魔王と姫君

なおさん

第1話 魔王と姫君

 やわらかな陽の光が窓から射し込み、真っ白なマクラメレースのカーテンを通り抜けて天蓋付のベッドを優しく包む。

 天蓋とベッドを覆うカバーは、シンプルで飾り気のないライトブラウンのビロードで出来ており、天蓋は、四隅の支柱に黒いシルクのリボンでゆったりと畳まれている。

 ふぅ、と溜息が聞こえ、規則正しく上下していた布団の動きが止まった。

布団の中の人物が、顔にあたる陽の光を避け、もう一度夜へ逃げ込もうとするかのように、寝返りをうってベッドを軋ませた。

「失礼いたします」

軽やかなノックに続いて両開きの樫でできた扉が開けられた。

使い込まれ渋みの出た分厚い扉は軋みながら開き、茶器の触れ合う音と共に、煎った豆を煮出した茶の香ばしい香りが部屋へと広がる。

「おはようございます。ヴェルガー様」

 白い物の混じった髪を結い上げ、フレームの無い眼鏡をかけたキツイ顔立ちをした初老のメイドが、茶器を乗せた盆を手に部屋へと入ってきた。

 メイドはベッドを見ると溜息をつき、盆をテーブルへ置いてから窓辺へ向う。

「昨夜も遅くまで本をお読みになられていたのですか?」

 眉根を寄せながらカーテンを引き、窓を開け放った。

まだ冷たい朝の風と、一日の始まりを歌う鳥のさえずりが部屋の中へ流れ込む。

「ん……。あぁ、おはようメイヤー。思いがけず手に入った本なのだが、これが面白くてね。すっかり夢中になってしまったよ」

 ヴェルガーと呼ばれた人物は、ベッドで上半身を起こしながら大きく伸びをした。

 人物と言っても彼は人間ではなく、魔神をはるかに上回る力を持った魔王とでも言うべき存在だった。別に彼が望んで魔王になったわけではないのだが、彼の父もその父もそのまた父も魔王で、つまりはそういう家系なのだ。

 彼は虎と人を合わせたような姿をしていた。

頭は虎、身体は人。身長は二百五十センチ程もあるだろうか。骨太な身体は分厚い筋肉に包まれ、さらにその上から黒い縞の入った金色の体毛が全身を覆い、顎から喉元、胸、腹にかけては雪原のように真白な毛色になっていた。

ただ、頭部は虎と言っても似ているというだけで、額の少し上には小さく滑らかな角が生えているし、両耳の後ろ側の頭部からは、羊のモノのようにうねった大型の角が耳を回りこみながら前方に突き出していて、それら三本の角は頂点の延長線上で交わるようになっていた。

 「あまり夜更かしをされてはお身体に障ります。気をつけていただきませんと」

 初老のメイドは眉をひそめながらベッド脇のテーブルへ移した茶器を操り、カップへと濃い琥珀色の液体を注いでいく。

「気をつけよう」

 ヴェルガーはバツの悪そうな表情で耳を掻くと、メイドの差し出したカップを受け取り、立ち上る湯気へ顔を近づけた。

「んー……。いい香りだ」

「朝食はどうなさいますか?」

 眼を細め香りを楽しむヴェルガーを見ながら、メイドは盆を小脇に抱え畏まる。

「いつものように、皆と食べるよ」

 ヴェルガーは茶へ息を吹きかけつつ答えた。

「熱かったでしょうか?」

 茶を冷まそうと悪戦苦闘している猫舌の魔王を見て、メイドは申し訳ないような、それでいて微笑ましいような表情を浮かべる。

「少し。だが、温いと香りが出ないからな。私の舌に合わせたら香りが楽しめん」

「では、食事の用意が整いましたらお呼びいたします」

 苦笑しつつカップから顔を上げるヴェルガーに微笑むと、メイドは一礼して退室していった。


 半時ほどが過ぎただろうか、身支度を整え、出窓に並んでいる植木鉢の様子を伺っていると、ノックも無しに美女が部屋へ飛び込んできた。

 そう、文字通り飛んで。ヴェルガーの使い魔である彼女は、背中にコウモリを思わせる黒い翼をはやし、グラマラスな身体を僅かな布切れで申し訳程度に包んでいた。短い艶やかな黒髪と、ルビーを思わせる赤い瞳が見る者に忘れられない印象を焼き付ける、まぎれもない美女だ。

ただし、彼女の大きさは普通の人間の1/6程度しかないのだが。

「おはよう、ヴェルガー様!」

 彼女は矢尻状の先端をした細長い尻尾を引くように飛び、ヴェルガーの肩にとまると首にしがみついた。

「まだ咲かないの?」

「おはよう、イシュチェル。もう少しで咲きそうだ。三日か四日後には咲くだろう」

 白い蕾のついた鉢植えを手に眺めていた魔王は、それをそっと窓辺に置き、

「ところで、私を呼びに来たのではないのか?」

と、指先で彼女の黒髪を撫でる。

「あ!そうそう。朝食だよ。でもまたいつものヤツ」

 イシュチェルは鼻をつまみ舌を出しながら吐くようなジェスチャーをして笑った。

「あれか……。メイヤー女史はこっているようだからな。しばらくは我慢することになるだろう」

 苦笑し喉の奥から唸りを漏らす。

「残すとうるさいしね」

 イシュチェルはヴェルガーの肩から飛び立つと、先導しつつ初老のメイドの真似をしておどけてみせた。

 

 食事はいつも、調理室の隅に設けられているテーブルで摂っていた。住人が少ないので、大仰な食堂で腹を満たすよりも都合が良いのだ。

 テーブルには既に食事が皿に盛られ並べられていて、食欲をかきたてる香りと共に湯気を立ち上らせていた。

 鳥と野菜の具沢山スープ。焼きたてのパン。カリカリに焼いたベーコンと半熟の目玉焼き。削ったチーズを振り掛け、クルトンを混ぜた生野菜のサラダ。そしてライス党のヴェルガー用に白いご飯。その中に一際異彩を放つ食品が小鉢に盛られ、各席へ用意してあった。

 納豆。この恐るべき臭いと見た目の食品は、「大豆を発酵させた代物で大変身体に良い」とメイドのメイヤーが街で聞き、仕入れてきたものだ。もっとも、最初は嫌悪を持って迎えられた納豆だが、「食べてみると悪くない」との感想が多く、住人5人の屋敷内で納豆を苦手なのはヴェルガーと使い間のイシュチェル2人だけになってしまった。

 ヴェルガー達が調理室兼食堂へ入るのとほぼ同時に、他の使用人達も入ってきた。

 挨拶をすませ席に着く。最後にメイドがお茶の入ったポットを持って席につくと、皆和やかに朝食を摂り始める。

 使用人たちが各々調味料を加え納豆を食べている頃、魔王と使い間は強敵に苦戦していた。イシュチェルの身体の大きさから、納豆は細かくひきわりにされているのだが、そのせいで臭いが強烈になってしまい、二人は鼻に皺を寄せていた。特にヴェルガーにはきついらしく、金色の瞳が涙で潤み目を瞬かせていた。

