鹿刎番に贖いの銀銭を

1-3-1 鹿刎番に贖いの銀銭を



 鹿刎番しかばね つがいあがないの銀銭ぎんせん



 親子とは、まこと複雑にして怪奇きわまる関係性である。

 親は子を労り、子は親を慕う。

 これが「愛」によって成り立つという常識を疑うものはいない。


 コウテイペンギンの子育ては世界一過酷だと言われる。コウテイペンギンのオスは、マイナス六十度を下回る地吹雪ブリザードの大地で長期間絶食し、番であるメスの為、まだ見ぬヒナの為、卵を温め続けるのだ。


 なんと美しい家族愛――と、人は言う。


 だが、その時、遠路はるばる腹に餌を蓄えて帰還したメスが、孵化失敗の現実を前にして、しばしば他家族のヒナを奪う暴挙に及ぶ事には一切触れられない。


 孵化したヒナは、生まれて初めて目にした物体を親と思い込む。これは、いわゆる『刷り込み』『刻印づけ』『インプリンティング』と呼ばれる現象である。

 カルガモ親子の作る行列は、誰もが目に、耳にした事のある光景だろうが、ペンギンのヒナもまた、同様の追随行動を見せる。

 が、前述した子育てに比して、これを「愛」と称する人も、また少ない。

 では、何と?


 曰く『本能』――。


 誰もが、畜生の本能じみた浅慮にく行動を前にして、可愛げは認めても「愛」と美化する余地を見失う。生態系ピラミッドの頂点から遍く動物たちを見下す人間は、心底で理解しているのだ。


 オスの献身も、

 メスの暴挙も、

 ヒナの慕情も、

 全て遺伝子の織り成す二重螺旋に刻み込まれた本能に過ぎない事を。


 親子とは、まこと複雑にして怪奇きわまる関係性である。

 親は子を労り、子は親を慕う。

 これが「愛」によって成り立つという常識を疑うものはいない。


 ――が、同時に「愛」を失った親子も存在する事を知っている。

 大あれば小あり。多数派の存在は少数派のレゾン・デートルなのだから、何時の世も薄暗い路地裏に埃は堆積し得る。


 さて、本能の美化が「愛」だと仮定して、その本能すら持てない親子を何と呼べばいい。虐待? ネグレクト? 機能不全家族?


 果たして、それは――なのか?



 とある安アパートの一室、家具と家具の間に挟まる様にして鹿刎番しかばね つがいは蹲っていた。照明も点けず、焦点の合わぬ目を薄汚い万年床の上に漂わせ、何をする訳でもなく、ただじっと時の流れに身を任せていた。

 彼女は少し前に小学校五年から六年に進級している。だが、級友の顔ぶれも、クラスの位置も、自席が窓側なのか廊下側なのかも知らない。

 外の日は既に落ちていた。

 鹿刎番は動かない。

 怠惰の人であろうか? ――否、これは数少ないエネルギーを無為に消費せぬ様にという、絶食時のオスペンギンの如き「本能」の表出であった。満足に食事も取れぬ状況下、時折に外界から響く子供の様に活動的にはなれなかった。

 その時、突如として無遠慮に荒々しいドアの開閉音が響いた。その音が意味するは、鹿刎番の両親の帰宅に他ならない。その事実を頭で悟る前に、彼女は脊髄の反射で立ち上がっていた。


「あ~~~~~! クソっ――が!」


 ガン! と、鹿刎番に取っては正体不明の音が玄関付近から鳴り響く。


「な~に、イライラしてんの」

「ぜってぇ操作されてるわ! オレだけ!」

「またパチンコの話? 聞き飽きたわ」


 義父が苛ついている。

 幼くも聡明な鹿刎番は、乱暴に交わされる声音から義父の感情を敏感に汲み取り、“正座”した身を僅かに強張らせた。


 躾の三 歩き回ってはいけない

 躾の四 正座をしなければいけない


 ドン、ドン、と大きな足音をたてながら、義父が鹿刎番の前に姿を現す。

 だが、鹿刎番は出迎えない。歩かない。歩けない。許可がなければ、彼女は睡眠すら取れない。言い付けられた《躾》を遵守すべく、規定された部屋の隅で座し、ただ黙して時と嵐が過ぎ去るのを待つしか無い。

