――けど、本命はここからよ」


 パチン、と【吹き矢】を持っていない左の指を鳴らす。すると、それを発端にして極小の針に秘められし【瑞】が発露する。


「なっ――!」


 新たな[焔]を破損事象にすべく【戦斧せんぷ】を振り下ろさんとしていたアッㇳマーから初めて笑みが消えた。


「兄?」


 不審に思ったレㇻーグが尋ねると、アッㇳマーが叫んだ。


魔力素マナが――!」


 ――減っている。

 [牆壁しょうへき]の展開時間は、術式の起動時に込められた魔力素マナの量に正比例する。左方に展開された[牆壁しょうへき]には、十五分ほどは維持できるだけの魔力素マナが込められていた。勿論、それはと但書がつくが、先の【針】はその極小さ故に内蔵された魔力素マナを脅かすには足りない――その筈だった。

 しかし、童子らの傲岸不遜を嘲笑うかのように、不可視の[牆壁しょうへき]は瞬く間に侵される。

 茱萸グミの瑞――【蔓脚まんきゃく】。

 蔓脚下綱まんきゃくかもう、俗にフジツボ下綱とも称される海産海棲の甲殻類たちが堰を切ったように夥しく広がり、魔力素マナを喰らい、不可視の[牆壁しょうへき]を覆い尽くした。


禍福かふくふさぎ、とお擯斥しりぞけよ!」


 崩れゆく[牆壁しょうへき]を押し出すように、再度、詠唱するアッㇳマー。併せて【戦斧せんぷ】を[焔]へ振り下ろして破損事象を発生させる。図らずもタイミングがズレた恩恵か、間近にまで飛び込んできていた神辺の防御は間に合わず、飛び散る破損事象は神辺の両太腿、右脇腹、左肩、頬を食いちぎった。直撃である。各部位には大型肉食獣の歯型を思わせる甚大な欠損が残り、臓物は溢れ、骨も深く削られた両脚は自重を支えきれず砕けるようにして折れ曲がった。

 これで此方は無力化できた――しかし、童子らが息つく間もなく、瓦礫の陰にいた茱萸グミ金營かなえが既に動き出している事を、童子らは《異能》の副作用によって感知していた。


「向こうの二人が移動した!」

「こっちに来る!」


 想定していた以上に苛烈な茱萸グミの【瑞】――しかも遠距離攻撃が出来るタイプ!――を前にして、内心、小便をチビりそうな程に慄いた童子らは、向かい来る二人の動向を血眼になって探り続けるが、一向に姿を捉えることが出来ない。《異能》の副作用によって移動している事は明らかであるのに、だ。

 そうこうしているうちに、二人の生命反応は童子らの足元付近にまで迫る。


「見えない! くっ、男の方の《異能》か! 一旦退こう、妹よ!」

「退くって、どこへ! 兄!? 禍福かふくふさぎ、とお擯斥しりぞけよ!」


 今度は、レㇻーグが身体を下へ向けながら[牆壁HLEO]を詠唱し、足元に[牆壁しょうへき]を展開する。「我が眦を決せよ!」――そして、続けざまに[焔]を[牆壁しょうへき]の向こうへ出現させた。

 それに呼吸を合わせて、アッㇳマーが[焔]から破損事象を作り出し、足元の瓦礫を綺麗サッパリ除去する。しかし、そこには誰の姿もない。だというのに、《異能》の副作用によって、敵二人がそこに居て、なおかつ【吹き矢】を此方へ向けて構えている事すら分かってしまう。それが、却って童子らに恐怖を与えた。


禍福かふくふさぎ、とお擯斥しりぞけよ!』


 童子らが二重の[牆壁しょうへき]を出した瞬間、その最下層に極小の針が突き刺さる。それ前後して、何処からともなくフィンガースナップの音が鳴り響くと、【蔓脚まんきゃく】の侵食が始まる。その速度、着火された引火性液体の如く三重に張られた[牆壁しょうへき]を侵し尽くし、驚くほどの速さで童子らの足元へと迫る。

 これには、先程は退避の判断を誹議したレㇻーグも、アッㇳマーに手を引かれて共に飛び退かざるを得なかった。しかし、「あぁ――ぐっ!」――その一瞬の躊躇とまどいが命取りとなり、[牆壁しょうへき]を貫通した【蔓脚まんきゃく】がレㇻーグの左脚を侵す。「妹よ!」――それに、気づいたアッㇳマーが咄嗟に戦斧せんぷを振るう。侵食された左脚を膝下の辺りで【切断】し、それ以上の侵食は食い止めた。


「退く! 解除して下!」

「下――分かった!」


 今度は意見を一致させた童子ら。アッㇳマーが負傷したレㇻーグを庇いつつ、一目散に駆け出すが、突如として、ガクン――と体勢を崩した。


「逃がすわけない」


 金營の声が響いた瓦礫の隙間から、膨らます前の風船の様に《薄っぺらな手》が伸び、童子らの健全な足首を片方ずつ掴んでいた。無論にして、単なる悪霊じみた演出で足止めをする事が目的ではない。直後、掴まれている部位がギュッと握り締められたかと思うと、骨や筋肉による一切の抵抗を感じさせず、まるで紙細工の様に軽く圧潰した。金營蕗かなえ ふきの異能――《圧延》である。

 これでアッㇳマーは片足を、レㇻーグは両脚を失った。

 苦し紛れに、レㇻーグが体重の全てをアッㇳマーに預けながら【戦棍せんこん】を足元の瓦礫に叩き付ける。だが、既に金營が移動してしまっている事を童子らは異能の副作用に知っていた。

