1-4-3 調査



 俺は、油の弾ける音と空腹に染みる匂いに叩き起こされた。

 割り振られた一階の個室で、寝ぼけた頭をどうにか再起動しつつ、なおも空腹を主張する胃袋を宥めながら匂いの元を目指す。

 そうして、ふらふらと辿り着いたリビングの扉を開くと、奥のキッチンで天海の分体が悠々と料理をしていた。手前のテーブルには、山盛りのベーコンに齧りつく六道さんの姿がある。他はまだ寝ている様だ。

 天海の分体に「料理」なんて器用な真似が出来ると知ったのは、ごく最近の事、昨日の夕食時である。驚く俺に、天海は「半自律機動だ」と言った。良くわからない。だが、能力の操作を靈瑞みず自身に委ねる事で、他のEエイフゥース卓犖たくらくする大規模性、汎用性、自動性を実現しているらしい。しかし、利点ばかりでもなく、憖っか何でもできる所為で、大量の分体の制御に手を取られ、本体をあっちこっちに動かすのが難しくなってしまったのだとか。

 まあ、理屈とデメリットはともかく、「家事全般を請け負ってくれる能力」なんて、実に便利な響きだ。一人暮らし経験のある俺には、その面倒さが痛いほど分かる。今からでいいから、俺もエイフゥースにならないかな。

 テーブルの上には、トースト、サラダにベーコンエッグと軽食の顔ぶれが並んでいた。洋風なのはパン派の俺に嬉しい。しかし、パスタはないのか。


「ふっ、イタリア人だって、お前ほどパスタに執着してはいないだろうな」

「あはは……バレました?」

「顔を見ればわかるさ」


 そんな思考は、天海に見透かされていたらしい。

 ……恥ずかしー。


「俺も……何かしたほうが良いですか? 配膳とか」

「それは六道で間に合っている。顔でも洗って、他の奴等を起こしてこい」

「分かりました」


 俺は、誤魔化しもかね、快く目覚ましの任を仰せつかった。眠気覚ましに顔を洗ってから階段を登ると、目の前に香椎さんの部屋が見えてくる。その扉を軽くノックしてみた。


「あ、すぐ行くよー」


 中から気の抜けた声が返って来た。既に起床していたか。なら、放っといてもすぐに来るだろう。

 次は……と足を横にスライドさせると、目の前には岸さんの部屋。少し考えたが、どう転んでも怒鳴られる未来しか見えない。ので、ここは放置する事にした。

 そして、最後、二階最奥の千覚原さんの部屋前まで来た。その扉をノックしようとしたが、不意に扉が開いた所為で気勢が空振る。


「きゃ!」

「おおっ――と」


 そして、部屋から飛び出してきたパジャマ姿の千覚原さんが、俺の胸元にぶつかってしまった。「大丈夫ですか?」と声を掛けようとしたが、それより前に、寝ぼけ顔を直ちに強張らせた千覚原さんが、おっかなびっくりの様子で飛び退いたので、謝罪の言葉に切り替えた。


「……すみません、千覚原さん。少し、ぼうっとしてました」


 気まずいなと思って軽く下げた頭を上げると、千覚原さんは、不審そうな顔で人形の様に固まっていた。


「……どうかしました?」

「あ、いや……」


 その声掛けで、千覚原さんは、ようやく人間性を取り戻し動き始めたが、まだ何処か上の空だ。

 体調でも悪いのだろうか? 低血圧? ちょっぴり心配しながら本題を伝えた。


「天海が朝食を作ってましたよ。で、呼んで来いって」

「わ、分かった……」


 千覚原さんは、それっきり黙りこくった。会話に困り、仕方なく歩き出すと、彼女は、俺の後ろにヨタヨタと続いた。

 リビングに戻った時、天海は既に居なくなっていた。いつの間にか、テーブルに座ってトーストを咀嚼していた香椎さんによると「帰った」そうだ。

 ふーん、そうか、と思ったところで、テーブルを囲む椅子の配置を見る。

 五人分の椅子は向かい合う様に三人側と、二人側に分かれて配置されている。そこへ、六道さんは三人側の端っこ、香椎さんは二人側の端っこ、というふうに着席していた。

 千覚原さんがREDを怖がっていたので、出来るなら気を使おうと道中で考えていたが、これでは何処に座っても同じである。なので、深く考えず、一番近くの空席である三人側の中心、六道さんの右隣へと座った。


「四藏くん、ジンゾー爺さんは? 寝てるの?」

「ああ、何だか……どう転んでも怒鳴られそうな気がしたので、放っておきました」

「それ、ほんと? 君も悪いねぇ~」


 香椎さんは、オレンジ色の寝癖頭を掻き上げつつ、ニヤケ面でトーストに齧り付いた。それに微笑で返し、遅ればせながら、俺も朝食に手を付ける。

 うーん、想像通りの味。

 背後の千覚原さんは、テーブルを前にして暫くまごついていたが、おずおずと俺の右隣へと座った。そして、机上に並ぶ食器をペタペタと触っては首を傾げるという奇行を見せた後に、ようやく食べ始めた。

 ふと、六道さんの皿を見ると、さっきまで山盛りだったベーコンが綺麗になくなっていた。

 あんな小さな体に良く入るものだな。

 しかし、感心も束の間、ガタッと音を立てて起立した六道さん。彼女は、テーブル上の空席――岸さんの朝食が用意された一角に向かうと、その皿上に乗っていたベーコンを口に詰め込んだ。

 なるほど、「居ないなら、食っちまおう」という事か。

 すっごい食欲。見てるだけで胸焼けしそうだ。

 香椎さんも同じ感想を抱いた様で「どんだけ食べるの……」と呆れ気味に言った。六道さんは、ハムスターの様に頬を膨らませていたものを一気に嚥下する。


「好きだから、ニク」

「ひぃっ、お、おえぇ……」


 すると、右隣の千覚原さんが、気道を締め付けられた様な悲鳴を上げた後、えづいた。しかし、喉元に込み上げたものは、吐き出されずに何とか堪えている。

 六道さんは、その無表情の中にいたずらっ子の様な気配を湛えて、ぐいっと身を乗り出した。


「ネネのデカイ胸とかも美味しそう」

「うっ、はぁ、はぁ……こ、こんなの唯の脂肪だよ! 単なる油だよ! 美味しくないよ!」

「そうでもない。例えば、バターの主成分は動物性油脂」


 六道さんは、岸さんに用意されたトーストを手に取ると、そこにバターをたんまりと塗り込み、テカテカに濡れた面を千覚原さんに見せ付けた。

 そして――


「筋肉は男の方が締まってるけど、脂肪は女の方がサラリと飲めて美味い」


 ――と言って、齧り付いた。

 これに、千覚原さんの軟弱な精神は大いに揺さぶられた様で、遂に嘔吐する結果を引き出した。しかし、彼女がえづき始めた瞬間から、この展開を危惧していた俺が、近くにあったビニール袋を握り込んでいた為に、テーブルや床への被害はなかった。内容物も少なかったので、すえた匂いが少し漏れたぐらいだ。

