1-2-3 トリヴィアル・アクト / 致命的擦過傷 その2



 一方その頃、MCG東京支部ビル十一階には、交渉部レッドチームの部屋に入室する灰崎炎燿はいざき えんようの姿があった。時刻は昼を大幅に過ぎている。一般社会に照らし合わせてみれば大遅刻だが、それを咎める者は存在しない。

 着崩したMCG制服から真赤なTシャツをさらけ出し、寝癖をそのままにした頭を軽く掻いていた彼の手が、ふと止まる。その鬱陶しげに緩んだ視線の先には、窓際にもたれ掛かった天海の分体が、皮肉げな笑みを湛えて待ち構えていた。


「随分な重役出勤だな、灰崎炎燿」

「……フン、赤色の交渉部に『出勤』の義務はない筈だろ? 来てるだけでも有り難いと思いやがれ」


 言外に「六道の様にふらふらしていないだけましだ」とそう訴える灰崎。それに加え、「どうせ居場所は筒抜けなのだろう?」という当て付けもあった。

 灰崎は、パイプ椅子の上に置かれていた漫画雑誌を手に取り、適当なページを開きつつ尻を椅子に預ける。体格の良い灰崎の体重を受け止めた椅子の悲鳴に、天海の分体は顔をしかめた。


「そういえばよぉ、神辺は何処に居るんだ? 小便か? 匡人はどうだか知らねぇが、アイツは寝坊とかしねぇだろ」

「仕事だ、四藏匡人も共にな」

「仕事!? マジかよ……ってコトは俺以外の全員が? あ、六道が居たか。つーか、今まで仕事なんてそう無かっただろ。左遷のポジションじゃなかったのか?」

「今まではそうだ。だが、今後はそうも言っていられなくなってしまった。それだけの事」

「どういう意味だよ」


 灰崎の言葉は尤もであった。彼は、東京支部交渉部レッドチームのメンバーの中では、最も長い在籍期間を誇っている。だが、それでも仕事らしい仕事など数えるほどにしか経験していない。閑職、そう受け取ってしまうのも無理はない話であった。


「『次世代型変異』は、比較的若者に多くみられるからこそ『次世代型』の語を冠するのだ。この意味が分かるか?」


 もっとも、この呼称は時代遅れの産物だがな、と天海は心中で補足する。

 最近の研究によって、変異ジェネレイトを引き起こす因子は、紀元前、それこそ人間が火を発見する以前から、人の遺伝子DNAの中に潜伏していた事が判明した。それが、一体何の因果か、ここ十数年の間で一斉に変異を引き起こしている。そして、その原因についてはまるで判明していない。

 あまりの唐突さに『まるで、何かの驚異に備えるために』などと嘯く研究者も多数存在するほどだ。実際、“天に二つの別地球が投影される”という天変も起こってしまっている事もあり、この類の言説は一部研究者に根強い。

 ちなみに『まるで、何かの驚異に備えるために』の後ろには『神による祝福で――』、『人類種全体の自己深化アセンション・シフトの過程に生まれた副産物が――』、『環境適応進化により――』……と多岐に渡る文言が続くが、いずれも、まともな研究者の見解では妄想の域を出ない空言扱いである。


「昨今、変異者ジェネレイターの数は急激な増加傾向にある。データからみてもこれは間違いない。という事はだ、それに伴い【分類クラス・コード:RED】に属される危険人物も増えてゆくと予想される、又、能力の暴走などの事故も当然増えるだろう」

「ふ~ん……」

「検算によると、現行の人員では到底対応が追いつかないらしい。よって、これからはお前らの様な鼻つまみ者共にも常駐してもらう方針で上層部は意思を統一した」

「一般職員の増員は?」

「資金面の問題が依然として立ちはだかる。大規模な補充は難しい」

「なるほどね……」


 長期間、組織に属していると、その内情についても多少は詳しくなる。MCGが慢性的な資金不足に悩まされている事は、灰崎に取っても既知の事実であった。

 能力者ジェネレイターの異能が引き起こす現象は千差万別、その魔法にも似た力を利用すれば資金繰りなど容易に思えるかもしれない。だが、万能でありながら一個に強く依存し、ありとあらゆる経済基盤を破壊しかねない存在など、各国為政者にとって目の上の単瘤たんこぶでしかないのだ。

