1-3-2 レディ・バグ / 蟲喰 その1
四日ぶりに戻ってきた、大して思い入れもない東京支部の清潔な廊下を行きながら、この胸の裡に生まれたしこりの様な不快感をどうしてやろう、と思考を巡らせる。
法大さん、改め、法倉螺湾との戦闘を終えた後、俺と神辺さんは医務室に入院(入室?)した。しかし、その二日後には「検査では問題ありません、お大事に」と頻りに捲し立てられ、俺は医務室を追い出されてしまった。神辺さんと比べて怪我が軽度だった事も関係しているのだろうが、医者の嫌に邪険な態度に、俺は納得がいっていなかった。
あの医者、前はもう少し雰囲気が違った覚えがあるのだが。もしかして、俺がREDとされた所為なのか? だとしたら、納得はできるが……。
ともかく、怪我は完治した。異能を用いた先進的――と言うより超自然的?――な治療によって後遺症も傷跡もなく、サッパリだ。医務室に居る“医者”とは医師免許を持つ者だけでなく、治療に転用できる
完治。その点に関しては、掛け値なしに前向きに捉える事ができる、と思う事で俺は不快感を忘却した。
歩みが例の汚ならしい廊下にまで差し掛かかると、ふと
「話は終わりか。ならさっさと出て行け。下賤な匂いが服に着くだろうが」
「てめぇ、聞いてなかったのか!? ここに常在しろってんだよ! ぶっ殺すぞ!」
「『殺す』だとぉ? やってみろ……!」
何やら一触即発の剣呑な雰囲気だ。先に怒鳴った方は、灰崎さんの声で間違いないだろう、聞き覚えがある。
しかし、応じるもう一方には全く心当たりがない。年齢を感じる低い声。顔を合わせていない
「おはようございま~す……」
俺の口から漏れ出たのは、静寂にすら掻き消されてしまいそうな小声だったが、挨拶としての役割は十分に果たしてくれた様で、二人分の視線がぐいっと回転して俺を捉える。
そこで俺は、灰崎さんと口喧嘩を繰り広げていた彼の見てくれを知った。
灰崎さんに向かい合うようにパイプ椅子に腰掛けていたのは、品の良い初老の
ケンカが止まったの良いが、ここからどう切り出せば良いのだろうか。自身の機転の効かなさを嘆いていると、灰崎さんが助け船を出してくれた。
「おい、ジジイ! コイツが例の新入り、
「あ……よろしくおねがいします」
ジジイ、と敬意の欠片も無い呼び方をされた偉丈夫に向き合って、灰崎さんの紹介に合わせて定型句を発する。だが、俺の取った友好的な態度とは裏腹に、レンズ越しの冷たい瞳には強い侮蔑の色が混ざった。
「なるほど、下賤な貴様の同類か。どうりで。今にも鼻がヒン曲がりそうな訳だ」
「……いい加減にしろよ! テメェと比べりゃ蟻ん子だって上等だぜ!」
「アァ!? 私が……蟻なんぞより劣ると!?」
「そう言ってんだろ、ボケッ!」
俺の入室によって、一時は散ったかに見えた剣呑な雰囲気が、瞬く間に戻ってきてしまった。黒檀の杖の上で握りしめられた両手がプルプルと震えている。如何にも、何か言葉を返さなければ気が済まないという気配だ。
しかし、些か短気に過ぎるとも思う。白髪も混じるお年頃。そんなにも、蟻以下とされるのが癪に障ったのだろうか。勝手に引き合いに出された蟻だって、こうも間接的に侮辱されては迷惑に思うだろう。
ケンカは良くない。それも仲間内なら尚更だ。俺は、どうにか収拾を付けようと、灰崎さんに殴りかからん勢いで立ち上がった偉丈夫の腕を掴んだ。落ち着かせ様として取った行動だったが、これが不味かった。
「どうか、落ち着いてくだ――」
言い切る前に、振り上げられた偉丈夫の怒気が俺に降り注いだ。
「――おいッ! 汚らしい手で気安く触ってんじゃないッ! 離せッ!」