「お二人とも、納豆はけして美味しいとは申しませんが、良薬口に苦しの言葉通り身体によいものです。きちんと食べてくださいませ」

 メイドは二人を見て目を光らせる。

「はい」

 二人は情けない声をハモらせ、ヴェルガーは一飲みにした後ご飯を掻きこみ、イシュチェルは一粒ずつチビチビと口にしてなんとかやっつけることに成功した。

「東方の食品だというが、最初に口にした者は勇気があるな。腐った豆を食べるとは……」

「発酵です」

 涙目のヴェルガーへメイドが突っ込みを入れる。

 と、調理室の台に置いてあるベルが鳴った。

半裸のニンフが鈴蘭を模ったベルを持っている像は、一定の間隔でベルを鳴らし続ける。

「召喚?」

 皆が顔を見合す中、イシュチェルが口を何度も拭っているヴェルガーへ尋ねた。

「あぁ。久しく呼ばれてないが、召喚されるらしいな。準備せねば。メイヤー、頼む」

 別室でメイドと使い間に手伝われ、禍々しい装飾の施された部分鎧やアクセサリーに着替えると、大きな姿見に自分を映し、声色を変えながらポーズをとるヴェルガー。 

「人の分際で愚かしくも我を召喚するとは身の程を知らぬやつ。我に姿を見られたお前の魂は、すでに我が物と知るがよい」

 地獄から響いてくるような低音を作り、それらしいポーズをとりつつ、使い魔とメイドへ視線を送る。

「うん。良い感じ」

「何も知らぬ者なら受け答えすら難しいでしょう」

 二人が頷くのを見てヴェルガーは満足げに微笑んだ。

「長いこと召喚などされなかったが、まだ私の名が記されている書物が残っているらしい。魔王なぞいくらでもいるだろうに、私を呼ぶとは珍しいことだ」

「確か、私が少女だった頃に召喚されたのが最後だったかと存じます」

 メイドはマントを渡しながら少し考えて言った。

「そんなになるのか。この若さで引退かと思っていたよ」

 ヴェルガーは大きな牙をむき出しにして微笑むが、すぐに顔を曇らせ、眉を寄せる。

「蕾が開くまでに戻れればよいのだが」

「鉢植えは私とメイヤーで見とくよ。変化あったら知らせるから」

「そうか、たのむ。それでは行ってくる」

 ヴェルガーから離れ、手を振り頭を下げる二人に微笑むと、ヴェルガーの全身を発光する球状の積層型魔方陣が取り囲み、一瞬の後に彼の姿ごと消失する。


「これでいいのかしら……」

城内の片隅にある、今は使われないガラクタ等が置かれた蔵の中で、少女は古い本と格闘していた。表紙は失われ、本というよりも虫に喰われた黄ばんだ紙の束と化したそれには、ナメクジの這った跡のような稚拙な文字が印刷されている。

少女は締め切られた蔵の中で這い蹲り、蝋燭の明かりを頼りに、本に書いてある魔方陣を床一面に描き終わったところだった。

深く息を吐くと立ち上がり、筆代わりに使っていた木炭をガラクタの上へ置く。

蝋燭の明かりに照らされた少女は十三歳。誕生日を迎えたばかりだ。柔らかな頬にぷっくりと膨らんだ桜色の唇。大きく切れ長の眼は深い海のように青い。淡い蜂蜜色の髪が緩やかにウェーブを描いて腰まで伸び、後れ毛が汗で首筋や額に張り付いて、少女とは思えない色気を放っている。頭には小さな銀の冠がのっているが、彼女の輝く髪の美しさに比べれば、髪留め程度の価値しかないように感じられた。

 白地に黒で装飾されたドレスは、蔵の埃と木炭の煤で薄汚れてしまっているが、少女はそれを気にするでもなく、本を片手に描き上げた魔方陣に間違いがないか、小首を傾げながら確認する。本人に深い意図はないだろうが、その仕草は可愛らしく、見ている者の心をくすぐる力があった。

「うん……。いいわ」

 テキパキと魔方陣の指定の場所へ蝋燭を立てていき火を灯す。明かりが増えたはずなのに、心なしか蔵の中に蟠っている闇の気配を感じ、少女はかすかに身震いした。

「上手くいく。大丈夫」

 自分に言い聞かせるように呟くと、胸元に下がっている聖印を握り締め深呼吸をする。  

 顔を上げ、太めだが形の良い眉をキリリと吊り上げると、

「ク・ラフタ・ウェル・ガーフ。我はマルルオーネ・フェルディナ・レムリアース!汝の力を欲するものなり!汝の主たるを望む者なり!爪牙持てし闇の王にして全てを引き裂く神の獣よ!力ある言葉に応え我が前に姿を現せ!」

と、一息に印を結び呪文を唱える。静寂が支配する蔵の中で、蝋燭の燃える音と、遠くで鳴いている鳩の声だけが妙に近く大きく感じられた。

 沈黙の中時間が流れた。

 再び呪文を唱えようとした矢先、風の動かない閉じられた蔵の中で蝋燭の炎が激しく揺らめいた。

 きた。そう感じた少女が息を飲み身体を強張らせると、周囲の空気が振動を始める。地震ではない証拠に地鳴りはしない。空気に緊張が走り、重くねっとりとした物に変わっていく。

 少女の鼓動が早まり口の中が乾いた。無意識のうちに後ずさり足元の燭台を倒すが、既に全ての蝋燭は消え去り、発光を始めた魔方陣が部屋を照らす。

 空気の震えは徐々に強いものとなり、耳鳴りが少女の愛らしい耳を襲った。

 顔をしかめ、両手で耳を塞ぎしゃがみ込むが痛みは治まらず、きつく閉じられた瞳からは涙が溢れ出す。

 うずくまり震える少女の前で空間が歪んだ。まるで出来の悪い鏡に映った世界のようになり縦に亀裂が走る。その瞬間、ガラスが砕け散るような音と共に空間が割れ裂け、闇が噴出した。

「う……ぁ……」

 空気の震えが止まると共に耳鳴りもやみ、息を荒げながら身体を起こす少女の目に、闇が大きな人型を作り出すのが映る。

 人型の胸の部分、心臓の場所にあたる所に球状の小さな積層型魔方陣が形成され赤く明滅する。闇の固まりは徐々にはっきりとした姿へと変わっていった。

「我が名はヴェルガリオン。爪牙持つ闇の獣なり。貴様が召喚者か、小娘」

 闇は消え、代わりに虎のような頭を持った巨大な魔神が立っていた。金色の瞳に闇の炎を宿し、鋭い牙が見え隠れするアギトから瘴気を放つ魔王は、目を見開き、しゃがみ込んだまま震えている少女を睨み付けた。

「どうした。貴様が召喚者ではないのか?」

 見下ろし、睨み付けたまま少女へ踏み出す。

魔王の足の下敷きになった燭台が軋みながら踏み潰された。

少女は自分で魔王を呼び出したとは言え、あまりの恐怖に現実から目を背けてしまっていた。どこか非現実的な感覚。自分の呼吸音しか耳には届かず、こうして怯える自分の姿を上空から見下ろし、まるで戯曲を見ているような気分だった。だが、踏み潰された燭台の軋む音が少女を現実へ引き戻した。

 急激に世界に音が満ち、上空を漂い他人事のように感じていた自分が身体へ引き戻される。緊張で流れた汗は引いてしまったが、濡れたままの下着が肌に張り付いて不快感をもたらした。

「さ……下がれ!我は汝が名を知るものぞ!」

 乾いた唇を引き剥がし、震える声で叫びつつ、唇を噛み締めゆっくりと立ち上がる。

 魔王は震えながらも真っ向から見据えてくる少女を見つめ、目を細めると低く唸って後ずさった。

 いける。そう感じた少女は眼を合わせたまま一歩近づく。

「我と契約し我が願いを叶えよ。さすれば我が宝剣を授けよう」

 少女は腰に佩いている短剣を鞘ごと握り締め、魔王の前へ突き出した。

「宝剣だと?そんな物が引き換えになるとでも思っているのか?」

 魔王はくぐもった笑いを漏らしながら身体を屈め少女へ顔を近づける。

「なる!これは私が母の胎内に宿った時、名工の手により鍛えられ、生まれたその日に祝福され私に贈られた剣。分身たりえるはずだ!」

「ふふ、莫迦め!どこで仕入れた知識かは知らぬが、契約の代償となりえるのは召喚者自身か、最愛の者の肉体か魂だ!物などに代わりは務まらん」

 喰いつかんばかりに顔を近づけ大きく吠える。少女は跳ねるように身体を硬直させ、眼を見開いた。

「腐臭?……魔王の臭いなの……」

 身体を強張らせたまま、魅入られたように魔王のアギトを見つめる。

「こ、これは失礼!」

 魔王は慌てて口を両手で覆い、顔を逸らし呟いた。

「納豆か……」

 思わず呟く魔王。

「え?」

 魔王の豹変に状況を飲み込めない少女は、短剣を突き出したままの姿勢できょとんと魔王の顔を見つめ続ける。

「あ」

 素の自分を晒してしまったことに気がついた魔王はそのまま固まってしまった。動揺する心そのままに、激しく揺れ動く尻尾を除いて。

 

「演技?」

「うむ。私の家は代々魔力が強く、人間からは魔王と呼ばれていた。先代まではそれを当たり前と受け止め、そのように振舞ってきたのだ。領土も家臣もいないのに王というのもおかしな話だがね」