 少量の吐瀉物を、二重、三重に包んでからゴミ箱に投げ棄てる。そして、水を飲んで、どうにか落ち着こうという千覚原さんを、柔く責め立てるニュアンスで嗜めた。


「千覚原さん、そんなに怖がらなくても良いんじゃないですか? 六道さんは、からかってるだけですよ」

「はぁ、はぁ……違う、違うの、そのチビっ子は本気で言ってるの!」


 すると、千覚原さんは甚く憤慨した。立ち上がって、テーブルをバンバンと叩く。


「私には分かっちゃうの! 伝わってきちゃうの! 感情が! 想像が!」


 千覚原さんは、恐怖と嫌忌の狭間に落ちた様な顔をして、空っぽの胃に再度朝食を詰める事なく「ごちそうさま!」とリビングから逃げ出していった。呆然と、その背中を見送る。


「四藏くん。あの子の感覚だから詳しくはわからないけど、どうやら考えてる事とかが読み取れちゃう能力らしいんだよね。全部が全部って訳じゃないみたいだけど、私も初対面で狙ってる事がバレちゃったもん。多分、六道くんの『異常な食欲』とかが伝わっちゃってるんだろうね」

「へー、それは便利な能力ですね。いかにも“情報部向き”って感じの」


 香椎さんが納得の行く説明をくれたので、騒がしさの所為で、全く進んでいない食事を進めながら暢気に返す。

 確かに、六道さんの心の内側なんて、俺のように特別な事情でも抱えていなければ、知りたくはないものだろう。ちょっと酷な事を言ってしまったかな、後で謝ろう。

 朝食を終えると、香椎さんがコーヒーを啜りながら切り出して来た。


「調査どうする? メンドイけどさ、けっこうヤバそうな感じだよ」

「そうですね。けど、思いっきり敵地のド真ん中ですから、あんまり強引なのとか目立つ調査は御免ですよ」

「そうだね、うーん……ジンゾー爺さんに協調性とか期待できないし、千覚原くんに孤軍奮闘で頑張ってもらうしかないのかなー」


 そういう事になるのかなと頷く。横で菓子を貪っていた六道さんも「それで行こう」という風に首肯した。

 その後に行った会議の結果、あまり大人数で連れ歩いても目立つだろうという事で、非協力的な岸さんを除く俺たち三人が日替わりで二人一組を作り、千覚原さんの護衛にあたる運びとなった。

 記念すべき初の護衛は、くじ引きによって俺と六道さん。

 身支度もすっかり整えて「さあ、街へ繰り出そう!」という段になって、一つ問題が発生した。肝心の千覚原さんが自室に篭城して、出てこないのだ。


「千覚原さーん、出てきて下さーい。千覚原さんの能力が必要なんですってー、天海だって、そのつもりで連れてきた筈ですよー」

「ヤダ~! 私はもうここで死ぬの~!」


 ドアの向こうからくぐもった叫び声が響く。全く、こんな時に何を言っているのだか、事は急を要するというのに。

 呆れて言葉もない。代わりに、ため息を吐き出した俺は、背後の六道さんに向き直った。


「参ったな……どうします? ぶち破りましょうか」


 防犯を意識してか、このセーフハウスの扉は分厚く頑丈に作られているが、俺の能力なら破るのは容易だ。

 しかし、この申し出は蹴られた。


「その必要はない」


 服の内側に手を突っ込みながら、六道さんは扉に密着した。

 何をするつもりだろか、とその時、陶磁器の様な白い手中に、曲がりくねった針金が数本ほど収まっているのが見えた。

 なるほど、ピッキング。

 空き巣をやっていた頃の経験か。

 カチャカチャ、と金属音が鳴り響いたかと思うと、数秒後には一際大きな音が解錠を告げた。


「めちゃ上手いですね」

「それほどでもある」


 謎の謙遜?を残して、六道さんは部屋に消えて行った。

 まだ、準備もあるだろう。直後に響いた甲高い濁った悲鳴を背に、俺はリビングへと降りた。

 ――と、その様な流れで、ようやく街へ繰り出した俺たち三人だが、その前途は多難である。当面の目標は『麻薬カルテルのアジトを探す事』、しかし、相手の規模も、組織名も分からない。その上、組織の中心には複数の能力者ジェネレイターが関わっていると来た。

 とはいえ、さすがの平和大国というべきか、麻薬汚染が深刻という前評判の割に、R-92地区の目抜き通りメインストリート上は、健全の体裁が取り繕われていおり、至って普通の街の様に見えた。職員が気付かなかったのも、無理はないのかもしれないな。

 そんな中を易易と歩む内に、揉め事すら早々起こりそうにないな、と気を緩めかけていた俺だったが、麻薬の流れを追う以上は避けて通れぬに踏み入った途端、脳裏に浮かんでいた甘い考えの数々は、全て、跡形もなく吹き飛んだ。

 危機感に欠ける余所者の俺達を啓蒙けいもうに満ちた視線で出迎えてくれたのは、頽廃たいはい狂蕩きょうとうの輩だった。

 彼らは、薬によって社会性と職を喪失し、明日の食い扶持にも困る有様でありながら、それでもなお薬以外の事を考えられなくなってしまった無頼ぶらいである……と、千覚原さんが教えてくれた。“麻薬は快楽の前借り”とは、よく言ったものだ。


「……アイツ等、観光客を狙っているみたい。気を付けて……」


 情報を収集しながら先頭を行く千覚原さんは、厳かな忠告を俺達にくれたが、その心配は不要に思えた。というのも、千覚原さんには、能力行使に集中した際、「うーん、うーん」と結構な音量で唸る癖があるらしく、そのガーリッシュな格好と場所もあり、ホコリと吐瀉物に塗れた道端のヤク中たちから「近寄り難い同類」を見る目を向けられていた。