 童子らは悪態を吐き散らしたい気分だった。しかし、これで異能の正体は割れた訳だ、次は瓦礫ごと全部除去してやれば問題ない。童子らは、異能の副作用によって二人が遠ざかってゆく気配を知っていた為に、愚かしくも安堵の息をつく。油断大敵――戦場いくさばで気を抜くなど、例え神であろうと許されるものではない。


禍福かふくふさぎ、とお擯斥しりぞけよ! ……とにかく、今は態勢を立て直そう。まずは足を直してから――」


 遠ざかってゆく気配の方角へ[牆壁しょうへき]を張った、その直後の事だった。童子らの側面より飛んできた體化光子の針が、アッㇳマーの喉笛に突き刺さった。


「なっ……兄ィ!」


 童子らは、異能の副作用によって屋上に居る生命の動向を感知できた筈である。しかし、身体の大半を失わせたが故に「既に無力化したもの」と短絡的に決めつけ、もう一人を意識から完全に外し、二人の方へと注力してしまっていた。生命を完全に断った訳でもないというのに……。


「なんで、動いて――!」


 混乱の悲鳴が、震えるレㇻーグの喉元よりたどたどしく漏れ出た。

 応えて、全力疾走する神辺の全身から血煙が立ち上る。體化光子の熱に沸騰して弾け飛ぶ血液。神辺は欠損部位――右足先、両太腿、右脇腹、左肩、オマケに頬――に支柱がわりの體化光子の針を挿し込む事で身体の安定を得ていた。


「そ、そんな事したら、死、死、死――!」

「死なない」


 煮え滾る血液が身体中を駆け巡る。その熱量に、毛細血管は尽く弾けて柔肌を伝う血涙と化し、タンパク質は急速に凝固してゆく。そんな状態になっても、なお神辺が立っていられる理由はひとつ。


「正しいから――死なない!」


 血飛沫を撒き散らしながら放たれた滅茶苦茶な言説。その異様な狂気に気圧されて、レㇻーグは言葉を失った。


「さぁ、灰崎の仇! 素っ首は仲良く並べて差し上げます故、あの世でも仲良く詫び続けなさい!」


 手斧フランキスカの刃に光子を纏わせ、神辺が飛蝗の如く飛び掛かる。対し、レㇻーグは地面に転がるしかない。なにせ、片足を【切断】され、もう片足は《圧延》されてペラペラなのだ。申し訳程度に左手の【戦棍せんこん】を盾がわりに掲げてみるが、それが全く意味をなさないだろう事をレㇻーグ自身、悟っている。[牆壁しょうへき]を出そうかとも思ったが、日常生活で誤爆しないよう長ったらしく設定した詠唱をする暇は、もう、なさそうだ。

 あっ、死――。

 彼女の半生が脳裏に蘇っては消えてゆく。乳飲ちのみ、い、立ちては兄と共に訓練に明け暮れ、別なる地球に派遣され――今、死のうとしている。

 寄せては返す白波の如く何度も繰り返されるそれは、生存本能の暴走に他ならない。彼女は導き出そうとしているのだ、この状況を打開せしむる策を。高々、十三年にも満たない歳月の中から見出そうというのだ。

 一言、一言で切り抜けなければならない――何百、何千とループする光景、その間にも寿命たる光刃は刻一刻と迫り、一言の猶予すら脅かす。正に極限状態。生死の境にて雑然とまざる過去は生存本能によって取捨選択され、昔のものから順に欠落してゆく。

 ない、ない、ない――死にたくない!

 やがて、光刃が振り下ろされる寸前に至って、最後の最後に残った直近の記憶から、遂にレㇻーグは見出した。


「――生きてる!」


 口を衝いたのは、目前に迫る「死」とは正反対の概念。なればこそ、死神の鎌たる手斧フランキスカはピタリと静止せざるを得なかった。

 ひひひ。レㇻーグは、卑屈な諂いの笑みを浮かべて首を擡げる。


「灰崎……って、最初に[転移]された男の人でしょ。ま、まだ、生きて――ガッ!」


 言葉の途中、躊躇なく振り下ろされた光刃がレㇻーグの左腕を肩から焼き切り、翻って右腕も焼き切った。


「話をするのに四肢は要りません。……茱萸グミさん。【蔓脚まんきゃく】とやらで、この者の喉元を何時でも潰せるように用意できますか?」

「出来るわよ」


 フッ、と音もなく発射された極小の針がレㇻーグの喉元に突き刺さり、【蔓脚】が広がってゆく。しかし、その広がり方は無秩序的なものではなく、明確な人意のうかがえるものだった。


「二十分後にちょうど死ぬ様に調節したわ。喉も潰せる。つまり、助かりたきゃ神妙にしろって事。後――そっちの子の方も【蔓脚】で内部から止血して、ギリギリ生きてる。私を殺したら暴走してそっちも御陀仏! ……お分かり?」