 苦笑しつつ少女に眼を向けた。瞳の中で燃えていた闇は消え去り、今は優しい光を湛えている。

「しかし、どうも私には魔王というのが性に合わないらしくてね。だが、私に求められている役割は魔王だ。それらしく振舞わねばならない」

「そんなのおかしいわ」

 不思議なものを見るように魔王を観察していた少女は眉根を寄せ口を尖らした。

「誰かが望むから、その誰かの印象に近づくように生きていくの?それじゃ本当の自分はどうなるの?」

「レディ、人には世界に与えられた役割というものがあるのだ。望むと望まざるとにかかわらず、責任を持って生まれてくるのだよ」

 少女だけでなく、自分に言い聞かせるかのように続ける。

「その責任が、私の場合魔王としての立ち居振る舞いだったという事だ。それに、この姿では魔王を辞めて商人や農夫になるわけにもいかないだろう」

 魔王は溜息をつき諧謔的な笑みを浮かべた。

「そんなの、私は納得しないわ」

「ヴェルガリオン」

「ヴェルガーで結構だ。親しい者はそう呼ぶ」

「わかったわ。魔王の秘密を知ってしまったんだものね。親しいに違いないわ」

 少女は悪戯っぽく微笑むと、ヴェルガーへ手を差し出す。

「私はマルルオーネ。マルルで結構よ。そう呼ぶことができるのは父と母だけなの」

「それは光栄だ」

 マルルの手をとると、そっと甲へキスをする。

「紳士なのね」

「そう努めている」

「マルルオーネということは、マルル、君はこの国の姫か」

「そうよ。これでもお姫様。そうは見えないかしら?」

 澄ました顔でドレスの裾を持ち上げる。

「君は立派なレディだ。ただ、多少お転婆なところがあるようだがね」

「父にもそう言われるわ」

 眼を細めるヴェルガーに微笑み返す。

「マルル、何故私を召喚したのだ。君のようなレディが魔王に用事があるとは思えないのだが」

 ヴェルガーの作り出した明かりに照らされた蔵の内部で、消えかけた魔方陣を挟んで座る二人。

「大ありだわ」

 マルルは可愛らしい頬を膨らますと不満げに鼻を鳴らした。

「私、結婚させられるの。正確に言うと婚約だけど」

「政略結婚か。それを邪魔しろと?」

「そうよ」

 ふむ。とヴェルガーは頷いた。

「一国の姫だ。聞かぬ話ではない」

「先ほど言ったように、それは生まれ持った責任というものだ。姫として生まれた君のな。国や民のためになるのだろう?」

「いーやっ!」

 握りこぶしを作り大きくかぶりを振る。

「私の人生は私のものよ。誰かのために自分の幸せを放棄するなんて絶対にいや!!」

「だがそれは我侭というものだ」

 諭すように優しく声をかける。

「そうかもしれない。でも、娘の身を売るような真似をしなければ国が存続できないのなら、強国に譲ってしまえばいいのよ」

「今時圧政を敷いて市井の人々を苦しめる支配階級なんていないわ。強い国に守られるなら戦の危険もないし、民衆もそのほうがいいんじゃない?ちがう?」

 マルルは立ち上がり、大仰に手を振りまくしたてた。

「なるほど。理屈ではあるな。だが両親や城に仕える者達はどうするつもりだ?」

 マルルは言葉を詰まらせ、拗ねたように自分のつま先を見つつ呟いた。

「王族は別にいいの。だって、自分達が王座にしがみ付くのは民衆のためではないと思うし」

 火の消えた蝋燭をつま先でそっと突く。

「でも、そうね。お城で働いている人たちは仕事をなくしちゃうのよね」

 俯いて唇を噛み締めるマルルの頬を、そっとヴェルガーの指が撫でた。暖かく柔らかな体毛を感じ、マルルは眼を細めた。

「ヴェルガー。あなた優しいのね。ほんと、魔王らしくないわ」

 ヴェルガーの指に手を添え、身体を預けるように頬をすり寄せる。

「ほんとはね、わかっているの。どんな事を言っても、それは我侭でしかないって。でもね、どうしようもない事ってあるじゃない?小さかった頃に聞かされた御伽話では、お姫様は好きな人と結婚できたわ。なのに現実はこれだもの。私だって人を好きになってみたい。恋をしてみたい……」

「……そういう年頃か。わかるよ。相手は好みの顔じゃなかったのか?」

 しだいに声が小さくなり、眼が潤み始めるマルルを見て、ヴェルガーはわざと明るくおどけた調子で声をかけた。

「前に一度離れたところから見たけど、ハンサムだと思うわ。隣国の国王の三男だそうよ」

「色男は嫌いか?」

ニヤリと口元をゆがませ、ヴェルガーは悪戯っぽくウィンクをした。

「好きよ。不細工よりかっこいいほうがいいもの」

 潤んだ瞳を拭いつつ、笑みを返す。

「それならいいじゃないか。相手を知れば好きになり恋をするかもしれない」

「無理ね。彼、自分では何も決められなかったわ。そのくせ家臣に対する接し方は傲慢だし。自分の持つ力は知っているけど、それに伴う責任の存在は知らない感じだった」

 ヴェルガーは身をかがめ、取り出したハンカチをマルルへ握らせる。

礼を言ったマルルは、はにかんだ笑みを浮かべて涙を拭いた。 

「なんでこんな話しているのかしら。まさか召喚した魔王相手に、身の上話をするなんて想像もしなかったわ」

 ヴェルガーが、屈んだままの姿勢で、マルルと目線の高さを合わせ微笑む。

「私が人と違う姿を持っているから、逆に話しやすかったのだろう。もし人間とまるきり同じ容姿なら話すことに抵抗が生まれていたかもしれない」

「そうかもしれないわね。でも、なんていうのか……。ヴェルガー、あなた温かいわ」

 ハンカチをヴェルガーに返し、小首を傾げるように瞳を覗き込む。

「そう言われたのは二回目だ。いや人間に言われたのは初めてだな」

「二回目?最初は誰が言ったの?」

「私の使い魔だ。君に勝るとも劣らないお転婆だよ」

「失礼しちゃうわ」

 頬を膨らませ不満げな表情を作るが、目は笑っている。

「それで」

 ヴェルガーは真顔に戻って続けた。

「私に婚約を邪魔して欲しいということだね?」

 金色の瞳を真っ直ぐにマルルへ向ける。

マルルの表情からも笑顔が消え、縋るような視線を送りつつ強く頷いた。

「ふむ。なら、こういう案はどうだ」

 薄暗い蔵の中で二人は額を寄せ、まるで秘密基地の中で悪戯を考える子供のように作戦を練り上げた。

「うん。いいわ」

 マルルは満足そうに頷く。

「でも誰かを殺したり、大怪我をさせてはダメよ」

 と、急いで付け加えた。

 マルルは気がつかなかったが、ヴェルガーが持ち出した案には、魔王を召喚するなどという無茶な行動をするマルルに、少しだけお灸をすえてやろうという思惑も含まれていた。

「それでは、契約の代償はどうする」

 頷きつつ立ち上がったヴェルガーの瞳が、猫科を思わせるように細くなった。

「宝剣ではダメなの?」

 眼で頷くヴェルガー。

「物は、それがどんなものであれ諦めがつく。喪失感は一時的なものに過ぎない」

 マルルは手を唇に押し当て俯く。桜の花びらのように瑞々しく、薄桃色をした唇が愛らしい。

 はっと彼女は顔を上げヴェルガーを見た。

「代償ではないけど、ヴェルガー、貴方に新しい生き方をあげる」

「いきかた?」

 眉をひそめ聞き返すヴェルガーに、マルルは少女特有の傲慢さで答える。

「そう。貴方に魔王以外の生き方をあげるわ」


「それで帰ってきたの?」

「うむ」

 屋敷内で魔王としての衣装を脱ぎ、ゆったりとソファーにもたれているヴェルガーを前にして顔を見合わせるイシュチェルとメイド。

「生き方って……なに?」

「私は魔王として振舞ってきた。だが性に合わないのは知っているな?」

 頷く使い魔と苦笑しつつ茶をカップに注ぐメイド。

「そんな私に魔王以外の生きる道を教えてくれるらしい」

 楽しそうに笑いながらカップを受け取るヴェルガーに、イシュチェルが鼻を鳴らす。

「それって、ヴェルガー様が魔王を辞めたら、使い魔の私はどうなっちゃうの?」

「心配する事はない」

 イシュチェルを抱き寄せると、膝に乗せ髪を撫でる。

「魔王を辞めても私が私でなくなるわけではない。お前は魔王の使い魔ではなく、ヴェルガリオンの使い魔だろう?」

「うん……。そうだよ」

 イシュチェルはホッとしたのか、気持ち良さそうに目を細めながら胸にもたれかかった。

 結局、ヴェルガーはマルルの言う生き方に興味を覚え、それを条件に契約を結んだ。本来ならそんな条件で契約をしたりすることはないのだが、ヴェルガーは魔王としての生き方に嫌気が差していたし、幼いながらも自分を持ち、なんとか運命に抗おうとしているマルルに好意を持ったので承諾したのだ。

