1-2-4 トリヴィアル・アクト / 致命的擦過傷 その3



 バン! と大きな音を立てて、不仲屋の入口が蹴破られた。衝撃で揺れるドアから、風のように駆け込んでくる無作法な来客を、音に振り向いた店主・法倉螺湾は、気怠げに見遣った。

 玄関口の辺りで膝に手を付き、肩を上下させているのは、螺湾にとって甚く見覚えのある人物だった。その如何にも「急いで来ました」といわんばかりの雰囲気に、強い焦燥を見て取った螺湾は、敢えて気安い口調で尋ねかけた。


「昨日の今日でまた来たね。昼前に。彼、どうだった?」

「はぁ、はぁ……」


 彼女は、胸を抑えながら、醜くもなく、美しくもない顔を怒りに歪ませて、キッと店主を睨み付ける。


「どういう事……!」

「……ん? あの男の子は別れなかったの? ちゃんと『お話』したんだけど」

「別れ話はしたみたい! けど、様子がおかしいの!」


 螺湾は、顎に手を当てて、小さく「ふーん」と呟いた。その様子に、いっそう業を煮やした彼女は、半ば八つ当たり気味にクレームの続きを吐き出す。


「昨日はカンカンに怒ってた。けど、今日は様子が違って――おかしくて――ああ!」

「ふむ、おかしいっていうのは?」

「『不貞』の存在を疑いだしたのよ! 昨日は信じてたのに!」


 その言葉に、かかりが弱かったか? と螺湾は先日の仕事内容を思い返す。

 彼女が持ってきた依頼はこうだ。


『とある男子と女子を破局させてほしい。そして、出来るのであれば、男子が女子に不審感を抱く形にしてほしい』


 愛に満ち満ちたこの依頼を、螺湾はキッチリ遂行した筈である。何処かにミスがあったのだろうか。そうも考えた。が、しかし、依頼対象の精神強度は一般人のそれでしかなかった上に、警戒心も薄い方であり、とてもやりやすく、簡単な仕事であった事を覚えている。

 けれども、こうして依頼人から不満が出てしまっているのも事実。

 はてさて……。

 螺湾は、余裕の雰囲気で勘案を続けているが、焦れた彼女はもはや我慢の限界の様で、いきなり踵を返して不仲屋の入口に走り出した。


「もう! 今、連れてきてるから何とかして!」

「え、今? 山田くん、部活は――?」


 彼女――山田くんの通う中学校は部活動に力を入れており、祝日だろうと何だろうと、休日返上で活動している。それを知っての問い掛けだったが、彼女は無視した。答えるのが面倒で聞こえないフリをしたのか、それとも、本当に視野狭窄に陥り耳に入らなかったのか。

 不仲屋を飛び出してゆく背中を見詰めながら、螺湾はため息をついた。


「けっこう強引な人だなぁ、山田くん。恋する乙女は盲目なのか? うーん、予定外の仕事だけど……ま、アフターサービスって事にしといて上げるよ」


 独り言をブツブツと呟きながら、黒いオフィスチェアから立ち上がった『詐欺師』は、顔に、薄っぺらな笑みを取り繕った。



    *



 二日目。

 天海が用意したというホテルに宿泊した俺と神辺さんは、バイキング形式の朝食を堪能した後、ホテル前の道路で二手にわかれた。これは俺の提案である。「日がな一日ついて回ったから、神辺さんのやり方は大体把握しました」と渋る神辺さんを言いくるめ、何とか了承を得た。


「但し! 仮に件の変異者ジェネレイターを特定できても、一人で勝手に交渉などせぬように! 危険ですからね!」


 そうやって、何度もキツく言い含めてきた神辺さんだったが、俺としてもそんなつもりは毛頭ない。


「はい、分かってますよ。一応、名目は新人研修なんです、今回は御手並み拝見という事で……。禪譲ぜんじょうを受けたとかいう弁舌のスキルにも期待してますからね」


 などと、適当な御べんちゃらを宣いつつ頷くと、神辺さんは想像以上に気を良くしたと見え気持ち悪いくらいに破顔していた。そうして俺は、こっちに向かってブンブン振られる手と、それに伴って揺れる金髪と首元の赤い宝石に別れを告げ、Q-39地区の雑踏へ足を踏み出したのだ。

 とはいえ、やはりあてはない。

 神辺さんに倣い、道行く暇そうな人に『大学生』だの『企業』だのが偶に道端でやっている『街頭アンケート』を装って聞き込みを行ってみるも、あまり有用な情報は得られなかった。そもそも、このご時世に「直近の異変は?」などと尋ねられれば、空に浮かぶ二つの別地球が頭を過ってしまうのは当然の帰結。

 それを上回る『インパクト』なんて……まぁ、そんな訳で、俺は早々にやる気を失っていた。

 眼の前で何度も繰り返される既視感に倦ね、別地球の向こうから麗らかに照りつける日光をも鬱陶しく思い始めた頃、俺は僅かな日陰を求めて裏の小道へ逃げ込んだ。

 人付き合いをあまりせずに生きてきた俺だが、こんな小道で話しかけられて警戒しない人間などいない、という事ぐらいは理解できる。聞き込みは一度中断して、ほんの些細な休憩を取るだけのつもりだった。


