3P to 4P目

3月18日の夜20時、立川駅の北口にあるビックカメラの前でわたあめと待ち合わせをした。僕は待ち合わせの20分ほど前に到着して、わたあめを待っていた。

20時00分ちょうど、写真で見たかわいい女の子が僕の前に現れた。


「ごめんなさい!少し遅くなってしまったよ!待たせたね!」

「平気だよ、わたあめちゃん、写真と全然変わんないね」

「あはは、写真が私と違うならそれはもうカメラとして機能してないじゃない。何を言ってるんだい」


そうそう、わたあめこと渡辺佳純は本当にこういう喋り方をするのだ。

僕とわたあめは一緒に立川駅北口の飲み屋に行ってお酒を頼んだ。先ほども断ったが念のためもう一度確認しておくと、僕とわたあめとの会話は僕自身細部まで覚えているはずもなく、幾らかの曖昧さを想像で補っている。この話しに出てくる全ての会話はそうなっている。

僕はこの居酒屋でお酒が回ったのか、自分のやりたい事をわたあめに話した。その時にはすでに本名を交換していて、お互いに名前で呼び合っていた。


「僕ね、夢があるんだよ。漫画家になりたいんだ」

「そうなのか!へえ!私漫画大好きだよ!私が専属の編集者になって、光一くんの漫画を見定めてあげようか」

「それは、すごく嬉しいかも」

「てことは、その夢のために光一くんは就職しないで時間を作ってるんだね」

「まぁ、そうだけど」


少しカンに触る言い方だったが、佳純に悪気が無いことはすぐにわかった。


「それはとてもとても素晴らしい事だ!人生というものを、険しい森を突き進む人間の様相に例えるなら、私は何があったとしても、足跡が少ない道を歩む人を応援するよ!」

「なんか急に…、面白い?って言っていいのかな、なんか、深い話しだね」

「何も深くなんか無い!至極当然な真っ当な考えだよ!浅い浅い。光一くん、歴史の教科書を幾ら読み漁ってもね、光一くんはどこにも出てこないし、未来のことは書いてないのだよ。それは当然に思えるかもしれないけど、それこそとても深い話しだ。この時代にこの場所で、その経験をした君は、後にも先にも君しかいないという証明なのだ。誰かが歩んだ当然の道を、若干のみならずかなり踏襲するような真似は、あまりにももったいない!出来上がった道を、塗装された道を、綺麗になぞって歩くなんてつまらないじゃないか!歴史に忘れられるような目立たない存在じゃ、面白くないじゃないか!後悔するじゃないか!笑って死ねないじゃないか!死んだ尊敬する人々に顔を合わせられないじゃないか!私は光一くんを応援するよ!」


確かこんな感じだったと思う。感嘆符をつけるのは、確かに声が大きかったからだ。彼女の中の哲学は、僕には大きく響いて聞こえたのだ。


「そっか、そうだね。いやぁ、すごいね佳純さんは、そんな立派な考えを、20歳そこそこで持つことができるなんて」

「年齢なんて関係あるのかな?私はないと思うよ。未来を知れないけど、過去のことを知ることが出来るこの脳みそは、子供も大人も一緒だ。光一くんは今、足跡が少ない道を歩いているんだよ。まぁ細かいことを言えば、就職しながらも漫画を描いている人もいるし、大学生になる頃には担当編集がついた漫画家もいる。だけどさ、光一くんは光一くんで、他の全ての人と異なる存在なのだよ。それは凄い事じゃない?私は20歳だけど、当然のレールを今歩いてるんだ。卒業しても多分就職すると思う。だから光一くんが、本当に輝いて見えるの」


誰かに褒められたのなんて、何年振りなのだろうってレベルだった。とてつもなく嬉しくて、でも目は合わせずに、声のトーンも変えないでありがとうと言った気がする。


結局その日は終電でお互い帰宅した。帰宅してからも通話をして、繋げたまま寝てしまった。佳純は春休みで、僕はコンビニのバイトだったから、三月はお互いに時間を作るのが容易で、3月20日も飲みに行った。そんな感じで頻繁に会うようになり、4月5日に僕は告白した。


「おぉ!是非是非!私ね、いつ告白されるんだろって待ってたのだよ!私から言う方がいいのかなーとか考えた!いやー、よかったよー、本当に。これからよろしくね!光一くん!」


確かそんな感じの返事だったと思う。かなりイかれてる印象を受けるだろうが、普段あまり人と話さない僕は、この喋り方がくせになって、むしろ普通に電話で会話する親との話の方が不自然に感じたんだ。

付き合い始めてから、毎週土日にお泊まりをした。彼女はセックスが嫌いで、僕もそんなにしたいと思わなかったので、泊まっても添い寝しながら動画を見て寝るばかりだった。普通男女がホテルに泊まったらセックスをするものなのかもしれないけど、僕は手を出そうと一ミリも思わなかった。彼女が嫌がることをしたいだなんて思えなかった。


そんな日々が続いて、もうすぐで付き合って1ヶ月が経とうとしていた。5月1日土曜日、いつも通り二人でデートをした。いつもと違うところでデートをしたいという佳純の要望を受け、この日は新宿でデートをした。