 変異者ジェネレイターは、欲と利の天秤にかけられる事となり、うんざりするほどの牽制合戦の挙げ句、今の様に特別管理下で飼い殺しにする選択がなされたのだ。(もちろん、隠れて異能を利用する国が存在しないとは言い切れないが)

 そういう経緯もあり、“収入”に乏しいMCG機関は資金の確保に難儀していた。


「面倒くせぇが……留意しとくぜ」

「どうした? 随分と物分りが良いじゃないか」

「いや、拒否権なんてねぇだろ」

「その調子で外国人に対する偏見も、綺麗瀟洒きれいさっぱり忘れてくれると嬉しいんだがな……」

「……」


 強情な奴だ、と天海は心中に憐れみを抱く。その反応こそ、灰崎が天海を嫌うもっとも大きな要因であるのだが、天海は死ぬまで気付かないだろう。


「それで、話は終わりか?」

「ああ、それと――岸刃蔵きし じんぞうが仕事を終えた。数日の休暇を経た後に戻るだろう」

「……あのジジイ、帰ってくんのかよ……」


 さっさと話を打ち切りたがる灰崎に、天海はもうひとつの本題を告げる。すると、灰崎の顔は嫌忌の色に染まった。灰崎炎燿と岸刃蔵の仲はけして良好とは言えない。灰崎は心中に澄まし顔の老人を思い描き、身の毛もよだつ悪寒に襲われた。


「だが、香椎康かじ やすしの方はさっぱりだ、あいつはどうもやる気に欠ける。以上だ。常駐の件、他への伝達はお前に任せたぞ」

「ん、あァ!? おい……!」


 岸刃蔵きし じんぞうが帰ってくるという凶事に気を取られていた灰崎は、天海が適当に仕事を押し付けてきた事に反応が遅れてしまった。結果、灰崎の呼び止めは誰も居ない空間に虚しく響き渡る。

 呆れと共に放り投げられた漫画雑誌が、宙を舞い、落ちる。

 全身を満たす倦怠感を隠す所無く表明した灰崎は、深いため息を付いた。



    *



「匡人さ~ん、すみません、予想以上に時間をかけてしまって――」

「――それじゃあ僕はこの辺で失礼します。お連れの方も戻ってきた様ですし、別のお客様の予約も入っていますので」

「はい! ありがとうございました! お世話になりました!」

「いえいえ」


 俺は自分が恥ずかしい!

 法大さん、なんて『良い人』なんだ。ここまで『人類に滅私奉公できる人』が、これまでに一人だって居ただろうか? いや居ない! こんな人に俺は「詐欺師」だの「ポン引き」だの言っていたのか。反省せねば。やはり、人を見た目で判断してはイケナイのだと改めて理解した。神辺さんは見た目どおりに変人ぽいが、それはともかく、法大さんの『懐の深さ』と『善性』には尊敬の念を禁じ得ない。正に『人類への愛に満ち溢れた』おひとだ。

 俺の心中に蟠っていたモヤモヤも、法大さんに聞いてもらった事で、きれいさっぱり……とはいかなくとも、ある程度軽減され、幾らか晴れやかな空模様だ。

 それこそ――今日の天気のように『晴れ』渡っている。


「四藏さんは暫くこの街付近でのお仕事なんですよね。なら、何か困った事があったら不仲屋に来て下さい。『必ず、助けになりますよ』」

「何から何まで……ありがとうございます!」

「ははは、では」


 俺が恐縮して深々と頭を下げると、法大さんは『慈愛』に満ちた笑みで以て頷いてから、商店街の向こう側へ去る。その背に、初対面時の胡散臭さは残っていない。少しだけだ。――今! 感じるのは『働く男の雄大さ』のみである。

 最初は、その場に立って見送っていたが、すぐに居ても立っても居られなくなり、法大さんが振り向く事は無いと知りつつ思い切り手を降った。

 やがて、その背も人並みに遮られ、舞い上がっていた気持ちも落ち着いてくる。すると、そこでようやく、怪訝な面持ちの神辺さんが冷めたタイヤキを片手に持って、何時の間にか俺の隣に立っていた事を知った。