 だから、そこから更に奥の路地へ足が向いたのは、本当に偶然だったと誓う。


 足が進むにつれて、往来の喧騒が遠のいてゆくのが分かった。ああ、聞き込みをしないといけない……。だが、今は進路を変えるのも億劫だった。

 その時――ド、ド、ド、と断続的な鈍い音が遠くから聞こえてきた。それが、いわゆる殴打の音であると気付くのに、そう時間は掛からなかった。

 殴り合いのケンカだろうか。この日本で。

 休憩ついでに、ちょっとした野次馬根性にかられた俺は、少しだけ見に行ってみる事にした。勿論、出来るなら仲裁するつもりだった。

 しかし、音の発生源を求めて、俺が角を曲がった時である。意気揚々としていた感情が、一気になえてゆくのを自覚した。

 眼前では、奥まった袋小路に押し付けられていた制服の男の子が、膝から崩れ落ちてゆく。

 だが、それじゃない。

 俺の目を引いたのはそれじゃない。

 無意識に後ずさってしまった俺の足が、描写する必要性すら感じない小さなゴミを踏んでしまう。それにより、小さな、だが――法大さんの肩を跳ねさせるには十分な音が、人気の無い路地に響いた。

 ゆっくりと、肩上に坐す彼の首だけが錆び付いた車輪の様に回り、その詐欺師らしい顔に備わる、混沌めいた瞳が俺を捉えた。


「あぁ、四藏さん! 偶然ですねぇ。あれ、今日はあの“白い制服”じゃないんですね。仕事じゃなく……プライベート?」

「いえ、今日は……そうですね、色々とあって……」


 今の俺の格好は、MCG機関の白い制服から私服姿へと変わっている。聞き込みの途中、見慣れない制服のままだと怪しまれてしまうのではないか、と思って着替えたのだ。支給品のカバンはそのまま提げている。

 だが、今はそんな些細な事に構っている暇はない。先程まで感じていた既視感も、倦ねた思いも何処かへ吹っ飛んだ。それほどまでに鮮烈な刺激をもった光景が、俺の知覚を侵犯したのだから。

 彼の深い暗闇の様な瞳が、キョロキョロと路地を舐め回す。


「何だか、アチコチ聞いて回ってるそうじゃないですか。仕事ってのは尋ね人――」

「あの……! は……」

「ああ……これですか?」


 俺は法大さん言葉を遮り、彼の後方、そこで壁に凭れ掛かる様に伏せっている男の子を指差して尋ねた。顔に自嘲の笑みを浮かべながら。自分でも、これほどまでに白々しく、寒々しく、頼りない言葉はないだろうと思う。

 俺は――見ていただろう。

 その一部始終を。

 目の前の法大さんも、恐らくそれに気付いている。

 だからこそ、法大さんは警戒を滲ませつつも、笑んでいるのだ。

 分かってる。分かっている!

 だが、どうしても信じられなかった。俺が目撃した全てが『嘘』であって欲しかった。『あの法大さんがそんな事をする訳が』……いや、でも……。

 幻覚か、見間違いか、とにかく俺の瑕疵であって欲しかった。


「……仕事ですよ。洗脳するには暴力も使った方が簡単で効果的なんです。ですが、ちょいと加減を間違えてしまった様ですね……あ、その表情――疑心が確固たる物になりましたって顔。ふふ、参りましたね……」


 ふふ、ふふふ……。

 詐欺師の、ではなく、素の笑みだった。

 詐欺師のそれが恋しく思える、遥かなほどに薄っぺらな笑い。

 その直後、法大さんの顔からは一切の色が消え失せた。


「言葉は時に軽々しく」


「寒々しく」


寒春かんしゅんの脚元に張る薄氷の如く頼りない」


まことを説こうが、うつろを並べようが」


「人の心とは、決意とは、欲望とは」


「一度定まってしまえば容易には揺るがし難いものだ」


「だからこそ――」


 震え始めた俺の指先で、法大さんはゆるゆると口角を吊り上げ、詐欺師の笑みを取り繕った。


「だからこそ、人間には対話が必要なのです」


 自然と右手に力が入る。

 俺が人より抜きん出ているのはこの右手の性能ぐらいのものだ。それも、未だチンケな盗みとタンスの裏に落ちた物を取るくらいにしか使っていない……が、やるしかない。

 法大さんは異常者だ。


「四藏さん……『話をしましょう、貴方はその為に此処に来たのだから』」



 『だが、その前に話をしなくては……俺はその為に此処に来たのだから』



 ――ッ!

 俺は何を考えている!?


 戦うんだろ!

 この緊迫した状況で『話す』ってどういう了見だ。

 いや、しかし……「しかし」ってなんだよ。

 どういう訳なのか、俺は見えない鎖に縛られてしまった様に、思考はある地点から一定以上の距離を作る事ができない。疑えない。信じられない。

『その為に此処に来た』――彼の言葉が制限なく脳内にリフレインする。フロントガラスにこびりついたこの霜の所為で、俺の視界は遮られてしまっているのだ。

 一旦、出直すべきである。

 思考の整理を諦めと、仕切り直したいという逃亡欲求が沸々と湧き上がって来た。その意識が、俺の脚を無意識に後方へと踏み出させたのだろう。そして、その逃げ足を法大さんは見逃さなかった。


「――逃がすかッ! やれ! 山田! やれ!」


 呼び掛けに呼応して、横方の路地から小柄な人影が飛び出して来た。金切り声にも似た雄叫びを上げる人影は、両手に持った棒状のものを振り被る。

 逃げ道に現れた障害に怯んだ俺だが、すぐに「問題ない筈だろ!」と自己暗示をかけて足を踏み出した。

 無手にも関わらず足を緩めず突っ込んでくる俺に、人影――制服を纏う女子もまた怯みを見せたが、彼女も即座に気を取り直してを振り下ろした。


「――えっ!?」

「よしっ!」


 忽然と、手元から消え去った鉄パイプを探して狼狽する彼女に、思わずほくそ笑む。本当にギリギリだったが、能力の行使が間に合った。

 今! 鉄パイプは衝突の寸前で握り込んだ俺の右手に収まっている。ようやく、鉄パイプの行方に気が付いた様子の彼女だが、時すでに遅し、俺は彼女の横を抜き去っている。

 逃げ切れる!

