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 陽菜と再会したのは、高校の部活でだった。

「読むべき古典リスト。新たに百冊ほどリストアップ。性別や国籍ができるだけ重ならないように」

 当時の僕は端末にそんなことを命じては、それらを一つ一つ消す作業にいそしんでいた。すでに端末は自然言語をかなりうまく処理できるようになっていた。少なくともその黎明期のように、「よくわかりません。もう一度お願いします」と返ってくることは滅多になかった。僕はリストの最初に載っていた「神曲」を図書館からダウンロードし、読み始める。

 図鑑で宇宙に興味を持っていた僕は、気づいたら理系を目指していた。けれども、僕が好きだったのは活字全体であり、あらゆる分野の本が好きだった。確かに、小学生からの本好きだった友達の多くがアニメや漫画、ゲームに向かっていったし、本が好きなままの人も歴史だけとか科学だけとかに関心が集中していった。僕みたいにノンフィクションを読み、それに飽きたらSF、それにも飽きたら純文学、みたいな雑食の人はほとんどいなかった。それでも、似たような気質の仲間がだらだらしていたパソコン部でのんびりする時間は楽しかった。

 僕は理系としての立場に安住していた。けれど、ときどきどうしても文学が読みたくなった。そんなときには「感情教育」「若きウェルテルの悩み」「罪と罰」なんかを手に取って、教室の片隅で呼んでいた。でも、確かにそれらは僕を癒してくれたけれど、この気持ちを誰かと共有したくてたまらなくなった。美少女ゲームで遊んでいる親友を見て、その中にうまく入れない自分が寂しくてたまらなかった。そういうわけで、兼部という言葉が浮かんでから決心するまでそれほど時間はかからず、届を出してからすぐに文芸部に向かった。そこで僕は、陽菜と再会した。

 髪を短く切っていたのにもかかわらずどうして彼女とわかったのかといえば、その少しきつい顔立ちのせいだった。栄養がすべて背丈を延ばすことに使われたみたいに手足がほっそりとして長い。それでも頬は豊かで、幼さが完全に失われたわけではない。彼女は端末のページを、淡い笑みを浮かべてめくっている。繊細な指先が画面に触れるたびにページがめくられる。僕よりも速い。

「ひさしぶり」

 唖然としていた僕に先に声をかけてくれたのは彼女だった。学年の名簿に目を通していなかったことを悔やんだ。とはいえ、彼女がいると知っていたら、ここに来る度胸はなかったかもしれない。

「何を読んでいるの」

「『ドグラ・マグラ』。読んだことは」

「ある」

 少しだけ彼女に追いついたような気がして、少しだけ心にゆとりができた。

「で、文芸部に来てくれるんだ」

「ああ」

「ありがたいな。危うく廃部になりそうなんだ」

「普段は、ここで何をしてるの」

「毎週の読書会と、年に一度の会誌の発行。みんなはそこに寄稿している。私も、評論を少し」

「でも、今日は他のみんなは」

「普段は小説投稿サイトの原稿を書いてる。今日もここにいるのは私だけ。課題図書は『存在の絶えられない軽さ』。読んだことは?」

「……一応」

「じゃあ、座って」

 どうやら陽菜は、誰も来なくてもレジュメを作り、読書会を一人でやっているらしかった。いや、ときどきは誰か来る、と口にしたけれど、それはかえって痛ましかった。

 そして彼女は深い知識を示す。息をするように関連する本のタイトルをあげた。ひけらかしているのではない。ただ、自然に知っていることが出てくるだけだった。でもそれは、知識のつながりを理解していることが伝わる、安定した語りだった。僕は、自分の浅い読みが覆されていくのに、痛みとともに快感を覚えていた。固くなった筋肉をほぐされるのにも似ていた。