「花嫁泥棒なんて、ロマンティックじゃない?」

 胸にもたれたままの姿勢で、イシュチェルがにやけた顔を向ける。

「婚約を邪魔するのだから、花嫁ではないよ」

 ヴェルガーはカップの茶を冷まそうとスプーンで必死にかき回していたが、ふと思い出してメイドへ声をかけた。

「そうだ、メイヤー。しばらく納豆は控えてくれ。姫を客人として呼ぶことになるからな。それに、今日顔をしかめられた」

 苦笑するヴェルガーに、メイドは頭を下げる。

「申し訳ありません。私としたことが、すっかり来客や召喚時の事など忘れておりました」

「あれだけの時間何もなければ無理もないけどね」

「そうだな」

 声をあげて笑うイシュチェルに、ヴェルガーも同意し笑みを漏らした。


「お、だいぶ綻んだな」

 出窓の鉢植えを眺めつつ頷くヴェルガー。小さな蕾は綻び、もうすぐ花開こうとしている。

「ヴェルガー様。そろそろ時間だよ」

 ヴェルガーのベッドでゴロゴロと本を読んでいたイシュチェルが頭をあげ、カラクリ時計を見つつ告げた。

「わかった。行ってくるとするか」

 周囲に積層型魔方陣を形成する。心なしか顔が緩んでいるのを、イシュチェルは目敏く見つけた。

「ヴェルガー様、なんか楽しそう」

「長い間生きてきたが、こういうのは初めてだからな」

 白い牙を見せて微笑むと、次の瞬間魔方陣ごと消失する。


(そろそろ来てくれる時間ね)

 飾り付けられたホールにテーブルが並び、その上には様々な料理が湯気を立てていた。

 ホールの端では楽隊が楽曲を奏で、着飾った紳士淑女がワインやシャンパンを片手に談笑し、その間を召使達が忙しそうに追加の料理や酒を運んでいる。

立食パーティの中、マルルは王である父と母に挟まれながらホールの時計を気にしていた。そんな彼女の様子をよそに、両親は隣国国王の三男であり、娘一人しか跡継ぎのないこの国へ養子にくる予定のコルネリオ王子と話をしている。しかし、対話はもっぱらコルネリオの傍にいる隣国の宰相が務め、コルネリオ本人は自分の意見のように宰相の言葉に相槌をうっているだけだった。

 ウェーブのかかった短い黒髪に、整った顔立ち。歳は二十一と若く容姿は悪くないが、彼の話す会話には上辺だけで中身がない。もっともな事を言い、聞いている者の耳には触りがいいが、芯が通っていないのだ。

若いながらも様々な胸の内を抱く人間と接した事のあるマルルは、なんとなくではあるもののそれを感じ取っていた。そしてしだいにイライラを募らせ、悪い魔法使いの手から救い出してくれる勇者を待つように、王子の傍から連れ出してくれる魔王を待ち焦がれた。

楽団の楽曲が途切れ、パーティの仕切り役である公爵夫人が、マルル達に注目するように来賓たちを促した。

来賓の視線が集まったところで、再び楽団は大仰な曲を奏ではじめた。これから婚約発表を行うのだ。

両親やコルネリオ王子ら笑顔の人々に囲まれ、マルルは一人苦い顔をしていた。

だが国王の口から婚約という言葉が発せられることは無かった。

マルルの父である国王が口を開こうとした瞬間、雷のような音と共にホール中央に黒い球体が出現した。球体は闇の稲妻を纏いながらみるみる膨らんで行き、激しい瞬きを起こすと大音響と共に弾け、球体のあった場所には瘴気を纏い漆黒の翼を広げた虎と人を混ぜたような魔王が浮遊していた。ホールを囲む窓は全て外へ向けて粉々に吹き飛び、夕暮れの社交界を照らしていたキャンドルの炎は全て消え去った。

あたりは悲鳴や怒号で包まれる。

「化け物だ!」

 阿鼻叫喚の渦と化したホールに誰かの叫び声がした。

 警備の兵士がホールへ駆け込んでくるが、大きく翼を広げ獲物を探すかのように周囲を見渡す魔王に気圧されたように硬直する。

(マルルは……どこだ)

 騒ぎの大きさに満足しながら、ヴェルガーはマルルを探した。引きつり、硬直しながらも娘を庇う国王の背後で目を輝かせているのを見つけた。

 悲鳴の中、ゆっくりとホールに降り立つと、わざとテーブルや散らばったグラスを倒し、踏みつけながらマルルのもとへ進んでいく。

「いかん!陛下のそばへ近づけるな!!」

 我に返った兵士が剣を抜き放ち、魔王を取り囲むように駆け寄る。

 魔王は兵士たちに一瞥をくれると、魔力を含んだ吠え声を放った。聞く者に、心臓を鷲掴みにされているかのような恐怖をあたえる。兵士たちは硬直し、まるで息をすることすら忘れたかのように呆けて立ち尽くす。来賓などは、意識をなくし失禁する者までいた。

 その中を、無人の野を行くようにヴェルガーは進んだ。

 マルルは吠え声の大きさには驚いたが、恐怖を感じたりはしなかった。ヴェルガーが自分を助けに来てくれた御伽話の中の勇者にも見えたし、大きな悪戯を仕掛ける時のようなワクワクした興奮が小さな胸の中で膨らんでいた。

 もっとも、それもヴェルガーが約束を守って、人を傷つけないように気を配っているからだという事はマルルにもわかっていた。

 実際、テーブルや皿を倒し踏み潰してはいるが、気を失った者や蹲っている人間は避けるように動いていた。

「噂どおり美しい娘だ」

 ヴェルガーは意識して低く擦れた声を出した。

 マルル達の傍にいたコルネリオは小さな悲鳴をあげて宰相の背後へ身体を移す。

 ヴェルガーはマルルを庇うように立ちはだかる国王夫妻を見て、夫妻に意識がある状態でマルルを連れ去るには苦労するだろうと感じた。

「貴様、何者だ!何故我が城へきた!」

 国王は剣に手をかけ叫ぶ。それに触発されたように、呆けていた兵士達も自分を取り戻し魔王へ殺到した。

 突き込まれる剣を素手で掴み止め、足で跳ね上げたテーブルを盾に兵士をなぎ払う。弾き飛ばされた兵士が呻き声をあげながら床に倒れ伏す中、剣を掴まれた兵士はピクリとも動かせなくなった自分の剣に亀裂が入っているのに気がついた。

 慌てて剣を離し飛びのくと、刃が砕けた剣がグリップとガードだけになり、乾いた音をたてて床に落ちる。

「私はヴェルガリオン。爪牙持つ魔王。この度は美しいと評判の御息女、マルルオーネ姫を妻にいただきたく参上した」

 闇の炎を宿した眼を細め、含むように笑いながら芝居じみた身振りで告げる。

「貴様!」

 魔王の口から娘の名を聞いた国王は、瞬時に顔を紅潮させると、抜き打ちざまに魔王の首へ剣を打ち込む。だが、金属を激しく擦るような音がしたかと思うと、国王は呻いて剣を取り落とし、驚きに眼を見開いて魔王を見つめる。

 刃先があたったはずの魔王の首には傷一つ、毛の一本も斬れてはいないが、取り落とされ床に刺さり揺れている剣は酷い状態に刃こぼれを起こしていた。

「姫を取り返したければ、我が城へ来るがいい。イストラルの森にある。迷いはしないだろう」

 そう言いつつ、国王の頭を鷲掴みにする。后の悲鳴があがり、国王を助けようと魔王の腕へ掴みかかった。その刹那、国王も后も糸の切れた人形のようにぐったりと力なく倒れこむ。手を離された国王の額の上で小さな光の魔方陣が回転していた。