 能力とやらで分からないものだろうか、俺でも気づくのに。

 けれども、最初は「あーだこーだ」とゴネていた千覚原さんが、折角、熱心に手元のフェミニンなメモ帳を黒く染めるほど心を入れ替えてれた忠告だ、水を差すのも憚られるというもの。

 彼女にも、責任感が欠片ぐらいはあったのだな。しかし、評価を見直したのも束の間、ながら歩きの弊害か、それとも、これまでにトラブルがなかった所為で彼女の気が緩んでいたか、不意にフラフラっとひとりでに足を早めた千覚原さんが、前から来た男にぶつかりに行ってしまった。


「きゃっ!」

「おっと、ごめんよ」


 蹌踉めく千覚原さんに、「書く時ぐらい、足を止めても文句は言いませんよ」とそんな風に声を掛けようとしたが、それよりも早く、彼女は勢いよく此方を振り向いた。


「そ、そいつ、スリだ! 財布とられた!」


 ビシッ、と差された指の方角を振り向くと、焦った様な顔の男が急に駆け出した。その時、チラッと見えた男の懐には、男性が持つには可愛げが足り過ぎている、どぎついピンク色の革張り財布が収まっていた。

 態度も含めて完全に黒。

 それにしても、さすが本職のスリ、手付きも逃げ足もやっぱり違うなぁ。


「あ~やばいやばい! 中に職員証入れてある! 怒られるぅ……!」

「千覚原さん、落ち着いて下さい。周りの目が……」


 注目を引いてしまっているのを見て、声を潜めるよう頼んだが、千覚原さんは、俺と、俺と同じく平静な六道さんを交互に見て、更にがなり立てる。


「逆に何で二人とも落ち着いてるの! お、追い掛けてよ、護衛でしょ!?」

「だから、その必要は無いんですって。俺の能力、言ってませんでしたっけ?」


 少しだけ語気を強めて言うと、千覚原さんは「えっえっ」と、一気に挙動不審に身を竦めて眼球を震わせた。その強ばる手を、俺は刺激しない様に取り、先程、握り込んでおいたピンク色の革財布を手渡した。


「それより、あまり勝手に離れられると守れるものも守れません。もっと、近くに居て下さい。それと、メモする時ぐらいは、立ち止まっても文句は言いませんよ」


 自らの手元に収まる財布を見て、厚化粧に彩られた目が見開く。そして、その下の頬骨あたりが仄かに紅潮した。

 あれ、ホントに言ってなかったっけ?

 千覚原さんは、驚いた様にも、死んだフリをするタヌキの様にも見える変な表情のまま、礼も言わずに硬直していたが、暫くすると、またフラフラと歩き始めた。

 どうしたんだろう。というか、「あまり勝手に離れないでくれ」と言ったばかりなのに……全く。

 助言を求めて六道さんを見遣ると、彼女もまた無言無表情の内に、前方をピシッと指さして歩き出した。その動作の意味を瞬時には理解しかねたが、苦し紛れに「先を急ごう」と解釈した俺は、釈然としないながらも共に歩みを再開した。



    *



 晴天の昼下がり、爽やかな春の風が吹き抜ける中、岐阜県内でも有数の進学校である「県立O高校」の生徒たちは、世に言う高校生の大半がそうする様に、各々、部活動に励んでいた。

 広いグラウンドでは、野球部、サッカー部、陸上部が場所を分かち合い、皆、忙しなく動き回っている。

 その、働き蟻たちが作り出す集合的な蠢きの様相を、閑散とした三階の教室内からぼうっと眺める者が居た。

 三年A組、謎多き転校生の片割れ、陣場弘昌じんば ひろまさである。彼は帰宅部所属であるから、友人や恋人と駄弁る訳でも、補習を受ける訳でもなければ、学校にとどまる理由はない。しかし、彼の場合は「帰宅する」と言っても行き場所なんて薄汚い“アジト”以外になく、それも特段居心地が良い訳でもなかった。

 そんな訳で、艶島や山川にとやかく言われない限り、陣場は、カキーンと甲高い音と共に舞い上がる白球を目で追い掛けて、無聊を慰めるのが常だった。

 その時、開きっぱなしになっていた教室の入口に吹き込む春風の流れが、草葉も感じ取らぬほど僅かに変化した。陣場は、煩わしい思いを抱きながら無視した。


「野球……やりたいなら、やればいいじゃない」


 聞く者の危機感を掻き立てる甘ったるい声で、艶島九蟠つやしま くばんは心底に浮かんだ言葉をそのまま素直に述べた。しかし、野球観戦に夢中な陣馬は、先日の様な大きな拒絶反応も見せず、グラウンドをぼんやりと眺め続け、無言を以て返答とする。

 もう少しばかり押してみたらヤレルか? と軽率に考えた艶島は、陣場の鍛えられた広い背に身を寄せて、あだっぽい吐息を耳元へ吹きかけた。


「人間は……平等には生まれて来ないわ。身体能力に限っても、筋力、走力、器用さ……秀でた人は幾らでも挙げられるわ、逆に劣った人もね。貴方の異能だって、そのひとつでしかなのよ。きっと、病床の妹さんも野球をやる貴方が――」


 口説き文句としてはイマイチだが、それでも欲の捌け口に困らないほどには、艶島の身体は魅力に満ちていた。

 しかし、柔らかな身体を背に押し付けられていながら、陣馬は取り合わない。


「違う」


 と、不躾に続く言葉を遮り、嫌悪の入り込む隙間もなく、高潔にして確固たる意思を以て言い切った。


「俺自身が『不公平』と思った事実。それだけが重要なんだ」


 よわい十七にして、陣馬の潔癖な世界観は彼自身の心の裡で完結していた。

 夢魔の囁きは厭われ、抱擁も乱暴に振り解かれた。

 陣馬は、机の横に掛けていたカバンを引っ提げ、教室を去った。それが、あまりに淀みない歩みだったので、艶島は縋り付く間もなく無言で見送る外なかった。

 この会話に於いて、艶島の内心は心配半分、下心半分といった心持ちだった。半分の健闘むなしく空振り三振。

 仕方ない、今日も別の男とよろしくヤるか! と素早く気持ちを切り替た艶島が腰を上げた、その時、出ていった陣場と入れ代わる様に、三人の女子が教室に入ってきた。

 当初、艶島は「放課後に教室に戻ってくるなんて、忘れ物でもしたのかしら」と呑気に予想したが、直線の動きで向かい来る先頭女子の目に宿った『嫉妬の炎』を知り、それが全くの的外れだった事を気付かされた。


