邂逅ひとめ

槇灯

邂逅ひとめ【単発】

 両耳から垂れる赤いイヤホンのコードが、ゆらゆらと揺れるのを視界に認めつつ坂道を行く。両脇の桜並木はまだ花を咲かせてはいなかったが、その蕾のふくらみが確かな春らしさを感じさせた。見慣れた景色、歩き慣れた道。母校と呼べるようになってしまった高校の正門が前方に見える。いつだったろうか、初めてこの場所を自身にかかわりのある場所として認識した日は。暑い夏の説明会だったろうか、肌寒さの残る試験日だったか、合格発表の日だったか。それとも、桜がうっとうしいほどに散っていたあの入学式だろうか。

 思えば人よりもだいぶ長かった高校生活も、こうも早く過ぎ去ってしまったのかと時の流れの速さを噛みしめる。入学してから今まで、卒業というものが自身にとってはどこか遠いもののように思えていたから、こうして卒業生としてこの場にいるのが可笑しい気がした。何度くぐってきたのかもわからない正門をぬけて、足は生徒昇降口の方へ向かおうとする。すっかり癖になってしまったのだなあと苦笑いして、方向を変える。今の私が訪れるべきなのはあちらの玄関ではなかった。

 来客者用玄関の横にある事務室の窓口へ用向きを伝え、入校許可証をもらう。それを首にかけると、つい二週間前までとの違いを改めて実感させられる。私服姿の自分は放課後の校舎の中で浮いていたけれど、この時期にこうして訪れる者も珍しくはないので、他の目が気になることはなかった。在校生の気配もない管理棟の一階をゆっくりと見渡すと、右には保健室がある。何度か担架で運びこまれ、その何倍も自らの足で向かったその場所。調子が悪い時には考えるより先に足が動いていたように思う。それだって、こうも毎日のように訪れていては少しきまりが悪く、扉の近くで一時間ほど逡巡したことだってたくさんあった。卒業式の日に先生にはお礼のあいさつを済ませていたし、口下手を自認している私としては行く必要のない場所になっていたけれど、素通りするのもなんだか心無いようで、心の中でもう一度、ありがとうございましたと言ってその場をあとにした。

 図書室へ続く廊下を歩きながら思い出すのはやはり友人たちとの日々。角を曲がってすぐの階段を三階まで昇ると見える地学室と、今向かっている図書室が主に自分たちの居場所だったと思う。ひとつひとつを詳細には思い出せない、取り留めもないことを話しながら昇った階段を見上げた。きっと、どうでもいい会話だった。何かを真剣に伝えようとするそんなものではなかった。ただ、口にした言葉に反応があって、それに自分も返すようなそんなやり取りが当たり前で心地よかったのだ。

ふと、彼女たちと知り合った日のことを思い出す。二度目の一年生もなんとか無事に終えることができ、進級が決まりそうだという報告を担任の先生からもらってすぐのことだった。人生で最大の挫折を経験して、学校に行くことがままならなかった当時、部活動に入る余裕はなかった。もしかしたら、この学校を去ることになるかもしれない。自分の意志で決めた二度目の一年を過ごす中でも、その不安はずっと付きまとっていた。学校に来て、席に座るのがやっと。そんな状態で部活に入ってもまた迷惑をかけてしまうだろうことは想像するに易かった。そんな気分が変わったのはおそらく、進級が決まって心に余裕が生まれたからだろう。自分だってただ学校に来るだけではなく、気の置けない誰かと一緒に学校生活を送ってみたいものだ。当時の私はそんなことを考えていたのだ。では、どの部活に入るのか。答えはすでに私の中にあった。一度目の昨年の四月にたった二週間だけ在籍していた、漫画研究同好会だった。

 その昔、この高校に入学を決めた一要因でもあるその部活に意気揚々と入部したはいいものの、その緩さと同性の同学年の生徒がいなかったせいですぐに別の運動部へと鞍替えしたことがあった。中学生のころ入っていた美術部よりもさらにしまりがないその空間は運動部の経験もあった私には非常に物足りなく思えたのだ。

 しかしながら、今の私にはその「緩さ」でちょうどいいのかもしれない。そう考えて、漫画研究同好会、略称漫研への入部を半ば決めていた。問題は、今その漫研の部員はいるのか、もしいるとすればどう知り合うかということであった。いきなり入部したせいでその後気まずくなってしまっては元も子もない。自分を認識してもらって、どんな奴らなのか知ってから入部したほうが後腐れもなくていい。そう思いながらそれとなく探っていると、どうやら一年生部員は三人のようで、そのうちの一人の顔もなんとなく知ることができた。ただ、そこからどう声をかければよいのかがわからなかった。いきなり廊下で捕まえて話しかけてしまっては驚かせるだろう。この中途半端な時期に入部を考えていると言えば困惑されるかもしれない。第一、名前も知らないのではなんと声をかければよいのか。いろいろ迷った挙句に