「マルルオーネ、迎えに来たよ」

 腕を伸ばし、マルルにだけ聞こえる声で「失礼」と言って彼女を抱え込んだ。

 兵士達が集まってくる中、大きく黒い翼を開き、それを羽ばたかせ浮遊する。突風が巻き起こり兵士達は身をかがめながら近づいてきた。

「十把ひとからげの雑魚共が。貴様らごときが私に傷一つ負わせられるものか」

 嘲笑いながら、切りかかる兵士達を身体を捻ってかわし、投げつけられる槍や射掛けられる矢がマルルにあたらない様に懐深く抱え翼を盾に防ぐ。

「よせ!姫様にあたる!」

 ヴェルガーは兵士達の歯軋りの中、飛び上がり割れた窓から空へと躍り出る。

「お父様!お母様ぁ!!」

 そのまま上空高く飛び上がった魔王は、笑い声と姫の叫びを残して夜空へと消えた。

「お父様達は!?」

 風を切り飛行を続けるヴェルガーに、マルルは不安そうな眼差しを向ける。

「大丈夫、寝かせただけだ。一時間もすれば目を覚ますだろう」

「驚いた……。いきなり倒れるから」

「良いご両親だ。寝かせなければ厄介なことになると思ったのでね。きっと君を守るためにどんな事でもしただろう」

「うん……」

「後で謝らなければな」

 マルルに風が当たらないように腕で庇うと優しく微笑んだ。

「うん……」

 両親のことを思い沈んでいたが、ふと思い出したことを聞いてみる。

「そうだ、お父様の剣があたった場所、怪我しなかったの?」

「大丈夫だ。私の体毛は害意をもって接する相手には鋼になる。よほどの魔法剣でもなければ抜けはしない。もっとも、衝撃は来るから痛いのだがね。害意を持たぬ者には普通の毛と同じだ」

 ヴェルガーは頷きながら笑った。

マルルは両親や兵達に怪我がなかったことに安堵しつつ、あの場所から連れ出してくれたヴェルガーに感謝した。

そっと首を伸ばしヴェルガーの顔を見上げる。頭上近くで剥き出しになった牙はどんな魔法剣よりも鋭く見え、そのアギトからは聞くものに身震いを起こさせるような低い唸り声を発するが、マルルはまったく恐怖を感じなかった。自分を抱えている腕からは、彼女が痛くないよう、疲れないようにとの気遣いが感じられたからだ。マルルはこの優しい魔王に対して蔵の中で話した時から好意を感じていた。

冷たい風がマルルの頬を撫でる。残念ながら月は出ていないが、幾千の星が散りばめられた空が近く、手が届きそうに感じられ、眼下には街並みや街道、森や丘陵が広がっていた。

「すごい……。鳥になったみたい」

 マルルは初めて見る上空からの景色に眼を輝かせる。

「寒いだろう。ゲートを造って一気に屋敷へ跳ぼう」

「まって!もっと見たい!」

好奇心の塊となったマルルは、広がる河や森、佇む動物の群れなどについてヴェルガーを質問攻めにし、舌を巻かせた。

「ねぇ!これだけ星が近いんですもの。願い事を言ったら叶うんじゃないかしら!」

「何を願うのだ?」

「ふふ、それは内緒よ」

 マルルは悪戯を思いついた子供のように微笑むと、指を組んで両手を握り何かを祈った。

「んっ」

 願掛けが終わるとマルルは身震いし、腕の中へ潜り込もうと身体をうねらせた。

「寒くなったか?」

「うん。でもここは暖かいわ」

ヴェルガーの腕に抱かれながら、マルルは自分を囲む毛を撫でてみた。

先ほどの言葉通り、魔王の体毛は柔らかく温かかった。まるでビロードのように滑らかな肌触りで、顔を近づけると陽だまりの子猫のような匂いがした。


「おかえりなさーい」

 屋敷に着いた二人をイシュチェルが出迎える。

「ただいま。客人を連れてきた。マルルオーネ姫だ。この子は私の使い魔でイシュチェル」

「はじめまして、マルルオーネよ」

「へー、綺麗な子だね。私イシュチェルよろしく」

 ドレスのスカートを手に軽く会釈するマルルに対し、イシュチェルは眼を細め白い犬歯を剥き出しにしてニマッとばかりに笑いかけた。

「イシュチェル、ここまで飛んで来たからマルルの身体が冷えている。風呂は用意できているか?」

「うん。帰るの遅いから、メイヤーが察して準備してくれたよ」

「そうか。いつも助かるな。マルル、温まってくるといい。着替えはメイドが用意してくれる。イシュチェル案内を」

「ありがとう」

 頷き礼を言うマルルと、「あいよ」と応えるイシュチェルを促して屋敷に入った。

「こっちだよ」

 先導しながら飛ぶイシュチェルを、マルルは好奇の目で見つめる。

「貴女妖精なの?」

「ようせいぃ?あんな何も考えないでフワフワしてる連中と一緒にしないでよ」

 はんっと小バカにしたように鼻を鳴らすと、マルルへ向き直り胸を張った。

「私はねこう見えても悪魔なのよ。人の願いを叶えることが出来るの」

「それは、どんな願いでも叶えられるって事なのかしら?」

「うんにゃ」

 イシュチェルはかぶりを振ると、

「簡単な事だけ」

「だって、何でも叶えられたらヴェルガー様がいらない子になっちゃうでしょ」

 そう言って愛らしい口から舌を出す。

「そうね」

 マルルは賛同し笑みをこぼした。

「ここよ。着替えはメイドが持ってくるから、ゆっくり温まってね」

 ウィンクを残し飛び去ったイシュチェルの背中を見送り、風呂場へ入る。

 城での風呂は普通の部屋にバスタブがあるだけの作りで、マルルもそういうものだと思っていたが、どうもヴェルガーは風呂に関しては一方ならぬ拘りがあるらしかった。

 といっても脱衣所はシンプルで、大きな姿見に掃除の行き届いた洗面台とその傍にある最低限のアメニティグッズ、そして得物かけや衣類を入れるバスケットがあるだけだった。

 それに比べて湯船のあるほうはかなり凝っており、岩を組み合わせた天然温泉のような作りの大きく広い湯船には、滝を模して作られた湯口からとくとくとお湯が溢れ流れこんでいた。

 周囲には熱帯雨林に生える木々が茂り、ガラス張りになった天井は不思議な事に曇りもせずに星空を覗かせている。

 眼を丸くしたマルルは感嘆の溜息を漏らすと、急いで服を脱ぎ捨て湯船に突入した。

 桶に掬ったお湯を身体にかける。

染み一つない白く滑らかな肌をお湯が滑り落ち、冷え切った身体をチクチクと刺激した。

ゆっくりと湯船へ足をつける、冷えた身体には少し熱く感じるが、マルルはかまわずに飛び込んだ。

派手にお湯が飛び散り、水柱をあげる。

身体を縮こまらせたマルルが声に鳴らない呻き声を出す。やはり熱かったのだろう、耳まで赤くしてしばらく動かずにいたが、やがて筋肉が弛緩したように身体から力が抜けると、ゆっくり口元まで湯船へ沈む。

頬は緩み眉尻は下がり、声付の長い溜息をもらした。

身体が溶けていくような感覚を味わいながら星空を見上げる。

マルルはあたりを見回し、誰もいないことを確認すると泳ぎ始めた。端から端まで十メートルほどを往復する。夏に小川で遊んだ事はあるが、風呂で泳いだのは初めてだった。

悪戯をしている時のような、背徳感にも似た感情がくすぐったい。

ひとしきり泳ぐと、仰向けになり浮かんで夜空を見上げた。湯気につつまれ漂っていると、雲間に浮かんでいるような気分になり、先ほどの飛行した時に感じた高揚感を思い出した。


身体を洗い湯船から上がると用意してある着替えに袖を通す。サイズは多少大きめだが、ゆったりしている分リラックスする事ができる。

いつもは侍女が何もかもするのだが、今日のマルルは演出とはいえ虜囚の身。着替えを用意してくれたメイドの手伝いを断り、髪を梳くのも着替えも、すべて自分ひとりでやることにした。だが、それが新鮮に感じてマルルは楽しかった。

「着替えのサイズは合いましたでしょうか?」

 廊下からの問いに肯定の返事を返すと、姿見に映った自分に微笑み部屋を出る。

 マルルの姿を見た初老のメイドは名乗り、服が大きいのは我慢してくれと頭を下げた。

 ヴェルガーの部屋へ案内される途中で、マルルはメイドを観察した。

「失礼なことを聞くけど、あなたは人間なの?」

「はい」

 振り向き、僅かに頬を緩めながら答える。

「私をはじめ、ヴェルガー様傍周りの世話をさせていただいている者は、全員人間でございます」

「何故人間が魔王の世話を?」

「そのほうが都合が良いからでございましょう」

「何代も前の先祖から仕えておりますので詳しい事はわかりませんが、最初は生贄として捧げられた人間に世話をさせたのが始まりだとか。それに、魔王といえど雲や霞を食べて生きているわけではありませんので、様々な物を得るために人との接触を持たねばなりません。それなら面倒を引き起こさない同じ人間を雇う。という事だと思います」