「この売女! 同じ転校生だからって陣場くんに擦り寄るのは止めて!」


 随分な言い草だ、開口一番に「売女」とは。ちょっぴりショックを受けながら、艶島は女子たちの容貌を頭から爪先まで舐めるように観察した。そして「少し芋っぽいが及第点」と見るや、ペロリと舌なめずりした。

 彼女なりに傷ついてはいるが、表面上の平静を崩さない艶島を見て、すかさず後方に控えていた二人の女子も追撃する。


「どうせ、パパ活とか援交とかやってるんでしょ! この前、おじさんとホテルに入った所を見た人がいるもん!」

「この学校に入ったのだって裏口でしょ! 成績も悪いし! ここは進学校なのよ!? いい加減に、場違いな事に気付いてよ! みんな迷惑してるの!」

「制服の着こなしもダサイし! 髪もちょっと紫っぽくしてるのもキモい!」

「え、ダサイ? イケてると思うけどな~」


 着崩した制服と紫がかった髪先をいじりながら艶島は反論した。その声音は、平常時と変わらぬ通常の音量だったが、その直前にキンキンと反響した怒鳴り声と比較すると、三人には、実に力弱いものに思えた。「効いている」と見て、三人はファッションを軸に罵倒を展開してゆく。

 艶島は、その全てを甘んじて受け入れた。

 一頻り、数分ほど罵った後、ひときわ気の強そうな先頭の女子は、息を切らしながら念押しする。


「金輪際陣場くんには近づかないで! 今度は口だけじゃすまないから!」


 口だけじゃすまない。その言葉が、学費の高い進学校に属す“一種の上品さ”から来るものだと思うと、艶島は「カワイイ」以外の感想を抱けなかった。だから、辺りに漂う汗ばんだ匂いを意識的に吸い込みながら、聖母と見紛うほど澄んだ微笑みを浮かべた。


「わかったわ――」


 女子三人の顔に喜色が花開く。彼女らは、共に陣場に想いを寄せる恋敵同士ではあるが、同時に友人でもあり、艶島九蟠なるハレンチ極まる巨悪討伐を旗印に一時、団結の誓いを立てたのだ。

 風評を顧みず、肉欲のまま放縦ほうじゅうに生きる艶島の性生活については、もはやO高校内の、いや、大垣市内の誰もが知るところである。

 客観的に見て、正義は想い人の真っ当な未来を憂う彼女らにあった。しかし、正義という健全が常に罷り通る世の中にあっては、正義は『自身を正義たらしむる大義』を見失ってしまう。先刻、潔白の廊下で為されたばかりの神聖なる誓いは、艶島九蟠を名乗る肉欲の権化によって残酷にも踏みけがされる運命にあるのだ。


「――貴方達、寂しいのね?」

「な、なにを言って――!?」

「あぁ! 大丈夫、不安がらないで……私も同じなの、一緒よ……」


 普段、男ばかりを侍らせている為に勘違いされやすいが、なにも、艶島の肉欲は男性に限って向けられる訳ではない。そこに審査等はあってないようなもので、ムラっとクれば見境なく手を出している。意図的に艶島の情報を嫌悪していた彼女らは、当然のごとくそれを知らない。

 彼女らの動揺する無意識に潜り、夏の湿気の様にぬるりと距離を縮めた艶島は、先頭の女子の手を握ると、粘着質な舌付きで以て滴る汗を舐め取った。


「ひっ……」


 不可思議な肉欲を前に、女子は、おののく。おののく。

 バッ――と、反射的に手が引かれると、艶島は逆らわずに解放した。そして、尻もちを付いた彼女の可愛らしさを愛した。

 それは、見紛う事なき、肉欲に溺れた売女の嬌笑だった。

 事、ここに至って、突然の出来事に固まっていた背後の二人がようやく動き出すが、彼女らの介入よりも先に、彼女らに送り付けられた艶島の《秋波》が、彼女らをその場に縫い留めてしまう。


「怖がらなくても良いわ……」


 未知に対峙する恐怖から、力なく後ずさってゆくエモノに追いすがり、屈み込みながら艶島は囁く。そして、遂にガシッと両手で顔を掴まえると、接吻を間近に控えた恋人同士の様な甘ったるい雰囲気になる事を心の奥底で期待した。

 ジト――とした湿気が立ち込める。

 女子は、視界を占める、愉しげな艶島の全てを「魅力的だ」と感じてしまった『恋心』を嫌悪しながら、欲望の赴くままに唇を貪った。



    *



 共同生活も数日目に差し掛かった頃、日中の情報収集でかいた汗を流してリビングに向かうと、ソファの上に、怖がる千覚原さんと、彼女にピタリと引っ付く香椎さんの姿があった。二人の手元には、支給品タブレットが眩しい光を放っている。


「何、やってるんですか?」

「ん? 見てわからない? 寧々ネネくんに教えてあげてるのさ」


 香椎さんは「ね」と同意を求めるが、千覚原さんは青褪めて震えるばかり。聞くと、研修を終えたばかりで、未だMCG内の制度に疎い千覚原さんに、機関内で通用するタブレットの機能を教えていた所だと言う。俺は「へー」と相槌を打った。


「も、もう、ムリっ! 大体わかったから、後は自分でやるからっ!」


 我慢の限界、といった感じにはちきれた千覚原さんは、切実な捨て台詞を残して勢いよくリビングから退場していった。

 何が面白いのか、香椎さんがケラケラと笑う。大方、変な事でも考えていたのだろう。その中身を漠然と想像しつつ、せっかくなので次は俺が教えてもらう事にした。

 隣に座って、香椎さんの手元に光るタブレットを覗き込むと、香椎さんが俺の肩をガシッと力強く抱いた。

 うーん、なんだろう、この……神辺さんや螺湾さんの近さ、気安さとは別種の、何というか『ウェット』な距離感は……。


「……千覚原さんの時もそうでしたけど……なんで、そんな近く?」

「そう?」


 すっとぼけてやがる。

 ここで今の状況を第三者視点から考えてみた。

 ピタリと隙間なく密着して、体をベタベタ触ってくる強姦魔。

 ……これは、半分性犯罪だろう。そういえば、こっそり天海が教えてくれたのだが、彼の強姦対象には男も含まれているらしい。それを考えれば半分どころか全部である。今まさに、強姦が行われていると言っても過言ではない。

 到頭、お尻までさすられ始めたので、流石に「ちょっと」と咎めようとした時、リビングの外、二階の辺りから岸さんの怒号が響いた。びっくりして、香椎さんと顔を見合わせる。