 あの角を曲がり、往来に向かって走れば、派手な追跡は出来ない筈。そう考えながら、窮地を凌いだ安堵を抱いた瞬間、予期せぬ事態が俺に襲いかかる。

 突如として、ガン! という音と共に後頭部に衝撃が走り、全身の力がストンと抜ける。マズイと思っても、前のめりに倒れてゆく姿勢を、俺の脚は、膝は、踏ん張れない。鉄パイプを取り落とした両手は、地面に対して突っ張る事も出来ずに、だらりと垂れ下がるだけだ。


「お、高橋! 良いタイミングで来たな!」

「……」

「念の為に“奴隷”も呼んどいて良かったぜ」


 嬉しそうな法大さんの声が、コンクリートへ急速に接近しつつある俺の頭にガンガンと響く。その最中、何とか振り向いた半分だけ暗転した視界には、同じく鉄パイプを持ったサラリーマンが気まずそうな顔で立っていた――


「しっかし、そりゃあいるよな。僕以外にも、変なチカラ持ってる奴って」



    *



 霞む視界に、打ちっぱなしコンクリートの床が映る。

 ぼやけた輪郭すら捉えられない視界で、頭を振る。このひどく薄暗い部屋に明かりは無いらしく、外から入ってくる微かな月明かりだけが唯一の光源だった。


「うっ……ぐ……」


 頭がヒドく痛む……割れてはいないと思うが……。

 状況把握のために痛む首上を更に揺り動かした時、強い光が卒然と俺を襲った。発生源は左右にある窓の外。思わず目を細め手で顔を覆おうとした所で、全身の自由が俺の手元から剥奪されている事を知った。

 窓の外に並ぶ投光器らしきものに照らされて、自分の様子がハッキリと見えてくる。木製の椅子に座らせられた状態で、手足の指先に至るまでダクトテープで装飾済み。まるで、ミイラにでもなったかの様だ。

 試しに軽く力んでみたが、全く持ってびくともしないので、脱出の試みは程々でやめにした。俺は椅子に固定されているが、椅子自体は床に固定されていないのだ。藻掻きは、ややもすれば転倒を招き、状況をより悪化させてしまうだろう。

 眩しさにも目がなれ始めた頃、俺は視界の端に何者かの足先を見た。

 反射的に視線が跳ね上がる、とそこには――


「うわっ……!」

「……」


 路地裏で俺を襲った制服の女子が、鉄パイプを右手に携えて直立していた。果たして、ずっとそこに立っていたのだろうか。……気づかなかった。

 浮かない表情で、黙りこくっているのが、不気味である。しかし、その制服は何処かで……?

 脱出方法について思案しながら、見覚えのある彼女の制服に気掛かりを感じていると、後方でドアの開閉音が大きく響き、次いで「コツコツ」と小気味良い革靴の足音が聞こえてきた。


「起きたかい? そろそろ水でもぶっかけようかと考え始めていた所だよ」

「その声……法大さん?」

「……あらら、記憶も飛んじゃった?」


 彼の砕けた口調を聞くのは、これが初めてじゃない。制服の男子を殴りつけ、何事かを耳元で囁いた時も同じ口調だった。おそらく、こっちが彼の素なのだろう。

 詐欺師の時とは打って変わって、素朴な、トボけた顔をした法大さんは、制服の女子に歩み寄るとその肩を優しく抱いた。


「山田くん、明日は彼氏とデートだろ? 若いのに、いつまでもこんな所にいちゃあいけないよ。はよ、帰りんしゃい」

「はい……ありがとうございました……」

「いやいや『礼には及ばないよ』。依頼だからね。アフターサービス!」


「お幸せに~」と言いながら、法大さんは、正面のドアから退室してゆく制服の女子に手を振る。

 依頼……不仲屋に対する依頼とはこの場合、会話から察するに縁結びなのだろう。だが、それが達成されたらしい会話なのに、彼女は浮かない表情に見えた。

 それには、俺が目撃した制服の男子に対する暴行、それが関係しているのかもしれない。位置的には彼女も見ていた筈だ。

 ……。

 おかしい……。本当におかしいんだ。『法大さんは良い人の筈なのに』……どうにも、そう思えなくなってくる。


「さてと、後は君を適当に口封じして仕事は終わり! 全く、予定外に予定外を重ねてくれちゃって、もう……」

「ここは……どこなんだ!? 口封じ? そんな事して――」

「は~いはい、一旦お静かに~。『君は僕と話さなきゃ』……でしょ?」


 そうだ、『俺は法大さんと話さなきゃ』……? ……?


「で……ここがどこか、だっけ。まるで記憶喪失にでもなったみたいな台詞だね。あのね……僕が正直に答えるとでも? まぁ、いいけど」

「……」

「おいおい、無視かい? さっきは静かにしろって言ったけどさ、全く反応なしだとそれはそれで『傷つくぜ』」


 顔をぐっと寄せて『傷心』を囁いた法大さんが、今度はさっと離れておどけてみせた。が、俺の反応が無いのを見るとすぐに止めた。


「この建物は建設途中で放ったらかしにされた三階建てのビルで、今いるのはその最上階だよ。詳しくは知らないけど、建設途中に揉め事があったらしくてね。ほら見て、窓の外、まだネットが掛かっているのが見えるかい? 工事用の足場もそのままなんだぜ。ともかく、それを僕が買い取ったんだ。建物周辺が空き地っていう人気の無い立地が気に入ってね。言っとくけど不仲屋の本舗じゃないぜ、そっちは商店街の端っこにあるって名刺にもあっただろ? 両方とも書類上の持ち主は別の人だけども――って、それはどうでもいいか」