 レㇻーグは言うことを聞かない身体に鞭打って、大きく頷いた。その顔は状況に反して笑んでいる。命を繋いだ、その実感が計り知れぬ快感を脳裏に生んでいた。

 その様を見て、神辺は自身に刺していた體化光子の針から干渉力を引き上げ、體化光子を消した。芯を失ってふらつく体を、金營が受け止めた。


「……共に戦ってくれるかどうか、分かりませんでしたから……半ば賭けでしたが……助かりました。私の要請通りに気を引いてくれたお陰で……」


 神辺は、二回目に破損事象を食らった後、ヘッドセットを通じて茱萸と金營に「その調子で相手の注意を引いてくれ」と要請していた。

 息も絶え絶えに発せられた神辺の言葉に金營が応える。


「いや、逃げようと思ったんだけどね。ドアから階段に向かおうとしても、屋上から飛び降りようとしても、なぜかできなかったんだ。《ループ》しててさ」

「ループ……? ゲホッ、ゲホッ!」

「喋らないで、先に止血するわ」


 茱萸が吹き矢の針を放つと、瞬く間に神辺の傷口が【蔓脚】で覆われてゆく。その止血処置を傍らで見守りながら、金營がまた答えた。


「そ。この屋上の周辺に結界みたいなのがあって、そこから出ようとしても中に戻される様になった。多分、誰かの能力でしょ。だから目下、可能性の高いコイツラを殺すしか無いな、と」

「ぐっ……腹を、括ったわけですか」

「ねぇ!」


 芋虫の様になったレㇻーグが、瓦礫の上をもぞもぞと動きながら会話に割り込む。目先の危機がなくなり、いくらか余裕が出てきた様子だ。


「そろそろ、ワタシの話をしてもいい? 二十分しかない。その間にこっちの生存を保障して貰わないといけないんだから。《ループ》の秘密も教えてあげる」


 出血のせいで意識が朧気になってきている神辺だが、そこをグッと堪え、これに応対する。


「……そうですね、話して下さい。どのみち、下への援護は《ループ》とやらを解かなければならなそうですし……。貴方達の素性も気になりますが、まずは灰崎の行方から――」

「アフリカ」

「……え?」

「灰崎って人は多分、アフリカに居るよ。爺が言ってたから間違いない!」



    *



 所変わってアフリカ大陸、マダガスカル島――『アツィナナナの雨林』!

 つい十数分ほど前までは、鬱蒼と生い茂る草木に溢れ緑緑あおあおと萌えていた自然の財産たちが、今、地獄の如き業火に包まれ赤赤あかあかと燃えていた。


「……くそっ!」


 灰崎は、捻くれきった心情を二文字に託し、周囲の火とそこから巻き上がってくる熱風を共に異能で冷やしつつ、満身創痍の身体を地面に横たわらせた。もはや、手元には何の武器もなく、打つ手はなし。用意した薬品たちも草木を5ヘクタールほど焼き払った所で尽きた。

 彼は完全なる敗北を喫したのだ。

 敗因は、戦闘の開始前から灰崎の能力がバレていた事にあるだろう。灰崎が近づかなければならないのに対し、相手は環境を利用してコソコソと隠れながら遠距離から攻撃を仕掛ければ良い。灰崎の手元には『探知機レーダー』があったが、それも、まるで狙い澄ましたかの様な相手の初撃を受けて壊れ、全く役に立たなかった。

 そこへ、クツクツと不気味な勝利の引き笑いをしながら歩み寄るものがいた。


「やれやれ、全く……久闊きゅうかつじょする暇もない」


 そう言って炎より現れたのは、全身を黒衣に包む蟠蛇ばんじゃネㇾクフであった。その手元に彼の恩賚おんらいたる【鬱屈と蟠屈の剣】の姿はない。無手である。これは「戦意を有さない」という極めて迂遠な意思表示に他ならない。


「灰崎といったか? 銃の練習はしていなかった様だな」

「……うるせぇや、ここは日本――じゃねぇか? 何処だよ……」

「何処でも良いさ。場所は重要ではない」

「はぁ……負け負け、俺の負け。煮るなり焼くなり好きにしろ……」


 以前の鹿刎番しかばね つがいの時とは違い、ネㇾクフに殺すつもりがない事は戦闘中のなまなかな攻撃で十分に把握させられた。それ故に、灰崎は自棄になってそんな台詞を吐いたのだ。

 それが堪らなくおかしくて、ネㇾクフはクツクツと笑いながら灰崎の隣にドカッと腰を下ろした。


「ならばまいを見に行こうではないか」

「意味がわかんねーんだよ、オメェらは、いちいち……はあ、それって神楽舞かぐらまいってやつか?」

「そうだ。だが、舞手まいてを務むるは俺と貴様きさんの様な奴僕どぼくではない。もっと、貴様きさんが夢想だにせぬ程に高貴なる『半上位者的存在』が捧げ奉る舞だ」


 灰崎はネㇾクフの話を黙って聞く。内容に付いては半分も理解できていない。が、ここは少しでも情報を得る為に喋らせておいた。

 その間に、周囲の炎はだいぶ落ち着いてきた。燃えるものは既にあらかた燃えて無くなり、もはや灰と炭と土しか残っていない為である。


「例の童子――鹿刎番とやらも、それには関わっている。俺自身、功労者であるという自覚があったのでな、それを見ずに死ぬる事を心惜しく思っていた所、果たしてその心情が盤外に坐す者に伝わったのか、期せずしてそういう巡り合わせになったのさ。戦意がなかったのは、その所為」

「ほーう」


 灰崎が発したのは適当極まりない相槌。にも関わらず、ネㇾクフは満足げに頷き、ゆっくりと正面を指さした。


「彼処の辺りに出るそうだが……貴様きさん時辰儀じしんぎを持っているか?」

時辰儀じしんぎ……? ああ、時計ね」


 灰崎は、すっかり中身が寂しくなってしまった黒いカバンから支給品タブレットを取り出し、時刻を確認……したついでに、救助要請も送った。


「十四時二十分だ」

「そうか。ならば、開演までの待ち時間は十分ほどか……」


 十分……場所によっては間に合わないか……?


