1-4-4 ネイリスト / 釘子戸



 今しがた気絶させた、チンピラをふん縛って、この倉庫内の大半を支配する荷物群の一角へと寄りかからせた。彼の、白目を剥き、泡を吹く様には憐憫を禁じ得ないが、偶々、このタイミングでたまり場に居合わせた不運を呪ってもらうしかない。

 千覚原さんが、チンピラの枕元へササッとすり寄ってゆき、その額に触れた。

 情報収集は適性ある彼女に任せるとして、その間、手隙になった俺と六道さんは、チンピラのカバンとポケットを検分する事にした。

 携帯に、財布に……その他、特筆する必要もないプライベートなものが数点。実に一般人らしい、何の変哲も無いラインナップである。但し、六道さんが、カバンの二重底から発掘してしまった『外宇宙アウター・スペースの呼び声』のラベル付きパッケージを除けばの話だが。

 この時点で「ヤク中」か「売人」の二択。確かめるべく、不躾ながら財布の中も覗いてみると、そこには、一般人が持ち歩くには過分なほどの現金が収められていた。身分証、カード類なし。……売人か。

 無辜の民をうっかり襲撃した可能性は排除できたので、取り出したブツをカバンに戻してゆく。

 その時、意識の埒外から「う~ん、う~ん」と軽はずみな唸り声が聞こえてきた。


「……千覚原さん、どうしました?」

「う~ん。やっぱり、起きてた方が分かるのかも……」

「ガッチリ縛ってますし、水でもぶっかけますか?」

「そうするぅ」


 ここは単なる倉庫の様に見えるが、売人のたまり場として使われているのだから、水道ぐらいどっかにあるだろう。

 そう思いながら、腰をゆっくり持ち上げた時だった。

 降ってわいた様なガラガラにしゃがれた低い声が、背後の暗がりから現れた。


「な、なんだテメェら! 大石おおいしに何してやがるッ!」


 ――別の売人!? 千覚原さんは接近に気づかなかったのか? 打ち合わせ通りなら、情報収集と同時に索敵も行っていた筈だろう!

 俺は、現状を把握しようと反射的に振り向いた。

 時を同じくして、隣の六道さんが発砲していた。絞殺されゆく断末魔の叫びの様な銃声が、倉庫内に響き渡る事、三度。それらに続いて、ガーンという硬質な音がこれまた三度に渡って響いた。

 その余りにも迅速すぎる対応を受けて、乱入者は堪らず後方へ崩れ落ちた。


「ちょ、六道さん!?」

「大丈夫、減音器サプレッサーをつけてるから、一般人は銃声だと判別できない。雑踏の喧騒に紛れる」


 素人の俺からすれば短慮にも取れる発砲を咎めると、六道さんは事も無げに銃身の先に黒い筒の付いた拳銃を見せ付けてきた。ヘッケラー&ウントコッホ社製のUSP45、オリジナルモデルを切り詰め、更に銃身にネジを切って減音器を装着可能にしたコンパクト・タクティカルモデル――と、天海から聞いている。

 だが、そういう事じゃない。

 音がどうだとか、そんな些細な事を言いたいんじゃない。

 胸の蟠りを言葉に出来ず、俺は頭を抱えた。どうして、灰崎さんですら認可されなかった銃を、よりによって六道さんが持ってるんだ。

 気絶したチンピラの隣にへたり込む千覚原さんも、すっかり何時も通りの怯え様である。

 けれども、死体を見つめる六道さんの無色透明の無表情を見て、不服に諦めの蓋をした。

 ため息を付き、俺は、倒れ込んだ彼の元へ向かおうと踏み出した。


「はぁ……取り敢えず、死体をどうにか――」

「まって!」


 しかし、服を強く引っ張られた事で、その試みは未遂に終わる。

 俺は、思わず一瞬前に閉めた蓋をこじ開けて、抗議を噴出させようとした。が、間髪入れず、六道さんの白指の先に目を見張る光景が出現した所為で、全ては諸共吹き飛んでしまった。