「こうなれば特攻だ」

半ばやけくそのように私は部活動が行われているであろう時間、活動場所である地学室に体験入部という体で突撃することに決めた。

 決めたはいいものの、生きてきたなかで染みついてしまった気性というものはそうそう変わらない。計画を立て、活動日に地学室の前まで行き、その扉の前で立ち尽くした後にすごすご立ち去ることを繰り返して三回。その日も私は扉の前で決心がつかないでいた。

「はあ」

深呼吸なのかため息なのかわからない息を大きくつきながら、チラリと外を見ると私の心情を映したかのような曇天。続いて地学室の中を見ようとすると、暗幕が閉めきられている。この暗幕が私の最大のストレスだった。窓と言う窓からすっかり中を隠しているその暗幕のせいで、現在部活が行われているのかもわからない。かろうじて隙間から見えた情報から判断すると、どうやら教室前方に何やら人らしき影が見えたがちょうど死角になっておりその顔の班別まではできなかった。入ろうにも補習の類で来ている人たちなのだとしたら気まずい。忌々しくその暗幕をにらむ。まるでこの暗幕が超えてはいけない壁のような、こちらが来るのを拒んでいるような気持ちになる。今日も帰ろうかと思ったが、ふと、地学室の隣の準備室に目がいく。そこは確か地学部が活動場所として使っていたはずだ。もしかしたら、漫研が活動中かも知っているかもしれない。学年は違ってしまったが、未だに交流を持ってくれている友人の顔を探して準備室の方の窓を覗き込む。幸い、こちらに暗幕はかかっていない。ガタついた窓ガラス越しに探していた顔がすぐ見つかった。なにやら、勉強でもしているようだ。その様子に、彼女は三年生になるのだという至極当たり前な事実を突きつけられた。この一年の差はもう埋まらないのだというのが寂しく感じられる。そんなことを考えていると、おもむろに顔を上げた彼女と目が合う。向こうもこちらが分かったようで、ガラリと扉が開く。一歩後ろに引くと

「どうしたの?」

彼女がきょとんとした顔で出てきた。

「実は、漫研に体験入部に来たんだけど」

隣の教室を指さしながら口を開く。久しぶりに話す彼女に対して少し緊張していた。

「今、漫研活動中かわかる?」

私の緊張は相手に伝わっていないようで、前と変わらない様子でニコニコとこちらを見ていた彼女は

「あっそうなんだ。今多分やってるよ」

と言って私の手を掴み

「えっ」

地学室の扉を何でもないという風に開けて暗幕をかきあげ、中に入った。もちろん、手を引かれた私も勢いで中に入る。

「体験入部に来た子だよ」

予想外の行動をとった友人が声をかけた方を向くと、戸惑いが感じられる顔が三つ。私も同じような顔をしているんだろうと他人事のように思う。

「じゃあ、後はよろしくね」

その後私をぐいぐいと前に押しながら少しの説明を入れた後に彼女は去った。後に残されたのは沈黙と気まずさ。

しばらくして、長髪の女子生徒が近くの机から椅子を持ってきて、目の前に置いた。

「あの、どうぞ座ってください」

「あっありがとうございます」

促されるまま腰掛けると、前方の三人と向かいあう。まるで面接みたいだなと思いながら話が始まった。どんな活動をしているのか、部費はないこと、部誌を出していること、雰囲気などなど、目のはっきりした生徒が説明してくれる。うん、それ知ってるよ。実は私も漫研だったんだ。ちょこっとだけだけどね。と、そんなことを初対面で言って混乱させるわけにもいかないので、何も言わずに聞いていた。

「こんな感じですかね」

ひととおりの説明が終わったのか、こちらに目を向けてきた彼女に

「だいたいわかりました。ありがとうございます」

と礼を言う。

「ていうか、これ部長の仕事じゃないの?」

私がお礼を言った相手は、その隣の眼鏡をかけた少女をからかうように言った。これで何となくこの部内の役割分担や力関係が見えた。それと同時に、軽口をたたき合える仲を羨ましく思った。自分も馴染めるだろうか。そうぼんやりと考える。

「ごめんて」

そう返した眼鏡の彼女は笑った後、

「なんか面接っぽくね、これ」

と先ほど私が思っていたことを口にした。

 その後、自己紹介でもしようかと言う話になって、各々の名前とクラス、好きなアニメや漫画をそれぞれ言っていく。四人とも、見事に紹介した作品がバラバラだった。すこしそれが可笑しく思えたのを覚えている。私が好きな漫画を言った時、あの子と気が合いそうだねと上がった名前はこの三人のものではなかった。今度紹介するよと言われて、今度があるというのが嬉しかった。この時名前があがったその人が私が兼部することになる文芸部の部長で、同じクラスになるとはこの時は想像もしていなかった。