「え、えぇ……」
とんだトバッチリだ。乱暴に振り払われた手を呆然と見詰めていると、灰崎さんが歩み寄ってきて、俺の肩を優しく抱き、無理やり反転させた。
「もういい。行こうぜ、匡人。こんな奴の相手をいつまでもしてられっかよ」
「ふん、可及的速やかに退室しろ。ゴミ共」
「クタバレ。……天海の話は伝えたからな!」
安っぽい罵倒の応酬に背を押し出されて、
なんというか……すごい人だったな。如何にも『問題アリ』といった人物だ。灰崎さんに押されている肩の辺りに、重い疲労を感じる。
疲れ果てた様な表情の灰崎さんが、慰めるように俺の背を軽く叩いた。
「はぁ……。匡人、少し早いが昼飯でも食いに行こうぜ」
「昼ですか?」
右手首に巻いた赤バンドの腕時計を見れば、少し早いが時刻は昼食の時間帯であった。迷わず、「良いですよ」と了承の意を返して、俺達は食堂に向かった。
東京支部の食堂は十四階層を丸々使用した贅沢なもので、その収容人数はかなりの物だ。が、朝と夜はともかく、昼は東京支部中の職員が詰めかけるので、尋常じゃなく混雑する……らしい。というのも、俺は一度も食堂で昼飯を取った事がないので、この情報は全て先輩である神辺さんからの受け売りなのだ。
しかし、それを考えて見れば、少し早いぐらいに出向いた方が席も取りやすいだろうし、丁度いいのかもしれない。これは、ガチガチに時間で拘束されていないREDの特典のひとつだな。そんな事を考えながら、俺と灰崎さんは、未だ閑散としている食堂の一角に陣取った。
俺は、ものの数分で出てきたスパゲッティ・アラビアータを突っつきながら、右隣に座る灰崎さんにさっきの男に付いて尋ねた。顰めっ面がやや解れてきた灰崎さんは、俺の質問に再び嫌気を膨らませたが、それでも答えてくれた。
「あのジジイは『
「はぁ、岸さん」
「名前は聞いた事ないだろうけどよ、《現代に甦った切り裂きジャック!》――って、ニュースとかで聞いたことないか?」
「う~ん……無いですね」
「あ、そう?」
俺の返答を聞いた灰崎さんは、心底意外であるという顔をした。
その切り出し方と文言から、何を仕出かして“RED”とされたのかは非常に分かりやすいが、生憎と《現代に甦った切り裂きジャック!》なんて文言は、聞いた事が無かった。ここ二、三年は暇をつぶす為に家電量販店で垂れ流されているニュースを眺めたりしていたが、それ以前の出来事だろうか。
ぶすっとした表情の灰崎さんが、カツカレーのカツに齧りつきながら続ける。
「MCGに俺が来たのが五年ぐらい前ってのは話したか?」
「確か……してます」
「その当時の日本は連続殺人事件の話題で持ち切りでな……」
毎週一人、誰かが死ぬ。
日本経済の中心地、大都市東京の裏路地で若い女性の惨殺死体が発見された。死因は出血性ショック死。遺体は、全身が余す所なく鋭利な刃物によって切り刻まれていた。更に被害者の身元を調査すると、副業として風俗店に勤務していた事が分かった。
まさに切り裂きジャックを彷彿とさせる事件である。これだけでも紙面やワイドショーを賑わせるには十分だったが、事はそれで終わらない。以降、毎週金曜日になると、同様の死体が発見される様になったのだ。
「だが、それもある時を境にパタッと止んだ。すると、間もなく奴が東京支部に来た……と、くれば《人事ファイル》なんてものを見るまでもなく犯人が分かっちまうよな」
「へぇ、つまり岸さんはシリアルキラーな訳ですか」
「……スマン、食事中にする話じゃなかったな」
「いえ、気にしませんよ。そもそも聞いたのは俺です」