「あの……匡人さん、今のは?」

「あの人は――法大さんです!」

「法大?」


 言葉で説明するより手っ取り早いだろうと、俺は懐に仕舞っていた芍薬の香りを手渡した。すると、案の定というか、神辺さんは怪訝を更に色濃く表出させ、皿の上に乗ってしまった虫か毛髪を除く様に、名刺を突き返してくる。


螺子法大ねじ ほうだい……偽名では? それに不仲屋って、見た目もそうですが胡散臭いですねぇ……あむ」


 手に移った仄かな香りすら気に入らないのか、頻りに右手を振り、オーソドックスな見た目のタイヤキに齧りつきながら、名刺をそう品評する神辺さん。俺が抱いたのと寸分違わぬ感想に、意図せぬ笑みがこぼれてしまった。


「はははっ、見た目と名前の胡散臭さは神辺さんと“どっこい”ですね」

「んんっ! なんですとっ! げほっ、げほっ……」

「あ……大丈夫ですか?」


 嚥下中に、急に大声を上げたものだから、タイヤキが喉に詰まってしまったのだろう。水を差し出してやりたかったが、そんな物は手近になかったので諦め、苦しそうに咳き込む背中を擦ってやりながら、俺は法大さんについて話す事にした。


「いやぁ、けど、『良い人』でしたよ、法大さん。少し話をしただけですが、何て言うんでしょう、感銘を受けたというか……」

「な、名前呼び……!? 私はまだ苗字なのに……!」

「それ、気にする事ですか?」

「気にしますよ! ようやくのマトモな感じがする後輩ですし……」


 神辺さんは、眼を見開いて、揺れる金色の瞳でわかりやすい動揺を表現した。

 俺としても、神辺さんが強く望むなら別に名前呼びだってやぶさかではない。だが、もう少しマトモな名前でさえあれば、もっと気安く呼べただろうにと思ってしまうのは、失礼にあたるだろうか。

 彼女の名前は、少し……いや、些か……“神々し過ぎる”のだ。その心理的抵抗の所為でイマイチ呼びにくい。「梵天王」と書いて「ブラフマー」と読ませるとは、名付けた親御さんは気でも狂っていたのか? 街中で呼んだら恥ずかしいとか思わなかったのか? というか、よく役所が受理してくれたな。

 ……の話だが、ずっと「神辺さん」で通したいのが嘘偽り無い本音だ。しかし、それを面と向かって言うほど俺は人付き合いを知らない訳じゃない。


「これから、少しづつ仲良くなっていけば良いじゃないですか」

「そう……ですね。名誉挽回のチャンスはまだある……と、それより言い忘れていましたが、MCGの職員には守秘義務が課せられています。もし、何か漏らしてしまったのであれば、記憶処理を要請できますが……どうします?」

「いえ、そこのあたりは詳しく話していませんし、大丈夫だと思います」

「それなら安心です、ね……う~ん、やっておいた方が良い様な気が……」


 神辺さんは「う~ん、う~ん」と頻りに唸りながら、法大さんが去って行った方角を睨む。確かに、法大さんの見た目は神辺さんと同じぐらい胡散臭いが、そこまで執心する事だろうか。……共感シンパシー


「神辺さん、どうしたんです? やけに訝しげですね」

真理ガイアが私に囁いているのです。彼は危険だ――とね」

「はぁ……?」


 神辺さんの方がよっぽど危険人物に見えますけど……と、思ったが俺は言わなかった。どうも、俺は今日の仕事を通して「口をつぐむ」という事を覚えたらしい。それも、もはや熟練の域といっても過言ではない。いやはや、教師が良かった。


「……考えても仕方ないですか。それでは、休憩も終わりにして“聞き込み”を続けましょう」

「はい」


 なおも怪訝な面持ちを崩さずにいた神辺さんだったが、ひとまず、思考は後回しにするらしい。残りのタイヤキを口に詰め込んで、また漠然とした方角へと歩き出す。追って、俺は跳ねる頭巾を黙々と見つめる作業に戻った。