「――ッてェなぁ!?」


 確かに弾丸を食らった筈の男が、顔を苦痛に歪め、体の複数箇所を手でおさえながらも、元気に立ち上がった。

 口中に「嘘だろ……」という言葉が木霊する。

 六道さんの銃撃は、灰崎さんのヘタクソなそれと違って確かに命中した。この目で見て、この耳で音を――いや、今思えばあの、おおよそ人体から鳴って良い音ではなかった。


「まさか――!」

「たぶん、変異者ジェネレイター


 落ち着き払った様子の六道さんが、再び引き金を引く。今度は、不意を狙ったものではない為に、暫定変異者ジェネレイターの男も前面に腕を交差クロスさせて防御姿勢を取った。

 直後、ガーン、と硬質な衝突音が鳴り響き、男の着るジャケットの袖口が揺れた。

 またも命中。だが……。


「糞が! 衝撃が半端ねェ、痛ェ! 覚悟しろガキ共! 何処の組に金もらったか吐かせた後に絶対ぶっ殺してやるからよォ!」


 男は意気軒昂として突っ込んで来る。最早、敵対は決定的であり、まごついている暇はない。俺は、六道さんの射線を塞がないよう右に迂回しながらの接近を試みた。

 銃撃を物ともしない防御の正体は分からないが、向こうから近付いてくる時点で距離減衰を気にする浅層のΓギバか、そもそも届かないΒベルカンのどちらか。例え、そのどちらであっても、射程距離内に入りさえすれば速攻で発現する俺の能力なら必ず先手を取れる。

 幾許の間を置いて、俺の背後から次々と放たれる掩護射撃。その衝撃を一身に受け、男の足が止まった。これを好機と見た俺は、一気に踊りかかって彼我の距離を詰めた。

 狙うは眉根! 眉根ごと両眼を抉り取り、この一撃で無力化しようという作戦だった。――だが、握りしめようとした右手は、生まれて初めて感じる謎の鈍い抵抗に阻まれた。


「と、取れない、握れない――!?」

「お、お、お、おおおおお、なんだァ! テメェも使のかよ!?」


 まさか――と、俺の脳裏にごく最近に見聞きしたばかりの或る概念が浮かんだ。

千覚原さんとの初対面時に聞いた《深度優先則デプス・ルール》。彼、或いは別の能力者ジェネレイターによる干渉が既にあるから握れないのだ。


「眉根がいてェ、糞!」

「くっ――」


 歯を食いしばり、全身全霊の力で右手を握らんと試みるが、鈍い抵抗は段階的に増してゆくばかり。認めたくないことだが、恐らく、俺の方が“浅い”!

 くそっ、六道さんの掩護射撃はどうした? 前触れなくパタッと止んだが、弾切れでリロード中なのか? いや、それより疑問は千覚原さんの方だ、彼女は何をしているんだ? 寝てるのか!?

 八つ当たり気味な思考が幾つか過るも、振り返って確認する余裕すら今はない。腕の健と筋肉が引きつってきた。

 永遠にも思えた数秒の膠着。先に崩したのは、男の方だった。

 男は「チッ」と舌打ちをかますや否や、ジャケットの中へ右手を突っ込んだ。間を置かず、ぬるりと現れた右手に握られていたのは一挺のリボルバー式拳銃。


「死ねや!」


 それをむんずと掴む右手の一指が引き金に掛かっているのを見て、俺は戦慄に導かれるまま対象體を変更せざるを得なかった。

 瞬間、俺の右手に収まる拳銃を痛いほどに握りしめながら、眼前に広がる驚愕のg表情に判断の正当性を自負する。

 しかし、一瞬……ほんの一瞬だけ遅かった。

 男は、取り出した時、狙いをつけるから引き金を絞っていた。

 俺が取ったのは銃本体だけ、放たれた弾丸の方は“認識”し切れていなかったのだ。結果、けたたましい炸裂音が撒き散らされた後、俺の左脚には熱っぽい痛みが走った。

 俺は、左へ崩れ落ちながらも鈍痛を歯噛みし、どうにかリボルバーを持ち直して撃ってやろうとした。が、そんな細々とした動作は、男の右脚に丸ごと踏みつけられ、倉庫の床に叩き付けられた。