「どれ、それまでの慰みに話でもしてやろう」


 灰崎は極度の疲労感から返事をするのも億劫になり、口を開かずにいた。すると、その態度をどう受け取ったかは分からないが、ネㇾクフは徐に話し始めた。


「神州は信濃国しなののくに、高井郡北部の山麓に小さな村があった。何もない村だ。一部を除いて皆、貧農の身分であった」


 信濃国しなののくに――令制国に於ける地名。所謂「旧国名」で、現在で言う所の長野県に相当する。


「初夏の候、その村に中村雪之丞なかむら ゆきのじょうという男児が生まれた。健康な男児だ。彼は三男坊という事で適度に放任されていたが、周囲の野山から自力で野草や兎なんかを取って勝手にすくすくと育っていった。親の愛を十分に受けたとは言い難いが、悲観はなかった。ただ、自らの置かれた現状を冷静に見、自分の親は村のご多分に漏れず貧農であるから、自分も同じ様に貧農として一生を終えるものと思っていた。でなければ、折しも起こっていた西南戦争の煽りを受けて飢え死ぬのだろう、と」


『だが、纏骸皇はそれを望まなかった』


「ある日、突然に連れて行かれた先で、彼は『教官』を名乗る連中からそう告げられた。身体が出来上がってきていた十二の頃だったから、口減らしに奉公にでも出されたのかと思っていたが……現実は違った。そこは、この世で最も悍ましい場所――纏骸皇の選定した纏骸者を集め、世のため人のため纏骸皇のため、粉骨砕身、奉仕する心構えを植え付ける場所――『纏骸学舎』だった。追って、彼は夢を見た。真っ白な空間の中、不定形で、絶えず蠢く粘性の存在が彼に光を手渡した。それこそが彼の【むくろ】であった。その後、学舎にて行われた適性検査に於いて、学のない彼には『戦闘』以外の適正は認められなかった。その為、優秀な兵士たるべく過酷な訓練と思想教育が施されていった」


 ネㇾクフは黒衣の内側から細長い煙管きせるを取り出して、灰崎に火を求めた。既に負けを認めている灰崎は、素直に消火に回していた干渉力を煙管にも注ぎ、火をくれてやった。悲しいことに、人に使われることにはMCGでなれている。


「ふぅ~……。そうして数年が経ち、学舎を追い出される様に卒業した彼は要人警護やら傍観者成敗やらに貢献した。飯は貧農の家に居た時より、幾らかマシなものが食えていた。が、階級社会の宿命でな、下げたくもない頭を下げ、貴人の前に平伏しつつ阿るうちに彼は思った訳だ」


 そこで、ネㇾクフは唐突に口を閉ざした。暫くの沈黙が流れた後、「……何をだ」と灰崎が渋々促すと、ネㇾクフは至極面倒といった風に再度口を開いた。


「なんか違うな~……と」

「急に軽いな」


 ネㇾクフが予想していた通りのオーディエンスの反応。それに気を良くして、クツクツと笑う。


「と、そんな時だった、ちょうど蕃神信仰の者が接触を図ってきていてな。その思想、熱意に、何か感じるものがあった彼は名を『ネㇾクフ』と改め、少しばかり力試しを受けた後、神号に第五段級の『蟠蛇』を授かり、一兵卒として此方の地球に派遣されたとさ。――めでたしめでたし」

「……やっぱり、それ、オメェの話なのかよ」


 薄々と察しは付いていた。もし、今の話が実話だとするならば、その妙に詳しい口振りや心情描写は、語り手が本人か、或いはそれに極めて近しい人物でなければありえない。


「なぁ、ネㇾ、レ、ネレク、ク……言いにくいな。雪之丞ゆきのじょうでいいか?」

「別に呼び名なんぞはどうでもいいさ。意味はない、あっても一緒さね。先の様に『御前オメェ』で十分」

「……じゃあ、オメェ」

「ああ」

「もしかしてよ……例の神楽舞だとか信じてねぇのか?」

「……ああ」


 煙管から立ち昇る細煙が気怠げにくゆる。ほどなく、ネㇾクフの口から吐き出された大量の煙に一時、吹き消され、暫くするとまたくゆる。


「階級社会から逃れた先の蕃神信仰も又、徹底した階級社会だったのには参った。悟ったよ、社会とはある程度はそうする事で秩序立つのだと。しかし、ここから逃れて次は何処へゆく? 必要とされなくなれば、俺は容易く『退場』させられてしまうのだろう。そうはなりたくない。。昔は思わなかった事だが、年を食って欲が出てきた……」


 ネㇾクフは、しみじみと口中で言葉を噛み締めながら、吸い飽きた煙管を周囲の灰と炭の山を目掛けて投げ捨てた。


「嫌なら逃げればいいだろ。今は別の地球に居るんだから。MCGにも蕃神信仰から逃げてきた奴が一人居た筈だぜ」

「……それはゲㇳシュ――若田部後胤わかたべ こういんの事か? だが駄目だ、奴には役割があったが俺には無いのだ。……兎角、今暫くは安泰が確約されている。その後なら一か八か逃げるかもしれん。――ああ、そうそう。さっき神楽舞は信じていないと言ったが、蕃神信仰の有り難い教えにも含まれている『上位者』。実は、これに関しては信憑性を感じていてな。それが纏骸皇なのか盤外に坐す者、盤外様なのかは知らんが……あの日、夢に見たアレは幻覚や洗脳などでは片付けられない、“人ならざる存在感”だった……。ああ……見ていろ、そろそろの筈だ」