 なるほど。まさかあの容姿で買出しに行くわけにもいかないだろう。とマルルは頷いた。

「こちらです」

 古い樫でできた扉をノックすると、中から入るようヴェルガーの促す声がする。

「マルルオーネ様をお連れしました」

「ありがとう。あとはやるから下がって休んでくれて結構だ」

 微笑み頷くヴェルガーに、メイドは一礼して退室する。

「温まれたかな?」

 読んでいた本を閉じソファーから立ち上がる。

「ええ。広くて気持ちよかったわ」

「よかった。明日は朝食を摂ったらすぐに移動する予定だ」

「どこかに行くの?」

 まだ少し濡れている髪をタオルで挟みながらマルルが聞き返す。

「城に行くんだよ」

 ヴェルガーのベッドでクッキーを貪っていたイシュチェルが、身体を起こしヴェルガーの代わりに答えた。

「この屋敷を散らかされてはたまらない。勇者には荒らされてもいい本城のほうへ来ていただくよ。君のご両親にも城のほうの場所を伝えたしね」

 頷くマルルの髪を撫でる。

「さぁ、明日は忙しいぞ。もう寝るといい。イシュチェル、彼女を部屋へ案内してくれ」

 再びイシュチェルに連れられて屋敷内を移動する。大都市に出てきた田舎のオノボリさんのように、物珍しげに視線を動かすマルル。

「珍しいの?お姫様の城より小さいでしょ?」

 イシュチェルが不思議そうにマルルの顔を覗き込む。

「え?ええ。お城のほうが大きいけど、このお屋敷綺麗ね。こざっぱり纏まってて落ち着くわ」

「そりゃ小さいし、住んでるみんなが家族みたいなもんだからだよ」

 イシュチェルは得意げに胸を張って笑った。


「家族……か」

案内された部屋でベッドにもぐりこみ天井を見上げていると、何故かイシュチェルの言った家族という言葉が思い出され、両親の顔が脳裏へ浮かんだ。

「心配してるよね……」

 胸が締め付けられるように切なくなり、眼が潤んでくる。

 疲れているのに眼を閉じても眠れず、自分のした事への後悔と、あのまま何もせずに未来を受け入れることの嫌悪感が波のように交互に襲ってきた。

 何度も寝返りをうつマルルの耳に、置時計の歯車の音が妙に大きく感じられた。

 暗い部屋の隅をボンヤリ見つめていると、マルルは初めて一人で寝た時の事を思い出した。母も乳母もおらず、広い部屋に一人残された。昼間は遊び友達だった人形も恐ろしい存在に感じられ、寂しくて不安で心細い。

 マルルはこぼれた涙を布団で拭うと起き上がり、枕を抱きしめると部屋を出てヴェルガーのもとへ向った。

「ヴェルガー起きてる?」

 扉の向こうからか細く聞こえる寂しげな声に、ヴェルガーは本を閉じるとベッドから出て扉を開けてやる。

「マルル。どうした?眠れないのか?」

 ヴェルガーは片膝をつき、視線の高さをあわせながらマルルの頭を撫でた。

「うん……一人でいると色々考えてしまうの。なんだか寂しくて」

 俯いたまま元気なく呟くマルルを抱き上げ、「ホームシックかもしれないな。一緒に寝るか?」

 と、温かい笑みを向ける。

 頷き首にしがみつくマルルを連れて、ヴェルガーはベッドへ潜り込んだ。

 大きな手で優しく頭を撫でられながら、温かい金色の毛に顔をうずめていると、マルルは幼い日、一人で眠るのが寂しいと言った自分に、母がヌイグルミを与えてくれたことを思い出した。 

 眼の大きな丸っこい虎のヌイグルミだったが、一人寝になれた頃にいつの間にかなくしてしまった。今度は無くさないように、手放さないようにと、マルルはヴェルガーへきつくしがみつき眠りに落ちた。

 

 早朝、ノックと共にメイドの声で二人は目を覚ました。

 外は薄雲で、空気も重く湿っている。メイドは二人分のカップとマルルの着替えを用意し、寝ぼけ眼でヴェルガーにしがみついたまま、魔王を苦笑させているマルルに柔らかい笑みを向ける。

「よく眠れたか?」

「うん。おかげで昔の夢を見たけどね」

 頬をほんのりと赤く染め、甘えるようにヴェルガーへもたれながら答えた。

「おそらく今日の夕方頃に先発隊が到着するだろうが、いいんだな?」

「うん。この前蔵の中でヴェルガーが言ったとおりにして」

「わかった。……悪い子だ。城へ戻ったら孝行して償わなければな」

「わかってるわ。ヴェルガー、あなたは大丈夫なの?怪我したりしないかしら」

「心配はいらない。演技は得意だ」

 ヴェルガーは自信に満ちた笑みを浮かべるが、マルルに蔵の中でのことを突っ込まれ苦笑する。

「さぁ、そろそろ朝食だ。出ているから先に着替えるといい」

 そう言うと立ち上がり、もっと甘えていたそうに頬を膨らますマルルの頭を大きな手で撫でた。


 朝食の後、身支度を整えたヴェルガー、マルル、イシュチェルの三人は移動を終え城内へ到着した。魔法による瞬間移動が初めてのマルルは、到着後しばらく立ち上がることができず青い顔をしていたが、城内を見回して顔をしかめる。

「汚いわ」

「すまない。ここは長らく使ってなくて手入れも何もしてないのだ。だが、ここなら壊される物もないし、よしんば何かしら壊れても気にならないから派手にいける」

 苦笑しつつマルルを抱き上げると、腕に抱えたまま玉座のあるホールへ歩き出す。

「イシュチェル、頼む」

「はいよ」

 ウィンクしながら敬礼したイシュチェルは飛び立ち城外へ出る。このまま城の外でやってくるであろう、マルルオーネ救出部隊と勇者ご一行、おそらくはコルネリオを守る一党を見張り、使い魔特有の主人との共感能力で、逐一状況を報告する予定となっていた。

 ヴェルガーはマルルを抱えたままホールへ到着した。禍々しくうねりくねった得体の知れない生き物が纏わりつく装飾が柱や壁に施され、玉座は眼と口を革のベルトで拘束された人間が、二本足のカエルに鎖で繋がれながら椅子を支えている彫刻によって形作られていた。

「すごい、魔王の居城だわ」

 顔色も良くなり、体調の戻ったマルルはホールを見てまわった。

 見るものに畏怖を起こさせる作りの調度品や装飾の数々も、今は埃や蜘蛛の巣に覆われ、廃墟のような佇まいをみせている。

 ヴェルガーはマントで玉座の埃を払い、蜘蛛の巣を拭い取ると腰を下ろした。

「何十年ぶりかな。やはりこういった席は私には落ち着かない」

 ソワソワと身体を動かし、座る位置を変えながらヴェルガーが鼻をならす。

「似合ってるわ。素敵よ、魔王様」

 その様子を見て、マルルが後ろ手にからかう様な笑みを見せる。

「よしてくれ。くすぐったい」

 立ち上がり、眉を寄せ苦笑しながらも、照れたように手を扇ぐように振った。

「む。きたぞ」

 ヴェルガーの表情から笑みが消えた。

「誰?お父様?」

 マルルが駆け寄ってくる。

「そうだ。イシュチェルが見つけた。多いな、二百はいるか」

「そんなに!?」

 両手を口にあて、驚き目を見開いた。

「即座に動員できるだけの兵を集めたのだろう」

「ちょ、ちょっとまって!二百人も相手にして大丈夫なの?私のせいで死んだりしたら……」

 動揺したマルルは身体を小刻みに震わせながら、ヴェルガーへ詰め寄り腕を掴んだ。

「どうしよう、こんなに大変な事になるなんて考えてもいなかった」

 眼に涙を溢れさせ、ヴェルガーにすがるようにその場でしゃがみ込む。

「もうやめましょう!ヴェルガー、お願い……イシュチェルを連れて逃げて。そうすれば死なずにすむわ」

 泣きじゃくり、綺麗な顔を涙でクシャクシャにしながらヴェルガーを掴んで激しく揺さぶる。

「私の事は心配いらない。二百と言っても、魔剣を持っているのは国王だけだろう。それに、あの程度の人数に負けていたら魔王は勤まらないよ」

 ヴェルガーは優しくマルルの頭を撫で、片膝をついて目線を下げた。子供を諭すように言葉を続ける。

「いいかいマルル。一度放った矢は、途中で止める事はできないのだ。良くも悪くも結果が出てしまう」

「君はまだ若い。だから今回私を召喚しようと思った時、婚約しなくてもよくなる程度にしか考えなかったのだろう。だが、誰かが起こした行動は、何かしらに影響を与えるものだ。特に君のような立場にいる人間の行動は影響力も大きい。行動には責任が伴うのだ」