 状況に驕ったのか、法大さんは全てに対して明け透けな態度だ。

 やはり、法大さんは俺が思うような人物ではないんだ。……だが、『あの法大さんがそんな事をする訳ない』という思いが何時まで経っても抜けない、抜けてくれない。


「さてさて、今から僕は君に尋問とかしちゃう訳だけど、その前に君の精神強度を試しておきたいんだよね。大体は把握してるんだけど、一応ね。ん~と、何かないかな、荒唐無稽であればあるほどいいんだけど……おっ、こんなのはどう?」


 椅子に固定されている俺の視界外で、なにやらごそごそとやっていた法大さんが眼前に突き出してきた物は、薄汚れた鉄パイプだった。重そうなそれを左右に揺らしながら、法大さんはニヤけた笑みでささやく。


「さっきまで山田くんが持ってたやつ、『実はこれ傘なんだ』」


 ……『傘』には見えない。

 どう見ても、唯の鉄パイプだ。

 上から見ても、下から見ても、一見チラっと見ても、凝視にらんで見ても、めつすがめつしてみても、やっぱりただの汚い鉄パイプだ。

 だが……うん?


「うーわ、これで揺れてるよ。営業かけた時も思ったけど、子供なみの精神強度だね。やりやすくていいけど、張り合いが全然ないよ。二回、いや……大事を取って三回にしておこうかな。『これは傘だ。未来的技術が使われてる最新型なんだぜ』」


 そう……なのか? 『未来的技術』? なら『傘』……に、見えなくも無い……のか? 『最新型』……? いや、鉄パイプだろう?

 混迷を極める思考は『傘』側に傾きつつあった。

 俺のそんな心境を彼は敏感に悟ったのだろう、大きくため息をついた。


「……人を疑うって事を知らないのか? 君は」

「『傘』じゃない?」

「ホントの事は疑るのね。噓も誠も話の手管。言葉ってのは薄っぺらいもんだなぁ、ほんと……面白いよ。……じゃ、精神強度も確かめた所で、君について、そしてチカラについて、洗い浚い吐いてもらおうか。洗脳ついでに弱みも握らせてもらうから」



    *



 深夜、時計の短針が頂点を通過して久しい頃、神辺と匡人が宿泊したホテルのフロント奥からは、可憐な怒声が鳴り響いていた。音の出処である、固定電話に齧り付く神辺梵天王かんなべ ブラフマーは、迷惑そうな従業員の白い目を余所に声を張り上げ続ける。


「応援どころか、調査すら出来ないとはどういうなのですか!?」


 珍しく声を荒げ、口角泡を飛ばすその表情には、焦燥と憤懣が交互に表出する。彼女をここまで焦らせている原因は、後輩四藏匡人よつくら まさとの行方不明である。

 彼らは、昼食時に一度待ち合わせる手筈だったが、待ち合わせ時間を遥かに過ぎても匡人は姿を見せなかった。

 まさか、迷子になった訳でもあるまい。しかし、どうも嫌な予感が過って辺り一帯を探し回り始めるも、今に至るまで有用な情報は得られず。上記のセリフはその後、止む無くMCGに助けを求めてから数分後の事であった。


「彼と私がレッドだからですか! 交渉部のマニュアルでは――!」

「ですから! 赤色とか、規定とか、そういう事じゃなくてですね! そもそも人員に余裕が無いと――!」


 だが、受話器から漏れる苛立ち混じりの女声も引かない。否、引けないのだ。彼女も又、遣る方無い事情を抱えていた。


「分かりました! 貴女に応じる気が無いのは重々! それで、彼のタブレットのGPS機能に反応は無いのですか!?」

「少々お待ち下さい……っえ? い、いえ、信号は変わらずロストしています」

「くっ……」


 神辺の抱く苦々しい思いが、そっくりそのまま顔にも表れる。

 MCG職員に支給されるタブレットは特注の品である。例え充電が切れようとも、電源が切られようとも、GPS機能だけは一週間ほどに渡って生き続けるのだ。その反応が追えないという事は、けっして迷子などではない。

 これでは、現在地ばかりか、その生命いのちの所在すら不確かに――

 神辺は、脳裏に浮かんだ嫌な考えを勢い良く振り払った。すると、受話器の向こうで女声が跳ねる。


「あっ、天海祈あまみ いのり様に繋がりました。今、お繋ぎしm――」

「繋いで下さい!」

「……はい、少々お待ち下さい」


 受話器から流れる、ポップにアレンジされたシベリウスの交響詩フィンランディアの音色。だが、その美しい音色は神辺が聞き入る間もなく早々に打ち切られ、代わりに瑞々しい息遣いが漏れ出た。


「天海だ」

「天海! 新人研修なのでしょう! 監視はしていなかったのですか!?」

「フン……落ち着け、話は聞いている。結論から言うと、応援は派遣できない。私の分体もだ」

「何故です!」


 受話器から漏れる「はぁ……」という深い溜息の声。否応なく、神辺の嫌気けんきが掻き立てられる。だが、此処で急かしてもしょうがないと自制し、神辺は、今から語られる言葉を片言隻句もらすまいと耳を澄ました。


「米東部ペンシルバニア州に於いて、複数の能力者ジェネレイターの関与が疑われる大規模麻薬カルテルの存在が露呈した。近年、現地では麻薬中毒者の急増が問題になっていて、その諸悪の根源が遂に突き止められた訳だ。だが、問題はそれだけではなかった。信じられない事に、その麻薬カルテルには現地MCG職員も関与していた。売るだけでなく、やってる奴までいた。人員不足は現地職員の汚染調査と、急遽組織した撲滅チームの設立に日本支部からも応援を出している為だ。信用できない現地職員を撲滅作戦に加える訳にはいかないからな。その対応で私の本体も同地に赴いている。分体も常に動かしている。悪いがそっちに割く人員は無い。それが答えだ」

