《サ・テ・ラ・イ・ト》
ニュースは今日も不幸をけたたましく伝えていた。「――日午後6時頃――市で老夫婦が風呂場で倒れていたところを息子が見つけ119番通報したところすでに死亡が確認されーーー」「専門家は風呂場での熱中症のリスクに警鐘を鳴らします」「この点に関してはどうお考えですか」「夫婦はよく一緒に風呂に入っており近所でも仲の良い夫婦と」「最近は同様の事故として朝ごはんができていたが老夫婦が亡くなっていたところが見つかり」「周囲の見守りが重要と」奥からかすかに新聞を捲る音がする。
「あまりテレビばかり見ていると馬鹿になるぞ」
体温があるような木のしゃもじでご飯をよそった。箸と共にちゃぶ台に乗せていく。「やだ、いつの時代のことをおっしゃっているんです?大丈夫ですよぉ」と答えてしゃもじを置いた。この繰り返しももう何回になるか。この人と暮らし始めて何年になるか。
くらしというのは気にしたら不思議なもので、机に座り、することがないと両手の指と指を交差して顎の下におく癖を指と指が擦れる感触をいちいち気にしているような感覚。癖のように何気なく行っているはずなのに気にしたらいつまでも気にしてしまいそうになる。若いころは少しその違和感が大きかった気がした。この広い世界でこの人以外にだって男の人は星の数ほどいるのに、この人を選んでしまったら他の幾億もの可能性を捨ててしまう、それは果たして私にとっていいことなのかしら?などと。
「ねえ、ふたりで旅行にでも行きませんか」縁側から届く生温い風が風鈴を鳴かせる。一呼吸置くように味噌汁を啜った。「どこに」前々から言おうと思っていた、このためにわずかながら貯金もしてきたしすぐにでも出発できるような算段は立っていた。
「宇宙に、ですよ」
今やだれもが宇宙に行ける世界になっていた。私が子供のころはこんな未来など誰が想像しただろう、いやむしろ想像の世界にしかなかったはずなのに。いろいろなところに行ったけれどまだ宇宙旅行はしたことがなかったので死ぬ前にこの人と。
少しは嫌がるかと思ったが「そうだな、それもいいな」と言ったので私は老体に鞭打って急いで準備を進めた。代理店でははきはきとした青年が汗を垂らしながら困惑した表情で説明をしてきた。どこに行っても、その年齢によってさまざまな危険があるといわれた。何かあったらお子さんやお孫さんが悲しみますよと止める人もいた。子供は小さいときに死んだのでそういったことはお気になさらず、と笑顔で言ったら皆黙って去っていった。歳を取ると小賢しくなってしまっていけない。
重たい重たい宇宙服を着て、思ったより小さい宇宙船に乗った。地球を抜けるときにとても大きな力が体にかかって自分の思うように体が動かず、体から魂が引き抜かれているかと思った。もしかしたら本当にそうなのかもしれない。途端、体が軽くなった。ナレーションがお決まりの文句を述べる。「安全区域に入りました。安全区域に入りました。宇宙服のロックが解除されます。現在、地上400キロメートルを航行しております。窓の外をご覧ください、われらの母なる地球です。三世紀前、初めて宇宙から地球を見た人類は地球は青かったと述べたそうです…。ここから本船は自動航行となります、説明されていない機器にはむやみに触れぬようご注意願います…。」
重い宇宙服を脱いで、子供のように無重力を楽しんだ。水のパックから少しずつ水を出してシャボン玉のように遊んだ。この人も浮かれた気持ちになったようで、ぷかぷか浮かんだ水の塊を小さい子供が空から降る雪を口で受け止めるように食べたりしていた。「思ったよりいいもんだな、宇宙も」と窓の外の光よりあかるい笑顔を向けるもんだからいつぶりかに手に触れ、その身体を抱きしめた。少し身じろいだが手をまわしてくれた。その手は皮膚が硬くなっていたし関節も思うように動かなくなった、皺だらけで触れたら切れそうな血管がある、変わってしまったものだった。体躯《たいく》は小さくしぼんで、骨がより近くに。かつて愛した人は今もここにいる。「ほんとうにふたりきりなんですね」と言った途端に涙が出た。
「わたし、ここで死のうと思ってずっと算段を立ててきたんです。時間もお金もあとあとの事も工面して。あなたはこんなわたしのことも、ひとつもう分かっていらっしゃるでしょうから、なぜだともいわないと思っています。昔あなたが宇宙飛行士としてここに来たこと、とっても楽しそうに話していたから。わたしあなたに近づきたかったの、ずっと、ずっと前から」零れる涙はいつまでも地球のそばにまあるく浮かんでいた。ふたり重い宇宙服を投げ捨てて、暗闇の中に飛び出した。震える手で年老いて開かない手をつなぎ、深淵から輝く無数の星と青い光の中で二人で深呼吸をした。
宇宙のショートショート 有川 真黒 @maguro-yukunazuki
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