「うん……」

 ヴェルガーは、嗚咽し身体を震わせながら頷くマルルを抱きしめ背中をさすってやる。

「だが、結果を恐れて行動できないような小さな人間になってはいけない。責任を持って行動できる人間になれ。今日、君はそれを学んだのだよ」

 マルルの涙を指先でそっと掬うと、ハンカチを渡して立ち上がる。

「ほら、最後の仕上げだ」

「でも兵士が……。本当に大丈夫なの?」

 ハンカチを握り締めたマルルは、母とはぐれた幼子のような表情でヴェルガーを見上げた。

「私にとって魔王という立場は性に合わないが、生憎と能力のほうは適性らしくてね」

 苦い顔をしながら頬をかく。

『イシュチェル、森や城のトラップは好きに作動させてかまわない。だが命にかかわるものは控えろ。国王達は隊が組めぬほど散らばらせればいい。できるか?』

 きょとんとしているマルルへヴェルガーは微笑み、共感能力を使った念話でイシュチェルと交信する。

『はーい。でもトラップってまだ動くのかな?』

 すぐさまイシュチェルから返事が帰ってきた。

『機械仕掛けは信用できないな。魔法だけ使うとしよう』

『わかった。あ!きたきた!コルネリオ王子が来たよ!』

『ちょうどいい。そっちは最短コースで来させろ。国王達を迷わせている間に、さっさと片付けてしまおう。何人だ?』

 僅かに間があって返信がくる。

『王子を含めて7人。強そうだよ。王子は……へ~、馬子にも衣装って奴ね。物語に出てくる王子様のイメージにぴったりじゃん。足取りはおぼつかないけど』

 イシュチェルの報告は、最後のほうは笑い声で言葉になっていない。

「どうしたの?」

 ヴェルガーは、服の裾を引っ張るマルルに現在の状況と、これからどうするかを説明した。

 マルルは一々頷き、最後に、屈ませたヴェルガーの頬へさっと口付けをした。

「気をつけて」

 わずかに頬を染めながら微笑む。マルルは、大好きになった魔王を信じることにした。心配は拭いきれないが、彼の眼を見ていると、不思議と大丈夫だという気持ちになっていった。

 ヴェルガーは口付けをされた頬にそっと指をはわせ、大きく頷くと魔力のこもった声で吠えた。

 吠え声は、遠く城を囲む森の端まで聞こえ、日が沈みねぐらで一息ついていた鳥や、獲物をもとめて巣穴から出てきた獣達を脅かした。

 吠え終わったヴェルガーの瞳には闇の炎が燃え上がり、盛り上がった筋肉と逆立った毛が、彼を一回り以上も大きく見せる。

 室内の気温が下がり、空気に緊張が走った。吐き出す息は白く、マルルは自分の身体を抱きしめて小さくなった。

「少しの間我慢していてくれ」

 ヴェルガーはマルルにそう言うと、幅広のグレートソードを鞘から引き抜き床に突き立てる。斬れるというより、杭を打ち込まれたように床に亀裂が走り石材が盛り上がった。

 イシュチェルから、念話で国王達を撹乱している事、王子達が城内へ侵入した事を聞き、玉座へ座って低い唸り声をあげた。

 マルルは、いかにも囚われていますといった様子で、玉座の少し後ろに隠れて縮こまった。ヴェルガーに、危ないから隠れるよう言われたからだ。

報告から三十分もかからず、ホール入り口の扉が開け放たれた。

コルネリオ王子と彼の兵士たちだ。

王子は武器を持ちなれないのか、ぎこちない動きで剣を構えると見得を切る。

「余の名はコルネリオ・ド・グランマイヤー!偉大なるユルグ・ド・グランマイヤー王の第三子にしてグランマイヤー国の王子!麗しき余の婚約者たる姫君を攫い、その毒牙にかけんとする邪悪な魔王!余、自らがじきじきに成敗し、姫を取り返してくれん!覚悟するがよい!」

 見得を切り終わると、王子の後ろで控え身構えていた兵士達が王子を庇うように前へ突出する。数は6人。うち2人は魔法使いらしかった。

 ヴェルガーは玉座で組んでいた脚を下ろして立ち上がる。僅かに地響きがし、兵士達の顔へ緊張が走り、王子の顔からはすっかり血の気が引いてしまった。

「貴様ごとき青二才が、私を滅ぼそうというのか。身の程知らずめ」

 低く嘲るような笑い声を口から漏らし、同時に身体からは、火山からあふれるマグマのように殺気が噴出させる。

 室内の空気が薄く感じられ、鼓膜に痛みがはしる。薄暗さを増したように感じられるホールで、王子の兵達はジリジリと後ずさった。

「ええい、いけ!何をしている!」

 ぬめりとした脂汗を噴出させながら、コルネリオ王子が叫びを上げた。

 限界まで引き絞られた弦が解き放たれるように、王子の声で緊張の極限にあった兵士達が跳ねるように飛び出す。

 呪文を完成させた魔法使いの呪力の刃が二つ、白兵武器を構え肉薄してくる兵士の合間を縫うようにヴェルガーへ襲い掛かった。

 魔王は一声短く吠え、一つを、床に突き立てていた剣を床ごとなぎ払うように振り弾き飛ばす。弾かれた呪力の刃は霧散した。もう一つはマントで包み込むように受け流し、これも霧散させた。

肉薄してきた兵士達には、剣の振りで飛ばされた床の破片が石つぶてとなって降り注ぎ突進を阻む。

「うわっ!」

 短く叫び、反射的に腕やシールドで顔を防御した兵士達の中へ、間髪入れずに魔王が踊りこんだ。

 一番先頭をきっていた兵士は、運の悪いことに突撃をかけてきた魔王の足に蹴り上げられる形となり、上空へ突き上げられると、後方の魔法使い一人を巻き込んで床へたたきつけられた。

 だが、さすがに王子が連れてきた兵士は戦慣れしているらしく、素早く体制の建て直しを図る。

 距離をとる為に兵士がバックステップし、それを援護する形で炎の矢が魔王の身体と、追い討ちを止めるべく地面へ降り注ぐ。

 魔王は下がった一人の兵士に狙いを定め、炎にかまわず追いすがる。魔王が口の中で何かを囁くと、炎の矢が命中する瞬間、当たる筈だった場所に現れた小さな黒い球体へ矢は吸い込まれてしまった。

 恐怖と絶望に眼を見開く兵士の顔面を、剣を握った拳で突き下ろす。鈍い音と短い悲鳴が聞こえ兵士は崩れ落ちた。

 一人が犠牲になっている間に距離をとった残りの兵士が、短く持ち直した剣を手に、懐へ突っ込んでくる。同時に魔王の顔へ、魔法使いの作り出した黒い墨のような雲が張り付き視界を奪う。

「おお!今だ!」

 歓声をあげる王子の目の前で、視界が遮られた筈の魔王が、脛当てで兵士一人の剣を受け流し、そのままの勢いで胸元に蹴りを叩き込んだ。兵士は三メートルばかりも後ろへ飛ばされ、凹んだ胸甲を下に倒れ伏す。

