悪夢をあげる
「あら、どうしたのボウヤ? そんなに走ると危ないわよ?」
それはなんというか、一目惚れに近かった。
絹糸のようになめらかな小豆色の髪。
宝石のように紅い切れ長の猫目。
インナーもスカートも薄手のコートも全部が黒で統一された、クールでセクシーな、当時の大人へのイメージそのもので。
それに、ミルクのような、焼きたてのお菓子のような、とても甘い匂いもしてて……
「…………」
思わず見惚れてしまった。
そんな場合じゃないのに、頭のなかが全部、この人のことで埋め尽くされて……
「どうしたの?」
目線をあわせるように屈んできた。
屈んだせいで、その、豊満な胸が目の前にきて……
「お姉さんのおっぱいがそんなに気になる?」
「はい! え、あ、ちが、ご、ごめんなさい!」
つい口走ってしまったけれど、お姉さんは優しげに微笑んで、
「さわってみる?」
「いいんですか!? あ、いや、ちが、ご、ごめんなさい……じゃなくて、そう、お、おねえさん!」
「なぁに?」
「まひろくんをたすけてください!」
「マヒロくん?」
「はい!」
「んー、子どものお願いか……」
「だ、ダメですか?」
「ああ、ごめんなさい。お姉さんこれからお仕事する予定だったから、できるかどうか考えてたの」
「で、できますか?」
「そうね。いいわよ。試してみましょ。お姉さん子どもには優しいの」
「ほんとですか!?」
「ほんとほんと。で? そのマヒロくんはどこにいるのかしら」
「あっちです!」
いま思い返しても大胆なことをしたと思う。
俺は見ず知らずのお姉さんの手を引いて、真尋のもとへ駆けつけた。
その惨状を見て、お姉さんが目を開く。
「あら、これはこれは。ずいぶんと大変なことになってるわねぇ」
「た、たいへん……」
「ああ、だいじょうぶよ心配しないで。お姉さんなら助けられるから。そもそも半分あたしのせいだし」
それがどういう意味なのか。
その頃の俺にも、いまの俺にもわからない。
でも、助けられると聞いて、俺は安心したように息を吐いた。
「あ、そうだ。ボウヤ、あなたのお名前教えてくれる?」
「ぼ、ぼくは……あ、しらないひとになまえおしえちゃダメだっていわれてて……」
「教えてもらえないと、マヒロくんを助けられないわよ?」
「ええ!? じゃあおしえます! だからまひろくんを!」
「はいはい。助けるからはやく教えて」
「ゆうた、です。まるやま、ゆうた」
「ユウタくんね。で、フルネームがマルヤマ……いえ、ユウタ=マルヤマだったかしら? まぁいいか。あたしがわかればいいんだし。それじゃあユウタくん。お姉さんと約束できる?」
「やくそく?」
「そう。約束。マヒロくんは助けてあげる。だけどその代わり、ユウタくんには悪夢をあげる」
「あくむ?」
「ふふ。そう怖がらなくていいわ。悪夢って言っても、それをどう扱うかはあなた次第だもの」
お姉さんがわらう。
妖艶とはこの人のためにある言葉だろう。
いまならそう思ってしまうような、子どもには刺激が強すぎるほどに、魅力的で、蠱惑的な表情で。
それに俺は、なすすべもなく、吸い込まれるように身を任せて、
「いたッ!?」
首筋に噛みつかれた。
それで意識が現実に引き戻され、
「ふふ。やっぱり子どもは新鮮でいいわねぇ」
首筋にかかる吐息がむず痒くて、暖かくて、いけないことのようにゾクリとした。
また意識が、心が、お姉さんに吸い寄せられる。
痛みすらも、甘い痺れに変わっていく。
すこしすると、お姉さんは首から離れた。
口元を拭い、さっきよりも元気な声音で、
「さって~、エネルギー充填完了! けど仕事残ってるし、簡略形でいくわよ~。《ディアボロ・ブレス》!」
瞬間、赤黒い炎がお姉さんの手のひらに生まれる。
拳大のそれは、射出されるように勢いよく飛んでいき……
「あ、爆発させちゃマズイわよね」
くるんと、お姉さんが指をまわす。
それに従うように、炎が動きを変えた。
炎は細く、糸のように伸びてバケモノに絡みつく。
そして、
「《シャルア=マリスの名のもとに……中略! 穢れし堕ちた心情よ……ああもうめんどくさいから封印えい!》」
なんというかいろいろ残念な感じだったけど、それでバケモノは動きを止めた。
助かった。
助けられた。
俺は安堵してため息をつき、
「おねえさん、たすけてくれてありがとう」
「んー、そう言ってもらえるのは嬉しいけど、これは一時しのぎというか、ちょっと封印しただけなのよね~」
「ふういん?」
「そう。お姉さん、子どもには優しいの。だから、子どものあいだは、世界が平和なあいだは護ってあげる。けど、その先は……ふふ、たのしみね」
またゾクリとした。
けどそれは、さっきのとはすこし違う。
どう違うのかはうまく説明できないけれど、決定的なナニカが違った。
お姉さんとはそれきりで、俺はいつもの日々に戻った。
でも、その日から真尋は変わった。
オバケがみえると言いだした。
あの黒い塊を指差して。
俺の……いや、俺以外の塊を、みえると言い始めた。
はじめのうちはみんな面白がっていたけど、時が経つにつれて、だんだんと扱いが変わってきた。
いじめられるようになってきた。
正直に話しているのに。
素直に教えているのに。
なのに嘘つき呼ばわりされて。
異端者扱いされて。
俺のせいで、真尋が傷ついていく。
輝きが消えていく。
地獄だった。
俺のせいだと言おうとすれば、突然心臓を鷲掴みされたかのように胸が苦しくなり。
なにひとつ、あのときのことを伝えるすべはない。
真尋自身の記憶もない。
これが、悪夢なんだと思った。
なんて意地悪な人なんだと思った。
けど、違った。
これはまだまだ序の口だ。
だって、俺たちはまだ、子どもなんだから。
あの人の言うことが正しければ、俺の、あるいは、真尋の命は、きっと……
それは嫌だった。
それだけは嫌だった。
だから、下ネタに走った。
下ネタを言っていれば女子から嫌われる。
すくなくとも距離は置ける。
結果、俺たちははまだ彼女いない歴イコール年齢だ。
大人になるのはずっと先だ。
いまのところうまくいっている……と、そう思っていたのに。
どうしてこうなった。
どこから間違えた。
俺はいったい、どうすれば……
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