「ですが――!」

「いいか!」


 まるで罪を咎めるかの様な強い口調に、自身の「勧誘」を思い出した神辺は言葉を引っ込める。


「今の状況は言ってみれば、アメリカに住む無辜の民が大勢人質に取られている様なものなのだぞ。極東の田舎街で、たった一人、小悪党の所在が分からないからどうだと言うのだ。貴様とて、私と同じ立場にあれば同様の選択をする筈だ」

「くっ、命に貴賎はありません! どちらも救ってみせます!」


 言いながら、その言葉の無茶に気づかぬ神辺ではない。もはや、平常の心境を保っていられぬ程に、衝動的な支離滅裂の言動を抑えきれぬ程に彼女は焦っている。受話器の向こうで天海はしばらく閉口していたが、顔も見えない神辺が落ち着いたのを見計らって緩やかに沈黙を切り裂いた。


「どうやって、とは聞いてやらんぞ。アメリカは今や一触即発の空気だ。命に貴賎は無いというのは……それはその通り、同意する。命に区別や差別など無い。だが、我々人間の手は小さく、短く、狭い。全人類を一度に抱きとめてやれるほど、懐の深い存在ではないのだ。だからこそ、我々は命に優先順位を付けなければならない。小を捨て大にく。貴様と四藏匡人は小だ」

「ぐっ、貴方はΕエイフゥースでしょう! その力でなんとか――」

「不可能だ。……Εエイフゥースは万能の存在ではない……」


 ガン! ブツッ、ツ――、ツ――。

 向こう側の受話器が乱暴に置かれ、味気ない電子音が木霊する。女声も、交響詩も、受話器からは聞こえない。それはつまり、天海の分体が東京支部の受話器を直接取っていた事を意味する。

 神辺は思わず受話器を振り上げたが、それを叩きつける直前で借り物である事を思い出して踏みとどまった。そして、歯を食いしばりながら、馬鹿丁寧なほどにゆっくり元に戻した。

 暫し、沈思黙考に浸り今後の方策に頭を巡らせた神辺だが、嫌な想像ばかりが過り建設的な考えなど全く出てこない。行儀よく舌打ちし、苛立ちと迷いを振り切るべく勢い良く立ち上がった。


「すみません、騒がしくしてしまって……。電話、ありがとうございました」

「いえ……オーナーからも《貴女に助力するように》と申し付けられております。今後も何かありましたら、どうぞ遠慮なく申し付け下さい」

「……」


 深々と頭を下げるホテル従業員に、神辺も会釈を返す。

 天海は、神辺と四藏を憚る事なく「小」であると言い放ったが、それでも口程にその命を軽んじている訳ではない。

 きっと……《助力するように》というのは天海の指図だろう、と神辺は悟り、幾らか冷静になった頭でふらふらとフロントの奥から出た。


「……! 貴方が神辺さんですね!?」

「ちょっと、お客さん! 勝手に入ってもらっちゃ――!」


 そこで待ち構えていたのは、顔中に脂汗を染み出させた、スーツ姿の男だった。男は、神辺を見た途端、フロントの中にズケズケと入り込んだので、当然のごとく受付に制止された。

 普通であれば、そこで踏み止まるのだろうが、男は電話中の神辺の様に平静を失っている。パニックになって強行突破を試み、従業員に羽交い締めにされた。

 これに見兼ねて、神辺が間に割って入る。


「す、すみません、彼は私に用がある様ですので……」

「はぁ……」


 そう言うなら、とおずおず解放された男は、額の脂汗を吹きながら「すみません!」と深々頭を下げた。


「改めて……貴女が神辺梵天王かんなべ ブラフマーさんですね? 伝言をお届けに参りました」


 短い挨拶の後、男は、神辺に芍薬の香りを押し付けた。


   《誰にも告げずに一人で来い

       場所は東京都青梅市 xxx xx-xx ビルの三階》


 それが、黄泉比良坂へ誘う悪魔じみた劇物であると知りながら……神辺は、男を押しのけて走り出した。

 この時、彼女の脳裏では聞き込みで得た情報の数々が繋がり始めていた。

 寂れきったこの街で、人間関係のトラブルが増えている事実。蔓延する疑心。『言葉』に対する警戒心。そして、不仲屋という道徳に対する冒涜宣言の様な看板文句を掲げる男。

 怪しんではいた。

 訝しんではいた。

 こんな事になるのであれば、別行動の申し出など承諾するんじゃなかった。そんな、今更すぎる後悔が神辺の胸中に滞留する。

 無念を煮えたぎる燃料として、彼女は、ただ只管夜の闇を駆けた。


 幾許も無く、闇に溶ける群青は街外れに広がる空き地へと辿り着いた。閑散とした街にあって更に閑散とした人気の無い地域。その中心に、ポツンとひとりでに立つ三階建てのビルがあった。そのビルの外周には工事用の足場がまだ撤去もされず残っており、その上から青色のネットが掛けられていた。

 呼び出された場所とは、間違いなく其れだろうと神辺は確信した。

 にわかに月光が雲間に消える。

 すると、仄暗いビルの一階から、数えるのも億劫なほどの老若男女が、両手に凶器を携えてぞろぞろと出てきた。


「……なるほど、大人数でお出迎えですか。分かりやすい」


 十、二十……と、そこまで数えた所で神辺は数えるのを止め、修道服の内側より一挺いっちょう手斧フランキスカを取り出して迎撃姿勢を整えた。

 敵の能力は洗脳、精神干渉、幻の類か、果たして――。神辺の脳裏に幾つかの候補が浮かぶ。これだけの数の一般人を荒事に動員できるのは、大凡そのあたりである。

 決定的な確証には至らず。何れにしても厄介な事に変わりはないが、その効力は微弱である、と神辺は彼らの顔色から見て取った。

 圧倒的な数的優位にも関わらず、彼ら顔色は、宛ら死刑台へ向かう囚人の如く青褪めている。能力に加えて、何らかの圧力おどしを用いているのだろう。こういう手合には神辺も覚えがあった。