言いながら、フォークに巻いた赤いソースのかかった麺にかぶり付いて見せる。それを見て、灰崎さんは俺が本当に気にしていない事を理解したようで、手元のカツカレーへと意識を向け直した。
灰崎さんの話が終わるのと相前後して、階段、エレベーターからMCGの職員がなだれ込んできた。
転倒でもすれば大惨事になってしまいそうな程の混みように、早く来たのは正解だったなと感じながら、混雑の中に出来上がった半径三メートルの空白を眺める。空白は、明らかに俺達の座るテーブルを中心にできあがっている。
文字通り“遠巻き”に此方をチラチラと伺う視線には、嫌悪というより畏怖か恐懼の感情が多分に見える。なるほど、神辺さんが「居辛い」と漏らした訳も分かる。
「気になるか?」
ボソッと漏らすような感じで、灰崎さんがそう聞いてきた。身に沁みてMCGのRED事情を体感している俺は、言葉を飾り立てる余地を見付けられなかった。
「まぁ……灰崎さんは?」
「慣れた、と言いたいとこだがなぁ――」
言葉の続きを、灰崎さんは齧りついたカツと共に飲み込んだ。さもありなん。
皿の上でフォークをくるくると回転させながら、周囲に視線を巡らせていると、取り囲む円の向こうから明らかに此方へ向かう人影がある事に気付いた。
何故か、何故か知らないが、俺の意識はその人影に引っ張られる。
徐々に見えてくる後頭部で纏められた栗色の長髪、だらしのない灰崎さんと違ってカッチリ着たMCGの制服、首上に湛えられた柔和な笑み……気がつけば、俺は立ち上がっていた。
「こんにちは! 瞳さん!」
「やっぱり匡人さんだった! 人が寄り付いてなかったから、もしかしたらって思って。『退院おめでとう』で、いいのかな? 本当はお見舞いに行きたかったんだけど、唯一医務室に行ける昼休憩中に同僚の子が離してくれなくって……」
「いえいえ、気持ちだけでも嬉しいですよ! ありがとうございます!」
申し訳なさそうな顔をしていた瞳さんだったが、俺が礼を言うとパアッと明るい顔になった。本当に、彼女は明るくなった。MCGでの新しい人間関係が上手くいっているのだろうか。そうだと、俺も嬉しい。
職持ちとなり精神的余裕がある今、瞳さんとはもう少し話していても良かったのだが、惜別の時は早々に訪れてしまった。「瞳~? 何処行ったの~!」という甘ったるい声が、円の向こうから雑踏を飛び越えて食堂中に響く。その声に目を向けた瞳さんは、表情を再び曇らせた。
「あ、ごめんね。同僚の子が呼んでるみたい。最近なんだか監視みたいなのが激しくて……。また、ね」
「あ、はい、また!」
大声を上げた同僚の元へ、瞳さんは急いで行った。その背で、何処か楽しげに揺れる束ねられた栗色の毛先を見送りながら、俺は力が抜けた様にストンと着席した。
すると、俺と瞳さんのやり取りを静観していた灰崎さんが、嫌なニヤケ面をしている事に気が付いた。
「なんだオメェ、デレデレしちゃって。あの女に気がアンのか?」
「い、いや、そんなんじゃないですよ」
「またまた~」
「違いますって!」
違う……ハズ、俺は恩義を感じているだけだ。
俺は、気恥ずかしさを誤魔化す為に視線をそらし、自らの皿と向かい合った。そして、リスの様に口中に麺を詰め込んだ。
右隣の灰崎さんは、ニヤケ面をといて爽やかに続ける。
「でも、REDが相手だってのに優しそうじゃん。旧知の仲なのか?」
「え、えぇ、まぁMCG外での知り合いですね」
「へぇ~! 狙うってんなら、応援してやるよ!」
全く、俺は「違う」と言っているというのに、迷惑も迷惑――だが、心地よい迷惑だ。灰崎さんに曖昧な返事をしながら、何か気の利いた一言でも付け足そうかと頭を巡らせていたが、直後、灰崎さんとは逆の左隣から響いた平坦な声に、思考は妨害されてしまった。
