第31話 姉貴、襲来
その日は朝から、嫌な予感しかしなかった。
空は快晴で雷の気配はなし。怖い話も聞いていない。学院でも特段、揉め事にも巻き込まれなかった。放課後まで平和そのもの。唯一、普段と違うのはネイとムギは自習室に来ず帰ったくらい。デートだそうだ。お盛んなこって。
結果、俺とお嬢様は、カフェテリアのテラスで勉強している。
懸念するようなことは何一つとしてない……筈だ。
なのに……どうしてだ? どうして、俺はこんなにも――頬っぺたを突かれる。
「……ちょっと、聞いてた?」
「え、あ……わ、わりぃ」
「はぁ。仕方ないわね。今日はもう止めにしましょう。……朝から、心ここにあらずみたいだし。何かあった??」
「いや……なんもねーよ」
「そう。いい? 何かあったらすぐに言うのよ! 懇願すれば助けてあげないこともないから」
テーブルに肩肘を乗せお嬢様がニヤニヤ。
普段なら悪態をつくところなんだが。
「…………なぁ」
「?」
「本当に、助けて、くれるか?」
「っ!? にゃにを言って――……こほん。まぁ、貴方がどうしても、と言うのなら考えなくもないわね」
「そっか。その時はたのまぁ」
「……ねぇ、本当にどうしたの? ちょっと、変! 悩みがあるなら聞くわ。話してみなさいよ」
「あー言葉で説明するのが難」
「ジャックぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!!!!!!!!」
「!!!!?」「えっ? えっ?? どどどどど、どうしたのよ???」
ぜってぇ、聞きたくなかった声が聞こえてきた瞬間、俺は本能に従い、お嬢様の背中に隠れるよう身を屈めた。
怖過ぎるので、エミリアの左腕に抱き着く。当の本人はやたらと動揺しているようだが、気にしてはいられない。
――テラスに、ふわり、と美女が舞い降りた。ひぃ。ますます、強く抱き着く。
お嬢様はあたふた、と早口。
「えっと、あの、その、こ、こういうの、う、嬉しいのよ? う、嬉しいんだけど、い、いきなりは、ち、ちょっと……わ、私にも心の準備があって――あれ?」
気付いた時、俺が感じていたのは、包まれる温かさと柔らかさ。その直後、大音量の大声。
頬と頬がくっつき、頭を撫でられる。
「ジャック、ジャック♪ 私のジャック♪ うふふ~」
「だ、抱きしめるのは止め」
「やっ!」
「ひ、人前だってのっ!」
「やーっ! お姉ちゃんは、今、枯渇しそうになってたジャック分を補給してるのっ!! これは、神聖にして絶対不可侵の権利なのっ!!!」
「うぅぅぅぅ…………し、仕事はどうしたんだよぉ……」
「もっちろんっ、終わらせたわよ☆ でっかい蜥蜴を何匹狩るだけの簡単なお仕事だったわ」
でっかい蜥蜴……多分、竜とかなんだろうなぁ……。
腕の中でげんなりしつつ、手を伸ばす。
「まぁ、無事で何より」
「! ジャック!!」
「はーい、そこまでです」
お嬢様が、強引に俺と姉貴を引き離した。そして、そのまま俺を強く抱きしめ、姉貴を睨みつけた。
……さ、酸素がいきなり薄くなったような?
「推測するに――セフィ・アークライト様とお見受けします。お久しぶりです。エミリア・ロードランドです。身内とはいえ、いきなり私の婚約者を抱きしめるのは止めてください」
「…………婚約者ですって? ジャック?」
「ひっ! そ、それはその……あ、あれだよっ! 爺ちゃん同士がなんか約束してたらしくて……あ、あと、親父が侯爵家に借金を!」
「む……ねぇ? そんなに、嫌なの??」
「う……そ、そんなことは」
「はーい!!! そこまでですぅぅぅ」
エミリアへ返答しようとした俺は、すぐさま姉貴の腕の中に逆戻りした。
そのままだと、また奪われると思ったのだろう、ふわり、と浮きあがり、無数の魔法を並べ、威嚇を始めた。いや、それ、攻城用魔法じゃね……?
「まったくっ! 幾ら私のジャックが世界で一番可愛くて、天使で、優しいわんこだからって……この泥棒猫っ! お呼びじゃないのよっ!」
「世界で一番可愛くて、天使で、優しいわんこなのは同意しますが……私とその人との婚約は、家長同士で既に同意されたものです。ここに証拠も! 幾ら、貴方がかの『竜魔殺し』様と言えど、従ってもらいますっ!!」
お嬢様が、胸元の小袋から折りたたんだ紙を取り出し、姉貴へ見せた。おい、そんなのあるなんて、俺も聞いてねぇぞ!?
姉貴は珍しく愕然とした表情になり――微笑。
「……ジャック」
「お、おぅ?」
「――ほんの少しだけ待ってて! すぐに貴方を解放してあげるからね」
そう言うと、ゆっくりテラスへ降りたち俺を離した。
姉貴が、俺を、自分から離す、だと!?
すぐさま、エミリアは俺を抱きしめ、勝ち誇った表情で、言い放つ。
「お分かりいただいたようで何よりです――セフィ御義姉様?」
「誰がっ! ……あんたは泣かす。あの馬鹿親父を挽肉にして、撤回させた後、ぴーぴー、泣かしてやるわっ。昔みたいにねっ!」
「はいはい。でも、どんなに喚こうがジャックは私のですよ? 貴女のじゃありませんっ!」
「こ、小娘がぁぁぁ…………!!」
お互い大気が怯えて震える程の、魔法を並べている。発動したら、学院も更地になるんじゃね??
それでも、姉貴は『剣』を抜いていない。最低限の理性は維持しているようだ。 ――永遠にも思える対峙。おうちに帰りたい。
姉貴が潤んだ瞳で俺を見た。
「ジャック……不甲斐ないお姉ちゃんを許してっ。古い契約は大本から変更しないと、とっっても面倒なの……でも、すぐにそんな我が儘泣き虫小娘の魔の手から、救い出してみせるからねっ! 胸も私の方が大きいしっ!」
「ま、負け犬の遠吠えですっ。ほ、ほら、さっさと何処かへ行ってくださいっ!」「―—私はすぐ戻ってくるわ。すぐにねっ!」
そう言うと、姉貴の姿は掻き消えた。
おそらく、うちの家長である親父をとっちめに行ったんだろう。相変わらず嵐みてぇだ。
溜め息を吐き、腕から脱出しようと――
「お、おい。もういいだろ? はなれろー」
「駄目。何時、あの人が来るか分からないもの。だから」
エミリアが頬を赤く染めながら、俺を見た。
特大の嫌な予感。
うわ……姉貴が来る予感だけじゃなかったのか。
「今日からは原則、学院でも家でも私から離れるのは禁止にします。少なくとも、こちらの対策が終わるまでは!」
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