 後ずさり、恐怖を顔に貼り付けた兵士達へ、視界を遮っていた雲を拭い去った魔王が吠える。

「ひっ!」

 小さく悲鳴をあげた兵士が、足を縺れさせながらホールから走り出す。

「あ!おい!」

後方にいた魔法使いも、つられるように走り出し後へ続いた。

「待て!おい!余を置いて逃げるな!」

 着こんだ鎧が小刻みに振動し、王子の震えが伝わったパーツがこすれあい、耳障りな音をたてる。

「よ、余の剣は五百の聖印を刻み、五百日の祈祷を受けし聖剣なるぞ!」

 王子は腰が引けたまま後ずさり、涙と鼻水を顔に貼り付けて剣を振り回した。

「では、私がその聖剣とやらを叩き折ってやろう。それとも、貴様の熟れたメロンのような頭にでも刺すほうがいいか?」

 魔王は大きく口を開き、巨大な牙をギラつかせながら唸り声をあげ王子へ近づく。

「あ……あ……」

 王子は恐怖のあまり、まるで蛇に睨まれたカエルのように、その場で立ちすくみ、傍目にもわかるほど大きく震えている。

 このまま殴るわけにもいくまい。そう思い、ヴェルガーは王子へ吠え掛かる。噛み付かんばかりの距離で吠え、王子の顔へ唾液が散り生暖かい息がかかった。

 刹那、何かのスイッチが入ったかのように王子は飛び上がり、絶叫すると剣を放り出して扉へ向って走り出した。

「ふぅ」

 ヴェルガーは短く溜息をつくと、玉座の影で様子を窺っていたマルルへ微笑んだ。

『ヴェルガー様、国王が行ったよ!』

 イシュチェルの念話がヴェルガーの頭へ飛び込んでくると同時に、

「マルルぅ!!」

 と、叫びを上げて国王がホールへ走りこむ。

「お父様!!」

 マルルは玉座の影から身を乗り出し叫ぶ。

「マルル、無事か!貴様!!」

「お前一人か」

「貴様など……私一人で十分だ」

 勝機を探すように、国王は素早く周囲へ眼を配った。

『いい仕事だ、イシュチェル』

 魔王は剣をダラリと下げ、念話を使い魔に送りながら国王へ歩み寄った。

『でしょでしょ?でも早くしないと兵士達に合流されちゃうから急いでね』

 魔王を回り込むようにサイドへ移動し始めた国王の視界に、コルネリオ王子が投げ捨てて行った剣が入る。

「強がりは似合わんぞ国王。姫の前で貴様を殺し、その身体を前に姫を我が物としてやろう」

 牙を剥きだし、挑発するかのように笑みを浮かべる。

 その笑みに国王が唸りをもらし、剣を握り直そうと指を動かした瞬間、魔王は構えず下げたままだった剣を、踏み込むと同時に掬い上げるように国王へ突き入れた。 

「うおっ!」

 国王は咄嗟に身体を捻りそれを避けるが、肩を覆っていたアーマーが斬り飛ばされ、体制を崩しよろめいた。

 魔王は身を屈めると、国王の身体へ体をぶつけて弾き飛ばす。壁に当たり、跳ねるように地面へ倒れ込んだ国王へ、魔王の傍へ滲み出るように現れた黒い炎が、矢となって襲い掛かり周囲を炎がなめる。

 短く悲鳴を上げ息を飲むマルル。だが、矢は一本も国王には命中していない。

 マルルはヴェルガーが約束を守ってくれる事を信じているが、だからといって落ち着いて見ていられはしなかった。

「もう疲れたのか?一人で十分と言っておきながら無様なものだな」

 国王へ背を向け、ゆっくりとマルルへ歩み寄る。

「やる気がでないか?マルルオーネ姫はもういらないということか?お前が生きていれば、姫などいくらでも作れるものなぁ」

 ゆっくり振り向き、眼を細め口を歪めながら底意地の悪い笑みを浮かべた。足元には王子の捨てていった聖剣が転がっている。 

「くっ、娘に……マルルに代わりなどいるものかぁっ!!!」

 国王は叫ぶと低く身構えたまま魔王へ突進した。魔王は剣を大上段へ構え、突進してくる国王へ振り下ろす。

「ふっ!」

 気を吐いた国王は、振り下ろされる魔王の剣へ向って己の剣を切り上げた。

 一瞬瞳を細めた魔王は、国王の剣を自分の剣の腹で受ける。澄んだ音が響き渡り、魔王の剣は刃を受けた場所から綺麗に折れ、弾かれた刃先が弧を描いて飛び壁に突き刺さる。同時に国王の剣も砕け、細かい破片が鏡のように光を反射して宙を舞った。

 魔王の視線が折れた切っ先を追う刹那、国王は足元の聖剣を拾い上げ、魔王の胸へ下方から突きたてた。ホールに金属の擦れる甲高く耳障りな音と、魔王の絶叫が響きわたった。    

魔王の首元から突き立てられた剣の切っ先が顔を覗かせ、真っ赤な血を噴出させる。

 魔王は、傷を押さえ、断末魔の悲鳴をあげながらのたうつ様に暴れるなか、国王に気づかれないよう、一瞬だけマルルへウィンクをしてみせてから床に倒れこんだ。

 悲鳴と血しぶきに、ヴェルガーが死んだのではないかと青くなったマルルだったが、ウィンクを見て演技らしいことに気がつき心底ホッとした。

 魔王の身体がゆっくり塵のように消えていくなか、

「お父様ぁ!」

 しゃがみ込み肩で息をしている国王へ、マルルは駆け寄り飛び掛るように抱きついた。

「お父様!お父様!お父様ぁっ!」

 父親へ申し訳ない気持ちで胸がはち切れんばかりの彼女は、泣きじゃくり国王の胸へ顔を埋める。

「マルル、無事でよかった。本当によかった。お前に何かあったらワシは……」

 国王も目に涙を浮かべ愛娘の身体を抱きしめ頭を撫で擦った。

「お父様……私……私っ……」

国王は、身体を震わせ嗚咽で言葉にならないマルルを抱き、顔中にキスの雨を降らした。

「さぁ、帰ろう。妻へもお前の元気な姿を見せてやらねば」


 二週間ほどが経過した夜更け。マルルの部屋を月明かりが明るく照らす。魔王のそれとは違う、可愛らしい天蓋つきのベッドへ、パジャマ姿のマルルが座っている。白いレースで出来た天蓋は、薄いピンクのリボンでまとめられ、枕元には古い虎のヌイグルミが置かれていた。

 マルルと向かい合う形で床に座っていたヴェルガーが口を開く。

「そうだろうな」

 苦笑しつつ頷く。

「うん……いっぱい怒られて、いっぱい泣かれて、いっぱい抱きしめられたわ」

 マルルは恥ずかしそうに俯き、身体をもじもじさせた。

 あの後、城に戻ったマルルは両親に事の次第を打ち明けた。

 当然打ち明けられた国王の怒りようは大変なもので、国を追い出さんばかりの勢いだったが、死者もおらず、怪我人もたいした傷ではないことで母親が取り成してくれたのだ。もっとも、国王とて本気で娘を追い出すつもりなどなかったのだが。

婚約のほうは上手いことにご破算になった。

国王がホールへ入る前に、みっともない姿のコルネリオ王子とぶつかったらしく、養子へ迎えても国のためにならないという事と、娘が攫われた事で父性愛に火がつき、娘を手放せなくなったのだ。

「傷、もういいの?」

 ベッドから降りたマルルがヴェルガーへ近づき、包帯を巻いてある胸元をそっと触る。

「うむ。さすがに遠慮なく刺されたから治癒は遅いが、もう痛みはない」

「よかった。刺された時すごく驚いたわ。私まで息が止まるかと思ったもの」

 マルルはヴェルガーの胸に身体をあずけ、柔らかい体毛へ頬をすり寄せた。

「契約を覚えている?」

「生き方。だったな」

 マルルは頷くと、自分の分身だと言った短剣を持ち出し、ゆっくり鞘から引き抜く。

「私ね、貴方に抱えられて夜空を飛んでいるとき、星にお願いをしたの」

「覚えている。内緒だと言って教えてくれなかった」

 ヴェルガーは意地悪っぽく笑う。

「もぉ」

 マルルは拗ねたように口を尖らせ、

「ヴェルガリオン、跪きなさい」

 と、短剣を胸にヴェルガーの正面に立った。

 ヴェルガーは一度立ち上がり、マルルの前へ恭しく跪いた。

「ヴェルガリオン。貴方は優しく、気高く、約束を違えぬ誠実な者です。そして、私を守り諭してくれました。マルルオーネ・フェルディナ・レムリアースの名の下、ヴェルガリオン、貴方を私の騎士に任じます。これからも私を守り諭してくれることを期待します。ヴェルガー、貴方がずっと傍にいてくれる事が、あの日私の願った事なの」

 マルルは恥ずかしそうに頬を染めながらも、短剣の腹で跪いているヴェルガーの両肩にそっと触れた。

 ヴェルガーは頭をたれたまま、魔王という役を演じなくてもよくなる事に感謝をしつつ、マルルの傍にいる事は、魔王である事よりも大変なのではないだろうかと苦笑する。だが、鉢植えの花が咲くところは見られなかったが、この美しい姫が成長し、どんな花を咲かすのか見守ろうという決心はついていた。

「ヴェルガリオンの名にかけて、私の命の限り、力の及ぶ限り、マルルオーネ姫の騎士としてお守りいたします」

 ヴェルガーの言葉が終わらぬうちに、顔をほころばせ、嬉し涙を眼にためたマルルが首にしがみ付く。

 魔王は騎士になり、姫は少しだけ大人になった。

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魔王と姫君 なおさん @naosan99

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