 時刻はまもなく十四時三十分に差し掛かろうとしていた。

 灰崎は、ゆっくりと起き上がって、マダガスカル島から東に広がる海原を眺めた。風はない。波は低く、潮の香を仄かに散らしながら、ただ穏やかに揺れている。

 今は、まだ――。



    *



「に、兄ちゃん……!」


 物心ついた時から自らに先立ち、導いてくれた絶対的存在たる兄の喪失。それは草部萌禍の心に少なくない衝撃を与えた。動揺を取り繕えず、酷く狼狽した。震えながら伸ばされた手が宙を彷徨う。すると、その隣に居たレヴィ少尉がその手を掴み、すかさず叱り付ける。


「萌禍チャン! 何ヲ、シテイルンデスカ! 仍倫サンハダ生キテマス! アア――感ジマス。生命反応ハ地球周辺……金星ヨリ向コウニハ行ッテイマセン!」

「えっ!? レヴィちゃん、なに言ってんの?」

「私ノ魔法マホウデ連レ戻シマス! ソレマデ、惹キ付ケテ置イテ下サイ!」


 力強く宣言したレヴィは、萌禍が呼び止める間もなく、風のように宮城支部エントランスホールの奥へと駆け出してゆく。その背に纏う覚悟の気配を見て取れるからこそ、萌禍は喉元にまでせり上がってきた「置いてかないで」の言葉を表出させず、ゴクリと嚥下した。


『あ~あ~あ~。駄目かあ、彼ならイケるかなと思ったんだけどな~』


 背後から響いた理解不能のアルメニア語。草部萌禍は怖気に駆られて振り返る。悲しむ暇も感傷に浸る暇もない。そこには、いつの間にやら退避から帰還していたイドリスが、空間の裂け目に腰掛けていた。


『残りはツマラン小粒ばかりだし……さっさと片付けて帰るかな。仕事は果たしたしね』


 床に降り立つイドリス。その一挙手一投足ごとに草部萌禍は震えてしまう。前方に構えた己の短刀【朱仔虎あかとらのこ】が今日は格別に頼りなく思えた。それもその筈、精神體アストラルより引き出されし【瑞】とは自分自身と表裏一体、自分で自分を信じていない不安定な彼女が、己が得物を信じられる道理がない。それでもなおこの場を離れないでいられるのは、偏に「責任感」――兄に植え付けられた教育呪いのせいか。

 対して、ますます幻滅しつつあるイドリス。その短剣が描き出す軌道に迷いはなかった。ス――と、またも音もなく現れた裂け目。その中を満たすものを正面から見せつけられ、草部萌禍の心中は絶望一色に染まった。

 此度に【牽曳けんえい】されしは海。それも、相当に深い位置が裂け目と繋がれている為に、その勢いは苛烈にして深刻。正に怒濤の如くといった速度で、一瞬にして宮城支部一階を埋め尽くしてゆく。


『海底へ沈め』


 そう言い残し、イドリスはまた安全圏へと逃れる。

 残されたのは絶望だけである。あっ、これ無理なヤツ……。もはや抵抗する気力もなく、来たる死を確信し、諦観の内にギュッと目を瞑った。南無三! 轟音が鳴り響く中、眼裏に映る兄の姿だけを頼りにただ神仏へ祈る。

 大型ダムの放水を遥かに上回る水量によって、全てが押し流されてゆく。

 屍体、兵、鉄砲、屍体、兵、瓦礫、鉄砲、人、屍体、列車、ジェット……。

 その中に草部萌禍の姿はない。


「……あれ?」


 やがて、違和感に気づいた。待てども待てども、海水が襲いかかってくる気配がないのだ。草部萌禍が目を開けると、そこには驚くべき光景が広がっていた。溢れ出る海水は、なぜか、彼女の周囲二メートルを避けるように流れていたのだ。呆気にとられる草部萌禍のヘッドセットが骨に振動を伝える。


「手こずっているようだな、手を貸そう」

「だ、誰!?」


 唐突――すると、海水の流れにも徐々に変化が起こり始めた。何者も粉砕する勢いだった激流が目に見えて滞り始めたのである。


天海祈あまみ いのりだ。私の本体は他支部の攻略と防衛とにまわしてい為、直接に出向くことは出来なかったが、この程度の援護をするだけの余裕はできたのでな」

「えっ、えっ、どういう事?」

「察しが悪いな。味方だ、共に戦うぞ。――フンッ!」


 遂に、海水の氾濫は逆転した。宮城支部一階を満たしていた海水が、一滴残らず蛇口じゃぐちたる裂け目へと殺到してゆく。


「す、すご……」

「驚いている場合か。身体の動きをサポートしてやる、足を引っ張るなよ」


 今度の声はヘッドセットからじゃなく、何処からともなく現れ、草部萌禍の全身に纏わり憑いた霊瑞みずから響いた。その途端、体の外側から力が漲ってくるのを草部萌禍は感じ取った。「サポート」の言葉通り、透き通る霊瑞みずは意思を持って柔らかく固り、関節の保護と筋肉の補助をしていた。

 更に、それに併せて、ヘッドセットから新たなる振動が伝わってくる。


「聞こえますか! 北條嘉守ほうじょう よみもり旅団長がそちらへ向かっています! それまで――」

「もう着きました。そう叫ばずとも結構」

「りょ、旅団長! 自らが!」


 衛府えふ太刀――金地螺鈿毛抜形太刀きんじらでんけぬきがたたち――【驕傲きょうごう】を携えた北條嘉守が、遠方の入り口付近に現れていた。既に抜刀済みであり、濡れる刃が遠目にも眩しく突き刺さる。