 鹿刎番は、馬鹿馬鹿しく、行き当たりばったりに科せられる《躾》を愚直に守り、痛いほどに背筋を伸ばして正座を続ける。

 しかし、義父は逆上した。自身が帰って来たというのに一瞥すらせず、ただ周辺を漂うだけの虚ろな瞳を見て逆上した。瞬間的に怒気を膨らませた手が、よれよれのTシャツを引っ掴み万年床の上に引き倒す。

 鹿刎番は動かない。

 呻き声ひとつ漏らさない。

 その様にこそ、義父の悪感情は頂点に達する。

 鹿刎番の腹にぼうぞく的な足先がめり込む。圧迫された横隔膜が萎縮した肺を引き絞り、胃液、唾液と共に迫り上がった空気が喉元で僅かな擦過音を鳴らす。


「てめぇ俺を馬鹿にしてンのか!」

「……」


 躾の一 喋ってはいけない

 躾の二 泣いてはいけない


 黄ばんだ万年床を見つめる鹿刎番の表情は、まるで死人である。成人男性による手加減抜きのトーキックを受けて、眉ひとつ動かさない。色という色の抜け落ちた顔が、色濃く隈の刻まれた骨ばったその顔が、まるで嘲笑している様に思えて、パチンコで大負けした義父は癪に障って仕方がなかった。しかし、そうなる様に育てたのは、他ならぬ彼の拳と爪先である事を彼は認識できていない。

 あまりに理不尽。

 だが、鹿刎番は文句のひとつも吐かず、《躾》を遵守する為に震える両手で力なく万年床を押した。


 躾の二十六 寝るな


 この反応は学習性無力に近いだろう。何を言おうと、抗おうと、泣き叫ぼうと、義父の無軌道な憤怒は自然災害の如く前触れなく降り注ぐ。備える気力も、抜け出す希望も、とうに失われていた。

 空気の薄れた床上で、小さなボサボサ頭がゆるゆると浮き上がる。此処に至って、更なる悪感情を誘発された義父は、心中の暴力性を一切否定しなかった。

 瞬間――躊躇なく発露したそれが、小さな頭を再度、万年床に叩きつけた。


「アンタ、そのヘンにしときなさいよ」

「あぁ?」


 これには、今の今まで気配を押し殺していた母親も意見する。


「ガキなんてすぐ死ぬんだから」

「……チッ! 気分わりぃ、外にメシ食い行くぞ」

「はいはい」


 義父の意向を受けた母親は、気怠げにタバコの煙を吐き出しながら、帰宅した目的であるバッグを持って玄関へと引き返した。その背に追随しようと足を踏み出した義父だったが、その足をさっと引き戻すと、行き掛けの駄賃とばかりにナメクジの如く万年床を這い回る鹿刎番の背を踏み付け、蹴り飛ばした。壁に激突し、うつ伏せのまま動かなくなった子供を見て、義父の溜飲はひとまず下がった。

 ふん、と鼻を鳴らし、大股で去ってゆく義父の背後で、鹿刎番は薄れ行く意識を自覚し、下腹と太腿に広がってゆく尿失禁乃至ないし大失禁の感触を知った――。





「――ッ!」


 大自然という寝床の上、鹿刎番は掛け布団がわりの襤褸ボロブルーシートを蹴っ飛ばして飛び起きた。そして、すぐに現状を把握する。


「夢……」


 衣服代わりでもあるブルーシートを手繰り寄せ「ほっ」と息を吐く。だが、一度錯覚した脳の警鈴は鳴り止む気配を見せず、伴って発作を起こした頭痛も又同様である。顔を顰め、苦しむ鹿刎番を慰める様に、ブルーシートの下から這い出た数匹の死出虫シデムシが彼女の顔を這い回った。その原始的な気遣いに心を癒やされ、彼女の表情は見る見るうちに和らでゆく。

 とその時、鹿刎番の能力によって拡張された第六感とも言うべき感覚が、北東の方角から接近するオオゴキブリを知覚した。

 年頃の女子であれば大概が毛嫌いする汚物へ向けて、鹿刎番は誘導路の如く右手を伸ばした。


「……そう、また誰かが来たのね。教えてくれてありがとう」


 導かれるままに掌上へと着陸したオオゴキブリは、まるで忠臣の如き振る舞いで訪問者の存在を伝える。その純然たる善意からの報告を受け取った鹿刎番は、心からの謝意を込めて、慎ましやかに、麗しく、口吻こうふんを落とした。

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