第73話 旅立ったゆんと帰ってきた詩音
3月15日。
ゆんは見送りはしなくていいと花梨に告げていた。
空港にはゆりと仕事を一時抜けて来た健が一緒に来ていた。
「ゆん、体に気をつけるんだぞ。何かあればいつでも相談しなさい。それにいつ戻ってきてもいいんだからな」
「そうよ、ゆん。あなたがうちの子供であることに変わりはないんだから」
「ありがとう、お父さん、お母さん。行ってきます…でいいかな」
「もちろんよ」
「お兄ちゃんのことよろしくお願いします」
「何を言ってるのよ。大丈夫よ、心配しないで」
「うん。それじゃ、行くね」
ゆんはそう言うと後ろを向いて入国審査へ歩き出した。ゆんの姿がみえなくなるまでゆりと健は見守っていた。
寺本ゆん、前を向くのよ。頭を上げて。自分に言い聞かせていた。
3月20日。
詩音が帰国した。
誰も迎えに来ていなかったので、もちろんそれは予想していたことだったが、空港エクスプレスに乗り、途中で乗り換えて自宅まで戻った。
「ただいま」
春休みだから、ゆんがいるはずだと詩音は思っていた。
家の中は静まり返ったままだ。
出かけてるのかな、そう思い、荷物を片付けることにした。
そしてざっと片付けたらすぐにMac Proを起動させ、メールやメッセンジャーのチェックをする。音源データなどについての問い合わせや修正依頼などが数件入っていたので、そのまま作業に没頭していった。
途中お腹が空いたので、簡単にカレーを作っておいた。ゆんや母さんが帰ってきたら一緒に食べればいいと思ったのだ。
夜9時を回った頃、ゆりが帰ってきた。
「詩音、帰ってるの?」
「あぁ、母さん」
詩音は返事をすると居間へ歩いていった。
「ただいま。長いことごめん」
「お帰りなさい。帰ってこないのかと心配したわよ」
「そんなことないよ。ちゃんと帰ってきたよ。ゆんは?」
「ゆんはいないわ」
「いないってどういうこと?」
「ゆんはうちを出ていったの」
「出ていったって…どういうことだ?」
「アメリカの寺本さんの元に行ったの。今はもう寺本ゆんよ」
「母さん、何言ってるんだよ、寺本ゆんってどういうことだよ?」
詩音は思わずゆんの部屋へ駆け込んだ。ゆんが居たまま、ほぼ何も変わりはなかったが、ゆんの姿はそこには無かった。居間に戻った詩音はゆりに言う。
「どういうことなんだ、どういうことなんだよ、母さん!」
「詩音、落ち着きなさい。まずはそこに座りなさい」
ゆりはゆるぎない声で言った。
ゆりはコーヒーを淹れるとソファでうなだれている詩音の前にマグカップを置いた。
「ゆんに言わないでといわれていたの」
「一体何がどうなってるんだよ」
「ゆんはずっと悩んでいたようだったの。由奈、ゆんの産みの母ね、由奈に会いに行った時、レンさんが撮った写真が送られてきて、それを見てゆんは物凄く怒って一人で飛び出して行ってしまったの。一人で帰れるから放っといてくれと言って。ゆんが何をそこまで怒ったのかはわたしには理解出来なかったわ。後で聞いたけど、ゆんにはゆんの思うことがあったのね。ただ、髪の毛を切ってしまったあなたに対してとても怒っていたようだったわ。そのあと新学期が始まってすぐに、ゆんは由奈にお願いしたの。そちらに置いて欲しいと。その時にはもうゆんは覚悟を決めていたようだったわ。ただ、ゆんはうちの子供に変わりはない、名字は便宜上変えるだけと言ったわ。あちらの寺本さんのところに置いてもらうのであれば、本当の親子なのだから、戸籍も寺本に戻したほうがよいという弁護士さんのアドバイスもあってそうしたの。だから、今は野々村ゆんではなく、寺本ゆんなの」
「何言ってるんだよ!なに冷静にそんな話してるんだよ!」
「詩音。あなたもゆんに対して同じことをしたのよ?あなたが突然居なくなってゆんがどれほど傷ついていたかわかる?詩音に嫌われてしまったって泣いていたのよ。ゆんはあなたが居なくなってしまった理由もわかっていたようだったわ。でも今回はね、あなたに仕返しをするためじゃないの。ゆんは前を向きたかったのよ。ゆんはあなたが髪の毛を切って、新しい道を歩き始めたんだと思ってるの。その邪魔はしたくないし、ゆん自身のことは自分でなんとかしなくちゃいけないと考えたの。逃げることになるのもわかっているけど、今はどうしようもないとも言っていたわ」
「あぁ…」
「あなた達、何か根本的なところでずっとすれ違ったままでしょ?でもそれはあなた達で解決するよりほかはないのよ。わたし達が何を言ったって聞かないもの。そうでしょ?わたしと健さん、そして寺本さんご夫婦はゆんを助けたいと思ったの。他意はないのよ。そこはわかってちょうだい」
「それで…ゆんは…もう戻って来ないのか?」
「わからないわ。ここにいつ戻ってきてもいいと言ってあるわ。だから、荷物もほとんど持っていかなかったのよ」
「そうか…」
詩音はふらふらと立ち上がるとゆんの部屋に行き、ゆんが寝ていた二段ベッドの下に横になった。自分が貼り付けたコルクボードの自分の写真を見ると、楽しかったゆんとの土曜日が思い出された。
「どうしてこんなことに…今度はゆんが俺を置いていってしまった…」
詩音にとっては思ってもみなかった事態だった。家に帰ってくれば、またゆんと普通に話せるだろうと、それだけの時間は過ぎただろうと思っていたのだ。しかし、その前にゆんがいなくなってしまったのだ。詩音はただ呆然と横たわっていることしか出来なかった。
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