「チッ……手間かけさせやがって!」


 その言葉と共に、男の足が退かされる。「何故?」と、そう思う前に反射的に手を引くが、手も、銃も、床に張り付いたままピクリとも動かない。

 焦る俺の頭上に男はストンピングの雨を降らせる。

 俺は、防御の為に左手をかざすが、すぐにそちらも床に縫い留められてしまう。その内、降り注ぐ一発が、無防備な顎に突き刺さった。脳が激しく揺れ、一気に意識が遠のいてゆく。

 完全に倒れ伏した俺を見て、男が荒く息を吐き出す。同時に、ストンピングの雨も止んだ。


「――他の奴等はどこ行きやがった。逃げたのか!?」


 揺れる世界を床から見上げてみるも、そこに二人の姿は見当たらなかった。

 逃げた……とは、思いたくないが、それも正解のひとつかもしれない。六道さんはともかく、情報部の人材千覚原さんは貴重なのだから。

 男は、暫く辺りを見渡した後、「……まぁいい」と吐き捨てた。


「情報ならコイツから聞き出せば十分だ」


 俺の右手から銃が奪い取られる。不用意に能力を解いたのかと期待して、少しばかり右手に力を込めてみたが、全くの徒労に終わった。

 俺に向けて油断なく銃を構える男は、懐から携帯を取り出した。仲間に連絡を取るつもりなのだろう。

 なんて、歯痒い。

 六道さんと千覚原さんが今、何をしているのかは分からないが、彼女らの無事を考えれば連絡は阻止するのが上々である。それを理解していながら、這い蹲る以外の行動を取れない事が、歯痒い。

 出来る事と言えば――動かない顎の奥の声帯を震わせるぐらい。


「おい、そんなに呑気にしていて良いのか?」

「……黙れ、殺すぞ」

「殺せない。お前は殺せない。俺から情報を聞きたいんだろ?」

「チッ……」


 苛つきを隠さず、男は俺の頭を踏みつけた。だが、口は完全には塞がれていない。ならば、少しでも時間を稼ぐために俺は口を回し続ける。


「俺たちは遠慮なしに銃をぶっ放し合ったんだ。すぐに警察や野次馬が来る」

「ハッ、何を言うかと思えば……」


 しかし、俺がそう言うと、男は先程までの怒りは何処へやら、嘲りの笑いを浮かべて足を退かした。そして、何処へともなく二、三歩ほどフラフラと離れて、携帯をしまった。


「来ねェよ。地元の奴等はこの辺には近寄らねェ。何故だと思う? 俺らの縄張りだってマジに理解してるからよ。そんな事も知らねェで、テメェ等いったい何処から来たんだ」

「……答えるとでも?」

「別に答えなくてもいい。嫌でも吐く事になる。あの女に掛かれば――」


 ギ、ギ、ギィィ――。

 男の台詞は、唐突な異音によって遮られた。

 俺と男の頭上が翳る。思いがけず、息を揃えて見上げると、そこに待ち構えていたのは、倉庫に立ち並ぶ、天を衝く大質量の『棚』が、此方へ向けて傾き始めているという極めて威圧的な光景だった。

