文学少女が小説を殺す

宇部詠一

1

 初めて彼女が本を読む姿を見たとき、僕は脅威を覚えた。

 あれは僕が小学校の三年生のとき、朝の読書の時間のことだった。転校してきたばかりの彼女、陽菜が隣の席で手に取っていたのは、僕よりもずっと年上のお姉さんが読みそうな、活字のぎっしり詰まった文庫本だった。図書館で借りたのだろうか、少し時代遅れのバーコードのシールが貼られており、紙は少し黄ばんでいた。それは両親の書斎にあったものとそっくりで、それが陽菜をとても大人びた姿に見せていた。

クラス替えの混乱が落ち着きかけたころに編入してきた、うつむき気味で声の小さな目立たない女の子だったはずの彼女に、どうして僕が脅かされたのかというと、それまで僕が学年で一番本を読んでいるグループに属していたという事実を覆してしまいそうだったからだ。誰かと競っていたわけではないけれど、小さいころから絵本や図鑑が大好きで、その延長として当然本を読むようになっていた。本をいっぱい読むと大人たちは褒めてくれてそれが嬉しかったし、それを当然のことだと思っていた。だから、目が離せなくなってしまった。

表紙を盗み見ると、そこには「指輪物語」と書かれていた。僕はさらに焦った。昔読んだ「ホビットの冒険」の続編だと知っていたけれど、僕には最初の文章がとても難しくて挫折してしまったからだ。汗をかきながら、端末で陽菜の読書ログを検索する。なんということだろう。僕がもう少し大きくなったら読もうと思っていた本が軒並み並んでいた。それどころか、別に全部読まなくてもいいかと思っていた「クレヨン王国」シリーズや「ぼくはおうさま」、それから「ぽっぺん先生」もすべて読破していた。

僕は課題図書を表示していたアプリを閉じると、僕の読書ログを起動した。画面には「次におすすめする本」が流れていく。これは、書店で購入した本や、図書館で借りた本のログから、次に僕には何がおすすめかを表示してくれる。昔は規格が統一されていなかったから、既に持っている本や読んだ本もサジェストされていたらしい。それはともかく、今はそれどころではなかった。急いで「指輪物語」を予約し、それから途中で読むのをやめた全集もリストアップした。

 その日は一日中授業に身が入らず、陽菜に声をかけられるようになるまで待った。けれど、休み時間に男の子が女の子にいきなり話しかけるのもなんだかおかしかったし、教室の真ん中でも本を読み続ける彼女に近づくのにはさらに勇気が必要だった。だから僕は、結局放課後になるまで待たなければならなかった。

 同級生に見つからないように祈りながら普段とは逆の方向に足を運び、後をつける。時計を見ると、ほんの五分しか歩いていないのに、ずいぶんと遠くまで来てしまった気がする。見慣れない建物の群れが僕を脅かした。僕らと同学年の人は、ほとんどいない。

「ねえ」

 人通りの少ないところで、僕は陽菜に声をかけた。彼女は驚いた様子だった。けれども、そこにはいつものうつむき気味の少女はいなかった。そこにいたのは、思っていたよりもきついまなざしをした少女だった。それは不審者に向けられるものにも似ていた。

「遥人くん、だよね。確か、帰る方向逆だったよね」

 思いもかけない冷たさに、ああとかうんとか口にして、次の言葉を見つけられない。用がないなら帰るから、と背を向ける彼女に追いすがる。その背中に流れる髪は長く、近寄ろうとすると背が高くて威圧的だ。

「今朝、読んでいた本のことだけれど」

 もう一度振り返った彼女の表情から、少しだけ冷たさが消えたような気がした。

「僕も興味があるんだ。僕も、本を読むのがとても好きだから」

「……そう」

 陽菜は黙っていた。そして、ほんのわずか笑みを見せた。彼女は何を考えていたのだろう。話しかけてくれた喜びなのか。新しく友達ができる期待だろうか。僕は、ライバル心だけから話しかけたのを申し訳なく思う。しかし、彼女の笑みは形だけのものだった。

「私、好きなように読んでいるだけだから」

「でも」

「私が望むままに、気が向くままに。別に誰かと同じ本を読まなくても、気にしないから」

 彼女は目を背け、小説の中で学んだのだろうか、ひどく大人びた様子でため息をつく。

「転校してくれたばかりの人に声をかけてくれるなんて、君は優しいんだね」

 そういうわけじゃ、と言いかけても声にならない。

「ありがとう。でも私は大丈夫だから。ひとりでもやっていける。その気になれば友達も作れる。気にしないで」

 彼女は立ち去った。残された僕は立ち尽くす。僕の帰宅ログがいつもよりも遅いのを見ても両親は何も言わない。図書室に寄ったのだと思うだけだ。

 それ以来、陽菜と話すことはほとんどなかった。なぜか彼女は読書ログを公開することをやめてしまった。そして、気づいたら女の子のグループの中にするりと入り込んでいた。何の話をしているのかはわからなかったけれど、少なくとも小説の話ではないらしかった。

 とはいえ、彼女はグループの中でそれなりにうまくやっているようだし、僕が気にしてもしょうがないのかもしれなかった。それ以来、僕は彼女のことをほとんど思い出さなかった。そして、僕も男の子の、割と本を読む仲間の中に腰を落ち着けていたからだ。彼女のことは、ときどき気まずい気持ちをしながら思い出しはしたものの、卒業するまで接点はなかった。


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