 北條が、宮城支部一階を見渡しながらヘッドセットに手を添える。


「草部萌禍、レヴィの所在は?」

「分かりません! なんか変なコト言いながら奥へ逃げました!」

「バカを言うなッ!」


 草部萌禍が応えると、北條は少々の苛立ちまじりに語気を荒げた。


「レヴィがこんな時に無駄な事をする筈がない! 単なる戦線離脱ではなく、きっと我々に勝利を齎すような意味のあることをしに行ったのだ!」

「そんなもんですかーッ!?」

「そんなもんだッ!」

『驚いたな、まさかお前如きが生き残るとは』


 イドリスが安全圏から戻ってきた。草部萌禍が生き残ったのは想定外。しかし、その余裕は崩れない。受付の机の上に腰掛けて、なおも独りごちる。


『ちっとは見込みのありそうな女が出て来たな。さて、あの逆流は女の仕業だろうか。あの怯えようだ、そっちのお前でない事は確かだが……』


 不躾な値踏みの視線が北條と萌禍を貫く。居心地の悪さを感じて萌禍が身じろぐと、それが身に纏わり付く霊瑞みずにも伝わり、プルプルと震えた。


『貴様、ユスフ・イドリスといったか。伍句ゴノクとやらの身柄は惜しいが、管理できん危険人物なぞ仕留める他ないな』

『おほ、変な水が堪能なアルメニア語を! キショ! じゃ、三人か! なんだか楽しくなってきたんじゃないのォ!?』


 激しく興奮するイドリスが、右手指に絡み付く【短剣】を軽々しく揮った。音もなく、空間が引き裂かれてゆく。訝しむ北條。その心情に先んじて、左方へ逃れながら草部萌禍が叫ぶ。


「旅団長、気を付けて! 変な割れ目から色々出てきます! 新幹線! ジェット機! 宇宙! 海! 何れも割りと直線的!」

「説明御苦労。しかれども、その気遣は不要であったな!」


 北條は悠然たる態度を保ちつつ禍々しく開かれた裂け目を睥睨し、踊るように歩を早めた。誰憚ることなき直進。


「そ、そんな――」


 ――自殺行為だ! ランウェイ気分か! 立場とは別角度から来る恐惶をすら飛び越えた直言。しかし、それが草部萌禍の喉元を登り切る前に、イドリスの攻撃が裂け目の中からその身を乗り出していた。

 E231系電車――JR東日本の直流一般形電車の四角い車両が、新幹線よりは劣るスピードでエントランスホールの表面を削り、駆け抜ける。

 様子見の一合。それは向かい合う両者に取って、また横合いにて草部萌禍に纏わり付く天海に取ってもそうである。だからこそ、当たれば必殺の攻撃を前にして、北條の対応はを意識した一手である。


「刮目せよ」


 白指に絡み付く【驕傲きょうごう】が左から右へ流れるように移動すると、すぐさま、リン――と、小鈴の転がる様に軽やかな音色が電車のあげる唸り声を掻き消し、戦場いくさばの雰囲気を支配した。

 ところで、武装励起――骸とは、何かを傷付ける事で能力を発現させるもの。理屈としては、草部仍倫は自らの肉体を、イドリスは空間を傷付けていた訳だが、此度の剣撃、北條の握る衛府太刀は一体何を傷付けたというのであろうか。

 ――答えは因果。

 定命を織りなす因果の糸を彼女は断ち切ったのだ。

 その効果は、まず、E231系電車の【顚倒てんとう】に始まった。北條の身に迫る死の暴走特急が、何の外力にもよらず瞬時にしたのである。床を削っていた車輪は空転し、代わりに電車上部のパンタグラフが宮城支部一階の天井を削る。エントランスホールの高い天井を、である。北條は、その真下を背を屈める事なく潜り抜けた。

 ほう、中々――イドリスは、宛ら回答者に対する出題者、挑戦者に対する保持者の如く絶対的な上位者として驕り高ぶり、肥大した自我を隠そうともしなかった。

 けれども、北條の攻撃はを意識した一手であるが故に、【顚倒てんとう】は電車だけに留まらない。因果を断ち切るとは、寿命をふさぎ、必然をくつがえすという事。有り得ない事など有り得ないのだ。

 転瞬、銃器、爆発物、ジェット機、新幹線、宇宙、海水、そして電車……これまで行われた汎ゆる攻撃に耐えてみせた宮城支部が、いとも容易く【顚倒てんとう】した。

 内部に居た少数の生存者たちに堪え難い浮遊感が襲いかかる。床は天井となり、天井は床となり、もはや左右の区別は不可能。地球の重力からも【顚倒てんとう】した。


『お――おお! こりゃすごい!』


 さしものイドリスも、新たに生み出した空間の裂け目に掴まりつつ目を見張る。

 敵味方誰もが混乱する中、北條だけが平静に駆けていた。目まぐるしく変化する相対的な位置情報による名称は、北條の足元に於いて常に絶対的な『床』。彼女は自らをも同じく【顚倒てんとう】させ続ける事で姿勢の安定を得ていた。

 もんどり打つ宮城支部内を駆け抜けた北條が、遂にイドリスに斬りかかる。弛まぬ訓練に裏付けされた剛直な剣が一直線に生命を脅かす。それを黙ってみているイドリスではない。因果を超越する【短剣】が軽々しく揮われるや、その軌道上に生まれた裂け目が北條の斬撃を防いだ。


『今度はジェット機だ! この距離から防げるか!?』


 両者の視線が逆さまに交錯する。すると、北條の顔に可憐な笑みが浮かんだ。


「言葉は不要。疾く疾くね」


 その瞬間、イドリスは己が目を疑った。なぜだ、なぜ、裂け目がズレている、動いている。なぜ、俺の方に口を開けている……! 事は単純。北條の剣は、超越した因果をも【顚倒てんとう】させてみせた、ただ、それだけの事。