 棚の隙間から、下手人だろう六道さんの丸きり平静な無表情が覗く。が、すぐに右か左か、どちらかへ移動して見えなくなった。


「まさか、六道さん、俺ごと――!?」

「ちょ、こ、このデカさはシャレにならんしょ!」


 まるで、死刑執行を待つ囚人の気分だ。倒れ来る棚の動きは非常にゆっくりなのだが、それが、一切の身動きが取れぬ状況下で激烈に恐怖を煽ってくる。

 多大な絶望を抱きながらも、無事な右脚で踏ん張ってると、不意に、両手と頭の固定が緩んだ。

 本能的に男の方を一瞥。すると、転がる様に棚の殺傷範囲から逃れてゆく姿が見えた。その瞬間、俺の全身に施されていた《固定》が外れ、俺の身体は弾かれたゴムの様に吹っ飛び、ギリギリで棚の殺傷範囲から逃れ得た。

 息も絶え絶えの俺の頭上へ、飾り気のない声が降る。


「いったん、退こう」

「り、六道さん……シンドイんで肩かしてください……」

「わかった」


 小柄な体躯に遠慮なく体重をかけながら、棚を乗り越えて追って来ないだろうかと背後を振り返る。しかし、そこでは最初の棚を切欠に大規模なドミノ倒しが起こっていて、暫く逃げるだけの時間は稼げそうだった。男は、棚ひとつを止めるのも避けたぐらいだから、これを切り抜けて俺達を追うのは厳しい筈。

 六道さんの指し示す方角へ逃げ足を継ぎながら、棚を倒した機転を褒めると、彼女は珍しく長台詞を吐き出した。


「アイツはたぶんΒベルカンで、触らないと干渉が難しく、発現できないタイプ。弾丸も、貴方も、止められるならもっと手前で止めてるはず。だから、體が大規模、大質量になればなるほど困るハズと考えた」


 男の能力は、恐らく《體を固定する事ができる》能力とかだろう。六道さんも、銃撃と俺への攻撃を見て、似たような能力だと推察したらしい。


「なるほど、助かりました。けど……」


 死ぬかと思いましたよ、という言葉は飲み込んだ。そして「どうして、俺達の逃げる方は棚が倒れていないのか」と聞くと、六道さんは無言で何本ものピンの様な何かを見せてきた。その余りにも遠回しな答えに理解を窮して、左右に並ぶ棚へ目を遣ると、幅1.5メートルくらいの棚同士をピンの様なものが繋いでいるのが見て取れた。アレを抜いた、という事か。

 間もなく、俺達は倉庫の裏口らしき扉へ辿り着いた。そこで、ふと千覚原さんの姿が見えない事を思い出す。


「そういえば、千覚原さんは? 何処です?」

「気が付いたらどっか行ってた」

「えぇ……」


 まさか、本当にほっぽりだして逃げたんじゃないだろうな?

 六道さんの様に血の気が多いのも問題だが、臆病も過ぎれば悪徳たりるぞ。しかし、いくら人道に反する行為とはいえ、利の面で見れば間違っているとも言い切れない。今は、そう思う。

 だから、俺は六道さんに対してこう言った。


「六道さんも逃げて良かったんですよ」


 すると、六道さんは、透明な瞳を滑らかに揺れ動かして、俺の奥を覗き込んできた。そして、裏口の内鍵を開けながら、溜めて、溜めて――ボソッと呟いた。


「貴方は、生きていた方が都合が良い」


 その言葉の真意は、崩れない無表情と抑揚のない口調からは、全く読み取れない。だが、照れ隠しで言っている訳ではない事は確かだ。

 裏口を出ると、前方には別倉庫の壁が構えており、俺達は右へ行くか左へ行くかの選択を迫られた。幾許かの逡巡の後、俺達は右を選択した。「大通りがそちらの方角だから」という六道さんの言葉が決め手だった。