「う、うおおおおお!」


 突如、集団の最先鋒に押し出される様に立っていた若い男性が、金属バットを振り上げながら突出した。後に続く者はない。それどころか、集団の大半は驚いた様な表情で、状況をただ見詰めているだけだ。弾かれた様に吶喊した男は焦れて先走ったのである。

 恐懼に震える一撃が、神辺の脳天めがけて落下する。

 対して、神辺は揺れない。片手に持っていた手斧フランキスカを両手に構え、地に根を張り込む千年杉の如く、迫り来る男を斜めに見据えた。

 交錯の瞬間――神辺は半身になりながら、一歩、右斜め前へ踏み込んだ。目測のズレた金属バットが空を切る。その戦場に於いて致命的となる間隙すきに、地上の三日月が煌めいた。

 重みと反動で前方に縺れた男の左太腿に、渾身の手斧フランキスカが墜ちる。


「ぎゃあああああああ!」


 鎧袖一触。三日月状に光る刃は、一切の抵抗を持ち手に伝える事なく成人男性の太腿を焼き切った。

 かまびすしい悲鳴。

 おびただしい出血。

 単なる一般人でしかない彼らは皆一様に息を呑む。そんな集団の怯えを抜け目なくみとめた神辺は、目の前で倒れ込んでいる男にではなく、集団に対する追い打ちを目的とした行動に打って出る。切り落とされ、地面に転がった太腿パーツ手斧フランキスカの刃先に突き刺し、集団の眼前へと投げ入れた。未だ現実味を感じていない者達へ、少しでも血の匂いを広める為である。そして――


瀆聖とくせいともがらよ!」


「我こそ天! 我こそ地! 三千世界の真理体現者!」


「楯突く者には必ずや天誅が下ると心得よ! これが蠢愚おろかものの末路である!」


 心中で謝意をひょうしつつ、神辺は地面に蹲る男の残った右脚へ手斧フランキスカを振り下ろした。瞬間、喉を引裂く悲歎ひたんの声が、集団の耳をつんざく。

 この時、幾人かが目を背けたのを神辺は見逃していない。やはり、効力は微弱である、と確信を強めた神辺は最後の一押を敢行する。

 切り落とした右脚が、今度は集団の中心に放り投げられる。

 更に、撒き散らされた血の匂いを万遍なく浴びた神辺の背後に、やんごとなきかな、後光が差していた。


「ひぅっ……」


 発せられし、尋常ならざる気配。

 場は厳粛な静けさに満ち、彼らの喉元が独りでに絞め付けられてゆく。

 この圧倒的なまでの人数差を鑑みれば、相手が銃を持つ訓練された軍人であろうと、腹を空かせた人食い熊であろうと関係なく押し潰す事が出来るだろう。

 集団に属する誰もがそれを認識している。『認識させられている』。

 だが、同時に――先頭の幾人かは必ず犠牲となるという避けようのない予測が、意識の蓋をこじ開けて噴出しだしていた。

 一体、誰がなりたがる。

 誰がなりたがる、狂人の手元で振り回される三日月の餌食に。


 退却か、

 吶喊か。


 こういう場合、集団の流れを決するのは最初の一人に託されている。その者が勇ある者であるか、臆した者であるか、それに懸かっている。

 今宵、それは勇ある臆病者によってなされたが、機は逸していた。

 集団崩壊の先駆けは、後方に立つ女性がへたり込む事に始まった。そして、一人、また一人と――集団は呑まれていった。

『意識』を塗りつぶす程の底無しの恐怖によって、ここに大勢は決す。

 もとより戦意が薄かった事もあったのだろう、散り散りに逃げる彼らを眺めながら、神辺は小さく息を吐いた。さしもの神辺とて、この人数を相手に死者を出さず立ち回る事など出来そうにない。

 さて、ビルに向かう前に、と脚元で血と涙に濡れる不幸な男の耳元へ、神辺は跪いた。


「苦しいですか?」

「うっ、ぐっ……」

「後で医療班を呼びますから、今は辛抱して下さい――ね!」

「っがあああああぁぁ……!」


 止血のため、神辺が男の両足に手を添えて傷口を焼くと、彼は悲鳴を上げて気絶してしまった。これには神辺も罪悪感を抑え切れない。


「ごめんなさい……でも、先に殴りかかって来たのはそっちですからね! 反省して下さい!」


 罪悪感を振り切り、神辺は撥水加工を施された群青の修道服と手斧フランキスカから血を滴らせながら、ビル内部の階段を駆け上がった。

 一階、二階を通り過ぎ約束の三階へ。

 道中に罠や、人が待ち構えているという事は無かった。というのも、ビルの中は内装どころか、碌にドアも間に合っていないスカスカ具合だったので、設置してもすぐにバレると思って、螺湾は何も用意しなかったのだ。

 このビル内で初めて見かけた扉を前に、神辺は仁王立つ。

 すると、その右腕が幽鬼の如く揺らめいた。瞬間――今にも自壊を始めそうな錆び付いたドアノブに、扇状の刃が勢い良く墜落した。呼び出した手前、その扉に鍵など掛けられていないが、そんな事はお構いなしである。

 二度、三度と鈍重な衝撃を介し、ドアノブ周辺を完全に破壊された扉は、まるで自動ドアの様にゆっくりと内側へ開き出す。神辺に気を長くして開くのを待つ気はなく、扉は半ばで思い切り蹴り飛ばされた。