帰宅すると僕は端末に告げた。

「先日作成したリストの優先度を下げて、彼女が好きそうな本をリストアップ。オープンにしている情報から再構成」

「彼女のアカウントは鍵付きです」

「なら、今日の会話に出てきた本のタイトルだけでも。それから、一般的な傾向から逆算して」

「彼女の読書傾向にまとまりが見られないので、誤差は大きくなりますが」

「構わない」

 そして僕は「黒死館殺人事件」「虚無への供物」「兵士シュヴェイクの冒険」「山椒魚戦争」を借り、夜遅くまで読みふけった。その晩も、その次の晩も。

 けれども、彼女と顔をあわせるたびにリストはどんどん伸びていった。陽菜が言及する本には脈絡がなかった。確かに僕も乱読をする方だけれど、それ以上に彼女が何を求めているのかが理解できなかった。澁澤龍彦について話していたかと思うと、小林多喜二について語る。女性の権利を描いた「侍女の物語」の次に、女性への憎しみをぶちまけた「素粒子」を平然と読んでいる。僕は混乱した。でも、僕は彼女に振り回されて幸せだった。端末の作るリスト以上に、ランダムさが仕込まれていたからだ。

 僕が陽菜に影響を与えられている様子はなかった。それが悔しかった。陽菜は僕のずっと先を歩いているみたいで、僕なんかいなくても彼女は平然としているようだ。それに、そもそも読む速度が違う。永遠に追いつけない。なのに、彼女はある日僕に告げた。

「なにかSFでおすすめのを教えて」

「君、読んだことはないの」

「SF風味の純文学はある。純粋なSFは、まだあまり」

彼女が僕を必要としてくれたのが嬉しかった。同時に、僕の目をのぞきこんだやり方に震えた。まるで僕の頭の中にあるものをすべて食べ尽くそうとしているような、飢えたまなざしだったからだ。僕はうっとりしながら、「猫のゆりかご」「愛はさだめ、さだめは死」「夏への扉」「あなたの人生の物語」「アルジャーノンに花束を」を彼女にプレゼントした。それからも彼女は貪欲に求めた。「高い城の男」「幼年期の終わり」「祈りの海」「闇の左手」「ソラリスの陽のもとに」。それから僕は、読書ログから読破したSFのタイトルを抜き出して送った。

 陽菜は感謝を込めて、僕の贈り物を受け取った。そこで初めて、彼女の目に見えない飢えを満たすことができたように思われた。それでも、彼女の僕に追いつく速度は早く、一年も経つうちに理系の分野でも僕と議論ができるまでになっていた。でも、感じていたのは悔しさではなく、喜びだった。やっと同じ土俵で話ができる人が見つかったのだと思った。対等に話ができる女性、高めあうことができる存在、僕はそんな相手をいつの間にか求めていた。気づけば僕のことを、名前で呼んでくれるまでになっていた。だからとうとう、僕の思いはあふれた。学園祭で気分が盛り上がった後で、彼女に伝えてしまった。

 彼女は笑い、驚いたふりをする。きっと僕がどう感じていたのか、すべて知っていたのだろう。

「遥人のことは、友達だと思っていたよ」

 そして僕も力なく笑う。笑うしかない。彼女に追いつけないことは最初から分かっていた。僕はただ、彼女にすべてを捧げてしまい、残された部分はほとんどなかった。いや、読みたい本の傾向まで彼女色に染められていた。僕自身の本来の趣味がなんだったのか、わからなくなっていた。

 どうやって家に帰ったかわからない。僕は悲しみが僕を押しつぶす前に、端末に命じる。

「リストから削除。江國香織、長野まゆみ、尾崎翠、倉橋由美子。そのほか陽菜の好みと一致度の高い書物」。

「エラーです。あなたの趣味と彼女の趣味が近すぎて、引きはがせません」

「構わない」

「データベースの損傷を伴うことがあります。よろしいですか」

「……構わないと言っている」

 僕は彼女の痕跡を、自分の体から洗い流したかった。彼女から影響を受けた趣味のことなど忘れてしまいたかった。文芸部もやめた。それでも読書をやめられなかったのは、僕の因果な性格のせいだろう。結局僕はパソコン部に戻った。居場所があるのはいいことだった。

 ため息をついて、「ゲーデル、エッシャー、バッハ」のページを開いた。理系の書物なら陽菜を忘れられるだろうか。


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