 このまま通りに出て、タクシーでも拾ってしまえば……しかし、そんな淡い期待は、無残にも打ち砕かれることとなる。

 倉庫同士が隙間なく立ち並ぶ道を、負傷した足に鞭打って急ぐも、角を曲がった先に待っていたのは、また別の倉庫の壁。この道は、突き当りの袋小路であった。

 慌てて周囲の倉庫の裏口、表口に飛び付くが、何れの扉も厳重に施錠されており、鉄製、六道さんの持つ.45口径では到底こじ開けられそうになかった。


「――ハハ、ハハハハハハ! ……ハァ」


 笑い声は後方、しゃがれた男声のものであり、合間に息切れの様なブレスが混ざっていた。振り向きたくなかったが、この状況では振り向かざるを得なかった。


「俺達の事も知らねェ、土地勘もねェ。やっぱ、この辺の奴等じゃねェよ。どこに雇われた? ったく、後で聞けば分かる事だがよォ」


 汗だくの男は、着ていたジャケットを放り投げ、リボルバー式拳銃を突き出しながらツカツカと歩み寄ってくる。それに応じて六道さんが発砲するも、男の足は止まらない。男は半身になって降り注ぐ弾丸から頭部だけを左手で守り、奥の右手で引き金を二回絞った。

 男の銃の腕前は、六道さんと同じく、灰崎さんのそれとは比べ物にならない高みにあるらしい。日常的に使用しているのか、然程、狙いを定める間もなかったというのに、放たれた弾丸は、それぞれ俺と六道さんの右太腿に突き刺さった。

 これにより両足に傷を負った俺は、立っていられず地に倒れ込んでしまう。

 六道さんは、姿勢を僅かに崩しながらも無事な左足で踏ん張り、なおも発砲して攻撃を試みていたが、男が次に放った三発目の弾丸によって銃を弾き飛ばされると、観念した様に両手をあげて座り込んだ。

 男は、残弾二発の弾丸を捨て、スピードローダーで新たな弾丸を素早く装填しつつ歩調を緩めた。

 この時、俺はある事実に気付く。

 アレは――間違いない。

 なら、六道さんの妙に殊勝な態度も納得できるというもの。


「止血ぐらいはしてやるよ。だが、情報を聞くだけなら一人でも十分だという事をよ~く覚えておけよ。大人しくしろ、な?」


 何も知らない男は、勝ち誇った顔でそう宣告する。

 俺は、緩む頬を抑える為に頬肉を強く噛み切ってから「なぁ……ちょっといいか?」と切り出した。胡乱げな目が俺を刺す。


「……ンだよ」

「割と流血がヤバイんだ。動脈がイってるのかもしれない。頼む、止めてくれないか……?」


 すると、忽ちの内に男の顔が猜疑に歪んだ。そこへ「してくれるんだろ?」と更に重ねて頼むも顔色は晴れない。

 だが、それでいい。それでもいい。


「おいおい、俺の能力はもう食らってるだろ? 他人から物を横取りするだけのチンケな能力だ。もう、何も出来ないさ」

「……ハンッ。そうだな、俺には効かねェ。銃を取られたのだって油断したからよ。そして、油断はもう消えた」


 これでもかと己の無力さをアピールすると、男はまるで自己暗示の様な言葉を呟きながら歩み寄ってきてくれた。男の履く革靴の底が、俺の両足に軽く叩き付けられる。すると、たったそれだけの動作で流血は止まった。

 地面から見上げて、俺は心からの笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。助かりました」

「あぁ? 何を急に――」

「どう致しまして!」


 男の言う「油断」は、未だ彼の心に残っていてくれた様だ。

 男の背後から響いたなよなよした声音に、男は驚いて振り向くが、果たしてそこに居たの姿を見れたかどうか。

 香椎さんの手と男の首の間から大きな感電音が響いた。それと同時に、男の身体が糸の切れた人形の様にカクンと崩れ落ちる。

 再度、両足の弾痕からドッと血が流れ始めたので、俺は服を引き裂いて簡易的な止血を施しつつ、香椎さんの手を借りて立ち上がった。「大丈夫?」という香椎さんの声に力なく返す。