 内外の気圧差によって、内側から吹き付けた風が修道服の裾を揺らす。その埃っぽい空気に、神辺は顔を顰めた。


「――匡人さんッ!」

「神辺さん!」


 芍薬の燻ぶる三階部屋の中央で、椅子に固定された匡人がほえる。その真っ直ぐに神辺を見つめ返す瞳は著しく混濁していた。かつて、彼の瞳には何も入り交じっていなかった事を神辺は知っている。


「法大さんは『男の子を殴ってない』けど……男と話してたけど『話して無くて』……『法大さんは良い人だから』、法大さんは偽名で、それで、それで、『法大さんは聖人の様な人』で……!? だから『友人になって』しゃべったら――!」

「はーい、もう来ちゃったからちょっと黙っててね」


 訳の分からない事を喚く匡人の口に、簡易的な布製の猿轡が噛まされる。

 激しい精神錯乱の相。

 洗脳、精神干渉、幻の類か。――と、再度、神辺の脳裏に候補が浮かぶも、やはり決定的な確証となるものは無い。

 神辺は、修道服の内側よりもう一挺の手斧フランキスカを取り出し、左手にも構えた。血気盛んな様子の神辺に対峙する螺湾は、匡人というひとじちに隠れながら、匂い立つ血の匂いに眉をひそめる。


「えーと、君が梵天王ぼんてんのうくん? 血なまぐさいなあ。というか、当然の様に無傷じゃん。厳しいな~、動かせる奴隷は漏れなく動員しといたんだけどな」

「奴隷とは、玄関で出迎えてくれた者達の事を言っているのですか? 彼らならマトモに戦う事なく、恐れ慄いて逃げて行きましたよ」

「マジ? 使えない奴らだな。腕の一本ぐらいいどいてくれよな」


 ――その時、破壊された筈の扉が、俄に音を立てて閉まった。

 自然に閉まったにしてはあまりに大きな音に、神辺の注意が一時後方にそれる。だが、螺湾は思考を深める隙も与えず畳み掛ける。


「動くな! 『勝手に動いたり能力を使ったら四藏匡人を殺す』」


 匡人の首元に、小さなアーミーナイフが突き付けられる。その刃渡り、銃刀法違反に引っかからぬ短さの4センチ前後なれど、生命活動を断ち切るには十分過ぎる。その事実を認識した神辺は怯む。加之のみならず、彼の言葉に有無を言わさぬ『本気うそ』が顕然と込められている事も理解させられてしまった。

 背を垂れる一筋の冷汗を感じながら、自身と信頼に足る後輩を救うべく、望ましい着地点を探して神辺は思考を巡らせる。しかし、考えは一向に纏まらず、神辺は苛立ち混じりに顔を顰めた。

 すると、螺湾は急激に焦燥を膨らませた。


「『匂わない』!」

「……?」


 脈絡の無い言葉である。

 確かに『匂わない』が、急に何を言い出すのか、と神辺は胡乱げに彼の者を見やる。しかし、その時には、彼の焦燥は奥深くに隠匿されており、表面上は詐欺師の体で取り繕われていた。


「――いや、しかし参ったね、君と匡人くんには死んで貰いたいのが本音だけど、僕に戦闘能力なんてないんだよね。下で何があったか知らないが……アレを切り抜ける奴の相手なんて……ねぇ? ここで潔く自刃してくれたら嬉しいんだけど」

「気を揉む必要はありません。我々MCG機関の目的は貴方の殺害ではなく、保護なのです。勧誘と換言しても良い。どうか、ご同行願えませんか」

「ハッ、冗談だろ? 勧誘って手前のカルトにか?」


 冷笑的な視線、口調、仕草。「信用できない」と直球で吐き捨てた瞳には、確固たる疑心の念が混沌と渦巻いていた。

 ここで、互いの認識に齟齬が有る事を神辺は理解する。

 そして、彼の者の抱く疑心とは、能力の微弱さを顧みるに自らを《悪》と認識している事に起因すると類推した。正義感が希薄な事は勿論、自らの行いを悪と自覚しながら悪道の歩みを止めない……典型的なΒベルカンの精神性。

 自分のやっている事の悪どさを認知している。善悪に分別すれば、十中八九「悪」として唾棄される存在であると自覚している。彼の場合、それが疑心として表れていて、それが攻撃的な行動を発露させているのだ。

「違うのだ」と神辺は否定したかった。

「MCG機関に殺される事など無い」と。

 実際、MCG機関には、死刑が妥当な者も複数人在籍しているが、利用価値・研究価値があると見なされているからこそ生かされている。だが、それを言って信用を得られるかと言えば否だろう。かえって、疑心を強まめてしまう結果は目に見えていた。

 これは、この時点の神辺が知る由もない事だが、彼の持つ疑心は、性根の他に「匡人から聞き出せた情報がそれほど多くない」という所にも起因する。匡人の精神強度は著しく低く、彼の想定を越えて『嘘』の通りが良すぎたのだ。虚実の継ぎ接ぎパッチワークに失敗してしまい、途中からは会話もままならなかった。彼にとって、初めての経験である。

 だが、幾つか聞き出せた情報の中に「MCG機関が自身に関する詳細な情報を掴んでいない」という事は含まれていた。ならば、この二人さえ始末してしまえば、また補足されるまでにある程度の猶予は確保できる筈。螺湾はそう考え、此処で二人を始末する腹積もりを固めている。