 長らく暇を持て余していたイドリスの生存本能が、本格的に警鈴を鳴らし始める。上記の近似解へと瞬息の間に辿り着いていたイドリスは、握り締めた【ագահ貪婪】を全力で揮い、自らの前方に裂け目を作り出した。退避の為である。その中にイドリスが飛び込むのと、現れたジェット機が裂け目の裏側に激突するのは同時であった。


『接近戦じゃ分が悪いようだな!』


 久しく感じる事のなかったヒリつく様な緊張感に打ち震える。それでいながら、彼我の戦力差、相性の悪さを冷静に評価して、一度宮城支部を出て一呼吸置こうとした。しかし――


「天海さん、もう少し、右」

「分かっている!」

「ここ? ここなの?」

『なっ――!』


 裂け目の出口に待ち構えていたのは、外の青空でもコンクリートジャングルでもなく、霊瑞みずを纏って宮城支部内を縦横無尽に飛び回る草部萌禍だった。

 流体である霊瑞みずは、草部萌禍を含む中心部を形成する球体から、いくつもの触腕を射出し、アンカーの如く四方に踏ん張ることで、今なお【顚倒てんとう】し続ける宮城支部内に於いても、高速移動と安定した姿勢維持を実現している。


「レッド・ヒィィィトォ!」


 燃える【朱仔虎あかとらのこ】が空気を焼き焦がしながら、余裕を失い始めたイドリスの脳天へと振り下ろされる。併せて、草部萌禍を包む球体の霊瑞みずから触腕のアンカーも射出されている。

 それ等の攻撃は寸分違わずイドリスを捉えていたが、彼に取っては幸いか、出現位置が二人の当てずっぽうの予測から若干ズレていた為に距離が有り、裂け目を再び開いての回避が間一髪、間に合った。


「うおー、やっぱ怖~!」

「馬鹿が、話を聞いていたのか? 奴の周囲が逆に安全圏だ。自身も巻き込まれる様な攻撃は奴とてそうそう撃てん。撃つ場合は今の様に逃げながらとなるだろう」

「きいてたよ!」

『なんで……出れてねぇんだ!?』


 イドリスが移動した先は宮城支部の中。今度も思い描いた宮城支部の外へ出ることは叶わなかった。思い描いた先は一緒であるというのに、出る場所は変わっている。そこに何の法則性も見いだせずにいると、その背後から北條の声が響いた。


「既に、三度に渡って此場このばの因果を【顚倒てんとう】させている。もはや、私の許可無しに此場このばを離れること叶わず。――神妙にね」


 まるで、最初から其処へ現れる事を知っていたかの様に、確信して閃く濡れ白刃。その先端部が、イドリスの左肘を深く捉えた。


『う、おおおおおおおおお!』


 ――お前が切った訳じゃないぞ、小娘! くれてやったのだ! やや遅きに失した感は否めないが、イドリスは腕の一本ぐらいはくれてやるという覚悟を決めていた。

 防御を捨ててまで宙を撫でた【短剣】が複数の裂け目を開く。此度に【牽曳けんえい】されしは――大量の土。この至近距離では自らを安全圏へと運ぶ暇がない為、範囲攻撃は使えない。かといって、大質量の物体を【牽曳けんえい】してこようにも、多少のタイムラグで【顚倒てんとう】させられてしまう。なればこその土だった。裂け目を複数に分ける妨害もカバー。

 イドリスの視界を溢れ出た大量の土が塞ぎ、北條が失せる。それに安堵せず、次は草部萌禍の方へも裂け目を開いた。こちらも勿論、手加減抜きの複数展開。新幹線、電車、ジェット機――そして大型の旅客機までもが一堂に会し、大質量の弾幕となって草部萌禍へと殺到してゆく。


「ちょちょちょちょちょ!」

「落ち着け、柱を盾にしろ」


 衝突、爆発、炎上。積み重なる残骸が物理的な障壁となる。

 暫く、そこに居ろ! 牽制の意図はここに成就した。故に、イドリスの意識は本命のもとへとすぐさま舞い戻る。

 それに前後して、宮城支部に溢れ出た大量の土の一角が重力に逆らい、天井に向かって堆積し始めた。それは、宛ら紅海を割いて渡ったというモーゼの如し。独りでに避けてゆく土の合間から北條が現れる。その身体には、土の一片とて付着していない。


『ハッ――そう来ると思っていた!』


 土なんかで殺したかった訳じゃない。それは単なる前準備――この時既に、イドリスは土の【牽曳けんえい】を司る裂け目たちを閉じていた。そして、新たに二つの裂け目を生成している。一つは避難路として後方に、もう一つは雷管がわりの爆発物をありったけ前方に【牽曳けんえい】する裂け目。


『吹き飛べッ!』


 地面に転がる爆発物を見た北條が、ハッと何かに気付いたかの様に周囲を見渡す。そして、恐らく、見つけてしまったのだろう、土中に混ざる少なくない量の鋭利な鉄片と、硝安油剤爆薬しょうあんゆざいばくやく――粉状の爆薬を。

 なんの為に幾つも裂け目を開いたと思っている! 土に紛れて仕込みを済ませる為でもあったんだよ! 爆発物の起爆を目視にて確認し、後方の避難路へ飛び込むイドリス。外へ逃げる事は出来ないし、裂け目の中に留まり続ける事も不可能だが、一瞬、一瞬だけ、中の空間に身を隠す事は可能である。

 これで爆発は回避した! 鉄片も!