 以降、何故だか大いに張り切った様子の神辺さんは、通行人みちゆくひとすべてに話しかけ始めた。「最近、なにか変わった出来事に遭遇しませんでしたか?」と。多分、大体の人にとってのそれは「道端でいきなりシスターのコスプレをした人に話しかけられた事」になりそうだが。

 しかし、掛けた時間と熱意に対して進展は得られない。あぐねを通り越し、悟りの境地に踏み入り始めた俺は、とうとう神辺さんに尋ねてみる事にした。


「あの、神辺さん、変異者ジェネレイターって聞き込みで見つけられるものなんですか?」

「ふむ……。確かにその疑問は最もですね。我々レッドチームに限らず、交渉部の仕事は全て感応波の検知に端を発します。つまり、随意不随意に関わらず異能は発現している訳です」


 歩みを継続しながら、神辺さんは疑問に答えてくれた。

 感応波……確か、紙資料の二枚目にそんな単語があった筈。文脈から判断するに、能力を使用すると出る“何か”を指すのだろうか? それについて、神辺さんは詳しく言及せず、更に説明を続ける。


「異能の引き起こす現象は千差万別ですが、人智を超えた力という一点で共通しています。そして、異能を悪用するREDかYELLOWでもなければ、私どもに回ってはこない。ならば、この近辺で起こった不可思議な現象を追えば、自然と変異者ジェネレイターに辿り着く……という寸法です」

「はあ、随分と非効率的ですね。マニュアルとか無いんですか?」

「さあ」

「さあって……」


 もう少し話を聞いてみると、俺が前に考えた「別で動いている人員」や「天海の分体による捜査」は存在しない可能性が高くなってきた。レッドチームに割り振られた時点で、青と黄の交渉部はすっぱり手を引いて、全く関わらないらしい。

 曰く、レッドチームに回される仕事には、事務が持ってくる案件と、情報部から回ってくる案件と、天海が押し付けてくる案件とがあり、それぞれ情報量に差が見られる。特に、天海が押し付けてくる案件は人を小馬鹿にした内容が多い為、神辺さんは最初から資料を閲覧しない主義らしい。


「まぁ、あまり深く考えないほうが良いのでは? 羽を伸ばすと思ってゆっくり探せばいいでしょう。それに、天海ごときに頭を悩ますなんて時間のムダです。癪です」

「はあ、そうですか……。灰崎さんとか、他の人とかもこうやって見つけてるんです?」

「それも知りません。他の連中との関わり合いは薄いのです。馬が合わないので」


 交渉部レッドチームの話題は気に障ったのか、神辺さんはピリピリした雰囲気を纏って脚を早める。灰崎さんとは結構仲が良さそうに見えたが、しかし、気に食わないと言うなら無理に話題には出さない。

 その後も通行人に対して似たような問答を繰り返し、どんな空振りの返答パターンにも既視感を感じる様になった頃、神辺さんの歩みに追随するばかりであった俺の脚が、ピタリと止まった。


「すっかり、日も暮れてきましたね――と、匡人さん、どうしました?」


 異変に気付いた神辺さんが、不思議そうな顔をして此方を振り向く。

 だが、自分でも、何が気になったのか分からない。

 唯、無性に、心を掻きむしられる様な錯覚に襲われ、無意識の内に足を止めてしまったのだ。背の高い垣根に囲まれた公園の、海底より青いベンチにうなだれて、頻りに袖で顔を拭っている、制服を着た……中学生だろうか、そのぐらいの年頃にみえる少女が、どうにも気になって仕方がなかった。

 数秒ほど、その女子生徒を見詰めていたが、訝しげな面持ちで歩み寄ってきた神辺さんに応対する為、視線を打ち切る。


「いえ……大した事ではない、とは思うのですが……泣いている子供が居たんです。中学生ぐらいの体躯で、どこかの制服を着た……」

「子供? 何処ですか?」

「そこの垣根の向こうにある公園です」


 垣根が神辺さんの身長より高かった所為で、彼女には見えなかったのだろう。

 神辺さんは、俺が指で示した方角を見ながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。すると、ようやく確認できたのか「コレはいけませんね……!」と迫真の表情で呟いた。かと思うと、突如として走り出す。