 故に、嘯く。


「僕は現代の日本人らしく宗教に無関心なんだ。その立場から言わせてもらうと『宗教家ってのは詐欺師より胡散臭く見えるぜ』……信用できないね!」

「……先程から、一体何を仰っているのですか……?」


 神辺には彼の目的が分からなかった。『胡散臭く見える』のは置いておくとして、疑心と攻撃性を隠すつもりもなく話し続けて、何処に着地させるつもりなのか。その意図が見いだせなかった。

 彼の口から紡がれる言葉が『嘘』か「真」かという次元を通り越した、単なる“戯言”である事を看破しているが故に、余計理解できなかった。


「いいじゃないか『勧誘』なんだろ? なら、話したって良い構わないだろ! 『別に敵対してる訳じゃないんだから』」

「他人に武器をもたせて襲わせる事が敵対を意味しないのなら、そうでしょうね」

「じゃあ、こうしよう! 『あれは彼らの勝手な暴走なんだ。管理者として責任を感じてる、悪かったよ、ごめんなさい』……これでチャラってコトで! 過去に固執するのはイクナイよ、宗教家を名乗ってんなら、ここはひとつ良心でもってスパッと水に流してさ、楽しい雑談でもしようぜ。『僕は君の事も知りたいよ』」

「……」


 枝葉末節をひた走る口調。煙に巻こうとしているのは明らかだ。

 時間を稼ぎが目的なのだろうか? ならば、と神辺は敢えてそれに乗る事にした。打開策を考える時間が欲しいのは彼女も同じであった。それに、洗脳の効果が大した程ではないのは奴隷達で確認済み。心を強く持てば効かない筈だと腹を括り、昔、下っ端の信者として市井で勧誘していた時の自分を思い出す。


「……偏見は……正せねばなりませんね」

「ん?」

「私の信仰する『真理の光』をカルトと言いましたね? それは謂れなき中傷です。改めなさい。『真理の光』の教えはインド哲学を源流に、ヒンドゥー教、仏教、神道、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、シク教などなど……数多ある宗教の上澄みをさらった『実践の教え』なのです。その根幹は宗教嫌いを自称する者にも親しみやすく、知れば知るほど拒否感は薄れ行き――」

「ふ~ん、要するに! 言う事ばかり綺麗でご立派って訳ね、良くあるパターンじゃん。で、結局は金とか要求してくるヤツだ。知ってるよ、『やったことあるし』」

「……」

「何だよ、さっきから黙って……怒った?」


 螺湾が話を遮ると、神辺の気配から一切の色気が抜けた。

 黙りこくったのを見て、「怒ったのか?」と嘯いた螺湾だが、そういう雰囲気でない事は敏感に感じ取っていた。匡人を盾にする様に移動しながら、強張ってゆく身を解す。

 そんな彼の目に見えた臆病さを嘲笑い、神辺は頭巾を剥ぎ取って長い金髪をかき乱した。


「ふふふふ……そうです! その通りです! 金、金、金! 金の為ですよ……人の欲望は崇高な理念も汚染する……」

「……おいおい、嘘ぐらいけよ。それでも宗教家か?」

「ふふふ……」


 宛ら詐欺師の如き薄笑いで、両手の手斧フランキスカを床にこぼす。くるくると回りながら虚空を目掛け手を伸ばし、神辺は演説の体裁を整えた。


「ですが! 崇高なる『偽り』に身を置きながら、私は真なる窮極きゅうきょくに同化! 真理の光に感光したのです! 無限大の宇宙に伸展しんてんを繰り返す光の一端に手を……! 手を――!」

「うわあ……」


 暴れ回る精神病患者を見るような偏見いりまじる嫌悪が、螺湾の瞳に顕然とあらわれた。だが、それも責める事は出来ない。人目も憚らず、修道服で往来を闊歩する性根だけあって、その振る舞いは中々に堂に入っていた。

 しかし、その陶酔と狂気の振る舞いの中、揺れる金色の瞳に湛えた正気と作為を、身動きの取れぬ匡人だけは感じ取っていた。


「導いて差し上げましょう! 迷える仔羊よ!」


 そして、作為の意図は、その言葉と共にピークに達する。


「――倒れて!」


 突如として、語尾を張り上げた神辺は、床にこぼしていた手斧フランキスカを掬い上げる様に蹴飛ばした。先程から続く演説が単なるかぶきでない事を読み取り、ひとり身構えていた匡人は、固定されていない椅子を揺り動かして倒れ込む。

 この、同時に起こった二人の「勝手な行い」に対して、螺湾は宣言おどし通りナイフを突き刺せたか――否、そんな芸当は出来なかった。廻転しながら迫りくる刃に彼の身は竦み、倒れ込んだ椅子を盾とすべくしゃがみ込んでしまった。

 直後、頭上を通り越して行った手斧フランキスカを、螺湾は目で追う。無事にやり過ごせた事に緩慢な安堵を覚えるが、すぐに本能の警鈴が鳴り響く。今の攻撃が、元より的中させる事だけを目的としたものではないと気が付いたのだ。

 だが、“二手”、遅れを取った彼の眼前には、既に、薄ら寒い光を右手に集めた神辺が迫っていた。投光器に照らされて、なおも確かな存在感を放つ仄かな光。それが能力を発現させる前兆である事など、匡人の口から聞くまでもなく灼然しゃくぜんとしていた。


「馬鹿ッ! 體化たいかさせるなッ――!」


 取り繕うヒマもなく焦燥をむき出しにした螺湾は、半ば反射的に右脚を床に叩きつけ、床のタイルを踏み抜いた。


 事が起こる直前に生まれた、嵐の前の空白の時間。

 そんな中で、神辺は「彼の焦燥に満ちた表情は初めてだな」と何処か他人事の様に思った。何故か、その表情が網膜の奥の所に焼き付いてしまって、気になって、気になって――


 空気が、空間が、世界が、神辺梵天王かんなべ ブラフマーの右手を起点に――膨張した。

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