「離れろ! 薄汚い餓鬼が!」

「やだ」


 怒号は階段を駆け下りて近付いて来た。間を置かず、蹴るようにリビングに入室してきた岸さん。その腰には、コバンザメの如く六道さんがガッシリと組み付いていた。

 どうにか引き剥がそうと格闘を繰り広げる岸さんだったが、暫くすると諦めたのか、ソファにどっしりと腰を下ろしてテレビの電源を付けた。映し出されたニュース番組では『所属不明機による空爆激化!』という見出しテロップを掲げて、沈痛な顔をした専門家らが辛気臭い議論を繰り広げている。


「香椎さん。あれ、何です?」

「うーん、前に仕事した時も偶に引っ付いてたよ。ねー、六道くん、何でだっけ~?」


 香椎さんの問いに、六道さんは「良い匂いがするから」と返して、そのまま、懐から取り出したライトノベルを読み始めた。

 良い匂いがするからとは、随分と意味深な言葉だな。六道さんの犯した禁忌タブーもありその真意を邪推してしまうが、確かに、岸さんから漂う香水か何かの匂いは得も言われぬ「良い匂い」である。きっと、自分に正直な六道さんの事だから、ずっと嗅いでいたいのだろう。


「ジンゾー爺さんは、生命の危機が迫ってないと能力を使えないからね。六道くんも余裕綽々だよ。ありゃーストレスだろねーん」

「へー」


 香椎さんの言葉通り、一旦は矛を収めた様子の岸さんだったが、その苛つきは蓄積され続けていると見える。視線をテレビに向けながらも、踵をダンダンとフローリングに打ち付け始めた。

 瞬間――「あっ、やば」という声が、俺の耳元で発されたのと相前後して、岸さんが六道さんの頬を思い切り殴りつけた。絡んでいったのは六道さんとはいえ、暴力はいけない。


「ちょっ、岸さん!」

「暴力は駄目っしょ~」


 ひとり暢気な香椎さんは、そそくさと離れて、既に傍観の構えだ。

 吹き飛ばされ、ソファの向こう側に沈んだ六道さんへ向けて、岸さんが吠える。


「餓鬼が! そのまま地面に這いつくばってろッ!」

「――イヤ」


 すると、突如として何もない空間から忽然と六道さんが現れ、岸さんの左手に噛み付いた。苦痛に顔を歪め、歯をむき出しにした岸さんが蹴りを繰り出すも、六道さんは予測していたかの様に後ろに飛び退いて躱す。


「おかえし」


 六道さんは、口元の血を拭う。寸秒を置いて、岸さんの左手から血がドクドクと流れ出た。


「……殺す!」


 手痛い反撃を貰ってしまった岸さん。だが、彼の繰り出した“蹴り”も、丸っきり無駄という訳でもなかった様だ。パラリ――と、六道さんの黒セーラー服の前面が、鋭利な刃物によって裁断された様にはだけた。

 後方の香椎さんが「あらら、能力出ちゃってる」と呟く。彼の勘違いだと思いたいが、単なる蹴りで衣服を切り裂けるのなら、それはそれで問題だ。


「肥溜めにバラ撒いてやるッ!」

「きたないから、イヤ」


 際限なく膨張し続ける岸さんの殺気に呼応して、六道さんも後ろ手に何かを取り出した。って、あれは――拳銃!?

 最早、じゃれ合いの範疇を越えている。そう認識した俺は、岸さんが手刀を振り下ろし、六道さんが銃口を振り上げるその中心へ、無意識に踏み込んだ。


「ストッーープ!」


 ガッ! と、岸さん側に挟み込んだ左腕がズキズキと痛む。しかし、ここはぐっと我慢の時だ。右手に握り込んだ銃身の冷たい感触を確かめながら、左右の二人を交互に見遣った。


「度を越してます。ケンカはともかく、殺しは駄目ですよ、仲間内で」

「貴様ッ――ふんっ、仲間などではない」


 岸さんは、俺の左腕に食い込んでいた手刀を抜き取り、そそくさとリビングから退室して行く。ドス、ドス、という乱暴な足音は玄関の方へ向かい、そしてドアの大きな開閉音と共に消えた。見えないが、音に動作が分かる。外出したのだろう。

 深いため息を吐き出した俺は、何を考えているのか分からない無表情で、此方をじっと見詰めてくる六道さんに拳銃を渡した。


「どうした。何か問題か?」

「ケンカだよ! ケンカ!」


 静寂を騒がしく切り裂き、天海の分体と千覚原さんがリビングに現れた。遠巻きに見ていた香椎さんも「大丈夫?」と寄ってくる。

 一瞬の攻防だったというのに妙な疲労を覚えつつ、俺は天海に説明した。


「岸さんと六道さんが揉めまして……で、止めたら……」

「ふむ、そうか。取り敢えず止血しよう。断面が鋭利だから、私の能力で補助すればすぐに治る」


 切られた左腕に天海の水が纏わり付いた。見た目には流血が止まっただけだが、段々と痛みが収まってゆく……様な気がする。ずるずると蠢く水を何の気なしに見ていると、天海が「四藏匡人」とフルネームで呼び掛けてきた。


「なんです?」

「次は、止めなくていいぞ」

「……えっ?」


 思わず、俺の耳の方を疑った。しかし、天海の口はもう一度、同じ動きを繰り返す。


「止めなくていい」


 唖然とする俺の返事をまたず、天海はフローリングに消えた。



 天海は人の生命を何だと思っているのか。社会に仇なすREDは存在するだけで他の者に「害」だから、勝手に潰し合う分には放って置くのが人類への貢献だとでも?

 全く持って同意する!

 両者ともに幾人もの命を奪った鬼畜外道の輩、消えた方が世の中はスッキリするだろう。きっと、平和に傾く。だが、俺も一応はREDである。そこが駄目だ、気に食わない。

 釈然としない翌日、俺は天海が用意した昼飯を食べた後、自室のベッドに寝転がった。左腕は寝たら治っていた。

 今日は非番である。

 最近、暇を持て余すと考え事をする様になった。それも、今までは気にも止めなかった様な大層なネタばかり。

 数日前に東京支部内に一人で待機していた時もそうだった。

 あの時は『待機』という役割が合ったから、天海か、灰崎さんらが来るのを考えていたが、今日は本当に何もないので、思考はどんどんと自己の内に潜ってゆく。

 神辺さんの叫んでいた『正義』だの、灰崎さんの説く『エゴ』だの、耽るネタには尽きないが、ここのところの関心は、この――『認識票ドッグタグ』にのみ寄せられていた。

 六道さんに再会した事で、ようやくポケットの奥でホコリと共に眠っていた認識票ドッグタグの正体を聞けると思いきや、中々どうして、上手いこと二人きりになれない。

 深夜から早朝に至るまで、まるで、口裏を合わせたように誰かの邪魔が入る。全くの隙なしだ。

 俺は、認識票ドッグタグを手に取って眺めてみた。

 金属製の小さなプレートで《NO.------ ―条――》と彫り込まれている。……率直に言って、意味がわからない。

 前の『NO.』に関しては、多分、そのままの意味だろうが、後ろの『条』は何だ。人名なのか? それとも、一条、二条の『条』なのか? わからん!