 出来得るギリギリまで裂け目の中に留まってから、イドリスは意気揚々と裂け目から飛び出した。勝利を確信している表情。今回の行先は外ではなく、初めから中である。


『さあ、ズタ袋の様になったかおを見せ――』

「何をしようと無駄だ」

『――っ!』


 声を上げる間もなく、イドリスの胴体部が薙ぎ払われる。宙に舞う血と共に背後を振り向くと、そこには北條が【驕傲】を振り切った姿勢で立っていた。傷一つない。それどころか、周囲には爆発の痕跡すらない。雷管がわりに起爆した爆発物すら、その場にそのまま転がっている。確実に起爆した筈なのに……。


『無敵かよ……あの瞬間から間に合ったのか……? それとも……』


 湧き上がってくる喪失感、無力感。これらも又、久しく感じる事のなかったものだ。

 嗚呼、昔を思い出すなぁ……。

 返す刀が倒れ込むイドリスの上半身を追いかけてくる。しかし、無意識に働いたイドリスの生存本能が、この様な状態になってもなお、半ば自動的に受け身を取り、首の皮一枚の瀬戸際で逃れる。併せて、左手で床を押し、半身で飛び上がる。その間、保持し続けている【短剣】は円の軌道を描いた。

 今度は何を持ってこようか。そんな悩みすら今は懐かしい。思考の海に溺れる回転の最中、イドリスの目は北條を外れ、迫りくる草部萌禍を捉えていた。恐らく、【牽曳けんえい】できるのは一度切り、しかし、こうも挟まれては防御できても片方のみ、逃げようにも避難路を開いた瞬間、飛び込めずに死ぬだろう。


『じゃあ……これしかないな』


 因果を超越する【牽曳けんえい】の能力が【短剣】の軌道に沿って空間に裂け目を描き出す。


『太陽フレアで道連れだ!』


 太陽フレア。別名『太陽面爆発』――通常、地球視点に於ける太陽フレアの影響が語られる場合、着目されるのは『太陽嵐』による機械類への被害が大半だが、そもそもの話として太陽フレアとはその別名が示す通りに『爆発』なのである。その威力は――大きさにも寄るが――水素爆弾10万~1億個。これは宮城支部のある仙台市どころか日本列島ぐらいは余裕で吹き飛ばせる威力だ。

 従って、それは瞬間的な出来事となった。

 裂け目を視認し、北條と草部萌禍の身体はほんの僅かに身構え、硬直する。その時間があれば、裂け目の中を太陽フレアが駆け抜けるには十分だった。

 真っ先にその影響を受けたのは使い手たるイドリスである。だが、ここで彼が死のうが噴き出した太陽フレアは宮城支部内を隅々まで焼き尽くすだろう。イドリスもそれを確信していたからこそ、仄暗い満足感に浸りつつ笑顔で北條の顔を眺めることが出来たのだ。

 なんてかおだ、グチャグチャじゃないか……ああ、俺もそうなっているのだろうか――得も言われぬ幸福、絶頂、至福。この瞬間が永遠になればいいとすら思った。


『[Յուսուֆ Իդրիս]』

『………あっ……?』


 その声を聞いて、ようやく気付く。現在の光景が、時間間隔の崩壊した主観だけでない可能性、正気であれば辿り着かないであろう可能性に。

 時間が――停止している?

 静寂が支配する停止空間を、黒いローブを纏う天海だけが悠々と歩く。


『[無限を受け入れろ]』

『……あっ……』

『[遠のけ]』


 天海の指先がイドリスの額をトンと弾く。

 無限の心象イメージ――数学的に厳密なフラクタル図形の映像――がイドリスの主観認識を支配した。延々と縮小し、拡大してゆくそれに果てはなく、何処まで行こうが無限である。故に、ここに於ける縮小は拡大と類義、その事実を認識してしまった瞬間、イドリスの意識は大きく弾かれた。


『[けの遠]』

『……っあ……』

『[ろれ入け受を限無]』


 そして、イドリスは見る。幽体離脱の如く自分自身から離れ、数秒前の自分を強制的に俯瞰させられる。アルメニアの民族衣装に身を包み、転がりながら美しき短剣を揮う両脚の無い男を。


『?……っあ………』

『[սիրդԻ ֆւոսւոՅ]』


 取り残された地上のイドリスの口が動き始める。そこから紡ぎ出される言葉を、イドリスは知っている。


『!だれ連道でアレフ陽太、太陽フレアで道連れ――』


 その瞬間、遠のいていたイドリスの意識は身体という器に戻っていた。しかし、濃密な無限の負荷が精神的へ甚大な衝撃を齎し、イドリスの身体は硬直した。

 世界は、誰にも感知できない範囲で巻き戻った。

 その影響は、すぐさま目に見える形で現れる。タイムラグが【牽曳けんえい】対象の選定を遅らせ、開かれた裂け目から太陽フレアが溢れ出る事なく、北條の刃を防ぐだけに留まった。


『ぐっ――』


 そして、半身、両腕で床を押し上げ、再びの跳躍。萌禍とアンカーの攻撃をも避けきった。


『何度だってやってやる! もう一度――!』

『いや、もう終わりだよ』


 この時、【顚倒てんとう】を続けていた宮城支部の入口はにも天を向いており、またにも宇宙から帰還した草部仍倫が、その入口から人体の終端速度、約200km/hを遥かに越える速度で突っ込んで来た。

 落とした糸が針の穴を通り抜けるような天文学的確率――草部仍倫は進路上のイドリスの頭部を足刀にて破砕した。

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