 倉庫の角から千覚原さんが現れ、此方へ駆け寄って来た。


「匡人くん! 大丈夫!?」

「千覚原さん……話たい事はありますが、後にして、まずは此処を離れましょう」

「あ、それなら……」


 男が呼んだ仲間を警戒して、迅速な「撤退」を進言すると、突然、千覚原さんは目をぎゅっと瞑った。そして、両手を耳元に持ってきて、耳を澄せる様なポーズを取り「うーん、うーん」と唸った。その間に、俺は香椎さんの背におぶさる。

 数秒ほどして、千覚原さんの目がカッと開かれる。


「よかった! あのヤバイ爺さんが、もう近くまで来てる! あっちだよ!」


 ヤバイ爺さんとは、もしかしなくても岸さんの事だろう。香椎さんだけでなく、岸さんまでも呼んでいたのか。


「まって」


 しかし、おぶさった俺の手を取って駆け出そうとする千覚原さんを、平坦な声が呼び止めた。撃たれた傷を簡易的に止血した六道さんは、ふらふらと立ち上がり、弾き飛ばされた銃を拾い上げながら、倒れ伏した男の背を指差した。


「六道さん?」

「貴重な情報源」


 その言葉にハッとした。目的を見失う所であった。その為に、俺達はこんな所でこんな事をしていたのだ。


「……そうですね。千覚原さん、担げそうですか?」

「え、私!?」

「はい」


 香椎さんは俺を背負い、六道さんは片脚を負傷。ひとり手隙で健在な千覚原さん以外に、倒れた男を背負えそうな人は居ない。幸いなことに、男の体躯は成人男性のものなれど、ケタ外れの筋骨隆々大男という訳ではない為、千覚原さんでも頑張れば持ち上げられない事はないだろう。


「お願い、出来ませんか……?」


 渋る千覚原さんになおも俺が懇願すると、彼女もまたハッとした様な顔をして「わ、わかった!」と大げさに頷いた。そして、ガニ股になりながら、何とか男を背負う。


「い、行きましょ……!」


 ゆでダコの様に顔を赤らめた千覚原さんの案内で、俺達は速やかに危地を後にした。



    *



 O高校の影裏に、二人の女子生徒が姿を現した。

 前方を闊歩するが艶島九蟠つやしま くばん、三歩離れて続くが井手下椛いでした もみじである。人目を忍んで影裏に現れた彼女らの後ろめたい心境は、背と首を丸めてトボトボと歩く椛の姿に顕著である。まさに「察するに余りある」と言った風情。

 しかし、ひとたび艶島の方を認識すると、果たして、その予想が的中せらるか否か……事の可否は霞がかった様に分からなくなってしまう。というのも、艶島は、まるで綺羅びやかなランウェイを行かんばかりの、威風堂々たる歩調を保っているのだ。今にも足を止め、引き返し初めてしまいそうな椛の歩みとは、実に対照的にである。もし、この時、誰かが艶島の姿を目撃したとしても、彼女がこれから『麻薬』に関する相談事をするなどとは夢にも思わないであろう。そういう歩みだ。