「あ、ちょっと……!」


 野生のイノシシの様な勢いで、公園の入口に突っ込んで行く神辺さんを慌てて追いかけるが、俺が入口に差し掛かる頃には、彼女は既に女子生徒の前へと滑り込んでいた。


「こんにちは、何か困り事ですか?」


 一瞬で取り繕われた優しげな呼びかけに反応して、地面にめり込んでいた女子生徒の視線が跳ね上がり、身体をかがめて覗き込んでいた神辺さんの糸目と交錯した。


「えっ……コスプレ……?」

「本職です! 本物です!」


 嘘はついてない。但し、カルト宗教の本職さんだが。

 神辺さんは同意も取らずに女子生徒の隣へ座り、頻りに身を寄せる。尋常じゃない距離の詰め方だ。

 ここで、遅れて追いついた俺も参加した方が良いのかと悩んだが、神辺さんは「まぁ、見ててくれ」と言わんばかりに、対面に少し離れて設置されていた同型のベンチを指したので、素直にそこに座って傍観する事にした。

 まぁ、俺が手伝ったとして、何の慰めも出来ないだろう。


「何なん……あれですか、弱ってるところに付け入るとか言う……勧誘とか……マジ無理なんで……怖いんで……」

「違います~! 良いですか、泣く子を放って置く聖職者は居ません。さぁ、話してみて下さい! 基督キリスト教の告解に見られる様に、話すだけで楽になる心もありましょう」

「うさんくさ~……ふふっ……」


 女子生徒が軽い笑みを漏らすと、神辺さんも合わせて破顔した。その朗らかな顔は、知らずに見れば敬虔な聖職者シスターの模範に見えなくもない。

 こうやって取り入るのか。

 背筋が凍る思いだな。

 重ね重ね、神辺さんが幾つかの言葉を投げかけると、それだけで女子生徒の警戒心は完全にほどけてしまったようで、ポツポツと事情を語りだした。


「私……付き合ってる彼氏がいるんだけど……それが……急に……!」


 だが、すぐに涙がぶり返して来て、言葉は途切れてしまう。そこへ、神辺さんはすかさずハンカチを差し出し、ボディタッチも絡めて慰めにかかる。それだけで、女子生徒の心がぐっと神辺さんに近づくのがわかった。

 そして、女子生徒は差し出されるままにハンカチを手にとって――


「ズズー!」


 鼻を噛んだ。


「ちょっ、鼻は……ティッシュで……」


 こなれた手練手管で女子生徒をコントロールしてきた神辺さんも、これには堪えた様子だ。金色の瞳が、役目を果たせなかったポケットティッシュと、鼻水に塗れてゆくハンカチの間を反復横跳びしている。

 女子生徒の方はというと、鼻を噛んで幾らか気が落ち着いた様で「ありがとっ」と短い礼を言いながらハンカチを投げ返し、トーンを下げて続きを話し始めた。


「急に……急に……」

「……急に、どうしたんです?」

「『お前、浮気しただろ!』って、彼氏が急に怒り出して、してないって言ってるのに……言っても言っても……うぅっ……」

「ふ~む、なるほど……?」


 女子生徒は懐から携帯を取り出して、神辺さんに画面の一部を示した。恐らく、そこに例のやり取りが映し出されているのだろう。

 どうやら、悩みは痴情のもつれらしいが、女子生徒は自分の潔白を全く疑っていない様子だ。何か、彼氏が誤解する様な事でもあったのだろうか……例えば、横恋慕さんの『入れ知恵』とか?

