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「じゃあ、また明日」
「うん」
「それから、誰か紹介してあげようか」
僕は笑う。
映画関係者との長い交渉を終えて疲れ切った僕は、自宅が自動生成し続ける心地よい音楽に浸る。適度に切なくて、けれども頭に残らない、無害な旋律だ。横になって目を閉じる。僕は元来人と話すのは苦手だ。相手の意図を読んで押したり引いたりするのが嫌いだ。けれど、その立場になってしまったのだから、選択肢はなかった。だから疲れを癒すため、メロディを奏でる人工知能に命じる。
「シェヘラザード。お話をしてほしい」
この人工知能は、昔から使ってきた端末からデータを引き継ぎ、融合させたものだ。僕がどんな小説が好きか知り尽くしている。そして、僕のために物語を綴ってくれる。僕が求めているのは、慰めの物語だ。
「お好みは」
「僕みたいな主役。陽菜みたいなヒロイン。山あり谷あり。最後には結ばれる。できるだけ泣けるものを」
「舞台設定は」
「異国情緒あふれるものに」
「避けてほしい展開は」
「ヒロインが寝取られる場面さえなければ」
「了解です。あなたの読書ログで高評価の作品をベースに構築します。長さは」
「一時間ほどで読み終わるものを」
吐き出される文章を僕は待ち構える。それは、純粋に僕のために語られる物語だった。かつて僕にとって小説は、騒々しい現実でかき乱された頭の中を調律してくれるものだった。シェヘラザードは、それを誰よりも効率的に実行する。心が落ち着き、泣けてくる。
大学院では陽菜との研究を続け、評価関数を修正し続けた。やがて、個人のログから当人好みの評価関数を作りだすことができるようになった。言いかえると、誰もが自分専用の語り部を手に入れた。すると、既存の小説への関心を失い、自分専用の物語に溺れるようになり、他人が何を読んでいるかに興味を失った。見知らぬ誰かのために書かれたお話より、自分だけのために作られたストーリーの方が心に残るのは当然だった。
ポルノに過ぎないという声もある。小説とはもっと尊いものだったはずだと。けれど、シェヘラザードの語り口に慣れてしまうと、古典文学でさえその粗が目立つ。とうとう純文学もそこに屈服した。人間の小説は同人誌程度にしか売れない。すでに商業として成り立たなくなっている。そしてその手は、ドラマや映画、音楽にも及ぼうとしていた。
今日、陽菜と一緒に向かった映画産業との交渉もそれだった。脚本を提供し、万人受けするヒット作を作っていた頃は良かった。今となっては、ひとりひとりの顧客に合わせて作られる映像の著作権や報酬を話し合う。人工知能はどのような映像も作りだすことができるようになった。俳優の仕事はごく限られたものとなった。多くが舞台芸術に転身し、さらに多くが廃業を余儀なくされた。
きっと、陽菜を主役にした映画も、彼女の写真から自動生成できるようになるだろうな。そう思いながら、僕はため息をついた。この心の空白は、どうあっても埋められそうにないからだ。それもそうかもしれない。すでに結婚して、子供が二人いる女性をヒロインにしても、むなしさが募るばかりだろう。
それでも陽菜は僕から離れない。僕は彼女から離れられない。この二人組はどこの業界でも信頼されているからだ。交渉に向かうついでに、子供の成長を動画で見せてくるのを断るわけにもいかず、自分を殺して彼女を祝福する。
僕は、好きな小説と数理を突き詰めていたら陽菜に突き当たってしまった。彼女から離れようとすることは、僕の人生のもう一つの喜びである文学に背を向けることに他ならない。けれども、僕の人工知能が小説を殺した。文学は死んだ。そして陽菜も僕のものではない。つまり僕はどちらも失ったまま、中途半端に生き続けているのだ。
僕は涙を流した。感動の涙でないとシェヘラザードは悟る。
「調子が悪いようです。早めに就寝なさっては」
「眠くないんだ」
「睡眠剤も処方できますが」
僕は涙が落ちるから何も答えられなかった。陽菜、と呟いたが、シェヘラザードはそれを彼女への通話やメールの作成の命令ではないと理解できるくらいには、文脈を理解している。
嫌な女だ。でも、嫌いになることができなくて苦しい。人工知能はいくらでも愚痴を聞いてくれる。自殺率が減ったという統計もある。でも、どれほど言葉を尽くしても、僕の空白は満たされそうになかった。それに、話を聞いてもらいたいわけでもないし、慰めてほしいのでもなかった。それに彼女のことをどれほど好きだったかを口にしようとするたびに喉が締め付けられるのだ。
でも、僕の中で渦巻く力は出口を欲していた。だから僕は、机に懐かしいキーボードの画像を投影する。そしてそこに指を走らせる。音声認識が発達して以来、タッチタイプの技能を持つ者は必要とされなくなったが、僕はそこに、自分の想いを綴っていく。書いては消し、推敲し、段落を削る。そろそろ眠っては、というシェヘラザードの声を無視する。
翌朝、僕はその文章を見る。ひどいものだと思った。けれども、こうして自分のことを振り返ってみるのも悪くなかった。そして、僕はこれだけ物語に触れてきたのに、一度も小説を書こうと思ったことがないことに気づいた。僕は初めて、小説家になろうとしたのだ。あれだけ憧れていた文学の世界に対する愛情を、僕は完全になくしたわけではないらしかった。
「投稿サイトはまだ残っているか」
「一件だけあります」
「アカウント作成。それから僕の文を投稿」
「アクティブな読者は少ないですが」
「構わないよ」
僕は僕のために書いたのだ。自分のための物語は、自分にしか書けないのだ。僕はシェヘラザードと陽菜に一矢報いたような気がした。上手か下手かは関係がない。僕が書いたかどうかが問題だ。
だから僕は、この文章を投稿する。小説を書くことでしか救われない人がいると、誰かが気づくといいと願いながら。
文学少女が小説を殺す 宇部詠一 @166998
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