「光一くん!最近漫画の調子はどうだい?私はね、いつも通り道端の草みたいに、見分けのつかないモブ人間として生きているよ!」

「うーんと、僕ね、もう漫画描くのやめるんだ」

「え…」


新宿にあるカフェで話していた。僕が漫画家を諦めると言った時、彼女は小さく声を出した後固まった。瞬きもしないでじっと僕の目を見つめ、次第にその目は充血し潤いを帯びてきて、最終的に決壊して涙が溢れた。


「なんで佳純泣くの、はは。僕、漫画を描き始めたのが中学3年生の頃なんだ。そのときは高校在学中に連載するのが目標だった。高校を卒業する時には浪人しながら漫画を描いて、大学に入ったら、また在学中にって。卒業してからも、僕は諦められなくて、でもさ、分かったんだ。自分の、能力の限界というか、これ以上上には行けないって」

「私…まだ一度も…光一くんの漫画読んでないよ」

「そうだったね。次のデートの時持ってくるよ」


佳純が泣くもんだから、僕も泣けてきてしまったことを覚えている。


「佳純、失望した?」

「…まったく、まったくしてないぞ、光一くん。涙の理由は、過去の人生のほとんどを捧げた夢を諦めた、その勇気に対する感動なのだよ。そして漫画を読めなくなってしまうと思った恐怖から溢れたのだ。失望?とんでもない!尊敬だ!圧倒的な敬意の念が湧く!私の彼氏は、夢を諦めた!それは、追うのと同じくらい勇気がいることだ!私は光一くんが、これからどうなるのか見たい!ぜひ見てみたい!だから、全部悟ったような顔をしないでくれ。知ったかぶりの僧侶みたいな顔をしないでくれ。光一くん…」


佳純はとても切ない顔をして僕を見た。鏡を見たら僕の目には知ったかぶりの僧侶が映るのかな。僕はそんなことを考えていた。


「絶望というのはね、光一くん、私は、余白がないことを言うと考えているのだ」

「いきなりだね…余白?」

「そう、余白。例えばプロの陸上選手が足を事故で切断したなら、ほとんどの場合絶望するだろう。それはなにもおかしなことではない。だけど一部の人間は義足をつけて頑張ろうとする。半身不随になったなら、絵でも小説でも描こうとする。五感の一部を失ったなら、残った感覚で何かをしようとする。希望を失わない人と、絶望を感じる人、この差はなんだろう。きっとそれは、希望を失わない人は、自分の可能性にまだ余白があると信じているんだ。ならまだ、キャンパスに白い部分があるのなら、死ぬまでに埋めたいと願うのは当然のことだろう。光一くん、光一くんにはまだたくさんの余白がある。必ずある。だから、絶望しないでくれ。もう余白がないと分かったふりをしないでほしいんだ」


知ったかぶりの僧侶の意味がようやくその時に分かって、僕の顔に絶望の影が大きく写っていたのかと、突然背筋がゾクゾクしたのをはっきりと覚えている。黒板に書かれた数式を消す時に、黒板消しでガシガシと消していたら、間違えて爪が黒板に当たって、あの不快な音が鳴った時みたいな、不意打ちの不快感。僕はその時、死人となんら変わらない顔をしていたのだろう。


その日の夜、22時からステイできるラブホテルで二人で泊まった。僕はそこで彼女に質問をした。


「佳純の、夢はなに?」

「私の?ふふふ、なんで?」

「なんでって…聞きたいんだ。好きだから気になるってのもあると思うけど、それ以上に佳純みたいな人間性を持った人がどんな夢を持つのか、知りたいんだよ」

「なるほどねー、そーか、そっかぁ。私の人間性かぁ。そんなに変かなぁ。でも光一くんの知的好奇心を無闇に無下にする気はないから、答えるよ。でもね、光一くん、私に失望しないで欲しいんだけど、私の夢はね、無いんだ」


佳純の答えを聞いた時、僕は少しキョトンとしていた。顔が硬直して、なにを言ったらいいか分からなかった。なにもおかしなことはない。20歳の女性が夢を持ちそれに励んでいる方が珍しい。だから佳純の答えは当たり前のように思う。でも僕にとって佳純は、年下ながら人間として尊敬する、模範になり得る教祖のような存在だったから、この答えはあまりにも意外で、すぐに受け入れることができなかったんだ。


「私ね、いつ死んでもいいんだ。私はね、余白がないの。何もないんだ」


どうして佳純がそんなことを言うのか、その時はまったくわからなかった。たしかその日は、そっか、とか素っ気ない返事をして、ベッドで動画を見て二人で寝た気がする。

佳純が自分に余白がないと言った理由は、付き合って半年が過ぎた10月5日の記念日に分かった。半年も付き合ったんだし、全部教えてあげると言って僕に全てを話してくれた。その日は初めてキスをした日でもあって、僕にとっては忘れられない日になった。


一気に日付が飛んでしまうが、次は10月5日のことを記そうと思う。間のことはあんまり覚えていないんだ。

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