それからどう話してどう帰ったのかは記憶が曖昧だが、帰宅した私の手には昨年の部誌と今日知り合った三人の名前が書かれた紙が握られていた。紙を見つめ、先ほど見た顔と照らし合わせる。名前を紹介したときに妙に説明が手馴れていて、きっとよく名前を間違えられるのであろうと思ったこと、入部をほぼ決めていると聞いたときに聞こえた嬉しそうな声や流れていた心地よい空気を思い出してほおが緩んだ。

確かにあったはずの邂逅なのに、二年も経った今では記憶尾薄れつつあって、それが生きていくうえで仕方ないことなのだろうとは思うが寂しかった。それでも、その後の私の高校生活の大部分を占めた彼女たちとの「はじめまして」は鮮やかなものだった。

「あれから、いろいろあったよな」

誰に言うでもなく呟く。後輩も出来て、一緒に原稿に追われて、何が面白いのか今となってはわからないことに大笑いした。何気ない私の日常だったもの。過ぎ去ってしまったもの。どれもがすべて愛しい。かすかに視界が歪む。卒業式のその日、最後に女子高校生らしいことでもしようかとタピオカドリンクを飲み、そのまま別れたあの時よりも、今の方が胸が苦しいのはなぜだろう。

「卒業したらもう会わないかもしれないね」

なんて冗談めかして言ったあの言葉は、まったく冗談ではなくて。すすんで会って何かするような人間の集まりではないことは二年の月日のなかでとっくに知っていた。それでも、やはり会えないのは嫌だと思って、こんな気持ちになったのはこれまでの人生で初めてだったから柄にもなくまた涙が出た。

 チャイムの音で現実に引き戻される。こんな時間かとすっかり乾いた目元をこすって図書室へと向かった。図書室で活動している後輩に文芸部の備品であるUSBメモリを渡して、それから部活が終わるまで居座った。二週間前に寄せ書きをもらって、この後輩たちとこそ、会うこともないのだろうとぼんやり思っていたのに、こうも早く再会することになるのは妙な心地がした。彼女たちともそんな風にまた出会えればいいと思う。後輩たちに別れを告げ、職員室へ向かったが、結局どの先生とも会わずに学校をあとにした。


 そんなある春の日のことを思い返したのは、ノートパソコンのデータ整理をしていたときにとある文書を発見したからだった。タイトルは「落書き」。イラストの落書きならばわかるが、文章の落書きとはどういうことだろうと開いたそれは、もうずいぶんと前のある日に書いたもので、確かにタイトル通り落書きと言うのがふさわしい代物だった。そこにはうっかり返しそびれていた備品を返しに行った日の自分の心情が綴られていた。その文字を追うと、当時はそんなことを思っていたのかと新鮮で懐かしい気持ちに包まれる。十九の私よ、悲観することはない。まだ、私たちは繋がっているよと、その文章を印刷しながら思う。記憶は薄れるものだ。消えてしまうものだ。それを当時の私は悲しいと思ったのだ。だからこうして、その時の痛みを残したのだ。思いは消えるが文字は残る。そして、人間は文章から思いを読み取ることができる。我ながらあっぱれだと褒めたくなった。あの青春を走り終えたその日の私が、確かにここに居た。

 携帯端末の通知音が鳴って、画面を確認すると久しぶりに見る名前が目に留まった。今度こちらに帰省するから会わないかと誘ったのは先ほどのことだ。みな、忙しいだろうから今年は無理かもしれないなと思ったそれは、嬉しいことに裏切られた。昔のようにあの店で会おうか。値段が変わっていなければいいが。などと考えながら話を詰めていく。会えば話そうと思っていることがたくさんあるのに、いざ目の前にするとくだらない話しかしないのだろう。あの日々がそうであったように。それならば、思いは手紙にでもして渡そう。きっとそれは残したい思いだから。ささやかな同窓会の計画を立てながら、私は便箋を探した。

 私たちが一緒に過ごす時間の、一生のうちのほとんどがあの二年間に詰め込まれていた。一日、約十時間。それを週に五日。毎日のように顔を合わせた。今は年に一度、運が良ければ二度。それも四時間程度の短い時間。これをこのまま続けたとして、あと一生のうちに何度彼女たちと同じ時間を過ごせるのだろう。きっとそれはあの日々に及ばないだろう。それでも、今でもこうして会えることは素直に喜ばしいと思った。できれば、死ぬまで、笑い合って、くだらないことをしゃべって、そして「ではまた」と別れる。そんな邂逅を何度も味わいたい。

 春めいた四月の桜を窓から眺めながら、ぬるい酎ハイの缶をすすって一人、そう思った。

                                       了


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邂逅ひとめ 槇灯 @makitou_fuko

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