 六道さんは、あれはあれで結構冗談が好きな方だと共同生活中に知った。割と頻繁に千覚原さんを始めとして、皆をからかっている。もしかして、『これ』も、からかわれているだけなのでは? なんて、考えも捨てきれない。

 しかし、今の所、全てを虚構と決めつけるには、

 結局、本人に直接聞くしか無いのだが、暇もあって、どうにも気になって仕方がない。

 このまま部屋に居続けると、永久に飽きることなく、小難しく考え続けてしまいそうだったので、気分一新、俺はリビングに向かう事にした。下らないテレビ番組でも見て、気を紛らわせようという算段である。

 幸いな事に、岸さんは出掛けているので鉢合わせる事はない。――と、思っていたのだが、いざリビングに入ると、テレビ正面のソファに高そうな装丁の本を猛烈な勢いで捲る岸さんが居た。その左手には、厚手の包帯が不器用に巻きつけられている。

 昨日、もめたばかりの相手だ。スゴク気まずいが、ここへ来て戻るのも決まりが悪い。よーし、俺は「やる」と決めたらやる男! どかっと岸さんの隣に腰を下ろして、堂々と、テレビをつけた。

 そこで、ふと異変に気づく。

 いつもの岸さんなら、俺を見るなり、侮蔑と、得体の知れぬ怒りのこもったしかめ面を浮かべ、更に機嫌が悪ければ罵りも浴びせてくるのが何時ものパターンだが、今日は違った。もめたばかりと言うのに。しかめ面はしかめ面なのだが、今日は、何時ものしかめ面から「怒り」を抜いた様な、複雑なシワ模様だ。

 それでも、とにかく静かに読書を続けている様だったので、俺は極力意識しないようにテレビ観賞に集中しようとした。しかし、いや案の定というべきか、数分後には、ページを繰っていた手は停止した。


「なぜ、邪魔をした」


 声に振り向くと、岸さんの顔に浮かんでいたのは懐疑の皺だった。まるで、生卵や納豆を食す日本人を初めて目の当たりにした外国人の様な、到底、理解しがたいというカルチャーギャップ的拒絶反応。


「普通、とめますよ」


 ごく一般的な感性を借りて、端的にそう応えた。それで事足りると思ったからだ。しかし、まともに取り合われる事なく「笑止」と切り捨てられてしまった。


「貴様はREDでΒベルカンだろう」


 言外に「お前は普通じゃない」と。

 そうかもしれない。所詮、さっきのも借り物の言葉だ。


「そんな奴が常識? 正義? ありえんな。自らを悪と自覚するからこそのΒベルカン。更生の余地がないからこそのRED」

「ふ、ふふふ……」

「……なにを笑っている」


 俺は「いやあ、別に……」と適当に誤魔化しながら、どうにか失笑を収め、本当の心裡しんりを素直に述べた。


「そりゃあ、これから麻薬組織と戦うってのに、頭数を減らしてなんかいられないでしょう。『増員は期待するな』と天海に言われてますし。天海はああいったら絶対そうするタイプですよ。海外は今、戦争戦争で大変そうですし、そっちの対応とかあるんでしょうね~、日本もいつ巻き込まれるかって所ですし」

「……ふんっ」


 納得半分、だが、残り半分の釈然としない気持ちを積極的に表明して来たりはせず、岸さんは手元へ視線を戻した。

 皺の寄り様が、いつもより幾分和らいで見える。

 チャンス、と俺は思った。


「岸さんは、何してレッドカード貰ったんです?」

「……人事ファイルでも閲覧しろ」

「灰崎さんからも聞きましたが、当人の口から聞きたいんですよ。俺が答えたんですから、岸さんも教えてくださいよ」


 彼が、絶えず周囲に撒き散らす激憤の源。それが何なのか、ずっと知りたかった。

 岸さんは、面倒くさそうな雰囲気を纏ったが、何時もの様に怒り出しはしなかった。

 高そうな装丁の本がソファの上に置かれた。


「社会貢献だ」


 私怨込みの、な――と、付け足した岸さんは『貧困の連鎖』という概念を持ち出してきた。「よく知らない」というと、簡単な説明をくれた。曰く「貧乏人の子供は貧乏人」という話らしい。

 その単純さから、この概念は物識らずの俺の頭にすっと入ってきた。それは恐らく、貧困のイメージが「鹿刎番の両親」にあったからだと思う。あんな環境で育った者が、将来、まっとうな親たりえるかというと疑問が残る。虐待児が成長して子を持ち、真っ当に育てようと決意するも、物の弾みで虐待に手を染めてしまうという悲しき事例も、鹿刎番に相対する直前の道中で灰崎さんに聞いた覚えがある。

 蛙の子は蛙。鳶の子は鷹にならず。

 きっと、貧困から抜け出せない様な教育を受けた者は、子にも似た教育を施してしまうものなのだろう。経済面では、学費の問題が重くのしかかるだろうし。


「俺は売春婦のガキだ。だから、こんな糞みたいな人生を歩んできてしまったんだ。そんな俺の出来るせめてもの社会貢献――それは、孕んだ売春婦を殺す事しかないだろう?」


 淡々とした口調で、とんでもない事をのたまう岸さん。しかし、私怨込みであり、自らもまた貧困の出、とわざわざ言及するところに、彼をΒベルカンたらしめる何かを感じた。それきり、何も言わなかったので、俺も無理には聞かなかった。

 その日、岸さんはついぞ声を荒らげなかった。




 翌日の当番は俺と六道さん。

 いつもどおりに街中を歩き周り、疲労も溜まってきたところで、一旦休憩にしようという話になった。

 近場の飲食店に入り、すっかり棒のようになってしまった足を労る。道中では、常に気を張っていたので、身体だけでなく、精神の休息も十分に取りたいところだが、前方では、千覚原さんが熱心に地図やらメモ帳やらに書き込み、右隣の壁側では、六道さんが執拗にステーキを切り刻むという異様な状況下では、寛ぐに寛ぎにくい。

 というか、六道さんはさっき一緒に昼食を食べたばかりだろう。……まだ食うのか?