「私は反対」
声に振り向くと、俺の左隣の席には、何時の間にか黒いセーラー服の六道さんが座っていた。彼女は、もうもうと湯気の立ちのぼる肉うどんをズルズルと啜り、さっさと飲み込むと、別に注文したのだろう左手のねぎまに齧りついた。
「えっ、六道さん!? 何時の間に……」
「チッ、何処から湧いてきやがった」
ねぎまと肉うどんって、どんな食い合わせだ? 肉と肉の不思議な取り合わせを交互に見ていると、六道さんは首上だけを動かして、その水晶の様な瞳に俺を映した。
「あの女は絶対ハラグロ。やめといた方がいい」
その言葉に声を荒げたのは、俺でなく、灰崎さんだった。
「何だってテメェにそんな事が分かんだよ。つか、何でここに居んだよ。どっか別のところへ行け。普段は俺らに寄り付きもしねぇだろうが」
「そんな冷たいコトいわないで、おひる食べに来ただけ」
人形の様に無表情な六道さんの顔が、今度は灰崎さんを捉える。六道さんの小さな口唇が、ポツリと動いた。
「ウチら……仲間やん?」
はてして、今のは冗句なのか? 六道さんが無表情を崩さずに放った一言に、灰崎さんは甚く激昂して立ち上がった。周りの警戒まじりの視線が俺に痛い。
「テメェと一緒にすんじゃねぇよ! ぶっ殺すぞ!」
「ま、まぁまぁ、灰崎さん、落ち着いて……」
どうにか宥めて着席はさせたが、灰崎さんの機嫌はすっかり悪くなってしまった。灰崎さんは、残り少ないルーを乱暴にすくい上げながら、六道さんを睨み付けた。
「で、何しに来たんだよ。ホントに飯食いに来ただけか? んな訳ねぇだろ、ぶっ殺すぞ」
「なんで? こわ」
「テメェは何時もどこぞで食ってんだろ。食堂で会ったことねぇだろうが!」
本職のヤクザも太鼓判を押すぐらいの剣幕で詰める灰崎だが、六道さんは全く意に介さず「そうだっけ?」とすっとぼけ、肉うどんを啜った。
なんとも、居心地の悪い席だ。もはや、仲を取り持つ事を諦めた俺は、どこか別のところでやってくれないか? と投げ遣りに思う。
すると、また新たな声音が会話に参戦してきた。
「
その中性的な声音を受けて「また変なのが増えやがった」とボヤく灰崎さんを尻目に、俺が戸惑いながらも「ど、どうも」と軽く挨拶すると、天海――恐らく分体――は、向かいの席に着席しながら片手でこたえてくれた。
天海が居るという事は、何かしらの話があって来たのだろう。それ以外では呼んでも来てくれない。なので、てっきり、その件の為に六道さんも天海に呼ばれたのか、と少し考えたのだが、天海の「想定外」の言葉と、左隣から小さく響いた「げ、天海……」という言葉を見る分には違うのだろう。
天海は、座ったばかりの席からぐっと身を乗り出して、俺の左隣の六道さんを覗き込む。
「ようやく会えたな、
「げげ……」
無表情で呻くという器用な真似を披露する六道さん。彼女も
十二分に威圧した後、天海は身を戻しながら意識を俺へ向けた。
「四藏、六道の事は紹介していなかったな。今、紹介してやろうか」
「止めろ天海、メシが不味くなる。それより、さっさと話して消えてくれ」
諦観の念がにじむ灰崎さんの態度から察するに、本当にはやく消えてほしいのだろう。切実な響きである。その意を受け、労った訳じゃないのだろうが、天海は間髪入れずに続けた。
「ならば、話をしよう――新人研修その二だ」
驚いた様な顔をする灰崎さんの隣で、俺はMCG機関は結構多忙なんだな、と少しだけ喜ばしく思った。
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