 暫くして、二人は完全に影裏に隠れた。ここまでくれば、もはや盗み聞きの心配はないと見て、艶島が立ち止まる。そして、紫がかった長髪をふわりと靡かせながら振り向いた。

 椛は、レンズ奥の白濁を細めて先手を打った。


「それで何の用? 貴女と話してる所を見られたら、私も同類扱いされる。薬なら――」

「あ、違う違う。今日は、違うの」


 艶島はやんわりと遮った。

 じゃあ、一体何の話なのか? と言う風に怪訝な視線を椛が向けると、艶島は優しく、柔らかく言い募る。


「そんな顔しないで。大事な話よ。さっき、報告があったの」


 そう言いながら、艶島は校則で持ち込みが禁止されている筈の携帯を椛に見せる。椛は何も言わず、眩しい液晶画面を覗き込んだ。


伊秩半七いぢち はんしちが何者かに連れ去られたわ。死んでいるかもしれないし、拷問されて此方の居場所を吐いているかもしれない……」

「……」

「どうする?」


 艶島の問い掛けの焦点は、アジトを移動するか、しないか、という点に集約される。それを察し、ゆるゆると画面から顔を離した椛は、パサつき、白んだ髪先をいじった。

 白濁の瞳が虚空を揺蕩い、右上を見、左上を見――正面へ戻る。

 艶島は大きく頷いた。


「分かったわ。動きたくない――それもまた『宇宙の選択』とやらなのかしらね。ま、何者だろうと、私達を害せるワケないわ」


 事情を把握している艶島は、椛がするであろう返答を最初から知っていた。だからこそ、迷いなく、速やかに踵を返した。しかし、椛はその足を呼び止める。


「分からない」

「何が、分からないの?」

「貴女は……貴女は何を考えてるの? 貴女は。こんな大事にしたのは貴女でしょ? 色んな人をそそのかして……!」


 観念的であり、心の内に深く踏み入ってもいる質問。

 艶島は、この言葉は予想していなかった。故に答えに窮したが、しかし返答せぬ訳にもいくまい。仮に無視をしたとして、その後、生きていられる保証はないのだから。

 暫く、考え込む様な仕草を見せた後に、艶島は口を開いた。


「……私は、ただ徹底した利己主義エゴイズムの信仰者というだけよ」


 艶島は「本当に、それだけ……」と言い残し、遥か遠方で見張りも兼ねて待機させていた三人の女子生徒たちの元へ去った。

 ひとり、その場に残された椛は、釈然としない心中で毒づき、校舎に背を預けて座り込んだ。


「『宇宙』『宇宙』『宇宙』……! 気狂い共……!」


 宇宙、このたった漢字二文字が椛の頭から離れてくれない。

 彼女は、贅肉という贅肉を全て削ぎ落とした様な骨ばった両手で、ガシガシと頭を掻いた。

 すると、そこへ、無限的な奥行きのある女声が優しく降り注いだ。


「――椛、こんな所で何してるの?」


 声音に、その正体を薄々察してしまった椛が、ビクつきながらもそろそろと頭を上げると、そこには、制服の二の腕部分にベルトを巻きつけるという不思議な着こなしの望月要人もちづき かなめが、ニンマリと笑みを浮かべて立っていた。どこか詰問の色合いがまじる必然的高所からの笑みに、椛は焦りを全身に呈しながら拙い言葉を並び立てる。


「か、要人かなめには関係ない話。あったら、つ、艶島が言うでしょ?」

「……そう? なら、良いけど」


 納得いかないという風に顔を傾けた要人だったが、すぐに表面上は朗らかな笑みを形作った。

 椛の背に一筋の冷汗が垂れる。こうも一挙手一投足に生存本能を刺激され続ける様では、落ち着いて考え事も出来やしない。椛は、降ろしたばかりの腰を持ち上げて「それじゃ!」と強引に会話を打ち切って、離れようとした。

 ――だが、宇宙を満たすヘドロの如き暗黒物質を切り裂いて現れた、獣めく唸り声がそれを許さない。


「ねえ」


 一言、たった一言で、心臓を鷲掴みにされてしまった椛は、顔中に脂汗を浮かべ、忙しなく息を切らしながら、油の切れたブリキ人形のぎこちない動きで以て、無言のうちに助命を嘆願した。

 その全てを、要人は見届ける。


「また自殺とかしないでよ?」


 そして、フッ――と隔絶として遠大な、果てし無き宇宙的真理を湛えた笑みを浮かべた。それには、まるで、昔馴染みの友人の気落ちを慰めるような、そんな色合も僅かに混じっていた。が、しかし、悲しいかな、椛の心理へ掛かる圧迫感を促進する以外の効能は無い。


「悩みがあるなら相談してよね。の私にさ! ね、椛!」


 竹馬の友、要人が、屈託の無い態度でポンと椛の肩に手を乗せる。その天体を思わせる圧倒的なまでの質量を、椛は心底から恐怖した。

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