 暫く、なんとはなしに、忙しく働く二人分の手を見ていると、ふと、香椎さんの事が頭によぎった。それについて、俺は、より暇そうな六道さんに聞いてみた。


「六道さん、そういえば、一緒にセーフハウスを出た香椎さんは何処へ?」

「ん……献血。車が近くにきてるって」

「あ~、趣味だって言ってましたね。SEXできないから……って、それ、どんな趣味です? 初対面の時は、なあなあに流しましたけど……」

「さあ」


 血を抜き取られるのが気持ちいいとか、そういう楽しみ方なのだろうか。何でも「菓子が出る」とは聞いた事があるが……機会に恵まれず生憎の未体験、さっぱり想像できないな。まぁ、狂人の趣味趣向を理解しようとする方がイカれているのかもしれない。常人間でも「すれ違い」というものは往々にして起こりうる事なのだし。

 ふと、テーブルの上で忙しなく動き続けていたペンが停止した。

 思わずペンに沿って視線を上げると、そこに座っていた千覚原さんが、少し焦った様に立ち上がった。


「ちょ、ちょっと……おトイレ!」


 千覚原さんは、元気よく“おトイレ”へと向かっていった。何というか、行住坐臥の到るところにが板についているな。どういう人生を歩んだら、ああなるのだろう?

 最近、他人の事が気になって仕方がない自分が居る。みな為人ひととなりを知りたくて、歩んできた足跡じんせいを知りたくて、どうにもむず痒くて収まりが悪い。思うに、身に余る疑問を抱えている所為だ。

 ひとまず、俺はその幾つかを振り払い、今という好機を見つめ直す。期せずして、六道さんと二人きりだ。常にポケットに入れて持ち歩いている認識票ドッグタグの硬い感触を、服越しに掌で確かめる。


「六道さん……聞いても、良いですか?」

「なに」


 俺の真剣な声音が届いたのか、六道さんは食事の手を止めて此方に意識を向けてくれた。鼻から吸い込んだ空気で肺を満たす。


「初対面の時に貰った『これ』の事なんですけど、言われた通り誰にも教えてないですよ」

「それはよかった、で?」

「……で、何なんですか? これ」


 取り出した認識票ドッグタグらしきものへ視線を落とす。その表面は殆どが削られていて、何の情報も読み取れない。しかも、いかにも「人工的に削りました」って削れ具合なのが余計、気に障る。

 返答を催促するべく六道さんの透明な瞳を覗き込むと、彼女は無表情の内に呆れの様な何かを滲ませた。


「……思い出せなかったの? よっちゃん」

「よ、よっちゃんて……六道さん……」


 普段、六道さんは俺を「ねぇ」とか「アナタ」とかで曖昧に呼ぶ。急に親密ぶられても、困惑しか湧いてこない。


「そっちこそ、なんだぃ『六道さん』とかメチャ他人行儀で。いつも『むっちゃん、むっちゃん』だったろ? 共に肩ぁ組み歩いた間柄じゃないの」


 そういえば、『むっちゃん』は初めて顔を合わせた医務室でも言っていた様な……? まさかとは思うが、ホントに呼んで欲しいのだろうか、それともふざけているだけ?

 その非常に独特で、分かり辛いノリに考えあぐねていると、六道さんは、人を小馬鹿にする様な深いため息を吐いた。「やれやれ」とでも言わんばかりだ。


「はぁ……じょーく、じょーく。それは『鍵』。アナタは忘れていったから、私がもってたの」

「か、鍵……? 家の、じゃあないですよね……」


 予想外の回答。反射的に、俺の口からも冗談めかした言葉が飛び出る。すると、即座に六道さんは否定した。


「ちがう」


 どうやら、本当にオフザケは終わったらしく、彼女は更に言葉を重ねる。


「一時的に封じた記憶を戻すための『鍵』。でも、私達がこの世界にバラ撒かれてから、もう数年たってるし、アナタが何も思い出せなかったのは暗示が薄れたからかも――」

「え、ちょ、ちょっと待って下さい! 『この世界にバラ撒かれた』って?」

「うーん……じゃあ、あの『命令』も忘れてる? たいとかいう謎の概念は覚えてるのに?」

「『命令』?」


 数年? 暗示? それに『命令』? 體は分かる、が……?

 もはや、一言一句を追うだけで精一杯な俺を、六道さんは凝視してくる。そして、小さな口唇をなおも徐に揺り動かして言の葉を紡ぎ出す。



 その言葉は、俺の胸にストンと落ちた。俺の曖昧な人生に、アイデンティティなんて欠片も感じぬ半生に、合点がいった様な気分だった。

 まだ聞きたい事が山程残っている上に、更なる疑問まで生まれてしまったが、六道さんの話を噛み砕いて理解するのと、千覚原さんが便所おトイレから戻ってくるのは奇しくも同時だった。「話は終わり」とばかりに、六道さんはテーブルの上へ意識を戻してゆく。それを見て、俺もコーヒーに向き直った。

 ――とその時、正面の席が何時まで経ってもガラ空きな事に気が付いた。

 わずかに人の気配を感じて、六道さんとは逆の隣を振り向くと、そこには、息を殺して縮こまった千覚原さんが座っていた。REDを怖がっていたのは演技だったのか、とそう思ってしまうほどに妙ちきりんな赤ら顔で。

 間違えて? ウッカリ? ありえない。

 今の状況は、テーブルの片側だけに三人が座っている形だ。バランスが悪くて窮屈、そもそも、さっきは正面に座っていた。加えて、トイレは俺の正面方向、つまり、彼女はわざわざ遠い席に座りに来た事になる。