 やり取りを把握し終えたのだろう、携帯を女子生徒に返した神辺さんは、くっつけていた身体も一緒に離して勘案顔で首をひねる。その真剣な表情と眼差しは、正しく人格者のそれに見えなくもない。今まで、心中でとやかく言っていた事に罪悪感を覚えるほど、まっすぐだ。

 ……やっぱり、根はまともなのかもしれない。腐っても聖職者だし。


「事情は分かりました。取り敢えず、そんな奴は一発ぶん殴ってやりましょう!」

「……えっ?」

「悪霊です! 悪霊が取り憑いているのです!」


 違った、腐り切ってたみたい。マトモじゃないや。

 突然の豹変に目を丸くする女子生徒。その眼前に、神辺さんは懐から取り出した一挺いっちょうかなづちを掲げた。鉄製に見える頭と木製に見える持手もちては、ホームセンターで陳列されている様な市販品のそれと相違ない。唯一の違いといえば、全体がボディビルダーの筋肉並にテカってる事ぐらいだ。


「悪霊ははらわなければなりません! そこで登場! 此処に御座いますは霊験灼然れいげんいやちこなる聖膏塗布サクラメント戦鎚ウォーハンマー! 光属性! お清め済みなので大丈夫!」


 何が大丈夫なのかは分からないが、まさか、神辺さんの頭の事を言ってはいないだろう。


「是非、この機会にお一ついかが!?」


 神辺さんは、普段の糸の様に細い眼をこれでもかとかっ開いて問い掛けた。そして、何処と無く楽しそうにすら見える表情で、あっけに取られた様な表情の女子生徒としばし見つめ合う。


「……ふふっ、あははははは!」


 先に沈黙を破ったのは、女子生徒の笑い声だった。神辺さんの突飛な言動が変なツボにでもハマったのか、ベンチの上で腹を抱えてうずくまる。その目に浮かぶ涙は、もはや悲しみとは無縁の物だ。

 神辺さんは、そんな彼女を見詰めながら、朗らかに、まるで本当の聖職者の様に微笑む。


「悩みは……吹っ切れました?」


 その温かい問い掛けに答えるため、女子生徒はどうにかこうにか笑いをおさめ、目元を拭いながら身を起こした。


「ははっ、はぁ~……はい、何か悩んでるのが馬鹿らしくなって来ちゃいました。さすがに殴りはしませんけど……もう一回、彼と話してみます。今度は直接」

「そうですか! ……この戦鎚ウォーハンマーは……?」

「じゃあ~、そこまで言うなら貰ってお守りにでもします!」

「あっ……三千円になります」


 やけに押すと思ったら……お金とるんだ。

 もう、突っ込みきれないぞ。


「ぷっ……あっははは! コスプレイヤーのお姉さん! 今日はありがとうございました! ちょっと話しただけだったけど、結構、心が軽くなりましたよ!」

「コ、コスプレイヤー?」


 俺には全く冗談の雰囲気に見えなかったが、女子生徒は冗談だと受け取った様だ。「ホントにシスターの才能あるかもですよ! では、お元気で!」と、先程とは打って変わって溌剌とした笑みの女子生徒は、脱兎の如く何処かへと走り去っていった。その胸元に、光属性らしい戦鎚ウォーハンマーを大事そうに抱えて。


「え、いや、お代……」


 戦鎚ウォーハンマーを保持していた神辺さんの手が、あてどなく虚空を彷徨い円を描く。これには俺も苦笑しつつ、追ってベンチを立ち上がる。

 その間抜けな顔……到底、何人も殺してきたなんて信じられないな。そんな理由で笑ってしまうのは死者に対して不謹慎かもしれないが、肺腑をせせかむ横隔膜の痙攣は、容易には抑えきれそうになかった。


「あはは、まぁ良いじゃないですかそれぐらい。何なら俺が払いますよ?」

「へ? 確かにあれは支給品ではなく自腹で買ったので、薄給の身にはちょっぴり痛いですが……それには及びませんよ。しかし、意外です。匡人さんがそういう申し出をしてくるなんて。いや、変な意味ではないのですが、昨日は「守銭奴の気がある」と御自身で言ってらしたので……」

「いえ、俺は……。「人一人を元気づけられたのなら安いもんでしょう?」って『法大さんならそう言うかな』と」

「むむ……! それでは、ますます受け取れませんね!」


 ベンチから立ち上がり、くるり、と身を反転させた神辺さんは「これでも先輩ポイントは稼げませんでしたか……! 法大とやらは強敵ですね……!」とかブツブツ言いながら、また歩みを先導しだした。

 俺は、そんな神辺さんに追随しながら、右手首に巻いている腕時計へ目を向ける。安っぽい赤いベルトが目に痛いそれは、現在の時刻が世間一般でいう定時前である事を教えてくれた。


「神辺さん、神辺さん、そろそろ日も傾いて来ましたけど……これからどうするんです?」

「あ、疲れちゃいましたか? 歩きっぱなしでしたからね……今日はここらで切り上げましょうか」

「ああ、いえ、あてもなく歩くのは慣れてます。そうじゃなくて、何時なんじまでやるものなのかな、と」

「う~ん……」


 すると、神辺さんは、難しそうに皺を寄せて口をひん曲げた。


「実を言うと、交渉部のレッドチームは、そもそも時間で拘束されていないので、好きに仕事を打ち切って休んでもOKなんですよ。規定では」

「そうなんですか?」

「はい、割と放任されているのです。加えて、普段は届け出を提出した場所での就寝を義務付けられていますが、仕事を割り振られた時はその限りではないのです。つまり、今日は経費で現地に宿を取っても良いですし、東京支部に帰って寝ても良いのです。レッドチームには、わざとゆっくり仕事をして現地でニ~三ヶ月もゆっくり寛ぐ阿呆が居ますが……。どうします? 流石にそんな長期間に渡って現地に留まるのは論外ですが、「東京支部に居づらい」という感情も理解できます。私は匡人さんの意見を尊重しますよ?」


 居づらい……か。

 俺は昨日の今日で仕事に出向いているから実感が無いが、やはり針の筵の様に感じるのだろうか。まぁ、やって来た事がやって来た事だけに、俺は他のMCG職員の対応がどんな物であろうと責められない。

 気になるのは、神辺さんの方こそどう思っているか、という事だ。神辺さんは再三再四に渡ってMCGに対する恨み節を漏らしている。これは「居辛い」と、そう感じている表れに取っていいものか。


「う~ん……」

「――悩む必要はないぞ、四藏匡人よつくら まさと

「えっ」


 悩む思考を唐突に醒ます中性的な声音。振り向くと、この数日ですっかり目に焼き付き始めた水色――MCG制服を着た天海の分体が居た。その唐突な登場の仕方にも慣れ、もはや驚きは少ない。


「天海、一体何の様です?」

「今、話していただろう、宿の件だ」


 唐突にあらわれた分体に対し、神辺さんが鋭い怒気を滲ませる。こういう態度を見ていると、MCGというより天海に対する恨みにも思えるな……。

 しかし、何時もなら、この後にもう少しゆっくりと言葉をかわす天海なのだが、今日の分体は焦燥を滲ませつつ早口で要件を述べ始めた。


「宿は、既にこちらで手配している」

「……ありがとうございます?」

「感謝する必要はない。暫くは東京支部に帰ってこないでくれ。頼むから、一、二日ぐらいはここに留まっていてくれよ」


 宿の詳細はタブレットに送った情報を見ろ、と言い残し、天海の分体は速やかに公園のアスファルト舗装に溶けた。

 思わず、気の抜けた表情の神辺さんと顔を見合わせる。たぶん、俺も同じ様な顔をしているだろうなと思えるほど、電光石火の会話だった。流石の神辺さんも怒気を引っ込めて「東京支部で何か問題でもあったのでしょうか」と憂いを漏らす。


「と、取り敢えず……匡人さん、天海が送ったという宿の情報でも見ましょうか」

「は、はい。そうですね」


 情報を確認すべく支給品タブレットを取り出すと、神辺さんがささっと隣に身を寄せて手元を覗き込んで来た。驚いて視線を上げると、俺の視線を受けた神辺さんが恥ずかしそうに身を捩る。


「実は……私、支給品のタブレットを持っていないんです。取り上げられちゃって……」

「え、そうなんですか? それは、どうして……?」

「えへへ……いや、不運に不運が重なりまして……いや~、へへ……」


 ……神辺さんは「どうせ、大した情報もないから自らの意思で見ないんだ」と複数回に渡って主張していたが、もしかして「単に見れないだけなんじゃ?」

 ……。

 そんな言葉を、今日一日で培った会話術を以て飲み込み、後で改めて灰崎さんにでも聞こうと、心のメモに書き留めて置く俺だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る