 精一杯の疑問を視線に込めて抗議するも、赤顔の千覚原さんは、テーブルの地図を手元へ引き寄せながら口火を切った。


「ねぇ、聞いてもらっても……良いかな? いま分かってる大手売人プッシャーの巡回路と拠点はこんな感じなの」


 差し出された白地図には、赤点と色違いの線がビッシリと書き込まれている。R-92地区どころか、周辺地区も完璧に網羅する情報量に、俺はすっかり圧倒されてしまう。


「す、すごい……まだ一週間ぐらいなのに、もうこんなに分かってるんですね」

「わ、私の能力は人や物体に付着した残留思念を読み取れるの……く、薬を買った時の異常な期待感、高揚感は場に残りやすくて、判別もしやすくて……」

「へぇ~! これなら、すぐにでも解決できそうですね」


 素直に称賛すると、千覚原さんはすごく照れながら尻でにじり寄ってきた。しかし、感嘆の次に放った「解決」どうこうの辺りには顔を曇らせて、また離れる。


「でも……今日もその幾つかを回ってみたけど、どれも末端のたまり場でしかないみたい。本部に関する情報はまだ見付かってないの……けど、売人と本部の繋がりが全く無いってのも組織としてありえないでしょ?」

「んー、そうですね。全くって事は……」

「だから、売人を捕まえて二、三人ぐらい直接尋問すれば、纏め役ぐらいには辿り着けると思って……どうかな?」


 千覚原さんが、不安そうに顔を傾けた。その厚化粧な顔を眺めながら、さて、どうしたものかと考える。今の今まで千覚原さんだけに調査を押し付けて呆けてきた以上、こういう時ぐらい頑張らないと申し訳が立たない。――が、俺の能力は対人を想定した場合、威力過剰だ。

 その時、千覚原さんに向いていた意識の背後で「カラン」と音がなった。チラと視線を向けると、さっきまで大きな存在感を示していたステーキが、綺麗さっぱり消え失せていた。


「問題ない。今からやろう」

「い、今からですか? 確かにチンピラ相手に遅れを取るとは思えませんが……香椎さんや岸さんを呼んだ方が……」

「だいじょうぶ、ぞろぞろと動くと目立つし」


 六道さんの言う事にも理はある。何と言っても、三人が三人ともそれぞれ能力者ジェネレイターだ。しかし、些か急ぎ過ぎではないだろうか?

 不安を抱いているのは俺だけの様で、千覚原さんは「じゃあ、さっそく!」と異様なほどに乗り気だ。

 ……仕方ない。ふたつ返事で引き受けたところを見るに、六道さんは「自信あり」と見える。なら安心……か?

 不安は拭えぬままに、俺たちの調査は、新たな段階に突入しようとしていた。



    *



 麻薬組織が水面下に立ち上がって半年――山川、伊秩が所属し、陣場が所属する直前の時期――その間、R-92地区の暗がりから二束三文で麻薬をバラ撒き続けて来たが、地元ヤクザや半グレを取り込んで巨大化するにつれ、彼方此方あちこちを移動しながら全体に指示する事に不便を感じる様になった。更なる麻薬拡散を目指す組織に取って、その効率化は社是しゃぜである。直ちに総意は固まり、麻薬組織『MUL.APIN』は臨時の隠れ家アジトを定める事となった。

 目を付けたのは、太客の一人が経営する潰れかけの工場だった。これを後方から支援し、表向き真っ当な工場を装わせながら、その地下に居住空間を拡張した。

 この時、既にあらゆる分野の人間を金と薬で抱き込んでいた為、改築はスムーズかつ密やかに行われた。といっても、改築の工程は元からあった地下室を少しばかり拡張し、防音に気を使う程度であったから滞りようがない。

 ――筈だったのだが、この作業に普請道楽ふしんどうらくも甚だしい注文を付け、工員を大変困らせた者がいた。当時から、組織の用心棒兼売人プッシャーの纏め役だった山川である。彼は、打放しコンクリートの壁・床を見るなり「巫山戯るな」と喝破し、純然たる和室の建設を要求し始めた。騒ぐ彼を、最初こそ「時間が掛かりすぎる」とたしなめていた艶島だったが、あまりに強弁を繰り返すので「一人に一部屋を充てがうから、その中でお好きにどうぞ」と予定外の譲歩までする羽目になった。これによって工期が伸びたのは言うまでもない。

 今では、一室どころか一角ごと和の風が吹いている有様だ。その中心地にでんと座す山川は、畳の匂いを満足気に嗅ぎながら大仰に茶を啜った。


「大和男子斯くあるべし――といった風情だな? 伊秩よ」

「はぁ、自分は現代的な洋風建築で育ったもんで、別に」


 付き合っているだけの伊秩は、別に特段好きでもない茶を啜った。

 実に無愛想な反応。だが、それでも付き合ってくれている現状にこそ、山川は小生意気な後輩を可愛がる妙味を感じていた。


「おっと、そろそろ回収の時間だな」


 ふと、時計を見た山川がそう呟くと、伊秩は用意された高級茶菓子を急いで口に詰め込み、「じゃあ、俺が!」と名乗りを上げた。


「そうか? 悪いな」

「いやいや! この前はうっかり山川さんにやらせちまったんでね、今回は!」


 そう言って立ち上がった伊秩は、うんと大きく腰を伸ばした。

 天井に反った彼の視線が届かない所で、山川は慈愛の笑みを浮かべた。

 伊秩半七いぢち はんしちという男は、どうしようもない阿呆で、良い、悪いで言えば限りなく悪に振れた奴なのだが、山川は彼を嫌いになれなかった。

 伊秩には裏表というものが一切無い。その粗野な口から紡がれる全てが嘘偽りない本音であり、そして純粋な悪意なのだ。

 だからこそ、今の伊秩の様子から彼が完全にリラックスしきっている事が十全に理解できる。山川の心中を老婆心がかげらせてゆく。たまらず、山川は下手な口を回し始めた。


「なあ、艶島の話、覚えてっか?」

「はなし? あ、それって妙な連中が嗅ぎ回ってるって奴?」

「そうだ。用心しろよ? あの女が態々言うぐらいだ。あの『スリの話』も、丸っきり嘘と言い切れねぇ状況なんだからな」


 艶島が忠告するなどという異常は、伊秩とて理解しているつもりだが、根っこの部分でに於いて、彼らは価値観を共有しきれていない。

 伊秩は「大丈夫よ!」と言って軽く懐を叩いた。その硬く盛り上がった衣服の下に収まっている凶器の正体は、山川も知る所であるが、それぐらいでは翳りは晴れない。


「それに――俺には弾丸だって効かないんよ?」


 相手もそうである可能性を完全に排した言葉に、口下手な山川は折れた。


「……そうだったな」

「じゃ!  行ってきまさぁー!」


 引き戸を開け、軽く手を上げて静止した後、伊秩は風のように去って行った。

 山川は、開きっぱなしになった引き戸を見ながら、大きく息を吐いた。


「扉ぐらい閉めてけ……ったく」

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